「石焼きビビンバと水中クンバカはよく似ている。そうは思わないかい?」
「えっと、『水中クンバカ』って何のことですか?」
……平成生まれとは話ができない。
愛と信仰の違いは何か? 愛の対象は多くの場合実在するが、信仰の対象は多くの場合実在しない。
「私は神を信じます」と信仰告白するとき、発話者と神との間の二項関係を主張しているかのようだが、実はそうではない。発話者が本当に信じているのは、「神が存在している」「神は奇蹟を起こす」「私は神の恩寵を受けるだろう」などである。すなわち信仰とは命題的態度の一種であって、神という(見かけ上の)対象が実在していようがしていまいが成立する。
他方、「私は最寄駅の売店にいる三毛猫のタマを愛します」と表明するとき、「タマは愛嬌のある仕草で人を楽しませる」「タマはときおりニャアと鳴く」「タマは喜ぶと尻尾を振る」などは愛の原因ではあっても、愛の対象ではない。愛の対象はあくまでもタマそのものである。愛は命題的態度ではない。
大阪空港の食堂で「たこ焼きうどん」なるものを食した。ソース味でも醤油味でもなく、ほとんど明石焼きのようなたこ焼きだった。予想どおりなので腹も立たないが、850円(税別)はちょっと高かったように思う。
あなたは右利きですか? そしたら、左の袖口のボタンを外して、手首が見える程度にめくり上げて下さい。
おやっ、生々しい傷が見えますね。どうやら私の思ったとおりだ。
えっ? どうしてわかったのか、ですか。いや、私は会う人ごとに手首を見せてもらっているんです。あなたでちょうど500人めなんです。
新青春チャンネル78〜(6/1付)の美少女ゲームと新本格の対応表を見て、ふと疑問に感じたこと。
関西の雄、アリスソフトのゲームが一つもない……。名作がいっぱいあるのに。
この不遇(?)なゲームメーカーになぞらえるべきミステリ作家は誰だろうか? すぐに、ある人名が思い浮かんだ。そう、あの人だ。
あえて名前は書かない。
今年こそは熊野大花火を見たいものだ、と思っていたが、コミケットと日程が重なっていることに気づいた。午後4時に有明埠頭を脱出して熊野市へ……というのは無理だろうな。
う〜む。困った。「5府県教育委員会教育長揃い踏み、ただし公印省略」みたいな。あ、三重県も入っているのか。
意味不明の喩えで混乱したところで、シカの列車接触多発 大台町から熊野市の区間で年150件(情報もと:憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ)にリンク。
他人の書いた文章を見ると、自分が凡庸な人間であることを思い知らされる。他人の文章には深い含蓄があるように思われるが、私の文章はただの思いつきの羅列だ。もしかすると、みんな思いつきで文章を書いているのかもしれないが、それは私には調べようがないことなので、表面上の深さ(!)をそのまま受け止めるしかない。
えっ? 宮部みゆき?
確かに、独創性や革新性よりも完成度や総合性を重視するところ、名作やヒット作は多いがブレイクスルー的な役割を果たした作品がないところは宮部みゆきに似ていないわけではない。
しかし、アクが異様に強くてコテコテ感があるところや、一見さんには理解不能な連動ネタを多用するところなどは宮部みゆきとは似てもにつかない。むしろ……いや、やっぱり名前を挙げるのはやめておこう。万が一本人が見ていたら具合が悪いから。
ふと思いついたフレーズ。
「同性愛者と異性愛者の対立は阪神ファンと巨人ファンの対立に似ている。彼らはこの世に恋愛障害者がいることを知らない」
私はこの言葉に関して一切責任をとらない。括弧の中に入れたのは、判断停止の意思表示であり、責任逃れの手段でもある。
ちなみに私は「好きな球団はどこですか?」と聞かれるとむっとする。
天使たちの歌声から「ちびくろおまんこ」についての考察(先に同ページ内の『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』の感想文を読むこと)。
私は「おまんこ」文化圏に住んでいないので、この言葉を生活語として聞いたことがまだない。私の地方では専ら「おめこ」だ。「おめこ」はまた動詞としても用いられる。「おめこする」(サ行変格活用)だ。「おめこすること」を略していえば、やはり「おめこ」になる。従って、「おめこ」は性器の俗称であるのと同時に、性行為をも表す。
他方、「ちんこする」という動詞はない(いや、あるのかもしれないが、私は知らない)。
10年前の私にとって、東京とは即ち神保町のことだった。
5年前の私にとっては、秋葉原が東京の中心だった。
今の私にとって、東京で特に魅力的な場所は上野である。探求本がなくなってしまった人間には神保町は意味がない。オタク文化に飽き飽きしてしまった人間に秋葉原は辛い。老後の余生は博物館と美術館巡りでもしてのんびりと過ごしたいものだ。
いや、あと5年もすれば、"私にとっての東京"は北千住あたりになっているかもしれない。だんだん北上しているようなので。
今日、会社に休暇届を出した。8/14〜8/18の分だ。まだ2ヶ月以上先のことだが、早めにおさえておかないと予定が立たない。
すぐ上で「オタク文化に飽き飽きしてしまった」と書いておきながら、なんたることだ! 惰性というのは恐ろしい。
ここ数回のコミケでは、某氏と待ち合わせて一般行列に並ぶのが通例になっていた。その某氏は昨年末のコミケの後、もうコミケには飽きたから行かない、と宣言した。
その某氏は業務命令で3日間西館4階に張り付きになるそうだ。
アクセスログから。世の中いろいろな趣味の人がいるものだ。
UNCHARTED SPACEは毎日読んでいるのだが、6/2付の(正)「小森健太朗」1870件 ←→ (誤)「小森健太郎」460件 (誤記率20%)
は見落としていた。6/3付では実際にお名前が「小森健太郎」さんである方が普通にいらっしゃるわけで、460件の全てが小森氏に対する誤記ではない
と補足されている。
これを読んで思い出した話。小森氏が作家デビューした頃に、ある人が小森氏あての手紙の宛先を「小森健太郎様方小森健太朗様」にしたそうだ。作家はペンネームでも郵便物が届くように郵便局に知らせておくことが多いが、小森氏がわざわざ通知しているかどうかは定かではない。単に「小森健太朗様」でも届くはずだが、郵便配達人に宛名を誤記されたと思われるのも癪だ。かといって「小森健太郎様」では作家さんに対して失礼だ……というふうに考えて「小森健太郎様方小森健太朗様」にしたそうなのだが。
残念ながら小森氏がこの手紙を受け取ってどのような反応を示したかは知らない。
明日の夜は温泉宿に一泊する予定。気楽な旅行ではなく出張なので、ビジネスホテルに泊まりたかったのだが……。海の見える十畳間で一人寂しく本を読むことになるだろう。
従って、明日の夜の更新はありません。
今日の一曲:伝ヘンデル作『ヨハネ受難曲』
喉が渇くと水が欲しくなる。水を飲むと喉の渇きが癒される。だが、場合によっては喉の渇きがますます増すこともある。これは苦しい。
別の苦しみもある。
喉の渇きを訴えて水を汲んでもらうが、いざ口をつけようとした瞬間に、今までの渇きが全く失せてしまい、全く水が飲みたくなくなる場合。それでも無理をして水を飲もうとしても吐いてしまう。
何度かこのような事を経験すると、自分が感じている喉の渇きはすべて錯覚であり、虚妄ではないかと思うようになる。
親切な人が差し出した水をはねのけてしまうのが目に見えているので、喉の渇きを極力隠そうと思うようになる。他人の好意を踏みにじらないように。だが、そうすると、ずっと喉の渇きに悩まされ続けることになる。これもまた苦しみの一つ。
最近、「メイドカフェでGO!」のトップ絵が更新されてないととてもガックリときて、新しい絵に変わるとなんか嬉しい気分になるという日常を過ごしている
某氏から、昨日の記事についてコメント。
> あと5年もすれば、"私にとっての東京"は北千住あたりになっているかもしれない。
> だんだん北上しているようなので。
では、コミケの後は、埼玉県北部の黒山三滝巡りでもいかがですか?
http://village.infoweb.ne.jp/~hidakk/hidakankou_kuroyama.html
渋い魅力満載ヽ(´ー`)ノ
ちょっと渋すぎ。というか、既に東京じゃないし……。
ああ、そろそろ出ないといけない。今日はこれから黒山三滝と同じくらいの高地へ出張だ。山が私を呼んでいる……。
昨日も書いたが、今晩は海の見える温泉宿に泊まるので、次回更新は明日の夜以降となる見込み。
昨日の続き。
水が欲しくてたまらないのに、水を与えられたら拒否してしまう、そんなジレンマに悩まされている人はどうしたらいいのか? 同じ悩みを抱える人とキスをして、唾液を交換すればよい。
政宗九の視点の6/4付の記事を読んで、私も「ミステリと世代」というテーマで何か書こうかと思っていたが、突き詰めて考えれば評論が一本書けてしまいそうですが、資料不足なので早くも断念
。
世代論の難しさは二つある(もっとあるかもしれないが……)。一つは、論者自身がいずれかの世代に属する(当たり前!)ので、外部の視点で語りにくいということ。もう一つは、個人の趣味嗜好から世代に共通の特徴を抽出するのがなかなか厄介だいうこと。たとえば、この人とこの人が同年齢であるという事実(ここを参照)をどう解釈すればいいのだろうか?
それはさておき(昔は「閑話休題」と書いて「それはさておき」とルビを振ったそうな)尾道大学推理小説研究部のサイト(6/5付)から(強調は引用者)。
昨日は光原先生の、ミステリに関する講義を受けました。
授業のせいで、後半のせいぜい四十分ぐらいしかいられなかったんだけど、なかなか面白かったです。
「うんうん、良いことだ。てめえも学ぶ姿勢を忘れちゃ駄目だぜ。で、どんなこと聞いたんだ?」
私が入っていった時は、ちょうど日本のミステリ史について始まるところだったなあ。木々某とかから始まって、私の好きな横溝正史。松本清張って傑物の後、一旦本格モノに衰退が見られて、その後しばらくして島田荘司や鮎川哲也が出て来たって流れでな・・・・・・。ああ、そういえば知っているか。『新本格』ってフレーズは意外と昔からあったんだ。綾辻行人や有栖川有栖が出てきた頃、彼らをして横溝のような古き良き本格が復活したという意味で、出版社が『新本格』という看板でアピールしたのが初めだったんだそうな。
「へえ・・・・・・。けど、綾辻や有栖川は古くからってほどじゃないだろ? まだ現役バリバリじゃねえか」
そうだけどさ。ほら、私なんか、霧舎巧や西尾維新のあたりからが、『新本格』の発生だと思ってたから。
「おいおい・・・・・・」
それらはまた、別のウェイブらしいんだが。清涼院流水とかからの新しい流れって感じでな。
……いろいろ言いたいことはあるのだが、何を言っても老人の繰り言にしかならないので割愛。
「光原先生の講義」に興味のある人はここを参照のこと。
上の話題と関連して(どういうふうに関連しているかは謎だ)、美少女ゲームの法則(MINE Yuka's Webpage)にリンク。「純愛美少女ゲームの二十則」と「純愛美少女ゲームの十戒」がある。
昨日、法務局を二ヶ所ハシゴした。私の会社が所有している土地の地積更正登記を行うための事前調査のためだ。私は登記関係についてはずぶの素人なので、専門の土地家屋調査士に任せたかったのだが、予算がないので仕方がない。
地積更正登記を行うには、隣接地の所有者全員と筆界確認を行わなくてはならない。境界確定でもいいらしい。筆界と境界がどう違うのか、などというややこしい話は省略する。ともあれ、社有地の周囲の地番の並びがどうなっていて、各筆の所有者が誰なのかということを調査しなければならない。
最初に訪れた法務局で公図を見せてもらうと、一昨日に現地調査をしたときに確かに社有地の前にあったはずの村道が記載されていなかった。つまり村道は未登記道路だったのである。これは厄介なことになった。
二番目に訪れた法務局で別の社有地付近の公図を見せてもらうと、なぜか里道を挟んで向かい側の土地との間にメガネがかけられていた。メガネというのは、隣接していない土地を合筆したときに、同一地番であることを示すための記号である。だが、登記簿を見ても合筆したという記録はないし、所有者も地目も違っている(所有者と地目が異なる土地を合筆することはできない)。何かの間違いだとは思うのだが……。
今後の仕事のことを考えて憂鬱になりながら帰宅すると、知人からメールが届いていた。見ると、コミケ当選の知らせだった。これで今年もサークルチケットが手に入ることになった。
そろそろ夏の旅行の予定を立てないといけないなぁ、と思っているところに、別の知人からメールが来た。追伸に驚くべきことが書いてあった。
昨日、カルナップの『意味論序説』を注文してしまいました。
カルナップってパイナップルみたいで気になってたんです。
カルナップといえば、私は北海道の地名を連想する。軽夏布、みたいな。いや、軽夏賦のほうがいいかもしれない。
今日も散漫だ。
186(一服中)氏の労作ミステリ系サイト管理人年齢別リストから何かパターンが見いだせないものかと考えてみた。しかし、半分以上の人の生年が不明なので、統計データとして利用することには無理がある。私自身、年齢を隠しているので、人のことは言えないのだが。
永世の中の人のハンドルが「進井瑞西」だとか、某氏の誕生日が私と同じだとか、いろいろ気づいた点はあるのだが、あまり世代論とは関係なさそうだ。というか全然関係ない。
このリストを見ていると、なんとなく1980年頃を境に断層があるような気がする。いや、1978年か。
最年少の人は14歳、か。若いなぁ。
六月はイニシャルトークDE連続日記経由で沈黙は金 雄弁は銀 〜「沈黙」よりも「雄弁」の方が優れている〜を読んだ。これは私も知らなかった。
品種改良をしていない昔の大根は細かったので「大根脚」は悪口ではなく「すらりとした白い脚」という意味の誉め言葉だった、とか、聖書の「鏡もて見るごとく」の後には「おぼろげなり」が続く、とか、この種の雑学ネタは数多い。今の生活では当たり前のことが昔は当たり前だなかったというごく当たり前のことが時には非常に意外で目から鱗が落ちたような気がするのだ。ちなみに「目から鱗が落ちる」も出典は聖書だ。
聖書の話が出たついでに、部屋の奥に積み上げた本の山から聖書を引っぱり出してきた。昔、旧約のアポクリファを読むために買ったものだ。「ダニエル書補遺」の中にミステリの原型ともいえる知恵の物語が二篇収録されている。そのうちの一つ「スザンナ」は若い美女に欲情した二人の長老の話で、これは倒叙物と「裁判官=犯人」ネタの元祖。もう一つの「ベル神の物語」はベル神への供物を祭司とその家族が飲み食いする話で、密室犯罪と足跡の手がかりの元祖。ただし、どちらも現代のミステリに慣れた読者を満足させる出来ではない。
もっとも、「スザンナ」には謎解きの興味とは別の面白さがある。たとえば、
さて、その年、民の中から裁判官として二人の長老が選ばれた。…(略)…正午になり人々が立ち去ると、スザンナは、夫の庭園に入り散策するのが常であった。二人の長老は、彼女が毎日庭に入り散策するのを見て、彼女に欲情を抱くようになった。…(略)…二人とも彼女ゆえにもんもんとしていたが、互いに自分の悩みを打ち明けることはしなかった。彼女と交わりたいという自分の欲情を打ち明けるのが恥ずかしかったからである。…(略)…二人はそこを出て別れた。ところが、二人とも戻ってきてばったり会ってしまった。それで互いに理由をただし、それぞれ自分の欲情を白状することになった。そのあげく二人は、彼女が一人でいるところを見つけようと、一緒に折をうかがうことにした。
とことん困った爺さんたちである。
二人の長老の熱い欲望が天に通じたのか、ある暑い日にスザンナが水浴びする場をこっそりと覗くことになる。スザンナの侍女たちは立ち去り、今がチャンス、とばかりに色ボケ爺さんは行動に出る。
彼らは言った。「ごらん。庭園の戸は閉じている。だれも見ていません。わたしたちは、あなたが欲しくてたまりません。言うことを聞いて身を任せなさい。さもなければ、わたしたちは、『あなたが、若い男と一緒にいたので、侍女たちを下がらせたのだ』と証言します。
スザンナ、絶体絶命のピンチ。ああ、彼女はこのまま脅迫に屈して、エロ爺たちに文字通り「嬲」られてしまうのかっ!
……この続きは直に原典を当たって貰いたい。「旧約聖書続編つき」と書かれた本でないと載っていないので注意。
私はキリスト教徒ではないので、聖書はほとんど読んだことがない。たぶん「ダニエル書補遺」以外は原典で読んだことはないと思う(宗教音楽の歌詞として読んだことはあるが)。聖書くらいは基礎教養として一読しておくべきだろうと思うのだが、新約の最初の部分を読むだけでうんざりしてくる。
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシヤと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
ざっと斜め読みしたのでは気づかないかもしれないが、この系図は繋がっていない。ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシヤと呼ばれるイエスがお生まれになった。
という箇所で途切れている。なぜなら、――聖書を信用する限りでは――イエスはヨセフの実子ではないからだ。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は二項関係であり「……は……を愛する」という述語で表される。もし愛に何かを述語づけるとすれば、述語の述語、すなわち二階の述語でなければならない。しかるに、「……は忍耐強い(辛抱強い)」「……は情け深い(親切です)」「……はねたまない」等々はすべて一階の述語である。これをどう解釈すべきか。
上の文中の「愛」は実は何ものかが何ものかを愛するという具体的な事態とは別の"愛そのもの"(愛のイデア?)を指しているのだ、と考えることもできる。そうすると、「愛そのものが自分の利益を求めたり求めなかったりするというのはどういうことか?」という厄介な問題が生じる。そもそも具体的な実践からかけ離れた"愛のイデア"の特質を述べることにどんな意味があるというのだろう?
もう一つ、「愛はPである」は「xがyを愛するとき、xはPである」の省略形であるという解釈も思いついた。「あなたが誰かを愛するとき、あなたは忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず……」という意味だという解釈である。こちらのほうが前後の文脈にあっているようにも思う。ただ、このように解釈すると、ほとんど逆のことを言っているような気がしてくる。
人は愛に囚われるとき、せっかちになる。嫉妬し、自分を飾るようになる。ちょっとしたことで苛立ち、真実よりもうわべの心地よさを望むようになる。すべてに耐えきれず、すべてを疑い、すべての望みを失う。恋愛の場合には特にその傾向が強いが、それ以外の場合(物や価値への愛など)でもこの種の執愛、偏愛はありふれたことだ。愛とは欲望であり、妄執である。
……というのは極論で、実際のところは仏教の影響が強い日本語の「愛」と聖書の「愛」の間にはずれがあるという程度のことなのだろう。上の引用文中の「愛」を「慈悲」に置き換えれば、さほど違和感がないのではないか。
ちなみに私が好きな章句は創19.30-38である。ワインの飲み過ぎは危険だと思う。
komeya-GREAT.com(【6/8@『稲生物怪録』徹底解法】)は相変わらず凄い。
「男湯に入ってきた女の子をどうするか」(情報もと:DAIさん帝国)
ああ、今日もまとまりがない。
渇望について再度考えることにする。この話題については、解決法もどきを提示しているのだが、克服法も記されているけどいまいち根拠が分からない
(ifのBBS「今日のリンク」 投稿者:if 投稿日:2003/6/8(日) 10:16)というツッコミが入ったので、再検討してみようと思うわけだ。
まず、問題を整理しよう。
喉が渇くと水が欲しくなる。これを分析する。
喉が渇いたときにいちいち筋道立てて物事を考えているわけではないが、喉が渇くと水が欲しくなるというメカニズムを合理的に再構成すれば、だいたいこんなところだろう。
喉が渇いたので水が欲しくなり、運良く水が与えられたとする。上の2が正しければ、差し出された水を飲んで喉の渇きを癒し、苦しみから解放されて一件落着となる。だが、世の中いつもそううまくいくわけではない。先日場合によっては喉の渇きがますます増すこともある
と書いたが、これはいったいどのようなメカニズムに基づくものだろうか?
ひとつ考えられるのは、水の量が喉の渇きを癒すのに十分ではない場合だ。足りないといってもある程度は水分が補給されているのだから、その分苦しみは軽減されているはずではないか? いや、話はそう単純ではない。
人間の感受性は常に同様ではない。同じ状態が継続すると、慣れのせいで感覚が鈍くなる。どんなに耐え難い苦痛であっても、ともかく耐えているのなら、知らず知らずのうちに苦痛は少し和らいでいる。だが、そこにいきなり水分が補給されたらどうなるだろうか? 口から喉を通って胃に至るみちすじに、数滴の水がつつと伝わって、いったんは鈍った感覚を鋭敏にする。ひんやりとした水の感覚は、さらなる水を予期させる。だが、与えられた水は一口しかない。そんなとき、わずかな水で喉を潤す前よりも一層喉の渇きが増し、より水が欲しくて欲しくてたまらなくなるのだ。
もうひとつ考えられるのは、与えられた水が喉の渇きを増す効果を持っている場合だ。真水ならそんなことはないが、塩分を含んだ水や炭酸水だと飲めば飲むほど喉が渇くことがある。場合によっては、なんとなく少し喉が渇いている程度だったのが、水を飲んだせいでのたうち回るほど苦しむこともあるだろう。
余談だが、「なんか面白いミステリがないかなぁむなどと思ってたまたま手に取った小説が、驚天動地の大愚作だったとき、私は強烈な渇望に囚われる。下手なミステリは面白いミステリへの欲求をかき立てる装置として機能する。そんな装置は別にいらないと思うのだが。
さて、「喉が渇いて、その渇きを癒すために水を飲んだはずなのに、かえって喉の渇きを増してしまう」という逆説的な状況についてはだいたい説明がついた。だがこれは本題ではない。水が欲しくてたまらないのに、水を与えられたら拒否してしまう
という――逆説的というより、ほとんど不合理だと言いたくなるような――状態はどのようなメカニズムに基づいているのか? すぐに思いつくのは、次の場合だ。
もしこれがジレンマの唯一の原因だとすれば、理論的には解決は簡単だ。十分な量の真水を飲めばいい。現実にはなかなか自分の思うとおりに水が与えられることはないだろうが。
自分で書いておいてこう言うのもどうかと思うが、私は以上の分析では全く不十分だと考えている。苦し紛れに同じ悩みを抱える人とキスをして、唾液を交換すればよい
と言ってはみたが、これはほとんど戯言(前にも書いたが、これは「ざれごと」ではなく「たわごと」と呼んでほしい)のようなものだ。私には皆目見当もつかない、というのが正直な気持ちだ。
とりあえず、手がかりになりそうな思いつきを列挙しておこう。
自己意識とか他者とのコミュニケーションとか、全然想像もしていなかった方面に向かいそうな予感。
いろいろと思うことがあって、聖書関係の情報を探していたところ、聖書の間違いというページを見つけて、つい読みふけってしまった。
聖書の世界は奥が深い……。
なぜか『たまらない女』(はにわきみこ/講談社文庫)という本を読んだ。便秘に苦しむ若い女性がさまざまな健康法を実践し快便体質へと生まれ変わるまでを描いたドキュメンタリーだ。代替医療の底力を見せつけられたような思いがする。
プロジェクト杉田玄白の正式参加作品リストを見ると、いつの間にか『シルヴィーとブルーノ完結編』が……。やや、『知りすぎた男』もあるではないか。
今日は、これでおしまい。