日々の憂鬱〜2003年7月上旬〜


1.10729(2003/07/01) 殴る蹴るなどしたうえ暴行を

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030701a

 以前、NHKの昼のニュースを見ていたら「××容疑者らは被害者の女性に対して殴る蹴るなどしたうえ暴行し……」とアナウンサーが言っていた。殴る蹴るは暴行のうちには入らないのだろうか、と思った。「スーパーフリー」早大生らを準強姦で起訴 さらに余罪を追及という記事を見て、ふと思い出した次第。
 ところで、「準強姦」というのは、刑法第178条に基づく罪である。

(強制わいせつ)
第百七十六条  十三歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上七年以下の懲役に処する。十三歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

(強姦)
第百七十七条  暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、二年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

(準強制わいせつ及び準強姦)
第百七十八条  人の心神喪失若しくは抗拒不能に乗じ、又は心神を喪失させ、若しくは抗拒不能にさせて、わいせつな行為をし、又は姦淫した者は、前二条の例による。

 第176,177条には「暴行」という言葉が入っているが、第178条には入っていない。準強姦罪事件について参加していた女子大生(20)に無理やり酒を飲ませて泥酔させ、ビルの階段踊り場で集団で暴行した。と表現するのはちょっとおかしいのではないだろうか。

 朝っぱらからディープなことを書いてしまった。もっとディープな記事にリンクしてお茶を濁しておく。

1.10730(2003/07/01) 世界と私と濡れ雑巾

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030701b

 世界と私と濡れ布巾のつもりだったが、なんとなく「布巾」を「雑巾」に変えてみた。
 布巾でも雑巾でもいいのだが、水でべったりと濡れた、滴るようなイキのいい奴を指先で摘んで腕とか胸とか腹などにぺちゃぺちゃと触れるようにするのは非常に気持ち悪い。関西のことばでいえば「気色悪い」。苦痛にのたうち回るわけでもないし、激烈な痒みに七転八倒するわけでもなく、我慢するのは簡単なのだが、それでも不愉快なことにかわりはない。ぎくしゃくとして落ち着きがなくなり、なんとかして払いのけたくなる。
 ときおり私は濡れ布巾がべったりと体に押し当てられているような気がする。もちろんそれは錯覚で、どこにも雑巾はないし、手で払いのけることもできない。そもそも、体の特定の部位にそのような触感があるわけですらない。ただ、どうしようもなく不快で居心地が悪く、このまま世界から逃げ出してしまいたくなるような、情けない気持ちになるのだ。
 でも、どこにも逃げ場はない。私のいる世界はどこまでいっても私のいる世界であり、別世界がどこかにあるわけではない。それに、もしそんな世界があったとしても、今より居心地がよくなるとは限らない。耐え難い苦痛に苛まれているならまだしも、基本的には私の生活は平穏無事で、安穏と怠惰な日々を送っているのだから、今の暮らしから逃れようなどというのは非合理的な世迷い言に過ぎないのだ。
 濡れ雑巾の感触はじきに慣れる。慣れれば別に不快ではない。それまでの辛抱だ。いや、特に無理して辛抱しないといけないというほどでもない。ただじっとしていればいいだけのこと。やがて知らぬ間に不快感は去り、私は再び世界にどっぷりと浸かり込むことができる。
 そのようにして、私は騙し騙し生きてきた。発狂することもなく、引きこもることもなく、自殺することもなく、ある日突然私の前から姿をくらまして二度と再び現れなくなることもなく。たぶんこれからも事態はあまり変わらないだろう。濡れ雑巾の端からぽたりと水滴が落ちても、それで発狂するわけではない。べたっと肌に貼りついても、それで引きこもることもない。ずるずると体中を這い回っても、自殺することはない。濡れ雑巾をストーブで乾かしたときに発する独特の臭気が鼻につくからといって、雑巾の水分とともに私まで蒸発してしまうことはない。たかが雑巾ごときに私の生活がかき乱されることなどないのだ。
 私が発狂したり引きこもったり自殺するとすれば、より大きな衝撃、苦痛、絶望、災厄、恐怖、押しつぶされるような閉塞感に見舞われたときだろう。いきなり理由もなく解雇されて社会的な立場を剥奪されたとき、凶悪犯罪に巻き込まれて血みどろの惨事を目撃したとき、熱烈な恋愛の末に失恋したとき、視力を失い本が読めなくなったとき、聴力を失い音楽が聴けなくなったとき、記憶障害で過去と現在の自分の統一感がなくなったとき、破産して無一文になったとき、もはや何事にも感動できなくなったとき、ネズミに耳を囓られたとき、などなど。
 幸い、そのような不幸にはまだ見舞われていない。このまま命尽きる日まで、何事も起こらなければいいのだけれど。
 そして、もし叶うなら、今私の体に貼りついている濡れ雑巾をどうにかして除去してもらいたいものだ。

1.10731(2003/07/02) プラトニック・ハンバーグ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030702a

 笠井潔の『サマー・アポカリプス』における「プラトン風」という表現の用法についてのK蔓葉論争(この論争の経緯については同時代ゲーム6/30付を参照のこと)について少し考えてみよう。
 その前に「ハンバーグ」という言葉を取り上げてみる。辞書によれば

  1. ドイツの都市ハンブルクの英語読み。
  2. ハンバーグ-ステーキ。

ということだが、現在第一義でこの言葉を使う人は稀だろう。ハンバーグといえば挽肉をこねこねして焼いた料理のことだ。原料は牛肉であったり豚肉であったり、カラスやミミズの肉であったりとさまざまだが、今日の話とは関係がない。重要なのは、「ハンバーグ」という言葉がドイツの都市を指すために用いられることは極めて稀であり、また、この語が"Humburg"の英語読みに由来していることを前提とした文脈で用いられることすらほとんどないということだ。従って、一般には「ハンバーグ=ハンブルク」という等式は成り立たない。
 さて、「プラトニック」についても事情は似たようなものだと私は考える。すなわち、現在の日本ではこの言葉は「プラトン風」(または「プラトン的」)という意味で用いられることは極めて稀であり、一般には「プラトニック=プラトン風」という等式は成り立たない。仮に英米の小説で"Platonic love"という表現が本来の意味で――愛についてのプラトンの見解に言及する仕方で――用いられていた場合に、それを日本語で「プラトニック・ラブ」と訳すのは著しく不適切であり、ほとんど誤訳だといってもいいほどだと思う。それはちょうど"Humburg"を「ハンバーグ」と訳すようなものだから。
 逆に、"Platonic love"が通俗的用法で――愛についてのプラトンの見解を離れて、純粋に精神的な愛を表すものとして――用いられている場合には、素直に「プラトニック・ラブ」と音訳すればよく、わざわざ「プラトン風の愛」などと訳すのはこれまた限りなく誤訳に近い不適切な訳である。
 以上の見解に同意する人もいれば同意しない人もいるだろうが、それは大した問題ではない。次の点を理解してもらえれば十分だ。

  1. 日本語の「プラトン」は哲学者プラトン本人を指す。
  2. 日本語の「〜風」は「〜」に入る言葉が指す対象が備えている要素や、それに類似した状況などを表す。
  3. 従って「プラトン風」という表現は、プラトン本人に言及した上で、その属性などに類似した事柄を指す。
  4. ゆえに、「プラトン風」という言葉の分析は、「プラトニック」という語の意味によって成されるのではなく、プラトン本人に関わる事柄の検討によって成される。

 要するに、「プラトン風」という表現の使い方の適切さを考える際に、「プラトニック」という言葉について考える必要はないということだ。純粋に精神的な愛をプラトンが推奨したのなら、それを「プラトン風の愛」と呼んでいいだろうし、そうでないとすれば「プラトン風の愛」という表現を不適切に用いているということになる。ただそれだけのことだ。
 K氏と蔓葉氏はともに、「プラトン風」を「プラトニック」に読み替えること自体を問題にはしていないようだが、私の考えではその段階で議論にねじれが生じてしまっている。問題は「プラトニック」を「精神的な」という意味で用いることの是非ではないのだから。

1.10732(2003/07/03) Festina Lente

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030703a

 今日は疲れ果てた。明日も朝が早い。もう寝よう……と思ったのだが、砂色の世界・日記(7/2付)を読んで唖然としたので、ツッコミを入れておく。

慣用句と言うものの定義がいまいちわからんのですが、特に文の形態を取るようなもの、例えば「流れに掉さす」は「流れに棹さし」た時、その時のみ真であるのではないのですか?

「流れに棹さす」は文の形態をとってはいない。これは文の一部に過ぎない。従って、真でもなければ偽でもない。
 ところで、鉤括弧が二通りの仕方(前者は言及の括弧、後者は強調の括弧だと思われる)で用いられており、非常に解りづらい。予備知識のない人には上の文はほとんど理解不可能だろう。

むしろ、大勢に従うこと、などということを「意味」として扱うと、不都合が出るのではないですかね。何故なら、実際に流れに棹をさしてないわけですから、この命題はフレーゲ的に言って「意味」がなく、しかし「意義」がある、といわざるを得ないのでは(あの、フレーゲの解釈間違ってたら指摘して欲しいのですが。いまいちわからないので)。

 なぜここでフレーゲに言及しているのか理解に苦しむ。というか、それ以前に「意味」という言葉をフレーゲの用法での"意味(Bedeutung)"の意味で用いているのか、それともふつうの意味、すなわち言葉の意味内容という意味で用いているのかが判然としない。
 ところで、上では文だったはずの「流れに棹さす」が、ここでは命題になってしまっているが、砂雪氏は「文」という言葉と「命題」という言葉をどのように使い分けているのだろうか?

もしもこれに「意味」があるとすると、「流れに棹をさした」時その時、我々は常に大勢に従わなければならなくなる。

 なぜそのように言えるのか、全くわからない。「流れに棹さす」という表現には慣用句としての意味以前に本来の意味があるはずで、慣用句としての意味を認めたからといって本来の意味を否定することにはならないはずだ。「首を切る」という表現は解雇の場合にも用いられるが、人体切断の場合にも用いられる。「首を切る」に解雇という意味があることを認めたからといって、バラバラ殺人のたびに殺人者が誰かを解雇しなければならなくなるということはないだろう。

ただ、慣用句を擁護する立場に立てば、文脈原理を取って擁護できなくも無いだろう。

 フレーゲの文脈原理は、語の"意味(Bedeutung)"または"意義(Sinn)"を文の"意味(Bedeutung)"または"意義(Sinn)"への寄与とみなす考えだ。一つの言葉が文脈によってさまざまな意味で用いられる、というような話ではない。

 まだまだツッコミを入れたい点は多いのだが、眠気に負けそうになってきたので、逐一取り上げるのはやめておこう。ただ一つ、声を大にして言いたいことがある。それは、汝、みだりに哲学者の名を唱えるなかれ、ということだ。このたびの砂雪氏の文章には「ゲーデル問題」や「プラトン的愛」に通じるものがあるように感じたので、偉そうな物言いだとは思うがあえて警告しておく。

1.10733(2003/07/06) ウミガメモドキは実在しないが、スッポンモドキは実在する

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030706a

 ある動物園の爬虫類館での話。
 風采のあがらないにやけた男と若い美女のカップルが亀の前で交わした会話。
「やあ、交尾してるぞ」と男。
「え、ほんと?」と女。
 見ると、確かに1匹の亀の背中にもう1匹の亀が乗りかかっている。だが、ガラスケースが曇っていて、接合部分が確認できない。もしかしたら乗りかかっている亀のほうは前張りをしているのではないか、という疑念もあるのだが、男はホンバンに及んでいることを確信しているようだ。
「うん、確かに交尾してるよ。しかし、不思議だなぁ」そう言って男は首を捻った。「この亀にはせっかく立派な頭があるのに、どうしてそれを使わないのだろう?」
 すると、傍らの美女は「もう、やだぁ」と言った。
 一瞬、私はこのバカップル(というのは失敬か。私の見たところ、女性のほうはわりと知的な雰囲気だった。きっとバカな男のプライドを傷つけないように苦労しているのだろう)に後ろから蹴りを入れてやりたい衝動に駆られた。私がそれを実行しなかったのは、うまく跳び蹴りを決められなさそうな予感がしたからに他ならない。よい跳び蹴りのためには、海老のようにしなやかな身体と瞬発力が必要だ。
 まあ、それはともかく。
 私は動物学の知識が全くないのでよくは知らないのだが、豚の足のことをそのまま「豚足」と呼ぶのだから亀の頭のことを「亀頭」と呼んでも別に構わないのではないか。だが、この――文字通りの意味での――亀頭は、通常我々が「亀頭」と呼ぶものと同じではない。ふつうの意味での亀頭は、男または雄にしか付いていないが、文字通りの亀頭は雌雄の別にかかわらず生きとし生けるすべての亀についている。
 よって、雄の亀には亀頭が2つある……と言ってしまうと、先のカップルの男と同じ愚を犯すことになるだろう。言葉と対象が一対一対応していないのだから、同じ「亀頭」という言葉で指示される器官の個数を足し合わせることはできないのだ。正しくは、こう言うべきなのだ。雄の亀には「亀頭」と呼ばれうる器官が2つある、と。
 同じことを別の例で示そう。3人の警察官が、2頭の警察犬を連れて街中を歩いているのを見かけた反政府活動家が「そこに犬が5匹いる」と言ったとしよう。この発言は――本人は気が利いた台詞のつもりで発したものかもしれないが――論理的には誤謬である。我々は言葉の字面や音に惑わされて、異なる物事を同一視してはいけないのである。もし、警察官と警察犬の数を足したいなら、「そこには『犬』と呼ばれうる生き物が5匹いる」と言わなければならない。「『X』と呼ばれる/呼ばれうるもの」は「X」と同値である場合が多いので、このような言い方は回りくどくて不経済なだけだと思う人もいようが、論理のためには多少の犠牲はやむを得ないのである。
 さて、「豚足」の場合は文字通りの意味と慣用とが一致しているが「亀頭」の場合には不一致が見られるということには異論はないだろう。だが、世の中いつもこのようにうまく割り切れるわけではない。たとえば「猫耳」はどうか。文字通りに解釈すればこれは猫の耳を指すが、これは我々の慣用と一致しているのだろうか? それとも慣用表現としての「猫耳」とは別ものを指すと考えるべきなのか? "萌え"要素の一つとしての猫耳は、男性の生殖器である亀頭が亀の頭と峻別されるのと同じ仕方で猫の耳と峻別されるべきなのだろうか? 「豚足」と同じようにとらえてはいけないのだろうか? これは非常に難しい問題であり、今のところ私はこの問題に対して定見をもつに至ってはいない。
 私がこのアポリアに頭を悩まされている間に、件のカップルは仲良くお手々繋いで爬虫類館を出て、シマウマの檻へと向かっていった。「シマウマの縞って白地に黒なのかなぁ。それとも黒地に白?」などと言いつつ。
 真理の探求を志す者は常に孤独だ。そう実感した土曜日の午後であった。

1.10734(2003/07/07) 孤独について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030707a

 孤独というのはひとりきりということだ。「孤」は「孤立」の「孤」で、「独」は「ひとり」と読むのだから。昔の私は素直にそう思っていた。
 だが、いつの頃からか、孤独はひとりきりの場合に限らないことを知るようになった。群衆の中の孤独。字面だけ見れば、何か矛盾しているような事態が、現実には確かにある。大勢の人々に揉まれて、喧噪の中に浸りながら、「ああ、私は孤独だ」と思うことが一回や二回ではない。子供の頃には考えられなかったことだが。
 もしかすると、群衆の中で孤独を感じるのは成長期特有の現象かもしれない、と思ったこともある。子供から大人になる過渡期には、常識はずれの奇妙な観念にとらわれることもある。孤独は辛くて寂しいことだが、一方では何か特権的な立場であるかのように感じさせてくれるので、知らず知らずのうちにその隠微な優越感を味わいたくて、群衆の中ですら孤独を感じるようになっているのでは、と。
 けれど、思春期を通り過ぎ、精神的にはともあれ社会的には大人の一員になった後も、この奇妙な孤独から抜け出すことはできなかった。いや、それどころか以前に比べても頻繁に寂しさを感じるようになっている。仕事中も休憩時間も、絶え間なしにひしひしと感じる孤独。他人と話をしていても、その感覚は消え去ることがない。
 いったい、これはどういうことなのだろうか? 私には全く見当もつかない。何か概念的混乱のようなものがあって、本来生じるはずのない感覚を味わってしまっているのではないかと思うのだが、その原因も解決方法もわからない。
 ただ、その場凌ぎの対処方法はいくつかある。たとえば、あまりにも人が多すぎる場所はなるべく避けたほうがよい、とか。不思議なことだが、人が多ければ多いほど、私は孤独に耐えがたくなるのだ。もしどうしても群衆の中に身を置く必要があるときには、よく知った人と一緒に行動し、他の人々は無視すること――すなわち、辺りには知人一人がいるだけだ、と思い込むのだ。こうすれば、多少は孤独感が緩和されることもある。
 もう一つの対処方法は眠ることだ。誰しも眠るときはひとりだ。二人またはそれ以上の人々が同じ場所で同時に眠りに就いたところで、眠りそのものを共有するわけではない。眠りがもつこの特性は、孤独を成立せしめる前提条件そのものと相容れないのかもしれない。または、眠りと兄弟である、あの出来事と似ているせいかもしれない。ともあれ、眠っている間は私は孤独から逃れることができる。寂しくて切ない夢をみることもあるが、所詮夢は夢、現実ではない。
 本当は、他人とのふれあいを通じて、自分の位置をしっかりと固めて、孤独が忍び寄る余地をなくすべきなのだろう。しかし、私にはそのような抜本的対策は無理なような気がする。だが、「一人でも二人でも孤独は孤独だ。しかし、二人で孤独を分かち合えば、一人で孤独を全部引き受けるよりは幾分は堪えやすい」という先人の言葉(誰の言葉だったか覚えていない。いろいろ検索して調べてはみたのだが、わからなかった)には一分の理があるのではないかと思う。

 ウェブ上での活動についての話につなげていきたかったが、うまくまとまらなかった。今日のところはひとまず眠ることにする。
 ああ、日付が変わってしまった。今日は七月七日、七夕だ。太陽暦ではまだ梅雨明け前のことが多いから、織姫・彦星の両人にはたまらないだろう。さて、今年はどうだろうか? 雨が降らなければいいのだが。

1.10735(2003/07/07) 1590年10月16日ヴェノーサ公カルロ・ジェズアルドはその従妹にして妻であるマリアと彼女の愛人ファブリツィオ・カラファの密事の場に踏み込み二人を殺害した

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030707b

 ヘイ・ブルドッグのアンテナで「たそがれSpringPoint」がSF・ミステリー・活字・映画・音楽などではなく知的刺激とその他の趣味に分類されているのを知ったときはショックだった。だが最近ミステリの話題をあまり扱っていないから仕方がないといえば仕方がない。そこで一念発起して『死が招く』(ポール・アルテ/平岡敦(訳)/ハヤカワ・ミステリ)を読んでみた。
 あまり面白くなかった。
 二階堂黎人の解説はテンションが高くて楽しめたのだが、残念ながら本篇のほうはさほど楽しめなかった。その理由はいろいろと考えられるのだが、やはり「フランスのカー」という宣伝文句のせいで期待しすぎたせいだと思う。一年前に『第四の扉』を読んでいるので、アルテの作風はある程度わかっていたはずなのだが……。「フランスのカー」ではなくて、「フランスのロースン」だったなら、これほどがっかりすることはなかっただろう。解説でもトリックに関して言えば、カーは力ずくで物理的な作用による欺瞞を得意とする。アルテは、ややロースンのような奇術指向である。と書かれているのだから、今後は「フランスのロースン」と言ってほしいものだ。
 どこがどうつまらなかったのかをいちいち述べるのもどうかと思うが、どうにも解せない点を一つだけ指摘しておこう。それは叙述がアンフェアだということだ。密室殺人が起こり主要登場人物が大方紹介された段階で、たいていの読者はある登場人物に着目することだろう。私は「トリックはよくわからないけれど、この人物が犯人っぽいな。でも本当にこいつが犯人だったらフェアじゃないから嫌だな」と思いながら読んだのだが、解決場面でまさにその人物が犯人だと名指しされたので、大いにがっかりした。
 どこがどうアンフェアなのかをいちいち述べるのもどうかと思うが、一箇所だけ挙げておこう。冒頭付近のあとで父親の手紙を見せれば、彼女も理解してくれるはずだ。という一文は、よほど捻った解釈を施さない限り、虚偽の記述とみなさざるを得ない。なぜなら、そこで言及されている手紙を書いたのはハロルドではないし、その時サイモンがハロルドの手紙だと信じているわけでもないからだ。つまりこの文は客観的記述と解釈しても主観的記述と解釈しても事実に反していることになる。
 ありきたりで意外性のかけらもない犯人像とあからさまにアンフェアな記述のダブルパンチで私はすっかりノックアウトされてしまった(ついでに言うと、127ページ上段の一行空きの前後にもうんざりした)が、それでも肝心の密室トリックが面白ければそれなりに評価できる。だが、犯人の名につづいて明かされた密室トリックは全く魅力的ではなかった。
 この密室トリックについて(゜(○○)゜) プヒプヒ日記(6/25付)に次のようなコメントが記されている。

あと、現場はそもそも密室なのか?という根本的な疑問もある。本書p.179には「そして窓から外に出て玄関ホールにまわり、ドアを破ったのです」と書いてある。つまり死体発見の直前には犯行現場の窓は鍵が掛かっていなかったのだ。

 ドアを破って差し金を壊したときに窓の鍵をかけたのだろうから、死体発見時にはいちおう密室状態だといっていいだろうとは思うが、もしかすると私の解釈が間違っていて、何らかの方法で死体発見後に窓の鍵をかけたのかもしれない。ツイスト博士の絵解きは説明不足で、どうにも釈然としない。
 読んで損をしたと思うほどの駄作ではないし、このようなミステリが現代のフランス(といってもこれは1988年の作品だが)で書かれているというだけでも注目に値するので、引き続きアルテが訳されるようなら読むつもりだ。だが、今度こそ「フランスのロースン、フランスのロースン」と自分に言い聞かせながら読むことになるだろう。
 期待しなければ裏切られることもない。

1.10736(2003/07/08) 不安について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030708a

 やあやあ、遠くからよく来たね。まあ、ゆっくりしていってよ。
 えっ? 「東京タワーが噴火するといけないから、あまり長居はできない」って? あはは、おかしな事を言う人だね、君は。
 うん、今日はそんな君のために、ひとつ寓話を話して聞かせよう。何、そんなに長い話じゃないよ、安心しなさい。

 むかしむかし、あるところに心配性の男がいた。いや、女だったかもしれない。まあ、どちらでもいい。
 彼もしくは彼女は、いつも不安にとらわれていた。明日、いや今日にでも自分の身に災厄が降りかかるのではないか、大病を患い、財産を奪われ、無実の罪を着せられ、不幸のどん底に陥るのではないか、と。そんな事ばかり考えているものだから、夜も眠れず、食欲も減退し、日に日にやせ細っていったものだ。
 さて、ある夜、彼もしくは彼女は、ボロ切れのような布をまとい、ぼさぼさの髪を振り乱し、落ちくぼんだ瞳を光らせて、人っ子ひとりいない野原を徘徊していた。特に目的があったわけではない。ただ、自分の家でじっとしていることがどうしてもできなかったのだ。
 野原の真ん中で、彼もしくは彼女は一匹の兎が罠に引っかかってもがき苦しんでいるのを発見した。まるで今の自分自身のようだ、と彼もしくは彼女は思った。兎を憐れんだ彼もしくは彼女は罠を壊して兎を助けてやった。
 すると兎はいきなり人の言葉を話しはじめた。「私を助けて下さって有難うございます。実は私は菩薩のしもべで、心優しい人々の助けとなるために地に遣わされた者です。菩薩の慈悲により、今後あなたは予期せぬ災いに遭うことがありません。大病を患ったり、財産を奪われたり、無実の罪を着せられることは決してないのです。あなたがそのような疑念に駆られさえしなければ。さあ、早く家に帰ってやすみなさい。あなたの明日は明るい光に満ちていることでしょう」
 そして兎はぴょんと跳ねたかと思うと空高く舞い上がって見えなくなった。
 それから彼もしくは彼女はどうなったか? 幸福な人生を送ったのか? そうはならなかった。彼もしくは彼女は以前にも増してさまざまな不安に囚われ、苦悩のうちに衰弱して一生を終えたのだ。彼もしくは彼女は死の直前まで「今自分が抱えている不安は現実の災厄を招きよせてしまうかもしれない。だから考えるのをやめるのだ。考えさえしなければ菩薩の遣いが言ったとおり私は一切の災厄から免れるのだから、恐れてはならない、おびえてはならない、決して悪い事を考えてはならない……」と唱え続けていたものだ。

 というわけで、この話はおしまいだ。物事をあまり悪く考えすぎてはいけないということだ。
 えっ、もう帰るのかい? 残念だな、久しぶりだったのに。でも君にもいろいろと都合があるだろうから仕方がないね。
 もう夜も更けたから気をつけて帰ったほうがいいよ。そうそう、東京タワーにはあまり近寄らないほうがいいかもね。いきなり噴火すると困るから。
 じゃ、さようなら。

1.10737(2003/07/09) 奈良県は「ナ」、和歌山県は「ワ」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307a.html#p030709a

 ここを見て、ふと思い出した。意味がわからない人は県章・市章ダウンロードを凝視すべし。「ワ」は平凡だが、「ナ」は186(一服中)氏とは別の意味で、ちょっと感動するかもしれない。
 ところで186(一服中)氏の師匠のほうを見ると、2点ほど気になる箇所があった。
 まず1点め。

飛び地である北山村が三重県に吸収されるのは何故か辛い。
北山村は三重県内にあるけど、昔は交通手段が川だったので、歴史的に下流の和歌山と繋がりが深く、故に廃藩置県後も和歌山に所属した。この珍奇な土地は僕の中で上位にランクするご当地自慢。吸収されたら露骨に辛い。

 現在では日本唯一の飛び地の村である北山村は熊野川の支流である北山川の北西に位置する。北山川を挟んだ対岸は確かに三重県だが、陸続きで接しているのは奈良県だから、「三重県内にある」とは言い難いと思う。ちなみに北山川の上流には下北山村、さらにその上流には上北山村があるが、どちらも奈良県だ。
 この辺りの県境は複雑に入り組んでいて、地図を見ているだけでなかなか楽しい。たとえば北山川に沿って走る国道169号は、和歌山県(熊野川町)〜奈良県(十津川村)〜和歌山県(熊野川町飛び地)〜奈良県(十津川村)〜和歌山県(北山村)〜三重県(熊野市)〜奈良県(下北山村)というふうに何度も奈良県に出たり入ったりする。あまりにややこしいので、熊野川町飛び地(旧玉置口村。北山村と同じく奈良県と三重県に挟まれている)と北山村の間の奈良県区間は奈良・和歌山両県の協定により、和歌山県が道路管理を行っている。また、和歌山・三重県境の七色ダム堰堤区間は和歌山・三重両県の協定により、5年ごとに交替で管理している。国道169号は道路マニアにとってはたまらない路線なのである。
 閑話休題。もう1点はこれ。

南北3,4kmを結ぶ、日本一短い路線「紀州鉄道」の学問駅の切符を受験のお守りに持っていたことがある。
個人的に神頼みはしない主義。でも友達はやってた。

 ここには2つの誤りがある(ナカガキ氏が間違えたのではなくて、原文の段階で既に間違えているのだが)。1つは紀州鉄道の営業キロ数だ。今、手元の時刻表で確認したところ御坊〜西御坊間2.7kmだった。面倒なので調べていないが、3.4kmというのは現在は廃線の西御坊〜日高川間を含む延長ではないかと思う。もう1つの誤りは駅名で、「学問」ではなく「学門」が正しい。学校の門のすぐ前に駅があるらしい。ちなみに、有栖川有栖の『海のある奈良に死す』では、学門駅の存在を無視している(たぶん作者が知らなかったのだろう)ためロジックに飛躍が生じてしまってる

 今日は『マリア様がみてる 涼風さつさつ』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)の感想文を書こうと思ったのだが、あまりにも暑くて頭が回らない。

 好き好き大好きっ経由で『涼宮ハルヒの憂鬱』の激烈な批判好き好きおにいちゃん!)を読んだ。

私は、涼宮ハルヒを、涼宮ハルヒを評価し肯定する全ての人々を、
全身全霊を持って否定する。
彼等は、魂の奴隷だ。
自らの意思で奴隷であることを望み、
そして、また世界の全てが奴隷であることを望む人々。

彼等こそが、世界の敵だ。

 す、凄い。言え!馬鹿者どもめが。何にそんなに怯(おび)えているのだ。何がそんなに恐いのだ。以来の衝撃だ。
 ところで、以下、余談ですが、上記の2著書について色々とぐぐってたら、笠井潔氏が、私と同じようなことを述べていて、びっくり。ということばに続いて笠井潔の『地球平面委員会』評の一節が引用されているのだが……これは笠井潔自身のことばではないと思う。

 笠井潔繋がりで「プラトン風」について白黒学派)について考えてみる。実はこれが今日の本題なのだが、上で述べたとおり暑くて頭が回らないので簡単に済ませる。
 蔓葉氏は次のように言う。

またその一方で日本語として意訳すること、たとえばまさに「精神的な愛」とすることも避けたことでしょう。それでは本来のフランス語の言葉から離れすぎてしまうから。そして、削除という選択肢は作者には残されていません。なぜなら作中の登場人物は確かにamour platoniqueと発言したからです。作者ではなく作中人物の思いや行動を読解していくのは僕の基本的なやり方なので、そのような作者の特権的な方法を認めるわけにはいかないのです。そこで、翻訳としてのぎこちなさをわざとそこに残すのが、フランス語のニュアンスを一番残すにはふさわしいと考えたのだと思います。冗談ですが、むしろ作家の特権性を剥奪するためにもそうしたのかもしれませんが。

 身も蓋もない言い方をすれば、「作中の人などいない」。従って、作中の登場人物が"amour platonique"と発言したという事実もない。作者は意訳をする必要もなければ、削除する必要もないし、フランス語のニュアンスを残すために工夫する必要もない。全ては作者の掌のうちにあるのだから。
 これは文芸批評の方法に無知な人間の粗野な読み方に過ぎない、と批判されるかもしれない。実際、私は批評理論をよく知らないので、そう言われれば返す言葉もない。
 だが、そんな私でも蔓葉氏の議論に疑問を呈することくらいはできる。氏は一方では作者の特権性を否認しつつ、作者に翻訳者の地位を与えることで特権性を密導入しているのではないだろうか。蔓葉氏の立場を徹底するなら、『サマー・アポカリプス』はナディアが日本語で書いた記録だと解釈すべきだろう。それとも、日本語の『サマー・アポカリプス』に先立つフランス語の原テキストが存在するという示唆がどこかにあっただろうか?

 う〜ん、うまくまとまらない。頭を冷やして後日出直すことにしよう。