日々の憂鬱〜2003年1月下旬〜


1.10524(2003/01/21) 二分割のパラドックス

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030121a

 『甘い水』(上)(松本剛/講談社)を読んだ。オビによれば、この作品は別冊ヤングマガジン連載中だそうだ。私は週刊ヤングマガジンは毎週読んでいる(あのパチンコはいつになったら終わるのだ!)が、別冊はチェックしていないので、今でも続いているのかどうかは知らない。だが、今月出た本(奥付による。実際には去年末に出ていたのかもしれない)なのだから、まだ連載は終わっていないのだろう。それなのに、「1巻」とか「第1集」ではないのは、最初から起承転結が決まった短期集中連載の形式をとっているのだろう。奥付には原案協力/板垣久生と書かれているので、企画物なのかもしれない。だが、映画やドラマとの連動企画なら、どこかに書いてありそうなものだが、そういった宣伝文のようなものは見あたらない。もう一つ不思議なのは、初刊本なのにいきなりハードカバー(税抜きで1200円)だということだ。
 松本剛の久々の新刊が出ているらしいということは、たぶんどこかのウェブサイトで知ったのだと思う。だが、『いちご実験室』(山名沢湖/講談社)ほど話題になっているわけでもなく、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。昨日たまたま近所の本屋の一般書新刊コーナーにあるのを見かけ、ハードカバーであることに驚きつつ購入した次第。私は小説本でもめったにハードカバーでは買わないのだが、松本剛の新刊なら決して高くはない(でもソフトカバーのほうがありがたかった……)。何より、1993年に出た『北京的夏』(講談社)を書店で見かけて一度は手に取りながら「ああ、これ原作つき(ファンキー末吉)か。欲しいけど、ちょっと値段も高いし、後回しにしよう」と思って棚に戻して以来、およそ10年間古本屋ですら一度もお目にかかったことがないくらいなので、ここで「ハードカバーだから……」などと言って逃してしまうと次に出会えるのは何年、いや何十年先になるかわからないので、四の五の言ってはいられないのだ。ああ悪文だ。
 私の手元にある松本剛の唯一の本は1991年に出た『すみれの花咲く頃』(講談社)だ。表題作もさることながら、併録されている『教科書のタイムマシン』が非常に素晴らしい。さりげなく小道具に広瀬正の『タイムマシンのつくり方』を用いてノスタルジックな雰囲気を盛り上げた(しかしノスタルジーの質は広瀬正とは全然違う。広瀬正のノスタルジーはセンス・オブ・ワンダーと表裏一体だが、松本剛のそれはSFとは相性が悪いだろうと思う)傑作で、もし手元に本があと何冊かあれば手当たり次第に人に押しつけて読ませたくなること間違いない。だが、残念ながら私は一冊しか本を持っていないので、誰にも貸さずにこっそりと一人で読むのだ。同じ本に収録されている『もんくのある気持ち』(タイトルの「もんく」は「文句」と「モンク」をひっかけたもの。「モンク」といってもメレディス・モンクではなくてセロニアス・モンクのほう……などと断るまでもないか)も高校生の瑞々しい感性が伝わってくるような、いいマンガだった。『すみれの花咲く頃』以降だと1993年の『すこしときどき』も雰囲気がいい作品だった。これは単行本未収録なので(そもそも松本剛の本は『甘い水』以前には『すみれの花咲く頃』と『北京的夏』しかない)今入手するのは困難なのが残念だ。ああ、昔はよかったなぁ。
 こんなふうに書くと、「じゃあ『甘い水』は駄目なのか?」と疑問に思う人もいるだろうが、そういうわけではない。ただ、この作品はまだ完結しているわけではないので今は感想を差し控えておきたいのだ。それに、私のトンチキ感想文で妙な予断を持たれるのが怖い、というのも理由の一つだ。
 そういうわけで、何が何だか全然わからないとは思うが、『甘い水』はおすすめなので、騙されたと思ってぜひ読んでみてほしい。

1.10525(2003/01/22) ボルヘスとたわし

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030122a

 ちくま文庫から『ボルヘスとわたし』(ホルヘ・ルイス・ボルヘス/牛島信明(訳))が出ている。二、三日迷った末に今日買った。どうして迷ったかというと、読めるかどうかがわからないからだ。新年に入ってから読書ペースが去年以上に落ちていて、このまま積ん読状態になる公算が大きい。一篇一篇はごく短いので、気が向いたときに少しずつ読んでいこうとは思っているのだけれど。
 この本をレジに持っていく際に気づいたのだが、税別で1300円で結構値が張る。訳者の文庫版あとがきの最後のページで356ページ、それほど厚い本ではないのだが。たとえば『楽隊のうさぎ』(中沢けい/新潮文庫)は340ページで税別514円だ。やっぱり高い。ブックオフなら(以下略)。
 本の値段が高いのは、金を出して買う身にとっては決してありがたいことではない。だが、それなりの金さえ払えば、あまり一般受けしない本でも簡単に入手できるようになったのは喜ばしいことだ。しっかりとした内容の本はハードカバーで読みたいという人もいるだろうが、手軽に持ち運びできて場所をとらない文庫本(もちろん「比較的」という修飾語句が必要だ。私の部屋は徐々に、しかし確実に文庫本に埋め尽くされつつある)のほうが私は好きだ。
 『ボルヘスとわたし』には名作『死とコンパス』が収録されている。これは『伝奇集』(岩波文庫)でも読むことができるが、ミステリファンなら読んで損はない傑作だ。「ミステリも小説である以上は人間を描かなければならない」という信念をもった人にこそ読んでもらいたい、人間的要素を徹底的に捨象して数学的美しさを描き出した作品だ。余談だが、我孫子武丸の某短篇では、これでもまだ足りないとばかりに、さらに完璧な美を追求している。そのような読み比べをするのもミステリの楽しみの一つ。
 偉そうなことを書いたが、私はボルヘスの作品はほとんど読んだことがない。名前の綴りが Jorge Luis Borges だと今日はじめて知ったくらいだ。知らず知らずのうちにトンチンカンな事を書いてボロが出るといけないので、このくらいにしておこう。

 某氏が某社に就職内定した。大っぴらに祝うといろいろと差し障りがありそうなので、ここでこっそり祝っておく。

 昨夜、後輩に電話して聞いた話によると、去年の収入の半分くらいが税金に持っていかれそうだ、とのこと。生まれてこの方確定申告など一度もしたことがないサラリーマンには全く見当もつかないのだが、自営業者の税金というのはそんなに高いのものなのか。

 急に旅に出たくなった。特にあてがあるわけではないが、何となく山陰地方がよさそうだ。松江から一畑電鉄に乗って、木次線、福塩線を辿って三江線で江津へ、などと考えてはみたものの、何日かかるか想像もつかない。「朝霧の巫女」的三次観光ガイドkansuke.jp)をたよりに古い街並みを散策するのも一興だが、根が貧乏性なので乗りつぶしに終始しそうだ。10年くらい前に出雲へ行ったときにも、出雲大社の鳥居前で引き返してきたくらいだから。縁結びの神様をこけにしてしまったのはまずかったかも。

1.10526(2003/01/23) 今日は何を書こうかな

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 今日は全くネタがない。一つだけネタを考えてあったのだが、参照ページがサーバーダウンで見られなくなってしまっているので、書いても仕方がない。かわりのネタをひねり出そうとしても、頭の中が真っ白になっていて、逆さに振っても何も出てこない。いや、本当に逆さに振ったわけではないけれど。
 ウェブを巡回してみても、これといった話題はなかったので今日は更新せずにさっさと寝てしまおうかとも思ったのだが、一回の休みが二回になり、二回の休みが四回になり、四回の休みが八回になり、八回の休みが十六回となり、十六回の休みが三十二回となり、三十二回の休みが六十四回となり、六十四回の休みが百二十八回となり、百二十八回の休みが二百五十六回となり、二百五十六回の休みが五百十二回となり、五百十二回の休みが千二十四回となってしまうかもしれない。それにしても「千二十四回」というのは違和感がある。漢数字を使うにしても「一〇二四回」のほうが自然だ。でも「〇」は漢数字なのか?
 そんな、どうでもいい事を書いたついでに、意味もなく一畑グループホームページにリンク。当サイトへのリンクについては、基本的にはフリーですが、事後でも宜しいのでご連絡いただけると嬉しいです。また、グループに不利益であると判断した場合はお断りする場合もございます。という注意書きがナイスだ。事後連絡する気は全くないが、別に一畑グループに不利益なことを書いているわけではないので、文句を言われることもないだろう。
 ところで、一畑電鉄航空部ってすごいなぁ。

 まだ一週間以上先のことだが、1/31(金)は渡世の義理によりサイト更新を休む予定だ。ところで1/31といえば何かがあったような……。ああ、そうそうMYSCONの参加受付開始日だった。
 21時から受け付け開始ということだが、その日の21時頃には私は家にいないし、22時頃にも家にいないし、23時頃にも家にいないし、24時頃にも家にいないし、25時頃にも家にいないし、26時頃にも家にいないし、27時頃にも家にいないし、28時頃にも家にいないし、29時頃にも家にいないし、30時頃になるとさすがに無茶だと思うが、いったい「2×時」という表現はどこまで許されるものなのか?
 ともあれ、私が家に帰ってくるのは早くとも2/1の23時半頃で、それまでは全くネットにアクセスできない状況だ。もし、それまでに私がMYSCONに参加申し込みしていたなら、

  1. 「渡世の義理」が消滅した。
  2. 「渡世の義理」を無視した。
  3. 「渡世の義理」に見捨てられた。
  4. 実は申し込みをした「滅・こぉる」は代理人だった。
  5. 実は申し込みをした「滅・こぉる」は同名異人だった。
  6. 実は申し込みをした「滅・こぉる」は同盟罷業だった。
  7. 宇宙の根本的原理の導きによる。
  8. 世界の論理的構築の導きによる。
  9. 時空の可能的無限の導きによる。
  10. 何かの間違い。
のいずれかであると思われる。いずれにせよ、およそありそうもない事態であることに違いはない。100パーセントあり得ない、とまではいえないが。ともあれ私が1/31にMYSCONに申し込みしたかどうかはMYSCONスタッフでないとわからないことだから、どうでもいいことだ。
 問題は、今回のMYSCONの申し込みが定員いっぱいになるのがいつ頃か、ということだが、回を追うごとに人気が高まっているイベントとはいえ、さすがに一晩で定員オーバーになってしまうということはないだろう。一週間くらい大丈夫なのではないかと思う。

 ここまで書いたところで不壊の槍は折られましたが、何か?(1/23付「新年会にて」)を読み、激しく鬱になった。

つまりは、どうしたら、人と一緒に楽しそうに過ごせるのでしょうか。
どうやったら、皆ほど場に溶け込めるのでしょうか。
(略)
私に致命的にかけるのは、人間関係を普通に構築すること。
他人には、そんなの簡単極まりないことなのだと思います。
でも、私には無上に難しいことなのです。
 上で書いた「渡世の義理」の翌日くらいに、私も似たようなことを書くことになるかもしれない。

1.10527(2003/01/26) 『てんてきあくまちゃん』を読む

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030126a

 『てんてきあくまちゃん』はPINKちゃんねる(よくは知らないが2ちゃんねるの別館のようなものらしい。2ちゃんねるの掲示板一覧にはPINKちゃんねるの板も掲載されているので、ハヤカワ文庫とハヤカワ・ミステリ文庫の関係に似ているのかもしれない)の半角二次元掲示板の「常時ageで業者を釣るスレ」に掲載された物語である。そのスレッドは既に過去ログ倉庫行きになっているが、てんてきあくまちゃん保管庫てんてきあくまちゃん保管庫(ミラー)いちごショートケーキパニック)で読むことができる。さほど長いお話ではないので、未読の方は一度読んでみてほしい。初出の掲示板は21歳未満立ち入り禁止だが、『てんてきあくまちゃん』そのものは、そういう話ではないので、お子様でも安心だ。
 ………
 ………
 さて、お読みいただいただろうか? 先を続けよう。
 私はこの物語をまいじゃー推進委員会!1/21付)で知った。どうしようもないスレから突如としてはじまった泣き系のお話なのですが、こういうものが地下でなにげに進行していたりするから侮れません☆という紹介文に興味を惹かれて読んでみたのだ。てんてきあくまちゃん保管庫でもそれは、クソスレから生まれた一つの奇跡。と書かれているので、この物語のポイントの一つが発表の場とのギャップにあることは言うまでもない。たとえは悪いかもしれないが、『いちご実験室』(山名沢湖/講談社)を読んでいて、いきなり不可能犯罪に出くわしたような、そんな驚きがここにはある。半角二次元板住人たちが感動し、狂喜したのも無理はない。
 では、これを単体として見るとどうか? あまりにも湿っぽい題材、ありきたりな展開に辟易する人も多いだろう。だが、この物語が"泣き"のツボに入った人なら、涙を流すかもしれない。"萌え"と同じく、受け手の感性によって印象はさまざまなものになるから、客観的な評価は下しにくい(「では、客観的な評価がそもそも可能な類の物語はあるのか?」 この問いに対して「ある」と答えたいところだが、そのためには「客観的」という言葉の吟味から始めなければならないので、おいそれと取りかかれる問題ではない)。私の感想をなるべくドライにまとめると次のとおり。
 悪魔に「ちゃん」を付けて呼ぶことに意外性はないが、上に「てんてき」(一瞬、「天敵」かと思ってしまったが)を付けることで異化効果をあげている。また、このタイトルは単に奇をてらっただけでない。プロローグ末尾の一文でも明らかなように、涙の比喩にもなっており、内容との連関もある。掴みとしては十分だろう。
 主要登場人物の名前にも工夫が見られる。擬人化され悪魔としての属性をほぼ失ってしまった「あくまちゃん」は全部ひらがなだから、調子を合わせるなら「てんしちゃん」にすべきところなのにあえて「天使ちゃん」と表記しているのは、"見た目"の効果のほかに天使ちゃんが天使としての属性を発揮する場面を暗示しているとも考えられる。第6話で神と直接会話し、第7話では交換日記と写真の裏にあくまちゃんへのメッセージを書いているが、これは常人の能力を超えている(これに対して、あくまちゃんのほうは普通の人間である)。
 物語前半のモティーフは"ヤマアラシのジレンマ"で、実際に病人ならこんなふうに考え行動するだろうと思われる言動がうまく描写されている。ただ、天使ちゃんの心の中まで書いてしまっているせいで、ただでさえ湿っぽい話なのにさらに湿度があがってしまっている。あくまちゃん、天使ちゃんの双方が同じジレンマを抱えているということをわかりやすく示していていいという見方もできるだろうが、後半の展開を考えるとここは少し文章の湿度を控えめにしておいたほうがよかったのではないか。
 "泣き"("泣かせ")の技法としての自己犠牲と死は数多くの物語で用いられている。神様を物語に出してくるのは安直だともいえるが、もともとそのために登場人物を(擬人化された)悪魔と天使に設定しているのだから、その事に文句を言っても仕方がないだろう。第3話の最後の段落で伏線を張っている点を評価すべきか。しかし、個人的にはもう一ひねり欲しかったように思う。
 『てんてきあくまちゃん』を読んで私が連想した物語が二つある。一つは浜田廣介の『ないた赤おに』、もう一つはオー・ヘンリーの『最後の一葉』だ。どちらも有名な作品なので読んだ人は多いと思うが、もし未読の人がいたら直ちに読むぺし。『ないた赤おに』はここ、『最後の一葉』はここ(『最後の一枚の葉』)で読むことができる。
 ……
 ……
 お読みいただいただろうか? 続けよう。
 『ないた赤おに』は1933年の作で、その後日本語は急激に変化したため、今読むと古色蒼然の感がないでもない。だが、その古めかしさがかえって物語に何とも言えない趣を与えているように思われる。発表当時の人々はたぶんそのような趣は感じなかっただろうし、作者も意図しなかっただろう。そう考えると『ないた赤おに』は年月を経て成長しているのかもしれない。
 文体の話はこれくらいにしておこう。
 『ないた赤おに』もまた擬人化された人外の者の物語である。ここでも自己犠牲のモティーフが現れている。ただし青おには死ぬわけではないので、その分"泣き"のツボは一つ少ない。だが、青おにが生きているということがかえって"泣き"の重要なポイントとなる。村人と一緒に楽しく暮らす赤おにと同じ空の下で青おには生き続けていて、おそらくは孤独な生活を送りながら今も赤おにの幸せを祈っている。もし、額を柱にあてた時の傷がもとで既に青おにが死んでいるという結末だったら、これほどの"泣き"効果は生まれなかったことだろう。なお、この物語では最後の場面まで湿っぽさを全く前面に出していない。青おにの心理が直接語られることはなく、最後の書き置きで初めて"泣き"が生じる。最初から高湿度の文章を全開にした『てんてきあくまちゃん』に抵抗がある人でもわりとすんなりと読めたのではないだろうか。
 『最後の一葉』も『ないた赤おに』並に"泣き"効果が高い物語である。こちらは「人間の死」を扱っているため、ベタな話になりそうなところだが、ミステリ的な技巧を用いることで、"泣かせる話"に特有の臭みから免れている。
 ベーアマンの犠牲によりジョンジーの命は救われる。その点だけを見れば『てんてきあくまちゃん』と同じ構造だが、『最後の一葉』では死者の数の帳尻合わせ(死すべき者を救うためには同数の生ける者の犠牲が必要である)という原理が作中で明示されているわけではなく(むろん、作品世界そのものには帳尻合わせ原理が働いているが、作中人物であるベーアマンにとってはそのような原理は知ったことではない)、自己犠牲のモティーフはやや弱い。だが、挫折した芸術家のモティーフとうまく組み合わせることで、強力な"泣き"を現出させている。複数のモティーフを組み合わせてストーリーを構成し感動を高める技巧にかけては、オー・ヘンリーに敵う者はほとんどいないだろう。
 さて、『てんてきあくまちゃん』を東西の名作2篇と比較してみると、自己犠牲のモティーフの展開方法の巧拙の点で若干見劣りするのは否めない。だが、『てんてきあくまちゃん』の"泣き"ポイントはそこだけではない。先に指摘した前半部分の"ヤマアラシのジレンマ"のモティーフにこそ目を向けるべきではないか。"ヤマアラシのジレンマ"はショーペンハウアーの昔から知られていたことだが、現代においてより切実で身近なテーマになっているのではないか――特にオタク的な文脈において。というのは、"萌え"に見られる対象への到達不可能性(ここを参照されたい)の背景にも"ヤマアラシのジレンマ"が隠されており、それが表面に押し出されたとき"泣き"を生じる、従って"萌え"と"泣き"は表裏一体であるという仮説を私はひそかにあたためている(と、こうやって書いてしまっては「ひそかに」とは言えないのだが)。『てんてきあくまちゃん』が半角に次元板住人を感動させたのは、彼らのオタク的感性のツボを的確についたからではないのか。今のところ漠然とした思いつきに過ぎないので、これ以上論を進めることはできないのだけれど。
 例によって尻切れトンボになってしまった。これから"泣き"物語を作ろうと思っている人の参考になれば幸いである(が、クリエイターの発想法とは全然別の視点で書いたのでたぶん何の参考にもならんだろうな)。あと、トンボ繋がり(?)で極楽トンボ氏のコメント、そしてこれを契機に他のライトノベルにも手を出してみるとよいですよ☆(上で引用した紹介文の続き。「本日の木乃葉子トピック」内の文章なので木乃葉子嬢の台詞ではないか、などと堅い事を言わないように)を引用しておこう。そのうち"泣ける"ライトノベルガイドをやってくれることを期待しつつ。

 その他。

1.10528(2003/01/27) 亀の甲よりテコンV

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 帰りの電車を待つ駅で「亀の甲よりテコンV」というフレーズが天啓のように閃いた。はっ、もしかして私は天才じゃないのか? まさしく「奇跡の詩人」? 今日これを見出しにしてサイトを更新すれば、閲覧者は感激し、あちこちのニュースサイトは一斉にリンクを張り、アクセス数はうなぎ登りになり、私は一躍ネット上の寵児となり、「たそがれSpringPoint」はブログ史に残る名サイトとして長く語り継がれるのだ。いやいや、影響は単にネット上にとどまるはずがない。株価は急騰し、黄金の山が発見され、ついでに丸い四角も出現するかもしれない。「亀の甲よりテコンV」というごく短い言葉には宇宙の深淵が表現されており、それを見出した私は世界を支配する王者となるのだ。もしかしたら世界征服はちょっと無理かもしれないが、それでも川崎市くらいは支配できるだろう。この世は荒野だ。野望のためには手段を選んではいられない。富と権力を得て、さらに名声をも我が手に掴むのだ。フィールズ賞とマグサイサイ賞を同時受賞し、世界中に「滅・こぉる」の名をとどろかせるのも不可能ではない。何といっても私は「亀の甲よりテコンV」というフレーズを発見したのだから。ついでに、ちょっと格は落ちるがノーベル賞をもらってやるのもいいかもしれない。だが、ノーベル賞といってもいろいろある。平和賞でもなければ医学賞でもなく、当然経済学賞でもないから……あれ、何賞だろう?
 そこで我に返る。「亀の甲よりテコンV」って何よ? 韻を踏んでいるわけでもなく、特に語呂がいいわけでもない。そもそも「V」って何のことだ? V林田日記の「V」か? もしそうだとして、それが私にいったい何の関係があるというのだろう? 私はしがない一介のサラリーマン、夢も希望もなく、当然野望など地方消費税率よりも少なく、名もなく貧しく萌えもなく、誰からも愛されず、誰からも慕われず、誰からも敬われず、砂を噛むような日々の憂鬱をウェブサイトに書き連ねてはみるものの大手サイトからリンクされているわけではなく、いや、知らない間にカトゆー家断絶からリンクされてはいるけれど、だからといって面白い文章が書けるようになったわけではなく、病める時も健やかなる時もただだらだらと駄文を書き散らかすだけのこんなサイトに意味があるわけでもなく、私のたった一つの心の支えはGoogleで「滅」一字で検索したらトップに来るということだけで、でもそれもいつまで続くかわからずびくびくしながら今日も検索して「ああ、まだトップだった。助かった」とひとり呟く小市民に過ぎないのである。
 ついでだからほかの文字でも検索してみよう。賢明なる諸君は、今日はネタがないからこんな話題でごまかしているということに既にお気づきのことと思うが、気づかないふりをして読み進めていただくとありがたい。「死」で検索すると、トップはお葬式プラザ/死の総合研究所というサイトだ。これは何となく面白そうなのでブックマークに登録しておいて、後でじっくりと読むことにしよう(といって後でちゃんと読んだためしがないのだが)。2番目は青森県不老ふ死温泉。こんな温泉があるとは知らなかったが「白骨温泉」とか「猫魔温泉」があるのだから、こういうのもありだろう。一字だけひらがなの「ふ」になっているのがユーモラスだ。
 「亡」一字だと空亡の不思議。どうやら占い関係のページのようだ。「憂」なら無憂ホームページ「鬱」なら二重人格鬱々だ。面倒なので、以下箇条書き。タイトルはすべてヘッダーのタイトルタグから転記するので、サイト名とは違っている場合もある。

 こうやって調べてみると、世の中にはいろんなウェブページがあるということを改めて実感する。一つくらいは私が見たことがあるサイトが混じっているのではないかと思ったのだが、すべて初見だ。この中で明日もトップの座を保っているページはいくつあるのだろうか……。いや、他人の事を心配するより、まず自分の事を考えないといけない。精進しなければ……って何をすればいいの?

 最近ミステリからすっかりご無沙汰している。「第3回本格ミステリ大賞」の候補作が決定したが、私は一冊も読んでいない。ネットミステリ者が選ぶ「本格ミステリ大賞」政宗九の視点)が今回もあるのなら、それにあわせて読むつもりだが……『オイディプス症候群』はつらいなぁ。

 最近、複数のサイトで「金田一耕」という表記を見かけた。

 昨日の『てんてきあくまちゃん』を読むについて某氏からメールにてあの作品においてはヤマアラシのジレンマに正面から答えを出すのでなく、二人の対峙を回避した形での解決しか与えられていない点も、私にとっては少し物足りない気がしました。というコメント。敗北主義者の私としては、このジレンマには正面から答えを出すことは不可能だという思いが強いのだが、遠藤淑子が同名のマンガで、「立ち上がって抱き合えばいいんだ」 という解答を提示しており、もちろん「そうできれば苦労はない、できないからジレンマなんだ」という反発は可能ですが、そういう解答を真正面から全力投球で描いてしまうところが彼女の強みなのだろうと思いました。と言われてしまうと、確かにそこに一つの可能性があることは認めざるを得ない。ただし『山アラシのジレンマ』はベタな"泣き"を追求した作品ではないので、単純に比較対照はできないようにも思う。ともあれ、『山アラシのジレンマ』はこのテーマに関心のある人には必読だとはいえるだろう。今入手できるかどうかは知らないが。

1.10529(2003/01/28) 無限に広がる宙出版も虎の威を借るフォックス出版も実は似たようなものではないかと言ってみるテスト

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030128a

 今日は幸い天啓に恵まれなかったのでどうでもいい見出しだ。ちなみに宙出版はこちら、フォックス出版はこちら

 一昨日の文章で、極楽トンボ氏が"泣ける"ライトノベルガイドをやってくれることを期待する、というようなことを書いたところ、このたびめでたく実施されることとなった。なんかおすすめの泣けるライトノベルがあったら掲示板でお知らせください、とのことなので、ライトノベルに一家言のある人は今すぐにまいじゃー掲示板ツヴァイへ! 私はライトノベルに疎いので、なまあたたかい目で見守ることにしよう。
 ちょっと気がひけるので、ライトノベル以外で泣ける物語をいくつか思いつくまま挙げてみる。以前にも紹介したことがある作品もあると思うがご容赦願いたい。
 まず最初は『最後の一葉』の作者オー・ヘンリーの最高傑作(と私は思っている)『失われた改心』。凄腕の金庫破りが銀行家の娘と恋に落ちて正業に就くことを決意し、"商売道具"を手放そうとしたまさにその時、幼い子供が誤って銀行の金庫に閉じこめられてしまう。ちょうどその時、金庫破りの跡をずっと追い続けた名探偵がその街に到着して……というお話。私はずっとこの話のラストを改心した金庫破りを名探偵が見逃してハッピーエンドになるものだと思っていたのだが、先日読み返してみて、実はラストシーンの後、名探偵の情けを振り切って自首することになるのではないか、と思い直した。どちらの読みが正しいのだろうか?
 二番目は、『パタリロ!』から「FLY ME TO THE MOON」。、「その日パタリロは生まれて初めて心の底から泣きました」というラストの一文はたかゆ氏ならずとも涙なしでは読めないに違いない。アニメ版のナレーションも印象深い(参照)。
 ロケット繋がりで、三番目はトム・ゴドウィンの『冷たい方程式』。冷徹かつ非情。いたいけな少女を一介の肉塊に変えるお話(だんだん紹介が投げやりになってきた)。海外SFの名作には他にも泣ける話がいくつもあるが、タイトルも作者名もうろ覚えだし今から調べるのも面倒なので、一つだけにしておく。
 最後にエドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』を挙げておこう。これは戯曲なので最初はとっつきにくいかもしれないが、すぐに物語に引き込まれること間違いなし。間違っていても責任はとらないので念のため。岩波文庫の味わいのある名訳(辰野隆・鈴木信太郎)でどうぞ。

 先日からぼちぼちと『さみしさの周波数』(乙一/角川スニーカー文庫)を読み、今日読み終えた。でも感想は書かない。なぜ書かないのかも秘密。

 エニグマのマリオネット批評における立ち位置の問題 II(1/27付)から。

私がミステリマニアなのは知ってらっしゃる方も多いかと思いますが、現在ミステリの評論はほとんど全滅といっていい状態なのです(一部素晴らしい人もいますが)。声がでかいのは読書量だけがウリで構造分析など出来もしないオッサン、オバサンばかりで、「このミス」やら「本の雑誌」やらを読んでいると「お前ごときが言うな黙れ」と思うことがしばしば。その一部には、ただ「つまんない」と言い続け、他人の足を引っ張っているだけの作風が「毒舌」として受けているような人もいます。
 上で『さみしさの周波数』の感想文を書かないといったすぐ後なので、何か含むところがあって引用したのだろうと思われる人もいるかもしれないが、そういうつもりは全然ない。ただ何となく紹介してみたくなっただけ。

 昨日「テコンV」の「V」はV林田日記の「V」だという仮説を立てた。V林田日記のVはVerticalのVだそうだが、そうすると「テコンV」は「テコンVertical」の略ということになりそうだ。どうもよくわからない。
 ついでなので不思議な呼称で検索してみたが、もちろん私のサイトは引っかからない――今日のところは。
 ついでのついでに、今日も「滅」一字で検索してみた。日記で頻繁に「滅」を書き込めば、滅・こぉる氏のサイトが1番上ではなくなるだろう。というコメントに不安を感じたからだ。
 大丈夫。まだここがトップだ。

 この世には二種類の人間がいる。回っている扇風機の羽根を見ると、そこに指先を突っ込んでしまう自分の姿を想像して恐怖にかられる人と、そのような恐怖を全く理解しない人の二種類だ。幸い今は冬で、私の手の届く範囲にはハロゲンヒーターしかないし、ハロゲンヒーターには羽根がないので、私は恐怖にかられずにこうやって文章を書いている。だが、ハロゲンヒーターに指先を突っ込んだらやけどをしてしまうのではないか、そう考えるとやはり恐ろしくなる。

1.10530(2003/01/29) ぴんち

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030129a

 アクセスログで気づいたときには素知らぬふりをして済ませようかとも思ったが、見下げ果てた日々の企てからリンクを張っている(ちなみに、私の記憶にある限りでは「たそがれSpringPoint」が「見下げ果てた日々の企て」からリンクされたことは一度もない)くらいなので、全く無視するわけにもいかないだろう。だが、ここからリンクを張って紹介するのは敵に塩を送るようなものだ。
 「敵に塩を送る」といえば、武田信玄が上杉謙信に「すぎかれてたけたぐひなきあしたかな(杉枯れて、竹類無き、朝かな)」という歌(俳句?)をおくったら、謙信が「すぎかれでたけだくびなきあしたかな(杉枯れで、武田首無き、朝かな)」と返歌したというエピソードが思い起こされる。或いは、「ウェストケンジントンに行きたいときは『上杉謙信』といえば通じる」と教えられ、タクシーの運転手に「武田信玄」と言ってしまったというエピソードもある。どちらも眉唾ものだが。
 ところで、私はスズキトモユ氏とは面識がないのだが、知人から「スズキさんは実はひきこもりらしい」という噂話を聞いて一時期すっかり信用していた。その後らじ氏から「いや、トモユさんはひきこもりじゃないはず」と聞かされた。件の知人は「だって、見下げ果てた日々の企ては頻繁に更新しているし、紹介している本の数もハンパじゃないんだから、ひきこもりとしか考えられないでしょう」と言っていて、その時は「なるほどそうか」と思ったのだが、よく考えるとこれは全然理由になっていない。この論法が通用するなら、毎日更新している読書系サイト管理人は全員ひきこもりだということになってしまうではないか。
 ちょっとした雑学ネタや、伏せ字まじり(上の段落の「ひきこもり」は最初すべて「×××××」だった)の思わせぶりな文章で、ほとんどの読者の注意が逸れたことと思うが、駄目押しのためにもう一つ別の話題を取り上げておこう。
 明後日の午後9時からMYSCONの参加受付が開始される。前に書いたように、明後日私は渡世の義理でネットに接続することができない(よって「たそがれSpringPoint」の更新も一回休み)ので参加申し込みができないが、申し込みフォーマットへの記入だけやってみた(一部伏せ字にしておく)。

ハンドル名  :滅・こぉる
ハンドル名ヨミ:メッ○ール
メールアドレス:noname@imac.to
主催HP名称 :たそがれSpringPoint
URL    :http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/
HPコンテンツ:ヤマアラシのジレンマ
(20字以内 参考→12345678901234567890)
好きな作家(国内):天城一
好きな作家(海外):オー・ヘンリー
昨年、既刊新刊問わずいちばん面白かったミステリは?:江戸川乱歩『二銭銅貨』
よく行くミステリサイト:Mystery Laboratory
現居住地(都道府県名):ひ・み・つ
若竹七海さんに質問!:コージー書いてて楽しいですか?
参加にあたって一口コメント:最近ミステリサイトを始めました。なかなか会えない他のサイトの運営者の方にお話など伺ってみたいです。
 とりあえず思いつくまま書いてみただけなので、この内容でメール送信するというわけではない。
 駄目押しが済んだので、今日はこれでおしまい

1.10531(2003/01/29) ぶいっ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030129b

 さっきの文章を書いている間に、敵サイトは閉鎖していたようだ。勝った!

1.10532(2003/01/30) お便り紹介

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301c.html#p030130a

 昨日の文章について、ある人(匿名希望)から次のようなメールを頂いた。

 日記にあった武田信玄の逸話の件ですが、信玄と謙信ではなく、信玄と家康です。また、杉ではなく松です。
 資料が見つからないので記憶で書きますが(でも間違ってはいない筈です)、武田と徳川が戦った際、元旦に武田勢から「松枯れて竹たぐひなき旦哉(あしたかな)」という歌を記した矢文が届き、家康が「正月早々縁起でもない」とくさっていると、家臣が「松枯れで竹だくびなき旦哉」と濁点を打ち直した……という逸話があります。「松」は松平(徳川家のもともとの姓)を暗示し、「竹」は武田を示しているわけです。またそれ以降、徳川家では上の部分を切り落とした竹を縁起物として正月に門前に飾るようになったのが、やがて庶民にも普及したといわれています。
 今日はこの話題をもう少し掘り下げてみようと思っていたが、諸般の事情により時間がないので、またの機会に。できれば、毛利元就の三本の矢とイソップ物語との関係についても調べてみたいのだが……。

 明日の更新は休みます。