【日々の憂鬱】不定と不明を混同するのはいかがなものか。【2003年9月下旬】


1.10789(2003/09/21) 無料

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昨日は当「たそがれSpringPoint」開設2周年記念日だったが、だからといってどうということはなく、更新をすっぽかして後輩と一緒に関西空港へ行った。関西国際空港用地造成株式会社が行っている2期空港島現場見学ツアーに参加するためだ。以前、駅の案内ポスターを見て、一度行ってみたいと思っていたのだ。

このツアーは参加費無料で、週3日または4日それぞれ4回(夏場は5回)開催されている。無料というのは有難いが、見学バスを運行する費用のことを考えると釈然としない。バスチャーター費、ガイドスタッフ2名と受付のお姉さんの人件費、広告費、光熱費、現場管理費、事務経費、消費税及び地方消費税などなど。そんな金があるのなら、その100分の1でもいいから欲しいものだ。

と、そんな事を考えながらバスに乗ったのだが、2期空港島の絶景に圧倒された。行ってよかった。まさか大阪に地平線の見えるところがあるとは思わなかった。あいにくの雨と風のせいで2つある見学櫓のうち大阪湾に面した西側見学櫓にはのぼることができなかったが、これは次回の楽しみにとっておくことにしよう。次はぜひ晴れた日に。


ここでいきなり公共図書館の話。NaokiTakahashiの日記(9/19付)経由で町田市公式Webサイト/NHK「クローズアップ現代」に対する図書館の見解を読んだ。同じような文章は前にも読んだことがあって、最初「相変わらず、同じことばかり言ってるなぁ」と思ったのだが、よく考えてみると前に私が読んだのは同じような文章ではなくて同じ文章だった。

さて、高橋氏の

どちらかといえば見当違いで飛躍した議論なのは図書館の主張のほうだ。作家の側をまるで向いていない物言いで、まったくかみ合っていない。

図書館の貸出の中でベストセラー本が占める割合が多かろうが少なかろうが、なんの実証にもならない。作家は、図書館の運営方針に興味があるワケではない。図書館に何かを望んで物を言っているわけでもない。あくまで第一に自分の飯の種の話をしているのだ。

ここで検証すべきは、借りて読んだ利用者の何割ぐらいが、借りれなければ買う人たちだったのか、ということだ。

つまり、逸失利益がどれくらいなのかだ。

そういうところをきっちり調べた資料というのはないものか。

例えば、図書館が近くにあることでベストセラーの売上が有意に上がるとか下がるとかの統計データが欲しい。

というツッコミに対してこばもすなる日常(9/20付)でさらにツッコミ(こういうのを「ノリツッコミ」というのだろうか?)が入り、その後数回の応酬があったようだ。時系列を追って読むのが面倒なので、両サイトともまとめて読んだだけだが、いくつかの論点が入り混じっていて、混乱してしまった。そこで、もう一度上で引用した文章に立ち返ってみると、最も重要なのはつまり、逸失利益がどれくらいなのかだ。という箇所だと思われる。図書館の物言いが作家の側を向いているか、読者の側を向いているか、あるいは(私が邪推したように)財政当局の側を向いているのか、といったことは副次的な論点に過ぎない。

では、逸失利益とは何か? ふつうに考えれば「もし図書館でベストセラーの貸し出しが行われなかったとすれば、作家が得たであろう」利益だが、このような反実仮想を検証するのは非常に難しい。現実に成り立っている事柄を証拠により確かめるのが検証なのであり、現実には成り立っていない事柄は厳密な意味では検証不可能である。

私は著作権法やその運用について無知なので、著作権違反の事例で逸失利益をどのように算定しているのか詳しい方法は知らないのだが、ソフトウェアの違法コピーの場合だと確か違法コピーソフトウェアが現に作成、販売またはインストールされた数量を基準にして計算していたはずだ。現実に成立している事柄を検証することよって、そのまま現実には成立しなかった事柄の検証に替えよう、という発想だ。

この発想は、もちろん逸失利益の直観的な理解とはかなりのずれがある。そんな事は法律家は当然承知しているはずだ。では、どうしてあえてずれを容認するのか? これは私ごときの考察の及ぶところではない。ただ、逸失利益の算定に懲罰的意味と検証漏れ分の補填という意味を持たせているのではないか、と思いついた。

この想像が正しいと仮定して、公共図書館がベストセラーを貸し出すことによる逸失利益に話を戻す。現在の法律では図書の貸し出しは違法行為ではないから、懲罰を行うことはできない。また、図書館が貸出データを捏造しないかぎり、貸出数の検証漏れはほとんどないはずだ。そう考えると、違法コピーの場合の計算方法をそのまま図書館での貸し出しに係る逸失利益の計算に当てはめるのは難しいのではないか。

と、ここまで書いて気づいたのだが、「逸失利益」とか「損害」という語は、当然得られるはずの利益を不当にも侵害された、という含みを持っている。他方、図書館での本の貸し出しは、現在の法律では合法だから、法律上は逸失利益がどうこうという話にはならない。「のぞみ」が増発・値下げして航空機利用客が減ったとしても、逸失利益を云々できないのと同じことだ。だから、「図書館での本の貸し出しにより、どの程度の逸失利益が発生しているか?」という問題が成立するためには、まず「公貸権がない現状で図書館が行う本の貸し出しは不当である」という前提が必要である。他方、「公貸権は当然認められるべきだ」という認識がまだ日本では一般的になっていないので、世間の人々を啓発するためには逸失利益の話を持ち出さざるを得ない。なんだか堂々巡りだ。

自分で書いていながらだんだん話が変になって、わけがわからなくなってきた。

おおもとの「クローズアップ現代」のタイトルは「ベストセラーをめぐる攻防〜作家vs図書館〜」だが、前に私が言及した際には、特に考えなしに、出版業界vs.図書館と読み替えていた。出版不況の問題が念頭にあったからである。また、出版業界と一口で言ってもいろいろと業種があるが、出版社を中心に考えた。ところが高橋氏の文章は作家を主にしたものになっている。これは番組タイトルにも合致しているし、実作者としての立場から著作権侵害問題に関心をもっている人なら自然な発想なのだが、作家を主にして考えるのと出版社を主にして考えるのとでは、たぶん議論の展開の仕方が違ってくるだろう。

こんな事を考えているうちに、さらに思考が混濁してきたので、例によって結論が出ないまま終了。


『大暗室』読了。

1.10790(2003/09/23) 『怪人二十面相』と『大暗室』の感想

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うかうかしている間に政宗九氏と石野休日氏も光文社文庫版江戸川乱歩全集全巻読破宣言をしている。他人が何を読もうが自分には関係ない、と超然としていられればいいのだが、私はそういう性格ではないので、何となく焦りを感じている。そもそも、ウェブサイトで全巻読破宣言をしたのも、他人の目を意識することで自分を追い込むためなのだから、マイペース人間にはとうていなし得ないわざなのである。いや、意味がないだけで、別になし得ないことはないか。

前から書いていることだが、最近めっきり読書意欲が落ちて、小説がほとんど読めなくなっている。昔懐かしい乱歩なら最近の小説よりは読みやすいだろうと思って全巻読破宣言をしたうえで取りかかったのだが、早くも2冊目で息切れ気味だ。怪人、他人の生き写し、洞窟、犯行声明、変態性慾(「欲」よりも「慾」のほうが乱歩的だと思う)などなど、似たモチーフが何度も繰り返しあらわれるので、食傷したと言っても過言ではない。だが、今からそんな事を言っていては全巻読破など達成できるものではない。毎日少しずつこつこつと読んでいかなければ。読書も毒手も一日にして成らず。


『怪人二十面相』を初めて読んだのはたぶん小学生の頃だったはずだ。最近の若い人は知らないかもしれないが、昔は小中学校の図書館にはたいがいポプラ社の少年探偵団シリーズが置いてあったものだ。このような反社会的かつ教育上有害極まりない本を学校に置くなど、欧米では考えられないことです。ああ、昔はよかったなぁ。ちなみに私の中学校の図書室(田舎なので図書館などという立派な施設はなかった)には『家畜人ヤプー』も置いてあった。

子供の頃に読んだ『怪人二十面相』は非常に面白かった。特に海外出張から帰国した明智小五郎を外務省の役人が出迎える冒頭の場面(と思っていたが、これは実は物語の後半に入ってからのこと)が印象的だった。

だが、私はすっかり年老いてしまった。もう子供のように純粋にこの小説を楽しめない。

各新聞の夕刊は、「名探偵明智小五郎氏誘拐さる」という大見出しで、明智の写真を大きく入れて、この椿事をデカデカと書き立て、ラジオもこれをくわしく報道しました。

(略)

しかし、名探偵の誘拐を、世界中で一番残念に思ったのは、探偵の少年助手小林芳雄君でした。

(略)

その上、小林君は自分の心配の外に、先生の奥さんを慰めなければなりませんでした。さすが明智探偵の夫人ほどあって、涙をみせるようなことはなさいませんでしたが、不安に堪えぬ青ざめた顔に、わざと笑顔を作っていらっしゃる様子を見ますと、お気の毒で、じっとしていられないのです。

「奥さん大丈夫ですよ。先生が賊の虜になんかなるもんですか。きっと先生には僕達の知らない、何か深い計略があるのですよ。それでこんなにお帰りがおくれるんですよ」

小林君は、そんな風にいって、しきりと明智夫人を慰めましたが、しかし、別に自信があるわけではなく、喋っているうちに、自分の方でも不安がこみ上げて来て、言葉も途切れがちになるのでした。

これは栄えある少年探偵団が結成される寸前の場面だが、これを読んでいるうちにけしからぬ妄想(「あっ、奥さん、一体何をなさるんですか。いけません、やめてください。アア、僕はもう先生に顔向けできない」)がむくむくと湧いてきた。何ということでしょう。一見したところ非力そうな明智夫人ですが、なんといっても大人の女性、小林少年を組み伏せることなど造作もないのでした。

(略)

アア、明智夫人は先生の安否を気遣うあまり気が動転してあんなことをしてしまったんだ。留守の間にこんな事が起こっていたなんて、決して明智先生に気づかれてはならない。小林少年は涙ぐみながら、この忌まわしい体験を永遠の秘密とすることをかたく心に誓ったのです。

ですが、読者の皆さんもご承知のとおり、明智探偵といえばまるで透視術士のような方です。この秘密がいつまでも気づかれずにいることでしょうか。イヤ、実は明智夫人の痴態そのものが彼の名探偵の計略の一部ではないと、どうして言い切れるでしょうか。もしかしたら、明智探偵は屋根裏から一部始終を見通していたのかもしれぬのです。名探偵明智小五郎とは、そのような人物なのです。

いや、明智はそんな人物ではないはずだが、どうも『怪人二十面相』にはいかがわしさが足りないので、脳内補完してしまうのである。『猟奇の果』の次に読んだのも妄想の一因かもしれない。


『大暗室』は初読だった。こちらは大人向けの小説なので、いかがわしさはふんだんに盛り込まれているが、騙しのテクニックや仕掛けは『怪人二十面相』と大差ない。要するに子供騙しなわけだ。偽明智も登場するし(しかし本物の明智が登場しないのはいかがなものか)。

正義の味方と悪の権化の対決という、昨今ではほとんど見られなくなった図式を用いて、波瀾万丈の物語を紡ぎ出しているのは見事だが、全く不満がないわけではない。それは、ヒロインの扱いだ。

有村青年は敵の云い分通り、完全な敗北を感じないではいられなかった。辻堂老人の外に星野氏までが、イヤ、恋人の真弓さんまでが、今は敵の虜となって、いずことも知れず連れ去られてしまったのだ。

あの真弓さんが、極悪人のために、どんなにいやらしく、どんなにむごたらしく、責めさいなまれることであろう。それを考えると、敗残の騎士は、もう居ても立ってもいられないのであった。

こんな文章を読むといやが上にもいやらしくむごたらしい責めを期待してしまうのだが、その期待は半分しか満足させられない。

アア、星野真弓。読者はこの名を記憶されるであろうか。有明朋之助の可憐なる恋人、後に悪魔に魅入られて、身の毛もよだつ人斬り振子の拷問にあい、地獄の陥穴の底深く陥って行ったあの美しい少女なのだ。彼女は陥穴から引き上げられ、更に数知れぬ責苦にあったが、雄々しくも純潔を守り通し、遂に大曾根を根負けさせて、つい近頃、人魚の群に加えられ、真珠の涙を零しながら、悲しい歌を歌いつづけていたのであった。

これにはちょっとむっとした。読者をなめるな。美しいヒロインは身も心も極悪人の虜となって、最後は爆死するべきなのだ。

時代の制約もあったのだろうが、乱歩の通俗長篇は、途中さんざんあんな事やこんな事をやっていても、最後のまとめにかかると急に行儀がよくなってしまう。暴走しすぎてまとめることができなかった『猟奇の果』のほうがかえって面白い……というのは言い過ぎか。


いろいろ悪口も書いたが、ともあれこれで乱月の第1回配本の2冊は読み終えた。次は第7巻『黄金仮面』だ。表題作のほか『何者』、『江川蘭子』(乱歩執筆分のみ)、『白髪鬼』が収録されている。何とか今月中に読み終えて、来月は真っ新な気持ちで新刊を買いたいものだ。

1.10791(2003/09/23) 神無月の「無」は格助詞の「な」

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本が読めない、本を読む意欲が湧かない、読書能力が減退している、等々と言っていても、面白い本にめぐりあうとすらすら読めるものだ。今日読んだ『鉄道ひとつばなし』(原武史/講談社現代新書)がまさにそんな本だった。先日、畸人郷の野村氏に薦められて、いちおう買ってはみたものの、このまま積ん読本の仲間入りをすることになるだろうと思っていたが、昼に乱歩の感想文を書いた後、『黄金仮面』を読む気にもならないので、かわりに手にとって本を開いてみたところ、すぐに引き込まれてしまって、そのまま一気に全部読み終えた。

タイトルからも明らかなように、これは鉄道にまつわるさまざまな話題を扱った本だ。著者自身はこれはマニアの本ではない。逆に真正マニアから、山のように誤植の指摘が来ることを恐れている(「あとがき」)と言っているが謙遜だろう。ただ、少なくとも鉄道マニアのみを対象にした本でないのは確かなので、ぜひ多くの人に読んでもらいたいものだ。

宮脇俊三の強い影響が見受けられる鉄道紀行(第5章「私の鉄道体験記」と第7章「風俗と風景」の一部)で本家顔負けの風景描写を堪能するのもいいが、私見ではこの本の真価は第1章「天皇と鉄道」と第2章「鉄道をめぐる人物論」にある。積み重ねられた短いコラムの向こうに日本の近代の輪郭が朧気に見えてくるような気がする。それもそのはず、著者は政治思想史の専門家なのだ。と、知ったふうなことを書いたが、この本を手にとるまで私は原氏の著書を一冊も読んだことがなく、名前すら知らなかった。

序文を読むと、

学者が本業を放り出して「趣味」の本を出すとは何事かという批判は覚悟している。しかし私にとって、鉄道は単なる趣味ではない。それは経済史や経営史の研究対象となるばかりでなく、私の専門である政治思想史にとっても、テキストを読むだけでは見えない重要な手掛かりを与えてくれる。『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社選書メチエ、一九九八年)、『大正天皇』(朝日新書、二○○○年)、『可視化された帝国』(みすず書房、二○○一年)といった私の著作の一部は、鉄道に対するこだわりがなければ、到底生まれなかったと断言できる。

と書かれている。これだけではピンとこない人のほうが多いだろうが、たとえば「鉄道発達史から見た茨城県」(第4章「歴史の駆動車としての鉄道」)を読んでみれば理解できるだろう。関東地方の各県のうち茨城県だけが私鉄のみを乗り継いで東京都内に出るルートがないということは、誰でも時刻表の路線図を見れば確認できるが、その事実が五・一五事件の背景を暗示しているという着想はなかなか思いつくものではない。ここには、ある種のミステリに通じる意外性がある。もっとも、このような"意外な手掛かり"を読み解く著者を、奇妙な足音から怪盗の暗躍を推理するブラウン神父に喩えるべきか、それとも黒死館の甲冑の位置から連続殺人を予言する法水麟太郎に比すべきか、私には判断しかねる。どちらにしても面白いことに違いはないのだが。

1.10792(2003/09/24) 図書館!

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先日から図書館問題についてあれこれ考えていたのだが、どうにも考えが堂々巡りしてしまい、以前考えた時(この辺り)から前進していないように思う。

私には大きな謎がある。それは、公共図書館とはいったいどういう施設なのか、ということだ。この問い自体が謎だと思われるかもしれないので補足しておこう。主に税金で書籍や雑誌を買い集めて収蔵し、一般大衆に公開する施設というのは、いったいどのような理念と目的をもっているのか、という疑問だ。

私はめったに図書館には行かないが、博物館にはよく出かける。旅行先で時間が余ったときに、近くに博物館や資料館があれば、ふらっと立ち寄ることもある。興味をそそられる特別展があれば、それだけのために旅行することもある。

もし公共図書館が本の博物館だというなら、イメージはかなり掴みやすい。商業的には決して引き合わないが、一部の人々の好奇心を満たしてくれるような本を買いそろえて、整理し、一定の秩序をつけて公開する。それぞれの図書館に専門分野があったり、司書の個人的な興味で偏った資料収集を行ったりして、「あの分野なら××図書館に行けばたいてい揃っている」と言われるようになる。年に二回の特別展(入館料は高くなる)と数回の企画展(入館料は据え置き)があって、特別展にあわせて図録を作成し、入口カウンター前で販売している。カウンターにいるのは図書館職員のようだが、実は外郭団体である図書館友の会の人だ。役所から与えられた予算では賄えない経費を友の会予算から捻出して、辛うじて体面を保っているが、入館者数が少ないため財政当局の目は厳しく、来年はさらに予算が削減される見込みだ。館内に図書を展示して一般客に供覧するのは図書館の活動のごく一部に過ぎない、図書館の本務は研究活動なのだ、と財政当局に説明してもなかなか理解してもらえない。困ったものだ……。

誤解のないように言っておくが、このような図書館が私の理想だというわけではない。ただ、イメージが掴みやすいというだけのことだ。

逆に、住民の福祉を最大の目標にした図書館というのは、私にはなかなかイメージしづらい。私はベストセラーをほとんど読まないので、ベストセラーを図書館で借りて読む大衆という存在がよくわからない。ちょっと言葉は悪いが、大衆には顔がないように思う。そんなのっぺらぼうの大衆に奉仕する図書館もまたのっぺらぼうだ。きっと、日本中どこに行っても、郷土資料コーナーを除いては同じような本が同じような仕方で並べられているのだろう。ちょうど書店がそうであるように。

誤解を避けるため、再び弁明しておく。私はこれが現在の日本の公共図書館の実像だと主張しているわけでもなければ、このようなのっぺらぼうの図書館がいけないと主張しているわけでもない。ただ、大衆の需要に最大限こたえることを目的とした図書館像が私にはピンとこないだけのことだ。

ピンとこない、というのはこういうことだ。仮に、公共図書館のせいで本が売れなくなって、本の著者の生活にまで影響を及ぼす事態に至ったとして、その時、図書館はどうすべきなのかが私にはわからない。図書館は出版文化に責任を負うべきなのだろうか? もしそうだとして、図書館が責任を負う相手は本の著者なのだろうか? 出版社なのだろうか? それとも書店なのだろうか? いずれにせよ、住民福祉を本旨とする図書館像から演繹的に結論を導き出すことはできないように思われる。

どうも話が曖昧模糊としてわかりにくい。書いている私自身が、自分の言おうとしていることをうまく掴めていないくらいだ。これではいけない。仕切直しをしよう。


数日前から図書館に関する問題を取り上げてきたNaokiTakahashiの日記では、9/23付の記事で「大衆文化」(または「大衆娯楽文化」)というキーワードにより公共貸与権導入の効用について論じている。

新古書店問題などもあって、出版業界には(ピコや割れの氾濫するゲーム業界ほどではないにしても)初期出荷偏重の傾向が出ている。書籍に初回特典がつく時代なのだ。

公共貸与権によって、図書館での貸出実績が幾分でも商業的評価に繋がるようになる、つまり、学生達がたくさん借りている本が、長い間需要を失わず細々と読者を増やしつづけられる本が、商業的に評価されやすくなる。

商業的に評価されるということは文化的に評価されるということなので、それらの現状評価されにくい著作の評価をあるべき状態に近づけることになる。

財源が図書館や利用者ではなく税金であるのなら、これは公的な文化への投資の一種だと考えられる。いいことだと俺は思うのだが。

この少し前に、売上こそが最大の評価軸だ。という、わりと挑発的な言葉があったので、最初私は高橋氏が現実べったりの商業主義全肯定の立場かと思ったのだが、この一節を読んで誤解であることがわかった。出版界の現状を憂う理想主義者(という言い方には語弊があるかもしれないが、ほかに適当な言葉が思いつかなかった)でないと書けない文章だ。

初回特典つきの本は、再販制度(賛否両論はあるものの、この制度が出版業界を市場原理の荒波から保護する役目を果たしていることは確かだろう)を自ら否定するような愚行だと思う。つい先日、大阪の某マンガ専門書店で、数年前に発売されたフィギュアつきマンガ本が叩き売りされているのを見たばかりだ。だが、部外者の私でもわかることを出版業界の人々が気づいていないはずはない。わかってはいても当座の利益確保に走らなければならないほど追いつめられている、というのが現状なのだろう。このような状況では「長い目で見れば……」などといった悠長な話は通らなくなる。本は世相の鏡であると同時に世代を超えて受け継がれるべき文化遺産でもある、という発想に立てば、今の出版界の状況は憂うべきことに違いない。公貸権の導入により、この状況が少しでも改善されるのだとすれば、作家の逸失利益や食い扶持に利害を持たない私のような読者にとっても有難い話である。

ただ、"大いに売れた本"と"売り上げは今ひとつだが長く読み継がれる本"が同等に評価されるためには、直接の受益者は出版社でなければならないだろう。さもなければ、作者の懐は潤っても出版社にとっては"売れなかった本"のままで、商業的評価には結びつかない。この制約が、著作権をベースにした議論にどのように影響するのか、慎重に検討する必要があるだろう(もちろん、私自身はそのような検討を行う気はない。著作権に詳しい人の賢察を待ちたい)。

もう一つ――これはやや揚げ足取りめくのだが――上に引用した箇所だけを読むと、図書館に税金以外の財源があるかのような印象を受ける。調べたわけではないから断言はできないが、図書館の資料費や運営費のほとんどは税金から出ているはずだ。公貸権導入に伴う費用の費目がどうであれ、出所が税金だとすれば図書館の経費と同じことだ。昨今の財政事情からすると、まず確実に資料費が削減されることになるだろう。財源は税金か利用者かの二者択一(または両者をもとにした基金という方法も考えられるが)と考えたほうがよい。


実を言えば、私は公貸権という考え方には何となくひっかかりを感じている。違和感といってもいい。特に、個々の本の随時の貸出実績に応じて個別の作者または出版社に対価を支払うというやり方は、市場原理に合致しないものを無理矢理市場の物差しにあわせようとしているようで、人工的すぎるように思う。大量に売れる見込みのある本は思い切って定価を下げて図書館で返却待ちをするのが面倒な人に買ってもらい、逆にあまり売れそうもない本は値段を上げて図書館相手の商売で採算がとれるようにする……というのは市場原理過信の理想論だろうか?

やれ出版不況だ、本が売れない、などと言ってはみても、私は基本的に出版業界の底力を信じている。ミステリの分野に限った話になるが、私が子供の頃に「幻の本」と呼ばれていた古典的名作の数々はその後ほとんど復刊されているし、新刊の波に呑まれて一時は消え去った本も版型を変えて復活している。本当に歴史に残るべき本であれば、見るべき人がちゃんと見ていて、今は読めなくても10年か20年後にはきっと新刊書店に並ぶことだろう。

「それは、たまたまミステリ界に日下三蔵という人物がいるからでは?」

確かに。でも日下氏が出版業界にいるという事実がこの業界のしぶとさを象徴しているのではないだろうか?


おまけ:読書の秋、図書館は冬 削られる都内の資料費

1.10793(2003/09/25) 携帯用白長須鯨

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今日も雨だ、調子が出ない。


『二十面相の娘』(1)(小原慎司/メディアファクトリー)を読んだ。オビには江戸川乱歩の世界を、小原慎司が描くまったく新しいコミック登場と書かれているが、全然乱歩らしくない。でも雰囲気はいい。

小原慎司の作品は『ぼくはおとうと』だけしか読んだことがない。あれはもう10年くらい前のことだったか。いや、5年くらい前だったか。昔のことはよく思い出せない。最近のこともよく覚えていない。


クロノス・クラウン9/25付「醸造 ため 妄想」を読んで、妙に納得してしまった。「妙に」というのは、私は昔からTRPGには関心はないし、ほかに思春期の頃に熱中した趣味があるわけでもないからだ。だが、たとえば

最近何だか思考が上滑りするなあと思っていたのですが、どうもこの原因はインターネットにあるようです。つまり、知識を自分のものにするための醸造期間がなくなりつつあるなあと。上滑りというのは、情報が脳細胞の上を流れて行ってしまう感覚です。

という箇所を読むと、最近の私が実感していることと同じだ。で、大いに納得。

と書いてみたものの、私の場合、インターネットは原因ではなくて結果ではないか、という気がしてきた。つまり、体系的な知識を会得する能力とか意欲とかが衰えたために、インターネットに逃避してかりそめの知的満足感を味わおうとしているのではないか、と。


知人とミステリの話をしているときに思いついた謎の設定。

雨の降る日に、庭の花壇の前で死体が発見される。被害者は合羽姿で、背後からナイフで一突きされて絶命している。不思議なことに被害者の手には如雨露が握られている。被害者は雨の中、庭の花に水をやろうとしたのか? それとも犯人の偽装工作なのか? もし偽装だとすると、何のために?

もう一つ考えた。

密室でコーヒーカップをもった死体が発見される。被害者は予め毒が仕込まれたコーヒー豆を用いてコーヒーを淹れて、それを飲んで死んだらしい。だが、関係者の証言によると、被害者は大のコーヒー嫌いだったという。では、なぜ被害者はコーヒーを飲んだのか? また、毒を仕込んだ犯人の意図は?

言うまでもなく、どちらも解答はない。いろいろ考えたが、陳腐なものしか思いつかなかった。


今日買ったもう一冊のマンガは『サトラレ』(5)(佐藤マコト/講談社 イブニングKC)。最初の頃の人情話路線ではすぐにネタ切れするだろうと思っていたが、意外としぶとく頑張っている。『県庁にいるサトラレ』などホワイダニットもののミステリの趣すらある(が、あの解決はさすがに無理がある)。


脳内で勝手に自分に都合のいい展開を妄想することまでは、「まあ、そういう性格だから」と言ってすませることもできるが、やってもいない事をやったと嘘をつくようでは、もうダメダメではないかと思う今日この頃。

訳の分からないことを書くと気分が晴れるなぁ。

なお、私は猫ではない。

1.10794(2003/09/26) とことんやる気がないので

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二、三日ネット断ちする予定。

1.10795(2003/09/29) うつし世は夢路、夜のゆめこそいとし

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ネット断ちをする直前に『偏愛小説家の犯罪』という小説を読んでいた。もちろん、それを読んだことがネット断ちの理由だというわけではない。

尾道大学推理小説研究部のサイトのトップページを見ると、『偏愛小説家の犯罪』印刷完了。来週頭には郵便局に持っていって、『新・本格推理』賞に送り出してやるのだ。(9/26付)と書かれているが、その「来週頭」というのは今週頭のことだから、もう発送している頃だろう。いくつかの難点があるので、たぶん『新・本格推理』に掲載されることはないと思うが、もし掲載されれば、それはそれでめでたいことだと思う程度には面白かった。

以下、簡単に感想を述べておく。

密室殺人に代表される不可能犯罪ものは、原理面でも現象面でもありとあらゆるパターンが出尽くした感があり、今さら何を読んでも大いに驚くことはなくなっているのだが、『偏愛小説家の犯罪』のメイントリックが明かされた瞬間には、思わず「へぇ」と言ってしまった。私の知る限り、全く同じトリックを用いた前例はない(が、私の知らないところでは、たぶん前例がありそうな気がする)。

ただ、残念なのは、この小説で提示された不可能状況(いちおう密室殺人だというふうに説明されているが、改めは十分ではない。むしろ密室からの死体消失テーマと見るほうがいいかもしれない。どちらでも大した違いはない、と言ってしまえばそれまでだが)には別解が考えられるということだ。作り物の首を用いたという可能性が排除されないままになっている。これは、実は私が予想していたトリックだった。作中で用いられたトリックのほうが数段面白いので、その点には不満はないのだが、より陳腐でチープなトリックの可能性は潰しておかなければならないだろう。

トリックの本質とは関係ないのだが、最終的な死体置き場が庭の物置小屋というのはつまらない。もっと突拍子もない場所で発見されたほうが、事件の異常性が高まり、犯人の目的にも叶うのではないか。もちろん、どんなに工夫したところで、わざわざあんなトリックを用いた動機として十分だとはいえないのだが、もう少し説得力を高めることはできたと思う。

ところで、この小説はミステリとしてはかなり大きな弱点を抱えている。それは、登場人物が少なすぎるため、ほぼ自動的に犯人がわかってしまうことだ。小説の前半は滝上美弥流の視点で描写されており、彼の心理描写も含まれているので、彼が犯人ではないことは明らかだ。犯人当て小説ではないのだから、余計な登場人物を増やしてごたつかせるよりもシンプルにまとめたほうがよいという考え方もあるだろうが、これではトリックにかかる比重が大きすぎるように思う。

ついでにいうと、愛内稲生の悲鳴が聞こえたときに図書館の扉に鍵が掛かっているというのは、さすがに無頓着すぎる。他人の家の図書館で本を探すのに鍵を掛けるのは不自然だから、その後の展開を読む前に読者の疑惑が愛内稲生に向けられることになる。作業を行う際に念のため鍵を掛けたとしても、悲鳴を上げる前に鍵を外しておいて何の問題もないはずだ。

細かい話をすれば、まだほかにも気になった点は多いのだが、今はあまり長文を書く気力がない。まだ頭の調子は万全ではないので、このくらいにしておく。

最後になったが、「偏愛小説を書く小説家の犯罪」と思わせておいて、実は「偏った愛情の主である小説家の犯罪」だったというタイトルのダブルミーニングは秀逸だった。……と思ったのだが、これは考えすぎか。

1.10796(2003/09/30) 九月は苦しむ、十月は遠のく

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私が定期巡回しているいくつかのサイトで「おめでとう」という言葉が目立つ一日だった。最初に見たのはここで、何がめでたいのか書かれていなかったので、私はてっきり松本楽志氏がどこかの小説コンテストに入賞したのかと思った。

私は今、精神的にかなり参っていて、他人の幸福を心から祝福できるような心理状態ではない。だが、滅・こぉるファン倶楽部会員No. 0000の人の慶事を無視するのもどうかと思うので、祝辞にかわる言葉を贈ることにする。

一つめ。「法月綸太郎は結婚後まだ長篇を一冊も書いていない」

二つめ。「鮎川哲也は離婚して名作『鍵穴のない扉』を書いた」