日々の憂鬱〜2003年6月下旬〜


1.10715(2003/06/21) 愛とは決して覆水盆に返らないこと

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030621a

 好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!! (←リンク先はこの記事とは無関係です)
 ああ、とうとう言っちゃったよ。もう何がなんだか……。

 しばらく旅に出ます。探さないで下さい。

1.10716(2003/06/23) 松平健

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030623a

 例によって見出しは本文と何の関係もない。

1.10717(2003/06/23) 急行「平安」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030623b

 あまり大したネタもないので、ニュースへの言及でお茶を濁しておこう。

 ひとつめ。近鉄列車妨害の男、「JRが好き」だった… 「三重県では近鉄がJRを圧倒しているので…」
 世間一般の人々は、「こんな動機でなんでまた……」と嘆息することだろうが、私にとっては「ま、こんな人もいるわな」という程度である。列車妨害は決して許してはならない犯罪だが、ある種の人々は理性では抑えきれない狂熱を抱いているものだ。
 むしろ私が不思議に思ったのは、記事の中に八王子線と内部線(どちらも日本では数少ないナローゲージ路線として有名だ)が出てきたことだ。どうしてこれが不思議かというと、八王子線も内部線もJRと全く競合していない路線だからである。つまり、両線の列車をいくら止めたところで、JRの客を増やすことにはならない。
 犯人の意図が単に近鉄の利用客を減らすことにあったのなら、別にJRとの競合路線に拘る必要はないのだが、これはあまりにも後ろ向きな発想ではないだろうか。問題は要するに三重県内ではJRが近鉄に負けているということ――複線化や快速列車の増発などでかなり頑張っているとは思うのだが――にあるのだから、その解決策は決して近鉄の客を減らすことではなく、JRの利便性をさらに高めて乗客を増やすことにあるのではないだろうか。
 そのためには、国鉄末期の「線名マジック」により第三セクター化されてしまった伊勢鉄道をJRに合併するなどの方法で初乗り運賃を別途徴収しないようにすること、関西本線の残存する単線区間を一掃すること、そしてフリーゲージトレインにより新在直通運転を実現することなどの手段が考えられる。
 特に新在直通運転は効果的である。東京発伊勢市行きの「ひかり」(または多紀で分割して紀伊勝浦行きを設定してもよい)により、単に所要時間が短縮されるだけでなく、関東方面の人々に伊勢志摩の魅力をアピールすることにもなり、一石二鳥である。経営難に苦しむスペイン村にとっても福音となるだろう。
 こんな事を言うと「そんなのは空想に過ぎない。フリーゲージトレインの技術はまだ開発途上だし、非電化区間をどうするのか」と言う人もいるが、やって出来ないことはないのである。また仮にどうしても新幹線から関西本線・紀勢本線への直通が無理だということになっても、近鉄名古屋線を使うという手もある。近鉄は新幹線と同じ標準軌なので、フリーゲージトレインである必要すらない。山形・秋田新幹線で用いているいわゆる「ミニ新幹線」車両を近鉄用にアレンジするのはたやすいことだ。
 ただ、この方法だと近鉄がますます優位に立ってしまうので、JRとしても敵に塩を送るような真似はしたくないから二の足を踏むだろうが、今や敵は高速道路なのだから鉄道会社同士がいがみ合っていても仕方がない。もちろん競争は大事だが、協力しあうべき場面ではしっかりと連携をとって、より便利で快適な鉄道ネットワークを実現しなければならないのだ。

 ああ、いい加減な文章を書くのは楽しいなぁ。

 もうひとつのニュース。子どもの名前に「曽」OK 規則は不可、司法は容認
 子供(私は「子ども」という表記を用いないことにしている)の名前に使える漢字は常用漢字と人名用漢字に限られるというのは常識中の常識で、そのどちらにも属さない漢字が名前に含まれていたために偽名だと判明する、というネタのミステリもあるくらいだが、札幌高等裁判所の今回の判決はそのような常識を覆すものであり、まことに憂慮に堪えない。これから佐野洋はどうすればいいのか。
 戸籍法(昭和二十二年十二月二十二日法律第二百二十四号)で人名に使える漢字を規定しているのは第五十条だが、この条文を平たく言い換えれば「子の名には、法務省令で定める範囲の文字を用いなければならない」ということになる。「常用平易な文字」という文言は第一項と第二項を論理的に繋ぐ役目しか持たず、その表現そのものの意味をあれこれ詮索してみてもはじまらない。でもって法務省令(戸籍法施行規則は司法省令だが、そのような細かいことを気にしていてはいけない)で定めた人名用漢字の中には「曽」は含まれていないし、もちろん常用漢字でもないのだから、「曽」は人名には使えない……はずなのだが、なぜこのような一目瞭然の論理的帰結に反した判断を下すことができるのだろうか? 記事を見た限りでは、戸籍法が違憲だという判断をしたわけでもなさそうだ。
 法律の世界には私のような門外漢には立ち入ることができない深淵がある。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。

 昨日は更新しなかったので、アンテナ経由のアクセスがぐっと減ったので、検索エンジン経由のアクセスの割合が高く、アクセスログにもいくつか残っていた(私の使っているアクセス解析サービスではユニークビジターのログは最新20件しか表示されないので、アンテナからのアクセスが多いとそれ以外のアクセスログが埋没してしまうのだ)。
 複数の検索エンジンで「二階堂奥歯」で検索して「たそがれSpringPoint」にアクセスしているのがわかり、ちょっとびっくりした。昨日に限って「二階堂奥歯」での検索が多かったということはないだろうから、たぶん毎日数人はこのキーワードをもとに私のサイトを訪れているのだろう。
 それぞれの検索エンジンでいったい何位くらいにランキングされているのか知りたいと思う一方、何となく知らないままのほうがいいような気もする。

 ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー。

1.10718(2003/06/24) アメリカ風アフォリズム

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030624a

 目には目を
 地には平和を
 歯には歯を

1.10719(2003/06/24) 学校へ行こう

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030624b

 「よたろうくん」漫画家の山根赤鬼さん死去(情報もと:カトゆー家断絶
 ちなみに、『名たんていカゲマン』の作者は山根青鬼のほうだ。

 昨日の記事で、子どもの名前に「曽」OK 規則は不可、司法は容認というニュースを取り上げ、次のように述べた。ちなみに原文には強調はなく、私が勝手にしたことだ。原文を書いたのも私だから、どうでもいい補足だが、念のため。

 戸籍法(昭和二十二年十二月二十二日法律第二百二十四号)で人名に使える漢字を規定しているのは第五十条だが、この条文を平たく言い換えれば「子の名には、法務省令で定める範囲の文字を用いなければならない」ということになる。「常用平易な文字」という文言は第一項と第二項を論理的に繋ぐ役目しか持たず、その表現そのものの意味をあれこれ詮索してみてもはじまらない。でもって法務省令(戸籍法施行規則は司法省令だが、そのような細かいことを気にしていてはいけない)で定めた人名用漢字の中には「曽」は含まれていないし、もちろん常用漢字でもないのだから、「曽」は人名には使えない……はずなのだが、なぜこのような一目瞭然の論理的帰結に反した判断を下すことができるのだろうか? 記事を見た限りでは、戸籍法が違憲だという判断をしたわけでもなさそうだ。

 このときの私の考えはどうも単純過ぎたようだ。後から考えてみると、戸籍法第五十条の構成を解釈しそこねていたように思われる。

第五十条  子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。
○2  常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。

 なぜ、第五十条は二項から成るのか。単に「子の名には、法務省令で定める範囲の文字を用いなければならない」ではないのか。
 私が考え直して得た解釈はこうだ。子供の名前をつけるときに、特殊な文字や難解な文字を使うと本人の社会生活にも支障が出てくるし、周囲の人々の迷惑にもなる。だから、名前に用いることができる文字を常用平易な文字に限定するのが、第五十条の趣旨である。この趣旨は第一項のみで言い表されている。しかし、社会通念上明らかに常用平易な文字と、明らかにそうでない文字の間に、常用平易とも言えるし、そうでないとも言える曖昧な文字群が存在する。そこで、実務上の混乱を避けるために、法務省令で線引きをすることにしたのが第二項である。つまり、第二項中「これを定める」は、全く白紙状態から「常用平易な文字」という文言の意味を新たに創設するのではなくて、既に「常用平易な文字」という文言の意味が了解されているという前提の下でその曖昧さの除去を図るということなのだろう。すなわち、法務省令に委任されているのは、「常用平易な文字」の規約的定義ではなく、解明的定義なのである。
 この解釈によれば、法務省令は常用平易な文字の範囲について特権的な立場にはなく、その定義そのものが真偽判断の対象となり得る。なるほど「曽」は人名用漢字には含まれていないが、だからといって直ちに「曽」が常用平易な文字ではないということになるのではなく、逆に「曽」を人名用漢字に含めていない戸籍法施行規則のほうが誤っている(つまり、戸籍法施行規則に違法性がある)と判断する余地がある。
 ところで、この問題については、全然別のレベルで裁判所の判断に疑問が残る。というのは、「曽」が常用平易な文字であることを示す3つの根拠

  1. 「曽」の字は古くから用いられている
  2. 中曽根や曽我、曽野などの名字や、河川名の木曽川は広く国民に知られている
  3. 国内には「曽」の字を含む地名が300以上ある

は、「曾」については成立するが「曽」についても成立するかどうかは不明(特に1)だからだ。何しろ、この漢字は当用漢字でもなければ常用漢字でもないのだから、「『曾』は旧字体で『曽』は新字体」とは言えないはずだ。あくまでも「曾」が正字体で「曽」は単なる俗字・略字である……と思うのだが、この辺の事情にはあまり詳しくないので、ご存じの方はぜひ教えていただきたい。また、ウェブ上のテキストで「曾」が「曽」に置き換えられたのだとすると、私の疑問は空回りすることになる。他のソースから情報を収集する気もないので、これ以上深入りするのはやめておこう。
 それにしても、本当にどうでもいいことを長々と書いてしまった。法律関係に詳しい人にとっては「何を今さら」(いや、もしかすると「何トンチキ言ってやがる」かも)なことだろうし、あまり一般受けする話題でもないだろうし。

 今、『学校を出よう!』(谷川流/電撃文庫)を読んでいる。同じ作者の『涼宮ハルヒの憂鬱』(スニーカー文庫)に比べるとあまり話題になっていないようだが……やはりキャラの個性の強さの差だろうか。

 ぴぴるぴるぴるぴぴるぴー。
 トップ返り咲きの野望をひそかに後押し。

1.10720(2003/06/25) 同行二人は一人旅

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030625a

 では、二人で旅する場合は同行何人になるのだろうか?
 一説によれば、同行四人になるという。一人で同行二人なのだから二人だとその倍だ、という理屈である。だが、この説には批判も多い。批判者たちは口を揃えて「弘法大師は一人しかいない」という。だから、同行三人が正しい、と彼らは主張する。
 けれども同行四人派はこの批判に次のように反論する。「お遍路さんのそれぞれに弘法大師がついているのだとすれば、弘法大師複数仮説をとらざるを得ない。だったら、二人旅が同行四人であってもいいではないか」と。
 この反論に対して同行三人派の人々は再反論する。「弘法大師単数性のテーゼはお遍路さんひとりひとりに弘法大師がついていることを否定するのではなく、ただ同一行程に弘法大師が一人しかいないと主張するだけである。よって二人旅の場合には、やはり一人の弘法大師がついて同行三人になると言うべきである」
 一見したところ、弘法大師が複数存在することを素直に認める同行四人派の主張のほうが、「一にして多」という矛盾に満ちた主張に拠る同行三人派の主張より受け入れやすいように思われる。だが、我々は少し考えれば単数にして複数であるような存在者の例を容易に思いつくことができるだろう。たとえば、浦安ネズミ園及び同ネズミ池に巣喰う、甲高く耳障りな声で笑うあのネズミがそうだ。彼は一匹しか存在しないし、彼の恋人(恋ネズミ)も飼い犬もそれぞれ一匹ずつしかいないということになっている。
 米国著作権法に守られてぬくぬくと暮らすネズミごときですら、「一にして多」を実現しているのだから、万物の霊長たる我々人類に不可能なはずはない。そうも考えられるのではないか。
 ただし、このように言うことは、必ずしも同行三人派の主張を受け入れるということに直結するわけではなく、同行四人派の考えも同じ程度に支持されることは言うまでもない。
 最後に、学界ではほとんど顧みられていない異端説を一つ紹介しておこう。二人旅でも同行二人である、という大胆な説だ。二人の旅人は互いに相手に弘法大師の姿を重ね合わせてみる、という考えで、俗に「重ね合わせ説」と呼ばれている。この説がなぜ異端かというと、三人以上で編成されたパーティーの場合に、自分以外のメンバーのうちの誰に弘法大師を重ね合わせるかについての明確な基準を持たないからである。重ね合わせの対象は不定であり、観測によって初めて確定する、というのが重ね合わせ説論者の公式見解だが、直観的に了解しがたい考え方であると思われる。

1.10721(2003/06/26) もはや死を待つのみ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030626a

 見出しとは全然関係ないが、日本には消費税という税がある。知っている人にとっては釈迦に説法だが、今の税率は4パーセントだ。もう一つ、地方消費税というのもあって、こちらの税率は1パーセントだ。日本全国、北は北海道から南は沖縄まで、地方消費税率は今のところ同じだが、いつまでもそうであるとは限らない。もしかすると、近い将来に、地方公共団体の財政状況に応じて税率が違うようになるかもしれない。
 そうなると、出版物に地方定価が復活するかもしれない。こんな事が許されていいのかっ!

 見下げ果てた日々の企てのtopicsで、書影使用して書評書いてるのも厳密にいえばグレーゾーンなんじゃないかと思われます。と書かれているのを読んで、ちょっと気になった。別に著作権法がどうこうという話ではなく(たぶん第三十二条で認められた「引用」の条件を満たしていないと思うが)単に厳密にいえばグレーゾーン、という言い回しがひっかかっただけだ。
 きっと私は疲れているのだろう。

 精神統一すれば、剃髪少女に萌えることも可能だ……と思うが、私はそこまでマニアックではない。

 メモ:コミケで『勝ち組』になるために
 今夏から臨時大垣夜行も全席指定の「ムーンライトながら91・92号」になったが、これが吉と出るか、凶と出るか。
 しかし、コミケで2000円札が便利だとは意外な盲点だった。

 日頃起伏に乏しい砂を噛むような生活を送っていると、感情の波に対する耐性が極端に落ちてしまう。極度の不安と緊張、そして気分の高揚の後に、ずんと重い鬱が忍び寄ってきた。今このような文章を書くのも辛いのだが、何でもいいから書き続けていないと押しつぶされそうだ。
 こんな気分の時にはのんびりと温泉にでもつかりたいものだ。

1.10722(2003/06/27) ゲーデル無問題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030627a

 ごくたま昨日日記経由で哲学者占いをやってみた。

あなたはオーストリアの論理学者 ゲーデル です。

類まれな精神力と思考力を持ったあなたは,深い
洞察のもとさまざまな発想を得るので,まわりに
尊敬されています。独自性を発揮し我が道を行くと
歴史に残るほどの偉業をなしますが,理解される
のに時間がかかることもあります。

 言うまでもなく私はゲーデルではないし、オーストリアの論理学者でもない。私は日本のウェブサイト管理人 滅・こぉる である。
 よって、この占いは間違っている。
 ついでに哲学者ランキングも見た。私が見たときには1位がニーチェ、2位がソクラテス、3位がウィトゲンシュタインだった。
 新規にモークシャーカラグプタを追加してみようかと一瞬思ったが、いい理由が思いつかなかったので、クワインに投票しておいた。

1.10723(2003/06/27) カラスと子犬

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030627b

 CAPRICE CENTER(6/23付)から。

 カラスたちが「カー、カー」と繰り返すのは聞き飽きた。ちなみに子犬は「クイーン、クイーン」と鳴きます。

 カーやクイーンのファンが読んだら怒るだろうな、とは思うが、自分が愛する作品への感情移入が過ぎる人々への警鐘としては傾聴に値するだろう。もっとも、翌6/24付の文章を読むと、福井氏の標的はむしろ対象作品への愛に仮託した自己愛に浸る人々であるようにも思われる。さらに〈本格被差別史観〉というキーワードについてもいろいろと考えさせられる。以前、私が何となく思いついた「昭和中後期本格推理闇黒時代史観」との異同も検討してみたいところだ。
 ただ、福井氏の文章には、ある種の読者の発言に対する批判と心性に対する批判が入り混じっていて、腑分けが難しい。しばらく様子をみることにしたい。

 同時代ゲーム(6/25付)から。

 そういえば、先日弟が「"H(エッチ)"は"変態(性欲)"の短縮形なのだから、"Hする"という活用の仕方はおかしい!」と憤慨していた。さすが、わが弟。目の付け所がずれている。

 ちょっとずれたコメント。日本語には「変態する」という動詞がある。たとえば、昆虫は幼虫から蛹へ、蛹から成虫へと変態する。グーグルで検索してみると、約1670件あった。もちろん昆虫などの変態と変態性欲は別の事柄だが、全く関係がないわけではない。たとえば千街晶之「抑圧から解放へ」では、「変態」の二義を重ね合わせて『変態』(藤本ひとみ/文藝春秋)を分析している(私はこの小説を読んでいないので、この分析が千街氏の独自の視点に基づくものなのか、誰もが体感する自然な読みなのかはわからない)。

しばらく前から『学校を出よう!』(谷川流/電撃文庫)と並行して『日本の童貞』(渋谷知美/文春新書)を読んでいた。二冊の本を並行して読むのは邪道だと思うのだが、私は飽きっぽいたちなので、よくこのような読み方をしてしまう。おかげでたかが新書一冊に一週間以上かかってしまった。
 それはさておき、この本の第四章は「女の童貞、男の童貞――「童貞」という言葉の変遷」と題されている。昔は「童貞」は女性に対して適用される言葉だったのが、次第に男性にも用いられるようになり、1970年代以降は男性限定になった、と書かれている。ただ、ある限定された局面では、1970年代以降にも「童貞」が女性に適用された例があることを私は知っている。それは音楽のタイトルで「童貞マリアの晩課」である。調べてみると「童貞マリアのミサと晩課」というタイトルで1976年にLPが発売されているようだ。同じ演奏かどうかは知らないが、私は1980年代の終わり頃に「童貞マリアの晩課」というタイトルのCDをレコード店で見た記憶がある。
 さすがに今ではこの訳題が用いられることはなく、「聖母マリアの夕べの祈り」で定着している。原題は"Vespro della Besta Vergine"、クラウディオ・モンテヴェルディの名曲だ。
 ちなみに日本語の「処女」はもともと独身で在宅の女性を指す言葉で、性経験の有無とは直接関係はなかった。覚えておいて損はない豆知識だ。別に得にもならないけれど。

1.10724(2003/06/28) 読まれる本・読まれない本

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030628a

 今、『考える脳・考えない脳』(信原幸弘/講談社現代新書)を読んでいる。同じ著者の『心の現代哲学』(勁草書房)は最初の数ページを読んだだけで積ん読状態になっているが、こちらは新書だからなんとか全部読むつもりだ。

 UNCHARTED SPACEの6/26付の記事で、社会派の時代のミステリがなぜ読まれなくなっているかという問題について社会派だからとかそういったこととは、既に別の理由によって「読まれていない」だけなんじゃないか、と考えるのだ。 と書かれていた。その日の記事はそこで終わっているが、きっと続きがあるだろうと思って待っていると、果たして6/27付の記事で、読まれない理由についての仮説が提示されている。

・昨日の話の続き。〈社会派〉隆盛当時の推理小説が、「読まれていない」理由なんだけれども、結局色んな意味で「古い」ってことに尽きるのではないか。「古い」ことによる蓄積、「古い」ことによる選択の困難、「古い」ことによる中身の古くささ ……といったこと全般。入手の難しさはとりあえず置いておくとして。

 「古い」ことを読まれない理由に挙げると、直ちに「じゃあ、それ以前のミステリはもっと読まれていないはずでは?」という反論がでてくる。だが、これに続く説明を読むと、フク氏が単なる時間的経過を理由に挙げているのではないことがわかる。以下、私見を交えて、フク氏の考えを展開(歪曲?)してみる。
 社会派華やかなりし時代は同時にミステリの大衆化が進んだ時期でもあり、経済の高度成長とも相まって多くのミステリが出版された。作品数が増えると個別作品の相対評価が下がるこは避けようがない。探偵小説の時代の作品に比べて後世に語り継がれる作品が少なくなるのも当然といえる。
 また、書かれている風俗の古くささという点では、戦前戦後の小説のほうがより古びているはずだが、古くささがきわまるかかえって新鮮な印象を読者に与えることができる。たとえば、戦前の超特急「燕」にはセピア色の浪漫があるが、新幹線0系車両にはそのような浪漫はない。
 では、新幹線開業前夜の特急「こだま」はどうか? 色褪せた総天然色の余情はそろそろ現代人の興趣をかき立てはじめているのではないだろうか。そう考えると、いまこそ昭和30年代の推理小説復権の時期だとも思われる。絶対数が多すぎて良作を選び出すのが難しいという問題はあるが。
 今20歳前後のミステリ読者は「新本格推理」初期作品を読んでいない、という話に愕然としたことがある。かつては一世を風靡した潮流も既に過去のものとなりつつある。それ以前の作品はより悲惨で、「幻影城」出身作家すら「清張以降・綾辻以前」という括りの中に無造作に押し込められている。光あれば陰あり。万物は流転する。
 あと20年くらい後には、「今こそ清涼院流水を再評価すべきだ」と主張する人が現れるかもしれない。その頃、江戸川乱歩は文庫で読めるだろうか。木々某の名前は忘れられていないだろうか。松本清張は単なる「清張以前・以後」の基準点に堕してはいないだろうか。そして20世紀最高の推理作家は「鮎川哲也? 誰?」などと言われていないだろうか。

1.10725(2003/06/29) 脳内恋人と幸せ増幅装置

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030629a

 if → itself(6/27付)から。

幸せは分け合うと大きくなるもの、そして不幸せは分け合うと小さくなるものだと小さい頃に教わった。それが本当ならば、いろんな人の幸せや不幸せが毎日のように垂れ流されてリンクしたりされたりしているこの世界は、幸せ増幅器として機能しているはずだと思った。

 インターネットが幸せ増幅器として十分に機能していると実感できる人は少ないだろう。ここには、矛盾とまでは言わないまでも、何らかの緊張がある。では、どうすればこの緊張が緩和できるのだろうか? 私の考えは次の3つ。

  1. ネット上のコミュニケーションはそれに関わる人々の幸福を増幅している。だが、スパムメールとかコンピューターウイルスなどにより、増幅された幸福に匹敵するくらいの、またはそれを凌駕する不幸が降りかかってくるため、幸福の総量が増加しない。
  2. 幸せは分け合うと大きくなり不幸せは分け合うと小さくなる、というのは誤りである。隣の不幸は鴨の味がするし、隣りの家に蔵が建ったら、腹が立つのが人間の本性だ。
  3. 実はインターネットなどというものは存在しない。WWWは私のパソコンの中に構築された疑似環境に他ならない。ウェブブラウザとメーラーが自動生成する文章に一喜一憂しているだけなのだ。

 ところで、幸福とはなんだろうか? 心の、または脳の状態の一つに過ぎないのだろうか? それとも別の事柄なのだろうか?
 次に3つの例文を挙げる。なお、人称代名詞「彼/彼女/貴方」の使い分けには特に意味はない。

  1. 彼は自分には恋人がいると思っているが、本当は彼には恋人はいない。これはいわば脳内恋人である。
  2. 彼女は腰が痛いと思っているが、本当は彼女の腰には痛みなどない。これはいわば脳内腰痛である。
  3. 貴方は幸せだと思っているが、本当は貴方は全然幸せではない。これはいわば脳内幸福である。

 なんだか、前にも似たようなことを書いたような気がするが、いつ書いたのはは覚えていないし、過去ログを探すのも面倒なので、このまま続けることにする。
 さて、1は別に取り立てて問題はないように思われる。恋人がいると思うことと、本当に恋人がいることとは同じではない。人は自分自身の人間関係について誤解することがあり得る。
 だが、2はあからさまに理不尽であるように思われる。人は自分の伊丹、いや、痛みについて間違えることはあり得ない、とふつう考えられるからだ。
 では、3はどうか? 自分では幸福だと思っているが実はそれが誤解であるという事態が考えられるだろうか? 幸福や不幸が純粋に心的状態だとすれば、そのような事態は想定不可能だろう。だが、果たしてそう言い切れるのだろうか?
 私はいつもここで考えが止まってしまい、先に進めなくなるのだが、より強靱な思考力をもつ人のために、別の例文を掲げておくことにする。

  1. 貴方は、素晴らしい恋人に恵まれて幸せだと思っているが、貴方には本当は恋人はいないのだから、貴方の幸福は幻想に過ぎない。
  2. 貴方は、腰の痛みに悩まされて不幸せだと思っているが、貴方は本当は腰が痛くないのだから、貴方の不幸は幻想に過ぎない。

 ところで、私はネット活動を通じて恋人を得ることができたので、今非常に幸せだ。私にとってはインターネットは幸せ増幅器である。

 最近、他サイトへの言及ばかりだ。

1.10726(2003/06/29) 言え!馬鹿者どもめが。何にそんなに怯(おび)えているのだ。何がそんなに恐いのだ。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030629b

 見出しは副島隆彦の学問道場今日のぼやき(5/28付)(情報もと:馬的思考日記6/28付)から。このテンションの高さはぜひ見習いたいものだ。

 komeya-GREAT.com『遠州奇譚』 ――早太郎、山神に化けたる狒々を討つ事を読む。毎度のことながら感心させられた。私は妖異譚の類にはあまり関心はないのだが、それでも読まされてしまうのだから、これはもう小林氏の力量のなせる業だと思う。
 ただ、「今、己の心を見るのです」から始まる演説はやや興ざめ。最後の方になるとかなり聖書の使徒風になって、ちょっとやり過ぎたと反省しております。と小林氏自身も言っているが、南北朝時代の僧侶の言葉として違和感があるばかりではない。仮に戦国時代末期の宣教師が主人公だとしても、この部分はやはり蛇足だろう。

 「さくら出版」原稿流出事件(関連リンク集)はわりと最初の頃から注目していたが、多くのサイトで言及されて目新しい論点もなくなってきたので、そろそろ飽きかけていたのだが、ごくたま昨日日記(6/27付)「マンガ家の主張」で、新古書店・マンガ喫茶問題と絡めてマンガ家の商品意識に対する疑念が提示されているのは興味深い。
 もっとも個別の記述を見るといろいろとツッコミを入れたくなる。たとえば、今回の事件が起こる以前からマンガ原稿は商品として一般に流通していた、というが、貸本マンガ時代ならいざ知らず、現在ではマンガ原稿はかなり特殊な市場で、かつ、問題含みの形でしか流通していない。また、マンガ原稿を絵画のアナロジーで捉えるのにも疑問がある。マンガ原稿も金銭で取引可能だという意味では商品のうちだが、常識的な感覚では非売品だ。むしろ版画の原版に喩えるべきではないだろうか。
 今回の事件と新古書店・マンガ喫茶問題とはたぶん無関係ではないだろうが、私にはマンガ家の意識の問題というより、むしろ出版業界全体(むろんその中にはマンガ家も含まれるわけだが)の体質の問題のように思われる。

1.10728(2003/06/30) 無事に死体に成り果てるまで

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306c.html#p030630a

 鶴瓶 生放送中にモロ出し という記事を読んで「長崎県にも飛島があるのか!」と感心した。山形県の飛島は時刻表の巻頭地図にも掲載されているくらいでわりと有名だ(わけあってタイトルを挙げることはできないが、某ミステリの主要な舞台にもなっている)が、長崎にも同名の島があるとは知らなかった。
 また一つ、生きる上で役に立たない知識を身につけた。

 不壊の槍は折られましたが、何か?(6/29付)を読んで非常に後悔した。

「カーカー」鳴くか「クイーンクイーン」鳴く馬鹿しか惹き付けそうにないこの物語は、
しかしだからこそ儚く美しい。ヲタの気持ち悪い牙城、だがそれゆえの美もあると信じたい。
数年間封印していた《本格スピリット》なる言葉を、久しぶりに使いたいと思う。
そう、まさにこれはそんな精神に溢れた傑作である。

 私は本編を読む前に、あとがきを読んでしまった……。

 6月は今日で終わり。まだ私は生きている。