ある業界では3月31日は62日あると言われている。もちろん本当の3月31日は昨日だけだが、今日も明日も明後日も3月31日が続くのだ。実際の日付で5月31日にようやく幻の3月31日が終わる。
実は、ここだけの話だが、こんど文庫解説原稿を書くことになった。というか既に書いてゲラ直しも終わっている。わりと有名なミステリ短篇集(しかし多くの人に読まれているかどうかは定かでない)の再刊本で5月中旬に発売予定、といえば、暇な人なら探し当てることができるだろう。具体的なタイトルと作者名は伏せておくことにしよう。
早くマリみて読まないといけないなぁ。
人間の電脳化を謀るテクノファシストに対して立ち上がった7人の少女戦士は奮戦したが、やがて敵方に捕らえられ、処刑されることとなった。彼女たち――アリア、ブーレ、シャコンヌ、ドゥブル、エコー、フォリア、ジーグ――のうちリーダーのアリアを除く6人は既に脳外科手術を受けて生脳を電脳に置き換えられていた。彼女たちはもはや固有名を奪われ、ただ頭文字で呼ばれる存在と成り果てていた。
処刑場の丘に突き立てられた7本の柱、その1本1本に少女戦士が一人ずつ磔になっている。アリアを先頭に、B、C、D、E、F、Gがこの順であとに続く。各人の首は固定され、後ろを振り向くことはできない。
「アリアよ」とテクノファシズム軍の将軍は呼びかけた。「そなたの仲間たちは生脳よりも優れた計算能力をもつ電脳により生まれ変わった。彼女たちは所与の情報から論理的に導出可能なすべての事柄を知っており、決して誤ることがないのだ。さあ、そなたも電脳を受け入れるがよい」
「私の灰色の脳細胞は決して電脳に劣らないわ!」とアリアは叫ぶように言った。だが、その言葉は処刑場にむなしく響き渡るだけだった。
「ふふ、強がりだな。よかろう、そなたにチャンスを与えよう。これから述べる問題に正解したなら、生脳にも電脳と同程度の計算能力があると認めよう」
そして将軍は部下に命じて大きな箱を処刑場に運び込ませた。「この箱には4種類の帽子が入っている。赤色の帽子が1個、青色の帽子が2個、黄色の帽子が3個、そして残りすべての帽子は白色だ。白色の帽子だけで少なくともそなたらの人数分以上ある。さて、これからそなたら7人に帽子を被せよう。そして、アリアよ、そなたが被せられた帽子の色を当てるのだ。もし当てずっぽうではなく、論理的推論の結果として帽子の色を言い当てられたなら、そなたらの処刑は取りやめることにしよう。だが、言い当てられなければ、そなたらの命運はここで尽きることになる」
7人の少女戦士たちの頭に帽子が被せられた。そして将軍は最後尾のGに問いかけた。「さて、今そなたの頭に被せられた帽子の色が何色か、わかるかね」と。するとGは感情のこもっていない声で「いいえ」と短く答えた。次に将軍はGの前のFに同じ質問をした。回答は同じく「いいえ」だった。さらに、E、D、C、Bにもこの順で同じ質問をした。答えはすべて「いいえ」だった。
最後に将軍はアリアに向かって言った。「6人とも自分の前にいる者の帽子を見ている。そしてG以外の者は自分より後ろの者の回答を聞いた上で質問に答えている。だがそなたも聞いたように、彼女たちは皆自分の帽子の色を言い当てることができなかった。では、今そなたの頭上にある帽子の色は何色か?」
【補足】
ようやく『マリア様がみてる 真夏の一ページ』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)を読んだ。感想文は手短に。
今回は赤、白、黄の各薔薇姉妹をそれぞれピックアップした3篇から構成されている。各話とも本筋とあまり関係のなさそうな感じだ。そもそもマリみてに本筋があるのかどうかすらよくわからないが。
「略してOK大作戦(仮)」は、いつものマリみてらしい筋立てだ。もう少し祐巳の内心の葛藤を描いて緊張感を高めてもよかったのではないかと思う。
「おじいさんと一緒」は、これまでのマリみての中でもっともミステリ的だ。白薔薇のアレはミステリ読みでなくともバレバレで辛い
(求道の果て3/30付)というコメントを先に読んでいたが、私は気にならなかった。読者にはバレバレなのに作中人物は全然気づかないというのも一つの趣向だろう。
「黄薔薇☆絵日記」はページ数あわせなのではないかと思えるくらい短く、他の2篇とのバランスを欠いている。ただ、単品として見れば、長さにあった内容になっていて、3篇のうちで最もまとまりがいい。
全体的にやや物足りない印象を受けた。次に期待。
TYPE-MOON、同人から商業へ。
これは正直いって意外だった。てっきりこのまま同人サークルという体裁のまま事実上の商業活動を展開していくものだと思っていたので。これで、次作がどれほど凄いゲームでも「同人なのに商業水準を遙かに超える完成度」という評価を受けることはできなくなったわけだ。
エロチック街道経由でKo-wa's Inn!の3/31付「唐突に疑問」を読んだ。
33.3333… 円なんていやだけどこれに対するヘッド氏のコメントが面白い。一旦
(100/3)円ってコインがあると便利かもしれない。
すると、あ。20円のお買い物に、100/3円を払ったら、おつりはどうすればいいんだ。
60/3円に100/3円の支払いだから、40/3円のおつりという明快な解答を提示した上で、このような通貨単位が導入された世界の不都合を指摘して、
割り算ができなくて困るというのはつまり、割り勘で困るということだから、お金に1/3という単位があればいいのかもしれないという当初の着想を掘り崩してしまう。
最近マグロの水揚げが多い。春だからなのか、不景気だからなのか。私が通勤に使っている駅の近くでは、今週月曜日と今日の二回マグロが水揚げされた。今日は特に駅に近くて、ホームからパトカーの赤色灯が見えたくらいだった。
金の延べ棒を通貨として使うのはどうかという私の提案(というかただの思いつき)に対してじゃあ、液体なんてどうだろうという、さらに上の案。しまった、どうして私は液体通貨に思い至らなかったのだろう? 悔しい。
気を取り直して、気体通貨というのを考えてみた。「ガス通貨第一号」とか。第一号だろうが第二号だろうが大して意味はないけれど。気体通貨は財布には入れられないから、買い物をする時にはガスボンベが必要だ。ちょっとした買い物なら風船でも可。ガス欠=金欠だ。なんだそりゃ。
当初の予定にはなかったのだが、気が変わったので書くことにした。問題篇はこちら。
テクノファシズムを奉じ、自ら電脳化を為した将軍――もはや彼には名前がないので、単に「将軍」と呼ぶ――は眼下の少女戦士アリアを見ながら、自分が出題した問いの解法を思い浮かべた――もっとも「思い浮かべる」という言葉は電脳にとっては比喩的な意味しか持たないのだが。彼の解法は以下のとおり。
【さすがにしんどくなってきたので中略。ここまでで証明の半分にも到達していない】
将軍は電脳を駆使してアリアの推理を予測した。もしアリアの生脳が電脳と同等の能力を有するならば、上記の推論を経て自分の帽子の色が白であることを知るだろう。だが、不完全で電脳に劣る生脳が、この証明過程を正確に辿ることができる筈がない。電脳の優位性を信じる――もちろん、「信じる」も比喩的な意味に解さなくてはならない――将軍はアリアの推理力を軽視していた。
「さあ、今そなたの頭上にある帽子の色を言い当ててみよ」と将軍は重ねて問うた。するとアリアは数秒間目を閉じて何かを考えているふうだったが、やがて目を大きく見開き、将軍をきっと睨み付けながら答えた。
「白よ」
「その答えの根拠は?」
アリアは次のように答えた。
「仮に私たち全員が白の帽子を被せられていたと仮定する。白の帽子は私たちの人数分以上あるのだから、最後尾にいて他の6人の帽子の色を全部知っているジーグでさえも、自分の帽子の帽子の色を知ることはできない。もちろん他の5人も同じ。よってこの仮定の下では6人とも質問に対して『いいえ』と答えることになる。そして、これは実際の6人の答えと同じだから、この仮定には矛盾はない」
「だが、仮定に矛盾がないということと仮定が事実と一致しているということは別のことだ」
「確かに。けれど私には矛盾のない仮説が一つあればよかったの。電脳化して人間性を失ったテクノファシストは唾棄すべき存在だけど、嘘をついたり騙したりはしないということを信用することができる。だから、将軍が私に問いかけた問題は当てずっぽうではなく、論理的推論の結果として帽子の色を言い当てることが可能なはず。ところが、もし私の帽子の色が白ではないと仮定しても矛盾がないとすれば、この問題は解答不可能ということになってしまう。これは矛盾だから、背理法により私の帽子の色は白に違いないということが帰結する」
こうしてアリアは論理的に帽子の色を言い当て、処刑を免れた。電脳化を施された哀れな6人の仲間を引き連れて処刑場を去った彼女がその後どうなったのかは、誰も知らない。
【解説】
問題篇の末尾にも書いておいたが、これは有名な古典パズルをアレンジしたもの。人数と帽子の種類をただ増やしてみただけで、特に新しい着想を盛り込んだわけではないので、パズルファンが楽しめるものにはなっていない。茶碗蒸しを土鍋で作る(『美味しんぼ』にそんな話があった)ようなばかばかしさを狙ってみたのだが、半分以上端折ってしまったのでばかばかしさも中くらいになってしまった。
このパズルの原型はイギリスの物理学者ディラックが考案したものと言われている。本当かどうかは知らない。『パズル百科』(高木茂男/講談社文庫)によれば、ディラックが戦前に来日した際に木々高太郎らに伝えたものが広まったようだ。木々高太郎は短篇「海の見える窓」及び長篇『光とその影』でこのパズルを紹介しているそうだ。また斎藤栄の長篇『宝石泥棒』でも扱っているらしい。いずれも未読だが。最近のミステリでは『試験に出るパズル』(高田崇史/講談社ノベルス)でディラックの原型を紹介した上で、さらに複雑化した問題を提示している。
原型では各人はそれぞれ自分以外の帽子を見ることができるようになっている。一列に並ばせて前の人が後ろの人の帽子を見ることができなくしたヴァージョン(私の問題もこのヴァージョンに基づいている)を発明したのは高井喜代美という人だそうだ。これも『パズル百科』で得た知識である。
私の問題には「エレガントな解法」と「エレファントな解法」そして「超越論的解法(?)」の3通りの解法がある。「エレファントな解法」は、ただただ赤→青→黄の順にひたすら仮定を積んでは崩していく方法で、上で"将軍"が考えたもの。「エレガントな解法」(あまりエレガントではないかもしれないが、多少はましな方法)は、赤青黄の3色を同一視するもの。V林田氏の簡潔にして要を得た解答を参照されたい。
問題は「超越論的解法(?)」(上で"アリア"が述べた方法)だ。疑問符をつけたのは、私自身今ひとつ自信がないからだ。要は、この問題に解をあることが保証されている場合、所与に矛盾しない帽子の割り振りの可能性を一つ思いついたなら、少なくとも先頭の人間の帽子の色については事実と一致する、という発想なのだが、どこか大きな見落としをしているような気がしてならない。
ごくたま昨日日記の『夏と花火と私の死体』評と天使の階段の夏と花火と死体のことばを併せて読んだ。どう考えてもこれは「9歳の小学生の言葉ではない」だろう。
と9歳の小学生の考えることを文字にしたところでそれは、9歳の小学生の言葉ではありえません。作者は9歳ではないのですから。
を読み比べると、どちらにも理があるように思えて、なんとも判断しづらい。
以前、私は『蜜の森の凍える女神』についてこの小説の記述者はヴィッキーの弟で15歳の少年、ということになっている。だが、その文章はどうみても中学生らしくない。
と感想を述べた。その一方で『七姫物語』についてはこの小説の全篇が空澄の一人称で書かれている。12歳の少女という設定と硬質で大人びた文体との間にギャップがあるが、『蜜の森の凍える女神』ほどの違和感はない。
と書いている。この違いが何に由来するのか、当時はわからなかった。今から考えてみると、手記の体裁をとっている(作中の「私」が読者が現に読んでいる文章の筆者である)か、単に作中人物の心理を追って記述しているだけ(作中の「私」は当該文章の筆者ではない)かによって、登場人物の属性と文体とのギャップに対する違和感の程度に差が出てくるのではないかと思う。『夏と花火と私の死体』は明らかに後者である(作中の「私」は決して文章を書くことができない!)ので、地の文が9歳の少女にふさわしくないものであることは、この小説の欠点とは言えない。
……というふうに割り切ってしまうと話は楽なのだが、世の中そうそう割り切れることばかりではない。私は『夏と花火と私の死体』を読んで不自然には感じなかったので、その点では松本楽志氏の意見に賛成するが、一般論としては必ずしも手放しで賛成できない(もっとも松本氏自身が一般論として意見を述べているのかどうかはよくわからない)。
なぜなら描写というものは口語体であろうと一人称であろうとすべて比喩であり、そこに書かれているものは、名付けえないものをなんとかして文字に定着させる作業だからです。われわれが何かを考えているとき、それは文字にはなっていません。子供が何かを考えていてもそれは文字ではありませんね。作家はその「考えている何か」を描写として表出させることをします。ですから、9歳の小学生の考えることを文字にしたところでそれは、9歳の小学生の言葉ではありえません。作者は9歳ではないのですから。この引用箇所では「文字」と「言葉」が混用されていて非常に見通しが悪い。確かにわれわれはふつう文字で何かを考えることはない(文字について考えることはあるが、それは別の話)が、言葉を用いずに何かを考えることもほとんどない(本当は全くないと言い切ってしまいたいのだが、近年「言語以前の思考」が認められつつあるようなので控えておく)。9歳の小学生は9歳の小学生の言葉で物事を考えるのであり、それを文字で忠実に表せば9歳の小学生が書くような文章になるだろう。それは
名付けえないものをなんとかして文字に定着させる作業とは全然異質な行いであり、むろん比喩などではない。
SAS(睡眠時無呼吸症候群)にRが入るとSARS(重症急性呼吸器症候群)。どちらも嫌だ。
半端マニアソフトの『冬は幻の鏡』が発売延期だそうだ。そういえば、冬コミで買ってきた体験版をまだプレイしていなかった。
今日のお気に入り。
また、「TACTは勝てる相手としか喧嘩しない」なんてことを言う人もいます。 もちろん「Yes」ではないのですが、これって「No」を証明するには負けなきゃいけないというハメ技じゃありませんか。
(妄執日記(4/5付))
似た例で「お前は手を抜いている。死ぬ気でもっと頑張れ!」とか。
超絶短詩というものがあるそうだ。募集もしている(「超絶短詩」創案者の篠原資明氏のサイト)。私のハンドル「滅・こぉる」も超絶短詩のようなものかもしれない。「こぉる」は間投詞ではないから、ちょっと違うけれど。
愛・蔵太の気ままな日記経由で偏向しすぎ
の石原慎太郎のプロフィールを見た。環境庁長官、運輸大臣を歴任するも、これといった業績なし。
と書かれているが、成田空港の成田新幹線用トンネルを転用してJR在来線と京急乗り入れを実現させたのは石原運輸大臣ではなかったろうか?
新妻の生き様チラリズム 何となくリンク(一つ前の段落とは関係なし)。同じ人の表サイトは隠れてキスをしようというタイトル。
昨日の中途半端なバカパズルについての砂雪氏のコメント(4/5付)より。
私が考えた所だと、「この問題に解があることが保証されている」の「解」が、「私の帽子は何色です」とたった一つの色に特定できると証明された場合にのみ成立するのでは、というのがおもいついたのですが。
最後の最後で推理がループ、または特定しきれないと言う場合が起こらないと証明された上でなければ、この解法は不充分な物なのではないでしょうか。だって、必然の推理の上に到達した解が「この色でもこの色でもどちらでも良い」と言うものであるならば、アリアが行った証明において、矛盾は起きない筈だからです。
もちろん、例の「超越論的解法(?)」は、先頭の人間の帽子の色について2つ以上の仮定が矛盾なしに成り立つ場合には成立しない。他方、エレガントな、またはエレファントな方法で帽子の色が現に証明され、それを知っていることを前提条件にしてしまったら、これはもはや解法ではなく、ただの剰余に過ぎない。この問題に唯一無二の解が一つしかないということが出題者によって保証されており、かつ、その解に別の方法で到達していない場合に限り、「超越論的解法(?)」は有効となるわけで、本当は問題篇の段階でそれを明示しておくべきだった。
「青春18きっぷ」が1日分余っている。期限は10日まで。なんとか消化するため、明日小浜線に乗る予定だ。日帰りできる範囲でJRの未乗線区はここだけなので。
Googleで一文字だけで検索して一番最初に出てくるサイトの一覧表(塊 -SOUL-)
私も同じことをやってみたことがあるが、調査数は全然及ばない。
ざっと見たところ地方公共団体のサイトが多いようだ。
35歳無職男、中1女子をレイプ−神奈川
罪名として児童福祉法違反
と並んで強姦(ごうかん)
と読みがなつきで書いているのに、その他の箇所では乱暴
とか暴行
と書いているのはナンセンスだ。ここは、はっきり「いたずら」と書くべきだ。
最近、自意識がますます過剰になり、検索エンジンで「滅・こぉる」とか「たそがれSpringPoint」などの語句でよく検索をかける。それで知った暫定版 哲学・思想アンテナを見ると「たそがれSpringPoint」について構造批評、文体実験、鉄道
というコメントがつけらけている。鉄道はともかく、構造批評とか文体実験は特に意識していない。というか、私は構造批評のやり方など知らない。下のほうにコメントについて異議のある方、他にもお薦めのサイトを知っている方はこのページから私のサイトを探してどうにかしてみてください
と書かれていたので、どうにかしようと思ってアンテナの主を探してみたが、よく考えると別に異議申し立てをするほどでもないので、そのままにしている。このコメントから構造批評と文体実験を削除したら鉄道しか残らず、同じアンテナの他サイトへのコメントとのバランスが悪くなるだろうし。
源頼朝とか朝永振一郎とかいう人がいる。たぶん同一人物ではないと思うのだが、それはこの際問題ではない。両者ともに「朝」という字を「とも」と読むことに着目しよう。いったい、この「とも」は何なのだろうか?
友達の「友」なのか、「お供の「供」なのか。「共」とか「智」とか「鞆」とか「艫」とかいろいろ考えたが、どうもしっくりこない。そんなことを考えているうちに「tomorrow」に思い至った。「tomorrow」といえば今日の次の日、即ち「明日(あした)」だが、「朝」にも「あした」という読みがある。
朝聞道夕死可矣(あしたにみちをきかばゆうべにしすともかなり)。これは翌日に道案内をしてもらったら、昨晩に死んでしまっても構わない、という意味である。不条理で倒錯した人間心理をよく表している。どうしてたかだか道案内ごときで死んでもいいと思えるのか。また、昨晩死んでしまった人は、今晩お通夜をして翌日にはもう葬式だ。どうして死んでしまった人が道を知ることができるのか。交番のお巡りさんもびっくりだ。
朝あれ、いや、ともあれこれで最初の疑問は解消された。源頼朝は実はイギリス人だったのだろう。不合理だと思われるかもしれないが、彼の弟はジンギスカンだったのだから、そういうことがないとは誰にも断言できない。
「獣欲、郷を征す」という言葉がある。そんな言葉はない、と言う人に私は問いたい。冒頭の括弧内にあるのが言葉でないのだとしたら、それは一体何なのか、と。ただの文字列だろうか? 全く無意味なのか? そんなわけはない。「獣欲、郷を征す」が、獣のような欲望が集落を制圧するということを意味しているのは明らかだ。
昨晩の予定では、今日は小浜線に乗ることになっていた。そのつもりで家を出たのだが、いろいろあって行き先を変更し、宝塚ファミリーランドへ行った。
春休み最後の日曜日、しかもよく晴れていて桜の花も満開とあって、園内は家族連れでごった返していた。ひどく不愉快だった。また、若いカップルの姿も目についた。ますます不愉快になった。だが、宝塚ファミリーランドそのものに悪印象を抱いたわけではない。機会があれば、人の少ない日にもう一度遊びに行きたいものだ。
もちろん、そのような機会はもうないのだが。
数日前からじわじわと読んでいた本を2冊読み終えた。『日本の選挙 何を変えれば政治が変わるのか』(加藤秀治郎/中公新書)と『新・本格推理03 りら荘の相続人』(鮎川哲也(監修)・二階堂黎人(編)/光文社文庫)だ。前者は選挙制度について解説した本で、文中でカール・ポパーの名前が出てきたのにびっくりしたが、詳しい感想を述べるつもりはない。後者については、いろいろと思うことがあり、日を改めて感想文を書くつもり。
今日はさんざん歩いて疲れたので、早めに寝ることにする。
明日は渡世の義理で今日以上に疲れ果てる予定。場合によってはサイト更新を休むかもしれない。
郭公亭讀書録(4/7付「子供の領分」)から。
▼登場人物の言葉が年齢相応のものではない、という批判は一見妥当であるように感じられるが、しかしこれを遵守すると小説の結構そのものが崩れてしまう場合もある。例えば平安時代を舞台とした作品の場合、登場人物たちは現代語で喋っているわけがない。かといってリアリティを尊重し「女官はいままでさぶらはじ」などと書いても誰も判らないだろう。
わざと極端な例を挙げて否定してみたが、悩ましい問題ではあるのだ。例えば、中学生が多数登場する作品で、彼らは語り手の教師に対しほぼ完璧な敬語を使うというケース。実際の中学生がこんなに上手く敬語を使えるわけがない。しかし時流に合わせてばかりいては日本語そのものが崩れてしまう。こんなとき、どちらが正しいと言えるのだろうか?
先日考えてみたテーマと関連しているので、引用してみた。前半は私も考えていたことだが、後半の論点は気がつかなかった。小説は単に類型を描くのみでなく、読者に典型を示すべきものだとすれば、確かにこの問題は考察に値する。
カトゆー家断絶経由で「空爆と空襲」(道浦俊彦の平成ことば事情)を読んだ。これはこれで興味深い記事だったのだが、それ以上に同じページの「クープランの暮」に興味を惹かれた。
その後、いろいろ検索してみて「クープランの墓」の解説をしているページを見つけた。原題は"Le Tombeau de Couperin"だが、「トンボー」というのはバロック時代のフランス音楽の曲種であり、それを「墓」と訳してしまうのはいかがなものかと思ってみたりもしたのだが、この曲の場合は「クープランの墓」が定訳になってしまっているから仕方がない。
さらに調べるとラヴェルには「ドビュッシーのトンボー」という曲もあるらしい(参考:たぶん完全なラヴェル作品リスト)。知らなかった。
ところで、ドビュッシーは「子供の領分」の作曲者である……ということで何となく最初の話と繋がった。おしまい。
造幣局の桜の通り抜け、今年は4/11(金)〜4/17(木)。あ、今週からだ。
浅香山浄水場のつつじの通り抜けの期間も調べようと思ったが、堺市水道局のサイトでは見つけることができなかった。
ゴールデンウィークあたりに当サイトの10万ヒット記念オフ会を開催したい。それまでに達成できるかどうかはわからないけれど。場所は京都(何となく今決めた)、日時は未定。
今日は『新・本格推理03 りら荘の相続人』(鮎川哲也(監修)・二階堂黎人(編)/光文社文庫)の感想を書く。前巻を読んだときには、さんざん悪口を書き散らかしているが、今回はもう少し穏やかに書こうと思う。
私は「本格推理」シリーズをずっと読んできた。箸にも棒にもかからない作品も多く、読んでいて辛いこともあったが、「鮎川哲也」という名前が表紙にある限りは読み続けようと思っていた(途中で投げ出してしまった巻もあるが)。鮎川氏が編集から退き監修者となってからも惰性で買い続けてきたが、今回を最後に名前すら消えてしまう。
本巻には8篇の作品が収録されているが、そのうち3篇が同じ人の作品だ。一人でも多くの人々の作品を世に問うというのが故・鮎川氏の編集方針だったはずだが、その理念も失われてしまった。
そろそろこのシリーズを読むのをやめてもいい頃だろう。ミステリ作家予備軍でもなければ青田買いに精を出す熱心なマニアでもない一介の読者にとって、『新・本格推理』はもはやさほど魅力ある本ではない。
以下、個別作品の感想。
私の好みでは、いちばん面白かったのは『とむらい鉄道』、次が『夢の国の悪夢』と『聖ディオニシウスのパズル』(この2篇はともに首の切断を扱っているが、処理の仕方も作品全体の雰囲気もまるで正反対で、しかも両方とも非常に面白い)、その次が『稷下公案』だった。この4篇は「『新・本格推理』掲載作のわりには」などという修飾語句抜きで、良作だと思う。あとの4篇も決して箸にも棒にもかからない駄作ではないのだが、私は『新・本格推理』に「そこそこ読める水準作」を期待して読んでいるわけではないので、どうしても辛い評価になってしまう。いずれにせよ、『本格推理』が始まった頃に比べると隔世の感がある。まるで世紀を越えたかのようだ。
深川拓氏の日記(4/8付)で「日記を記す」
や「犯罪を犯す」
という表現に言及している。深川氏によれば、これらは個人的な禁忌
で非常に主観的なものなので、説明したところで御覧の方を充分に納得させるのはたぶん無理
だそうだが、私が見たところ、これらの表現は――主観的・個人的な不快感のレベルで論ずるべきものではなくて――日本語としておかしいのではないかと思う(「一文のなかの近い位置に、その必要がない限り同じ漢字を繰り返して使わない」
というふうに一般化してしまうと、個人的な好悪のレベルの話になるだろうが)。日々書き記した文章を「日記」と言い、罪を犯すことを「犯罪」と言うのだから、「日記を記す」「犯罪を犯す」というのはどう考えてもおかしな表現だろう。
では「歌を歌う」や「舞を舞う」はどうか? 「被害を被る」は駄目でも「被害を受ける」ならいいのか? 「違和感を感じる」を避けるために「違和を感じる」と書くべきなのか? 「珍味を味わう」は別に構わないのでは? 考え始めると迷うことも多い。
今朝の文章でゴールデンウィークあたりに当サイトの10万ヒット記念オフ会を開催したい。
などと寝ぼけたことを書いたが、会場の手配が面倒なのでやめた。一時の気の迷いだ。
何と言えばいいのだろう。かつての私にとって「読書」というのはある種「孤独」な作業だった。読んだ本の感想を話す相手がいないことも多かったし、その逆もまたしかり。読み、感じ、考える、といった作業が自己完結的な形で終えることが殆どだったのである。
しかし、現在は違う。曲がりなりにもこうしてサイトを持ち、「読書」または「ミステリ」という共通項から多くの知り合いが出来、読んだ本について語り、共有することが多くなった。というよりもむしろ、そちらが主導になってきているかもしれない。(略)
このこと自体が悪いことだとは思わないし、それはそれで非常に楽しいのである。ただ、ここ最近の違和感は、どうしても拭えないものになってきた。人様が興味を示すことのないような本に手を伸ばさなくなった自分に歯痒さのようなものを感じるのである。
私も自分の読書スタイルの変化に違和感をおぼえた時期がある。読書は、それ自体が目的であったはずなのに、いつの間にか他の人々とのコミュニケーションのための手段になってしまっていることに気づいた時のことだ。ただ、私の場合は読書スタイルの変化のきっかけはインターネットではなくミステリファンサークルだった。それまで孤独な読書を続けてきた私は、しばらくの間、同好の士とミステリについて語り合える幸せに酔っていた。だが、じきに目的と手段の転倒が始まり、次第に自分が何をやっているのか解らなくなってきた。そして、ミステリへの関心がどんどん萎んでいき、そのうちに全く読まなくなった。
インターネットに手を出した当初はミステリ系サイトを巡回することもなく、ひとりで「独自の戦い」を展開していたのだが、いろいろあって方針を変えて「たそがれSpringPoint」を立ち上げ、ミステリ系更新されてますリンクに登録されてからはそこそこミステリの話題を取り上げるようになり、定期巡回するサイトも増えて現在に至っている。
最近の読書傾向を振り返ってみると、何となくミステリ系サイトの動向に流されているように思う。これではいけない。どうにかならないものか。……つまるところバランスだな
。
流れ流され、今日も新刊を買ってきた。『密室ロジック』(氷川透/講談社ノベルス)だ。実は私は氷川氏の長篇を読むのはこれが初めてだ。氷川氏のデビュー前後は私の読書意欲が最も減退していた時期で、同時期に登場した他の作家の本もほとんど手を出していない。氷川氏の作品で読んでいるのは『21世紀本格』(島田荘司・編/カッパ・ノベルス)に掲載された『AUジョー』だけだ。今となっては全く内容を覚えていないのだが、当時の感想文を読むとあまりにもツッコミどころが多かったので、あえて控えた
と書いてある。たぶん私の好みには合わなかったのだろう。
さて、『密室ロジック』を読み始めてみると、冒頭の第2段落に早野詩緒里は思わずつばを呑み込んでいる。ごくん。
という記述がある。「ごくん」という擬音語(擬態語?)だけで文を切っているのがライトノベルふうだ。氷川氏の文体はもう少し硬質なものだというイメージがあったので、ちょっと意外に感じがした。
問題はその次の文だ。彼女は二十六歳になる女性で、東銀座にある音楽系の出版社に勤めている。
これには「う〜ん」と唸ってしまった。彼女は女性に決まっている。昨日言及した「日記を記す」や「犯罪を犯す」ほど違和感があるわけではないが、言葉が重複しているのは確かだ。私なら「彼女は二十六歳(で)、東銀座にある音楽系の出版社に勤めている」(「で」を入れるかどうかは前後の文章のスタイルによって変える)と書く。
最初の数行でつまづいてしまった。でも、この程度でくじけてはいけない。大丈夫、私は先月『蜜の森の凍える女神』を読んだではないか。自分を励まして続きを読んだ。すぐにつっかえた。
同じページの下段、だが、いかんせん詩緒里は子どもというものを――ごく控えめにコメントするとしても――、どちらかと言えばきらいなのだ。
この文はいったい誰のコメントなのだろう? 「ごく控えめに言っても」と軽く書けば問題ないのに、どうして「コメント」などという言葉を使うのだろうか。いや、そのような語感の問題以前に、この文は「てにをは」レベルで間違っている。「詩緒里は子どもというものがきらいなのだ」または「詩緒里は子どもというものをきらっている」でないと日本語としておかしい。
公平に言って、この小説は私にとっては非常に読みにくい存在であるという評価を認めざるをえない。ウェブ上の文章はこれほど読みにくくはないのだが。
結局、今日は24ページまでしか読むことができなかった。どこに伏線が張られているのかがわからないので、とばし読みするわけにもいかない。まあ、あまり長い小説ではないので、今週末くらいには読み終えることができると思う。
文章の話をしたついでに、私の文体について書いておく。
他人が私の文章を読んでどう思っているのかはわからないが、私は自分の文体が好きではない。昔書いた文章を読み返してみて落ち込んだことも一度や二度ではない。
私の文章にはさまざまな欠点がある。語彙が乏しい、逆接が多すぎる、鈍重でくどい、などなど。さらりと流れるような軽やかな文章を書こうと思っても書けない。むりやり書いてみても、ばらばらな文の寄せ集めになるだけで、とても読むに耐えない。仕方がないので、べたべたのしつこい文章に甘んじることになる。
自分の書いた文章を読み返してみて落ち込むこともある。気が滅入るのがわかっているので、あまり読み返したくはないのだが、場合によっては二度三度と推敲しなければならないこともある。そんな時には「これは私が書いた文章じゃない。誰か別の人が書いた文章を今初めて読んで、手直しすべき点を指摘しようとしているんだ」と自分に言い聞かせてみる。だが、そんな事で暗示にかかるわけもない。やっぱり自分の文章は自分の文章だ。記憶を偽ることはできない。
私は美文を求めているわけではない。ただ、心地よい文章が書きたいだけだ。だが、どうすればそのような文章が書けるのか、全く見当もつかない。
今日ペインキラーRDが更新終了した。まだ完全閉鎖ではないが、そのうち消えることだろう。ログを保存するなら今のうちだ。
いくつかのサイトでペインキラーRDの閉鎖を惜しむコメントやペインキラー氏へのねぎらいの言葉を見かけた。私も何か言うべきだと思うが、何も思いつかない。サイトがなくなっても管理人が消えるわけではない。また何かの機会に会えるだろう。
この件と関係があるのかどうか判断はつかないが、JUNK-LANDにちょっと面白いサイト閉鎖のやり方が書かれていた。
#なんとなく、サイトを閉鎖する時は、なにがなんでも4月1日にしようと思いました。できれば“4月1日に嘘の閉鎖告知”というレッドへリングを3〜4回(つまり3〜4年)繰り返した後、まったく同じ体裁で本気で閉鎖しちゃう、というのがベストですね。コードネーム“狼少年の逆襲”企画と名付けましたが、“閉鎖したいと思ってから実際に閉鎖するまで4〜5年かかる”という点が難点です。
私は「たそがれSpringPoint」の前に別のサイトを3年近く運営していた。いろいろと行き詰まりを感じて、新規まき直しのためサイトを閉鎖することにしたのだが、なかなか区切りがつかない。だが新サイトの名前は「たそがれSpringPoint」と決めてあったから、旧サイトの閉鎖は10月1日では遅すぎる。そこでほとんど自動的に9月30日が最終日となった。
たまたまその年の9月30日は名鉄特急「北アルプス」の最終日だった。だから、「たそがれSpringPoint」も何か鉄道関係の記念日にあわせて閉鎖しようと思う。ローカル線の営業終了日が理想だが、逆に新線開業日でもいいかもしれない。ただ、どちらにしても“狼少年の逆襲”企画
ほど面白くない。思い切って最終列車(新線開業日なら始発列車)に飛び込んで、サイトとともに自らの人生も終了してしまえば、かなりインパクトが強くなるのだが、なかなかそこまで踏み切れるものではない。
昨日の読書の話に関連して思い出したことがある。
昔、自分主導型の読書
とコミュニティ主導の読書
という枠組みを超えた読書スタイルの人に会ったことがある。その人にとって読書とは「作家さんと仲良しになるための手段」だった。
まめに講演会やサイン会に出かけ、またミステリファンサークルで作家と親交のある人を見つけては頼み込んで作家に会う機会を作ってもらう。さらにパソコン通信(当時はまだインターネットは普及していなかった)を通じて作家とコンタクトをとる。こんな活動をしていたらしい。
同好の士とのコミュニケーションのための読書の場合、目的と手段が転倒しているとはいえ、まだ読書そのものを楽しむという要素が残っている。その要素を前提として、ファンどうしのコミュニケーションが成り立つのだから。だが、件の人は「読書は純粋な手段であり代替手段があれば別に本を読む必要はない」とまで言い切っていた(ただし、ここに書いた言葉そのままではない)。
私は自分の好きな小説の作者に会えば、発想のきっかけや小説執筆時の苦労話などを聞いてみたいと思う。だが、小説と直接関係のない私生活の話は聞きたいとは思わない。また、次の作品の構想は知りたいが、将来の生活設計の構想には全く興味がない。そんな私にとって「作家さんと仲良しになる」ということを目的として行動する人の心理はよくわからない。たぶんアイドルの追っかけに近い行動原理で動いているのだろうが。
ここ数年私はその人に会っていないので、今どこで何をしているのかは知らない。インターネットが普及し、作家の個人サイトも増えた昨今では、あえて読書という手段によらずともコミュニケーションの方法はある。あの人は今でも本を読んでいるのだろうか……。
『密室ロジック』を今日は82ページまで読んだ。ようやく事件が発生した。39ページ上段8行目に、またしても洗脳探偵翡翠のような表現が……。ちょっとめげそうになった。でも、ここまで読んだのだから最後まで読み通す。やると言ったらやるんだ!
今日、私は生まれてはじめて成分献血した。頭がくらくらした。体から血を抜かれたような気分だ。
はてなダイアリー- 186(3→4)でビートルズやらギターやらの話題に紛れてさりげなく次の授業はロックとクワインの筈。
と書いてある。一瞬「クワイン」という音楽用語があるのかと思った。