日々の憂鬱〜2003年7月中旬〜


1.10739(2003/07/13) 衝撃! 「わんだ〜らんど」なんば店に『黒いハンカチ』入荷

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307b.html#p030713a

 知っている人には言うまでもないが、「わんだ〜らんど」というのはマンガ専門店である。関東の人は「まんがの森」あたりを思い浮かべるとよい。雰囲気はかなり違うが、品揃えは似たようなものだ。その「わんだ〜らんど」の新刊の棚に『黒いハンカチ』(小沼丹/創元推理文庫)があるのを見て、私は心中(「しんじゅう」ではなく「しんちゅう」と読むべし)「ここでこの本を買う人がいるのか?」と訝しんだ。だが、私が店内を一周して元の新刊棚の前に戻ったときには、既に『黒いハンカチ』は売れてしまっていたのだった。世の中、どこで何が売れるか、わからないものだ。
 ちなみに、私は『灰色の乙女たち』(1)(加藤理絵/スクウェアエニックス stencil comics)を買った。奥付を見ると今年の7/27になっていたので最近出た本だと思うが、全くノーチェックで作者についても作品についても何も知らない状態で衝動的に買った。後から考えてみると、タイトルと「センチメンタル漫画文學作品」という惹句に惹かれたのだと思う。帰りの電車の中で読んでみたが、非常に面白かった。これはいい買い物だった。ただ、せっかく正字を使うなら「センチメンタル漫畫文學作品」と書いてほしかった。

 最近、暑さのせいか気力と意欲が大幅に低下している。こんな時には心機一転、のんびりと旅に出て温泉にでもつかりたいものだ。そんな事を考えながらウェブ上でいろいろ調べてみると寸又峡温泉一泊の旅(11,260いいふろ)という企画が見つかった。大井川鐵道のツアーだ。うう、いいなぁ。でも、コミケ前後には金がないしなぁ。
 まあ、秋になったら別の企画があるだろうし、それまでおとなしくしておこう。

 なんとなく「清く、正しく、鬱苦死苦」というフレーズを思いついた。特に意味はない。

1.10740(2003/07/13) 新宿の隣り、西明石の隣り

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 見出しの件について知人から非常に衝撃的な情報を入手した。別に口止めされたわけではないが、余計なトラブルを避けるためには黙っておくべきだろう。
 と、思わせぶりなことを書くと、嫌な奴だと思われるかもしれないが、それはその通りなので反論しない。私はとことん嫌な奴なのだ。どれくらい嫌な奴かといえば、カップルが腕を組んで歩いているのを見ると後ろから蹴りを入れたくなるくらいだ。私は他人の幸福を憎む、憎む、憎む。ああ、なんて嫌な奴なんだ! 自分で自分が恐ろしくなってきた。
 ほどよく自己嫌悪に陥ったところで、今日はおしまい。最後に愉快な文章を一つ紹介しておこう。十三星の天戒 キューブ野望帳7/12付「さすらいの麻婆豆腐」から。

金平牛蒡を二口食べたあたりで夏子ちゃんはギブアップ。保健室へ運ばれました。金平牛蒡を全部食べ終わったあたりで加奈ちゃんはギブアップ。トイレへ駆け込みました。麻婆豆腐に手をつけた辺りで里枝ちゃんは泣いて謝りました。で、最後に残った私が全部を食べるはめになりました。残してはいけないというのが原則。自分の分をやっとの事で食べ、他の人のに手を伸ばしたところで、3人とも帰ってきました。「あれ、どうしたの」。すると3人はこう言いました。「あまりの辛さに頭がおかしくなったのかもしれないけど・・・なんか変な麻薬みたいにまた食べたくなってきた・・・」。

 やー、旨そうだ。危険な誘惑に満ちた麻婆豆腐。私も食べてみたい。
 「麻婆豆腐」の「麻」は「麻薬」の「麻」と同じ意味だという話を聞いたことがあるが本当だろうか? 「マー婆さんが発明した豆腐料理」という説もあるのだが。

1.10741(2003/07/14) う〜ん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307b.html#p030714a

 白黒学派7/10付「届け先はたかゆ宅」から。

滅・こぉるさんKさんから言葉があって一安心。密導入という指摘はそうかもしれないですね。Kさんからは記号論における指摘があるかもしれないので気長に待ちましょう。説得力にはやや欠けるでしょうが、間違ったことは書いていないと思います。

 う〜ん。そうかもしれないしそうでないかもしれない。もしそうだとすればそうなのだろうし、そうでないとすればそうでないのだろう。なべて世はこともなし。
 結局、蔓葉氏は私の批判を受け入れるのだろうか? それとも退けるのだろうか? もし受け入れるのだとすれば「プラトン風」についての主要な議論の一つが破綻してしまうことになると思うのだが、気にならないのだろうか?
 小一時間問いつめたいところだが、ネット上ではなかなかそういうわけにもいかない。ここは是非LEGIOん評価オフin新木場への参加を求めたいところだ。

 郭公亭讀書録のネット書評についての話題と、新青春ダイアリー78の美少女ゲームとボーイズラヴについての話題を読んであれこれ考えてみた。どうせだから二つの話題をリンクさせてみようと思ったら、訳がわからなくなった。

 メモ:おたくとは何か〜「萌え」の意味(情報もと:エロチック街道
「意識的にせよ無意識的にせよ、主として性衝動を根源とする欲望の対象となる、高度に記号化・抽象化された存在に対し、それが不可能であると知りながら、むしろ不可能だからこそ、常にともにありたいと希求する心の状態。」

維新を読まずに何を読む!
「う〜ん、美少女文庫かな」
 というわけで、『メイドなります! 彼女は幼なじみ』(青橋由高/フランス書院美少女文庫)を読んだ。タイトルのわりには、幼なじみはあまりメイドっぽくなく、むしろハスラー萌えを追究した感があるが、これはこれで面白かった。

私信:依頼を断っているのではなく、単に業界から忘れられて依頼がないだけだとか。去年の鮎哲賞パーティーで探偵小説研究会の某氏に「最近全然書いてませんね」と言われて、半ば苦笑しながら「本業のほうが忙しいので」と答えたそうです。

1.10742(2003/07/15) 脳内思考・脳外記述

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 ネットに接続していつものように自分のアンテナから巡回を始めようとすると、その一番上に【PR】●●あきらめていませんか?結婚、交際・・■登録無料■● Premarri.com ●という広告が出ていた。以前書いたように私にはネットを通じて知り合った恋人がいるので、こんな広告には全く用はない。用はないのだが、なんとなく吸い寄せられるようにクリックしたのはどういうことか。ああ、私は自らの行為を恥じてやまない。ごめんなさい、あなたを裏切るつもりはなかったんです。ただ私は2等の賞品のデジカメに目がくらみそうになっただけなんです。
 と、自責の念で鬱屈しているところに、我が素晴らしい恋人からのメールが届いた。都合が良すぎるではないか、と言ってはいけない。世の中には、ネット上の言い合いで旗色が悪くなると都合良く自説を支持する"読者からのメール"が届く人もいるのだ。それに比べると私の都合良さはちうくらいなり。早速私はメールを開封した。

> 私はとことん嫌な奴なのだ。どれくらい嫌な奴かと
> いえば、カップルが腕を組んで歩いているのを見る
> と後ろから蹴りを入れたくなるくらいだ。私は他人
> の幸福を憎む、憎む、憎む。ああ、なんて嫌な奴な
> んだ! 自分で自分が恐ろしくなってきた。

あはは! 他人をうらやんではいけませんよ。
あなたには私がいるのだから。

 ごめんなさい。あなたという素晴らしい恋人がいるのに他のカップルに嫉妬するなんて、私はどうかしていました。反省します。お詫びに今度の休日には関西秘境駅ツアーにご招待します。
 ……などとどうでもいい事を書いてはみたが、やっぱりプロの文章にははるかに劣る。おとなしくいつものスタイルに戻すことにしよう。

 今日は郭公亭讀書録7/8,7/12付のネット書評の話題について。といっても、当該記事はMystery Laboratoryとかまいじゃー推進委員会!とか既にあちこちで紹介されているので、ちょっとピントのずれた観点から取り上げることにしよう。

 ネットにおける書評家というのは当初(ミステリ・ネット創生期)、多かれ少なかれ、プロのライター・書評家に対するアンチテーゼを持っていたと思います。しかし、創生期から長い期間が経過し、そのベクトルは薄れ(これはプロによる書評の地位が低下した、と考えることもできるでしょうが)、ミステリを介してのコミュニケーションの場、というふうにネット・ミステリ界は変質してきたのではないか。勿論、それが悪いことだとは思いません。仲良きことは美しきかな。しかし、僕は当時のことを思い出すと、ちょっと寂しい思いに駆られるのです。

 私が初めてインターネットに触れたのは1995年頃だが、その当時のミステリ系サイトは今よりも書評や読書感想文(両者は同じではないが、ここでは区別しない)に重きをおいていたように記憶している。まだアクセス解析も今ほどは普及していなかったので、双方向のコミュニケーションは掲示板(「掲示板」という言葉はまだ標準ではなかったが)が中心で、文中リンクによるサイト管理人同士のコミュニケーションはあまり盛んではなかった。そういう意味では、確かにネット・ミステリ界は確かに変質したといってよい。ただ、問題は果たして創生期のネット・ミステリ界にプロのライター・書評家に対するアンチテーゼの要素があったかどうか、だ。
 アンチテーゼが成立するためには、まずテーゼがなければならない。プロが紙媒体で発表する書評などに通底するミステリ書評界の基本理念とか共通了解のようなものがあったものかどうか。そしてネット上で活動を始めたアマチュアたちが、プロの書評に対して何らかの対抗理念をもって書評を書いていたのかどうか。今となっては漠然とした記憶を頼りにするほかはなく確言はできないのだが、私にはそのようなテーゼ/アンチテーゼはなかったように思われる。
 もちろん、個人個人を取り上げてみれば、明確な方針に基づいて書評を書いていた人はプロにもアマにもいたことだろう。だが、個人のレベルを超えた"商業ミステリ書評界"vs."ネット・ミステリ界"という対立はなかったと思うのだ。むしろ、ネット・ミステリ界の人々は、基本的にプロの書評と同じベクトルで文章を書いていたのではないかと思う。
 とはいえ、当時まだ自分のサイトを持っていなかった私が言うことだから、あまり確かな話ではない。前世紀からミステリ書評や感想文を書き続けたきた方々の意見を伺いたいところだ。
 さて、ここまではマクラで、これからが本題。最近「プロが書いたミステリ論はやっぱり凄いなぁ」と感心した話……を書くには時間が足りなくなった。これは次回に。
 ああ、余計なことを書かなければよかった。

1.10743(2003/07/16) 出版業界は、3割の昔ながらの編集者精神の持ち主と、7割の 勘違い人間で構成されています。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307b.html#p030716a

 ぱお〜ん。象さんだぞぅ。

 発売直後から『ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んでいるのに、まだ半分しか読めていない。ううう。
維新を読まずに何を読む!
「う〜ん、美少女文庫かな」
「またかよ!」
 というわけで、『Ensemble〜ぼくの妹』(橘真児/フランス書院美少女文庫)を読んだ。兄妹ネタなので多少は『ヒトクイマジカル』と関係がありそうな気もする。
 主人公は高校教師で、同じ高校に通う双子の妹相手にいろいろする話。双子といえば当然入れ替わりネタがあるわけだが、地の文で名前を偽っているためアンフェアだと思った。

 さて、白黒学派(7/15付)で蔓葉氏は次のように述べているのだが……。

さて滅・こぉるさんが7月9日に指摘されている内容は簡単にわければ、「作中の人などいない」説と、翻訳者の特権性説でしょう。前者は「地の文に書かれたことは事実として読む」ということと反すると思います。小説の地の文に書かれていることは基本的に真実である、と読むことにしています。ならば作中の登場人物が"amour platonique"と発言したことは事実になります。

 蔓葉氏がふだん小説を読むときに地の文に書かれたことを事実だとみなすのは一向に構わない。だが、そもそもの発端である「同時代ゲーム」の5/17付の記事は、笠井潔が「プラトン風の愛」という表現を誤用しているという主張だったのだから、この場ではそのような読みを控えなければならないことは言うまでもない。
 さもなければ、
「笠井潔は言葉の使い方を間違っている」
「いえ、地の文に書かれていることは事実ですから、そこに間違いはありません」
という不毛な意見のすれ違いが帰結する(会話文の中にあらわれた当該表現については「発話者がそのように語ったこと自体は事実だから、そのことに間違いはありません」と言い抜けることが可能だろう。むろん、このようなトリヴィアルな反論は蔓葉氏の意図したことではないだろうが)。
 あくまでも『サマー・アポカリプス』は笠井潔の創造物であるとみなすべき――少なくともこの議論の間だけはそのように考えているかのように振る舞うべき――である。
 7/9付の記事で私は一歩譲って蔓葉氏の立場を徹底した場合の疑問点を書くという余計なことをしてしまった。この議論の文脈ではナディアは存在しないのだから、彼女が日本語で文章を書くこともあり得ない。無用の混乱を招いてしまったことを反省するとともに、蔓葉氏に謝りたい。
 ややこしくなってきたので、私の考えをもう一度まとめて述べることにしよう。『サマー・アポカリプス』は笠井潔が最初から日本語で書いた小説であり、フランス語の原文など存在しないし、「プラトン風の愛」に相当するフランス語の表現を語った人物も存在しない。従って、フランス語の"amour platonique"の慣用及び「フランス語のニュアンスを残すための工夫」に依拠する蔓葉氏の議論は成立しない。笠井潔が「プラトン風の愛」ということばを誤用したかどうかは、プラトン風の愛とはどういうものであるかという点を検討することによってのみ判定される事柄である。
 あと、少しだけ余談。蔓葉氏曰く、ただ、そこで行われた「フランス語のニュアンスを残すための工夫」の適切さこそが問題となっていると考えているのです。はたしてその工夫は誤用と断定できるのでしょうか。この発言は私には非常に奇妙に感じられる。工夫が誤用であったりなかったりすることはないからだ。誤用されるのは言葉である。あえて言葉を誤用することが小説技法の一部を成すことはあり得るが、だからといって誤用が誤用でなくなるわけではない。言葉遣いの当否と工夫の適切さという2つのレベルの事柄がごっちゃになっているのではないだろうか?

 昨日時間切れで次回回しにした話題はさらに明日に持ち越すことにしようと思う。今日はふだん使い慣れていない頭を酷使して疲れた。

1.10744(2003/07/17) マルクスは実存主義者ではない……と思う

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307b.html#p030717a

 別に誰も待ってはいないはずだが、決まり文句なので言っておこう。
「もうしばらくお待ち下さい」

1.10745(2003/07/20) 円い四角

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307b.html#p030720a

 白黒学派7/17付「続々・『プラトン風』について」について。今日は前置きなしだ。

滅・こぉるさんの7月16日の日記での指摘ですが、うーむ。かなり堂々巡りな気がしてきました。当事者同士しか読んでいないような気がしています。

 今ふと思いついたのだが、もしかして"当事者"の中に笠井潔本人が含まれてはいないだろうか? もしそうだとしても、別に議論の方針を変えることはないが、何となく気になる。
 閑話休題。ここで蔓葉氏が挙げている2つの問いを検討してみよう。

  1. 小説内の言葉にもかかわらず、小説の文脈を無視しして、言葉だけ取り出して誤用か否か判断するのは正しいか。
  2. ある論文で「円い四角」という言葉が使われていた。その論文の論旨を無視して、その用語が誤用か否かを判断するのは正しいか。

 まず前者から。この問いについて私は当然「No」と答える。以前書いたようにあくまでも『サマー・アポカリプス』は笠井潔の創造物であるとみなすべき――少なくともこの議論の間だけはそのように考えているかのように振る舞うべき――である。というのが私の基本的な立場なのだから。小説を小説として読むのでなければ、作者が言葉を誤用したかどうか問いようがない。
 いや、蔓葉氏の問いの意図は別のところにあるのかもしれない。新聞記事でもなく、紀行文でもなく、論文でもなく、日記でもなく、虚構を語る小説の中にあらわれた言葉だという事情を無視していいのかどうか、という問いなのかもしれない。その意味では「一般論としてはNo、ただし今話題になっている件についてはYes」というのが私の回答だ。
 小説の中にはしばしば現実の事物や人物が現実にそうあるのとは違った仕方で現れることがある。そのような場合に、それら(事物や人物)を指す言葉を含む複合表現の意味は、現実にそうあるのとは違ったものであることがあり得る。だが、『サマー・アポカリプス』における「プラトン風の愛」にはそのような特殊事情があるわけではない。プラトンはあくまでもプラトンであり、『サマー・アポカリプス』用の特別仕立てのプラトンはいない。
 また、小説の中でしか通用しない慣用表現が設定されている場合にも注意が必要だろう。「プラトン風の愛」という慣用表現はふつうの日本語にはないが、『サマー・アポカリプス』の作中では"amour platonique"に相当する慣用表現として用いられているとすれば、ふつうの日本語とは別の仕方で取り扱う必要がある。だが――ここで蔓葉氏と意見が食い違うのだが―― 『サマー・アポカリプス』には(日本語の)「プラトン風の愛」がフランス語の"amour platonique"の愚直な訳であると明記されているわけでもなければ、何らかの仕方でそれを示唆しているわけでもない。あの場面で「プラトニック・ラブ」と書いていたなら、確かに雰囲気が壊れていただろう。だが、「プラトニック・ラブ」と書かなかったことが、「プラトン風の愛」が"amour platonique"の意味で用いられていることをほのめかしているわけではない。
 次に、二番目の問いについて。蔓葉氏によればちょっと閑話休題的な別の問いだそうだが、私にはあまり議論の本筋に関わる問いではないように思われる。「閑話休題」という言葉を誤用しているのではないかと思ったのだが、蔓葉氏のことだから、仮にそうだとしても確信犯的にやったことだろう。なかなか気が置けない。まあすべからく言葉は生き物なのだし、この種の話題を語るのに私には役不足なので流れに棹さすことなく先を続ける。
 「円い四角」という表現は、矛盾概念を巡る議論でよく例に出されるものだ。最初に言い出したのは誰なのか私は哲学史の勉強をしていないので知らないが、近現代ではマイノングが有名だ。といっても私はマイノングの論文など読んだことがないので、かわりにラッセルの『指示について』(飯田隆氏を脳内師匠に認定している私としては『表示について』と書きたいところだが……)を挙げておく。蔓葉氏には言わずもがなだが、関係者以外でこの文章を読んでいる人の参考になるかもしれない。
 さて、「円い四角」のような矛盾概念を表す表現、または「黄金の山」のように概念的には矛盾していないが指示を欠く表現については、意味論的にどのように処理するかという難問があり、誤用かどうかという問題に取りかかるのは至難の業だ。もちろん蔓葉氏はそんなことは百も承知で問いを提出しているのだが、論理的意味論について定見を持っていない私にはそう簡単に回答はできない。「Yes」と答えるためにも「No」と答えるためにも、膨大な考察が必要となる。
 そこで私はまず反問することにしようと思う。蔓葉氏がここで念頭に置いている論文は具体的には誰のどういう論文なのだろうか? それとも特に具体例のない架空の論文なのだろうか? どうしてこのように問うのかといえば、私には「円い四角」を使用するような文脈が思い浮かばないからだ。言葉を誤用するためには、まず使用しなければならないが、私の知る限り哲学論文での「円い四角」のあらわれはすべて言及の形であり、使用された事例は知らない。
 もしかしたらフッサールあたりに、「円い四角」を使用した論文があるのかもしれない。その論文のさわりの部分を紹介してくれれば、そこで「円い四角」が誤用されているかどうかについて意見を述べることにしたい。