http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p031123a
In a flurry/晴雨両用日記(11/20付)経由で旅する読書日記の9/15付の記事を読んだ。
舞城に酷だったのは、ぼくが『九十九十九』を読んでいる途中から、飯田隆『言語哲学大全1 論理と言語』(勁草書房)を読み始めたことだったかもしれない。舞城がどんなに言語実験を繰り広げて見せても、飯田隆の懇切丁寧な解説によって解きほぐされるフレーゲとラッセルの言語論の徹底した突き抜け方にはとうてい叶わないと思った。
これは凄い! 私も以前変な対照をやったことはあるが、内容を比較したわけではない。ウェブ上の読書感想文のあるべき姿を見たような気がした。
目から鱗が落ちたところで、早速『九十九十九』を買ってきた。これからじっくり読むことにしよう。
そういえば、私はこれまで舞城王太郎を読んだことがないのだった。初めて読むのがこれというのはいかがなものか。
ちなみに私は西尾維新の本は『ダブルダウン勘繰郎』以外全部読んでいる。
最近ローカル私鉄の廃線の噂があちこちで聞かれるようになってきた。北海道ちほく高原鉄道、くりはら田園鉄道、日立電鉄、上田交通、一畑電鉄……、そしてこんな路線まで。早く乗りに行かなきゃ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p031124a
どうでもいいんだが、大谷大学推理小説研究会は早く直した方がいいと思うぞ。そこかしこで紹介されているが誰もツッコンでないのはあれか野暮だからか。
私はストレートなツッコミは野暮だと思って、あんな風に書いたのだが……。
Locked Room(11/22付)ではそれを受けて
と微妙な書き方で紹介しているが、CUTTING EDGE(11/22付)では
と括弧がとれてしまっている。
ちなみに、我孫子武丸氏のサイトはこちら。まだ個人のウェブサイトが珍しかった1995年に創設された歴史と伝統あるサイトで、前世紀末のミステリファンなら必ず毎日巡礼していたものだ。最近は更新が途絶えがちになっているので、近頃の若者の中には知らない人もいるという。嘆かわしいことだ。今こそ声で大にして言いたい。「古典を読め!」と。
「ムーンライト山陽」の指定席券がとれたので、関ミス連には参加しません。12/21の予定は下記のとおり。
2と3の間が6時間46分もあいてしまうのはちょっと辛い。当初の予定では昼間の列車に乗るつもりだったのだが、第3日曜運休だということを忘れていた。
う〜ん。
う〜ん。
う〜ん。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p031124b
すぐに意思を伝達できる携帯電話や電子メールの普及で、肉筆による手紙は減っている。最近、少年少女が親を殺し、親が子を殺し、通りすがりの子がいきなり拉致されるようなおぞましい事件が目につく。その背景に手紙を書かなくなったこともあるのだろうか。
最後の一文は「か」で終わっているから、むろん断定ではない。だが単純に疑問を投げかけているだけのようにも思えないし、反語とも考えにくい。いったい、どのような命題的態度を表現しているのだろうか?
もう一つよくわからないのは「Aの背景にBがある」という形式の表現だ。これが「金閣寺の背景には大文字焼きが見える」という場合なら、その意味は明瞭だ。もちろん視点に相対的ではあるが、問題となるほどの曖昧さはない。しかし、犯罪が続発する風潮や、手書きの手紙を書かなくなった生活習慣の変化などのように、明確な空間的位置を持たない事柄について語る場合には話は別だ。いったいどちらが近景でどちらが遠景なのかということすら定かではない。
日常生活のたわいない雑談なら、特に気にとめるまでもない。文学作品なら曖昧さが"味"にもなろう。だが、新聞のコラムでこんな事を書かれてしまうと、何とも受け答えができなくなる。
いや、筆者は読者に受け答えを求めているわけではなく、読者の大部分も軽く読み流しているのだろう。すると、こんな文章に引っかかって頭を悩ませ、考え込んでしまう私はいったい……?
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p031125a
久しぶりに、いいパズルに出会った。「小人のパズル」(解答)だ。
このパズルを元にして別のパズルを作ろうとしても、なかなかうまくいかない。帽子の色数を増やしたり、小人の人数を変えたりしても、解法は同じだからだ。つまり、それだけ完成度が高いということだ。
パズルで新鮮な感動を味わったのは何年ぶりだろう?
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p0311
超先生の訃報を見ると、全然無関係な私でもショックが大きい。某所で
一度の若き日のちょっとした過ちが尾を引いてつまらない人たちにしつこく追いまわされ続けて、かなり気の毒だったよね。
誰の目にも明らかな形での名誉を回復する機会はありませんでしたが、周囲のわかっている人たちには明らかですから、まだ報われていた、といっていいのかは微妙ですけれど来世では幸せになってくれるといいですね。
とコメントされていたが、私も同感だ。
先日の記事が砂色の世界・日記(11/25付、11/26付)で言及されているが、砂雪氏の考えていることは私の疑問とはかなり違っているように思う。私にとって不思議なのは、「Aの背景にはBがある」という表現形式で述べられているのはどのような関係なのかということだ。
Songs for Star Ruby(12/26付)で滅・こぉる氏の文中の例に関しては、事件が対象としての近景、手紙を書かなくなったことが遠景、というか背後に隠れているものとしか、私には読みようがないのですが。
と書かれていて、それはまあ確かにそうとしか読みようがないのだけれど、そのように読むということがどのような関係を読み込むことになるのかが私にはよくわからない。
私が挙げた例ではA(おぞましい犯罪)とB(手紙を書かなくなったこと)の間に空間的位置関係がないことは明らかだ。その事は先日の文章でも書いたつもりだったのだが、ニャル氏には私がこの文脈での「背景」という語が空間性を持っているという前提で考えているかのように受け止められてしまったようで、そう言われてみると確かに私の文章はそのようにも読める。困ったものだ。しかし、私は「背景」という語が比喩的に(すなわち空間性を持たない文脈で)用いられたときに空間的位置関係の代わりにどのような関係を表現しているのかを問題にしたのだ。それはある種の因果関係を表現しているのだろうか? それとも何らかの概念的関係なのだろうか?
砂雪氏の文章では、「背景」という語と「音楽」という語が組み合わさって「背景音楽」という語が成り立っているという構造に焦点が向けられている。私と同じように「背景」という言葉を問題にしているのだが、私がどちらかといえば、その語が言い表している事柄に関心を向けているのに対して、砂雪氏はその語の内部構造そのものについて考察している。この違いは大きい。
私はあまり「背景音楽」という語の問題に関心はない。その語が何を言い表しているのかが明瞭なら、内部構造を特に問題にするまでもないと思うからだ。
ところで、映画やドラマの背景音楽は、一般に登場人物には聞こえないという特徴を持つ。背景音楽は虚構作品の構成要素でありながら虚構世界内には存在しない。いや、こう言ってしまうと、虚構作品が表現する"虚構世界"という存在者にコミットすることになり、虚構の存在論を巡る厄介な議論に巻き込まれてしまうおそれがあるので、あまり好ましいことではないのだが、今はそのような形而上学的問題には目をつぶって先に進むことにしよう。
虚構作品の構成要素でありながら虚構世界内に存在しないものは背景音楽だけではない。たとえばナレーションがそうだし、舞台劇のスポットライトもそうだろう。マンガだとコマの枠線やフキダシ(もちろんフキダシの中の台詞は世界内に存在する)、そしてさまざまな漫符など。
では、小説の場合はどうか? 地の文がそうだ。神の視点で書かれた三人称小説はもちろんのこと、一人称小説でも作中人物の手記などの体裁をとっていない限り、地の文は世界内には存在しない(もちろん地の文で記述された事柄は世界内に存在する)。
この着想をさらに進めて、ミステリのルールの話題に持って行きたいのだが、残念ながら、まだうまく話を繋げることができない。というか、先ほど目をつぶった形而上学的問題を検討しないと先に進めないので、手をつけかねているというほうが正しい。
In a flurry/晴雨両用日記(11/25付)で紹介されていた慶応SFC授業課題の解答がいくつかのサイトで公開されている。私も2日間考えた(もちろんずっと考えていたわけではない)が、残念ながら正解に到達することができなかった。
4枚のカードの並び順で24通りあるから、まさに「あと1ビット」が足りなくて、ついつい目配せに頼りたくなってしま
い、それでは題意にそぐわないので、なんとか5枚のカードから1枚を選ぶときのルールで1ビットを稼ごうとしたのだが……。
悔し紛れに、カードの内訳とその『並び順』
に一切頼らない方法を考えてみた。
数字が大きくなると足がもたつくので、その場合は右足を軸足にして左足でサインを送ることにしてもいい。つまらないトリックだが、奇術はミステリとは違って種明かしをする必要はないので、当たればいいのだ、当たれば。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p031128a
冬コミの際に泊まる予定にしていたホテルがもう満室になっていた。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311c.html#p031130a
渡世の義理が予定より少し早く終わった。石川県には"赤福"に非常によく似た"加賀福"という名物があるということを知ったのが唯一の収穫だった。昨夜は口に合わない料理と耳に合わないカラオケで気分が悪くなり、旅館のロビーで『エマ ヴィクトリアンガイド』(森薫・村上リコ/エンターブレイン)を読んで心を静めた。ついでに、その本で紹介されていたオースティンの『エマ』を帰りに買った。中公文庫から阿部智二の訳で、岩波文庫から工藤政司の訳で出ていて、どちらにしようか少し迷ったが、結局、安い中公文庫版にした。岩波文庫版は上下巻なので、少し高い。今日はJR可部線の可部から先の最終日で、手許の時刻表を見ると、三段峡発の最終列車はもう出てしまっている。可部線にはずっと昔に一度だけ乗ったことがあり、三段峡ですぐ折り返したため、その先がどうなっているのかは知らない。次の機会には……と思っていたが、これで永久にその機会はなくなった。もちろん、三段峡に行くことは可能だ。だが、もはやそこは終着駅の駅前ではない。明日からまた一週間仕事をしないといけないと考えると憂鬱になる。朝いちばんの挨拶は何にしようか? 「いくつになっても男と女!」とかいきなり叫んだら楽しそうだ。それとも、もう少し知的に「池袋の芳林堂は大晦日で閉店!」と切り出してみようか。そういえば私はまだ一度も行ったことがなかった。冬コミの後にでも寄ってみようか?