【日々の憂鬱】そろそろネタ切れだが、それでもしつこくいかがなものか。【2003年10月下旬】


1.10818(2003/10/23) 奇想を競う

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310c.html#p031023a

というわけで更新再開。だが、出張のため、今週末から来週半ばにかけて再び更新中断が決定している。

さて、久々の更新だからいろいろと書きたい話題があるはずなのだが、どういうわけだが全く思いつかない。ここ数日の間に「これはネタになるかも」と思った事柄もほとんど忘れてしまっている。一つには私が忘れっぽいせいもあるのだろうが、すぐに忘れてしまう程度のネタだったということでもある。その場の勢いで文章にしてしまえばいいのだが、間をおいてしまうと印象が薄れてしまうのだ。今思い出しても、きっと書く気にならないだろう。

そういえば、今日の見出しはいったい何のつもりだったのだろう? ほんの5分ほど前に思いついたものなのに、既にいきさつを忘れてしまっている。いよいよ私はぼけてきたようだ。


なんとなく、「走る」は名詞ではないの続きが書きたくなってきた。でも今日は時間がないのでやめておこう。


最近の私のお気に入りは水没クローゼットだ。どうでもいいが、コンバンハチキンカレーヨ再おとなりページ第1位のサイトだ。なんでだろう?


非常にわかりにくいメモ。

名前は事物を指示する。近くにあるものも遠くにあるものも同様に指示可能だ。それはなぜか?

一つの解答はこうだ。名前は端的に事物を指示するのではなく、名前を用いることによって人の心の中に生じる事物についてのイメージを介して指示を果たすのだ。事物そのものがどんなに離れたところにあっても、イメージは常に同じ場所(?)にある。

では、心の中のイメージはいかにして遠く離れた事物のイメージであることが可能なのか? 近くにあるものなら、直に目で見てイメージを形成することができるが、遠くのものはそうはいかないはずなのに。

この疑問に対しては次のように答えられよう。心の中のイメージは端的に事物を志向しているのではなく、その事物の名前を介して志向しているのだ。


今日はもう力尽きた。

1.10819(2003/10/24) おとなりのおとなりはおとなりではない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310c.html#p031024a

「たそがれSpringPoint」のおとなりページから、最上位のサイトを順に辿ってみることにする。

まず最初は読冊日記だ。このページは私も定期巡回しているが、いちばんのおとなり、という気はしない。でも、大手サイトほど上位に位置づけられやすいそうなので、そう考えるとさほど不思議ではない。

次は、Beltorchiccaというサイトだが、実は私は今日初めてこのサイトを見た。おとなりのおとなりでいきなり見ず知らずの他人というのはちょっと意外だ。「読冊日記」のおとなりページからリンクされているページの半分以上が私の知らないところで、しかも我が「たそがれSpringPoint」はその中に入っていない。彼我の人気の差を考えれば当然のことなのかもしれないが、「おとなり」という言葉とのずれが激しい。釈然としない。

その次はsawadaspecial.com。今度は有名ニュースサイトだ。この調子だと、次はカトゆー家断絶か?

……と思ったら、本当にカトゆー家断絶だった。予想通りで面白くない。

その次は変人窟

でもって、その次はカトゆー家断絶に戻ってしまった。

結論:おとなりページを辿って行き着く先はカトゆー家断絶である。


不壊の槍は折られましたが、何か?を読んでいたら、ちょっと気になる記述があった(10/23付)。

カリッシミの《イェフタ》は、厳密には宗教曲ではない。オラトリオである。

ストーリーは旧約聖書から取られているので、広義の宗教曲ではあるが。

カリッシミといっても知らない人のほうが多いだろう。私もよくは知らないが、確かバロック初期に活躍したイタリアの作曲家だったと思う。ずっと昔にCDを1枚買った記憶があるが、「イェフタ」ではなかった。タイトルは忘れてしまった。

私が気になったのは、上で引用した文章にはオラトリオは宗教曲ではないという含みがあるように思われたからだ。私の認識では、オラトリオは宗教音楽に他ならないので、一瞬戸惑った。

だが、しばらく考えてみて、筆者の意図が何となくわかってきた。「広義の宗教曲」と対比される「厳密な宗教曲」として念頭に置かれているのは、聖歌やミサ曲などの、主として教会で典礼の際に用いられる音楽なのだろう。カリッシミのオラトリオが教会で演奏されたものかどうかは知らないが、少なくとも典礼用の音楽でないことは確かだ。

納得できたので、この話題はこれでおしまい。


我流? 哲学書の読み方第弐齋藤 | 土踏まず日記)の後追いになってしまうが、私のお薦めはこの本。「論考」の読解という一点に限っている分、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』よりもわかりやすいはず。ただし、砂雪氏にとっては残念なことに、この本は5000円未満だ。

なお、ここでは括弧を巡る厄介な問題を避けるためにこの本のタイトルを書かなかった。前に言及したときは著者の表記法にならったが、果たしてこれが最善といえるのかどうか、今の私にはよくわからない。

1.10820(2003/10/25) 真っ白

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310c.html#p031025a

つい先日まで仕事の都合で更新を中断していたばかりだが、また数日間更新できないことになった。こう頻繁に更新を中断していると、どんどん客足が減ってしまう。以前のようにアクセス数稼ぎにやっきになっていた頃の私には耐えられないことだったろう。今となってはもうどうでもいいことだが。

ただ、こう仕事が忙しいと、本が読めなくて困る。最近読んだ本は……と記憶を辿ってみると、一週間ほど前に『未来をつくる図書館 ――ニューヨークからの報告――』(菅谷明子/岩波新書)が最後だ。毎週一冊くらいのペースで教養系新書を読み、小説も十日に一冊くらいは読みたいと思っているのだが、なかなか時間がとれない。

と、どうでもいいことを書いているうちに、出発時刻が近づいてきたので、今日はこれでおしまい。

1.10821(2003/10/30) 駅前にて

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310c.html#p031030a

今朝、駅前のバス乗り場でバスを待っていたときのことだ。行列の少し前に頭の悪そうな若い兄ちゃん(「あんちゃん」と読んでいただきたい。別に「にいちゃん」でも意味は通じるけれど)がいて、煙草をすぱすぱと吸っていた。駅構内は禁煙だが、バス乗り場は屋外なので、煙草を吸われても文句は言えない。私は煙たいのを我慢していた。

しばらく経って、件の兄ちゃんは煙草を地面に捨てて、靴でぐりぐりと踏みつぶした。すぐ近くには灰皿つきのゴミ箱があるというのに。吸っているときから灰を撒き散らかしていたので、きっと吸い殻もポイ捨てするだろうと予想していたから意外ではなかったが、それでも少しむっとした。だが、ポイ捨てを注意する勇気は私にはない。私は弱虫だった。

ところで、その兄ちゃんのすぐ後ろには、冴えない顔つきの背広姿の中年男が立っていた。その男も煙草を吸う兄ちゃんに顔をしかめていた。兄ちゃんが吸い殻をポイ捨てすると、中年男はしばらく地面をじっと見つめていたが、やがてしゃがみ込んで吸い殻を拾い上げた。ちょうどバスが到着して行列が動き出したところで、兄ちゃんは背を向けていたため、中年男の行動には気づかなかったようだ。

次の瞬間、中年男は少し身を乗り出して、兄ちゃんが肩から提げている口の開いた鞄に、吸い殻を放り込んだ。そして、そっと行列を離れた。一瞬の出来事だったので、きっと私以外に中年男の行動に気づいた人はいなかっただろう。