日々の憂鬱〜2002年6月中旬〜

1.10276(2002/06/11) 備えあれば憂いなし

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020611a
 ヘイ・ブルドッグで「備えあれば憂いなし」ということわざについて取り上げている(仮装日記6/9付)。「備え」がある場合とない場合、「憂い」がある場合とない場合とに区分けして、4通りの組み合わせ方それぞれについて、「正しそうな確率」を付値している。
1・備えあれば憂いあり(正しそうな確率=10%。パーセンテージは主観。以下同)
2・備えあれば憂いなし(50%)
3・備えなければ憂いあり(100%)
4・備えなければ憂いなし(10%)
 個別の文への付値は主観的なものだから、それに文句を言っても仕方がない。ただ、1と2を併せても100%にならず、3と4を併せると100%を越えるというのが不思議だ。
 たとえば、3だけで100%に達しているのだから、備えがない場合には常に憂いがあるということになる。「備えがない場合には常に憂いがあるのだけれど、その場合でも憂いがない場合が10%ある」と言ってしまっては話がおかしくなってしまうのではないか。
 もちろん、もともと「備えがある/ない」とか「憂いがある/ない」という区別は厳密にできるわけではないのだが、そう言ってしまうと身も蓋もないし、愛・蔵太氏に対して礼を失する(当然そんなことは承知の上で場合分けをしているはずだから)ことになるだろう。ここは、何からの基準により場合分けがきちんと出来ている(すなわち、話題となる領域のすべての事例が「ある/ない」のどちらかに含まれ、かつ、両方に含まれる事例はない)ものとして考えるべきだ。
 と、大まじめなふりをしてみたが、もちろん私がやっている事はちょっとしたお遊びに過ぎない。このネタをもとにいろいろ考えてみようと思っているだけだ。本気で愛・蔵太氏を批判ないし非難しようとしているなどと受け止められるとちょっと困る。本当はこんな野暮な事は書きたくないのだけど、念のために書いておく。
 ところで、私は「備えあれば憂いなし」という文を「もし備えがあるならば、憂いはない」と読み替えている。そして、各々の「備えがある場合」についてテストしたとして、憂いがなければ件の文の「正しそうな確率」を上げ、憂いがあれば確率を下げる、と考える。だが、これには異論もあるだろう。「もし……ならば、……」という形式の文(条件文)の解釈は一通りではないし、文の確からしさについてもさまざまな考え方がある。だが、異論をいちいち検討すると長くなるので、目をつぶって先へ進む。
 上の引用箇所に続いて、愛・蔵太氏は次のように述べる。
以上が「if」の場合だが、さらに「even if(たとえ○○でも)」のケースを考える。
 そして、同様に4つの場合についてそれぞれの「正しそうな確率」を付値しているのだが、これも私には疑問に思える。というのは、「if」と「even if」は単に順接か逆接かが違っているだけではないかと思うからだ。たとえば「もし少林寺拳法を学べば、バナナの皮で転ぶことはないだろう」と「たとえ少林寺拳法を学んでも、バナナの皮で転ぶことはないだろう」は少林寺拳法の効能についての含み(前者は肯定的、後者は否定的)が違っているが、それは価値評価のレベルの話であり、文の確からしさというレベルでは違いはない。少林寺拳法を学んだ人を集めてきてバナナの皮で滑って転ぶかどうかをテストした場合、転ぶ人が少なければ少ないほど確率が上がり、多ければ多いほど確率が下がる、というのは二つの文に共通した事情である。よって、「if」と別に「even if」を取り上げるのは意味がないし、両者で確率が異なっているというのは理解に苦しむ。

 おまけ。
 「備えあれば憂いなし」というのは「備えておけば安心できる」という意味なのか、「備えておければ大事に至ることはない」という意味なのだろうか? つまり「憂い」を文字通り心の中の状態を指すものととるか、「憂うべき事態」ととるか、ということなのだが。別に備えなどなくても自己催眠や薬物使用により心の平安を保つことができるかもしれないが、それではこの警句の意図が丸つぶれになってしまうので、私は後者だと解釈したい。

 今日は「マルコ受難曲」の1枚目を聴いた。バッハが「マルコ」を作曲したという記録はあるが、現在その楽譜は残っていない。そこでカンタータなどから適当に使えそうな曲を引っ張ってきて"復元"したらしい。ブリリアント盤ではサイモン・ヘイズという人が復元した版を使っているが、ほかにトン・コープマン版とAnder Gomme(「アンダー・ゴム」と読むのか?)版がある。ほかにもあるかもしれないが、私が知っているのはこれだけだ。
 ちゃんと聴き比べてみて、3つの版の異同及び元ネタを一覧表にまとめてみたいのだが、面倒なのでやらない。たぶんどこかの誰かがやっているだろう。

 『日本語のできない日本人』(鈴木義里/中公新書ラクレ)を読んだ。いろいろと考えるきっかけにはなるが、いろいろな話題を盛り込んでいるせいか、今ひとつ踏み込みが足りないという気がした。たとえば、著者は漢字制限に賛成する立場をとっているのだが、反対論者の主張やその根拠に対して具体的な批判を行っていない。もう少し丹念な議論がほしかった。もっともこれは論争を目的とした本ではないので、やむを得ないかもしれない。

1.10277(2002/06/12) 砒素とストリキニーネと青酸カリ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020612a
 ある人物の命を狙うA,B,Cの3人がそれぞれ水差しに毒を仕込んだ。Aは砒素を、Bはストリーキニーネを、Cは青酸カリをそれぞれ水差しの水に混入した。そして件の人物はその水差しの水を飲んで死んだ。この場合、殺人犯は誰なのか? 3種類の毒のうち最も効きが速いもの(残念ながら私には毒物の知識がないので、どれがそうなのかは言うことはできない)を仕込んだ人物が殺人犯で、残りの二人は単なる未遂犯なのか? それとも3人とも等しく殺人犯であるのか?
 次に別の問題を提示する。
 同様にA,B,Cの3人が一人の人間を殺そうと考え、それぞれ致死量の青酸カリを水差しに投入し、被害者はその水を飲んで絶命したとする。3人のうちの誰が殺人犯なのか?
 殺人とは何か? それは、人を殺すということだ。では、人を殺すとはどういうことか?
 ある人物xがある人物yを殺すというのは、
  1. xの行為が原因で、yが死ぬ。
  2. xは、自分の行為によりyが死ぬことを予測している。
  3. xはyが死ぬことを望む。
という3つの条件が満たされたときだと考えられる。もちろん、この説明は完全ではない。より洗練された説明を要求する反例を考えるのはさほど難しくはないだろう。だが、今は「殺人」の概念を精密に分析するつもりはない。ただ、殺人とはある種の因果関係を前提として了解される事柄であるという、ごく当たり前のことを言いたいだけだ。
 Aは殺意をもって毒薬を仕込んだ。その毒薬は一人の人間を殺すに足るものである。そして、毒を飲んだ人物は死んだ。そこで、「Aが水差しに毒を入れた」という行為が被害者の死の原因である、と仮定する。すると、BとCの行為は被害者の死の原因ではないのか? それとも複数の原因が合わさって一つの結果を生んだということになるのだろうか?
 もしA,B,Cの仕込んだ毒薬が致死量に満たないものだったなら「合わせて一本」という考えは納得がいく。それぞれの行為は単独では意図した結果をもたらさないが、一体となって一人の人間の死の原因となるのだとすれば。だが、ここで想定しているのは、そうではない。これは、3人が同時に上手投げと下手投げと巴投げをかけたら決まり手はどれか、という無茶な問いである。相撲なら巴投げが決まり手になることはない。いや、そんな話ではない。これはただのたとえ話。
 わけがわからなくなってきた。

 今日は『悪魔のミカタ(3) パーフェクトワールド・平日編』(うえお久光/電撃文庫)を読んだ。何とも感想が書きにくい。とりあえず、「堕天」という言葉は初めてみた、と書いておくことにしよう。
 楽園を失う。「失う」は動詞だから「楽園」に先立つ。失楽園。これを「失楽の園」と読み「失楽」を得る。同様に「墜ちた天使」を「堕天の使い」と読めば「堕天」を引き出すことができる。うえお氏の造語だと思う(ほかに用例があれは教えてほしい)が、
 ぱあっと、天使も負けを認めて堕天するような愛らしい笑顔を浮かべるアトリ。
という一文(222ページ)を読んで「堕天」の意味がわからない人は、そう多くはあるまい。生まれて初めて見た表現でも意味がわかるというのは不思議なことだ。これも漢字の力。このような言葉遣いが「日本語の乱れ」を助長するのだ、と憤慨する人もいるだろうが、私は全く気にならない。いや、むしろ積極的に評価したいと思う。
 もっとも「笑顔を浮かべる」はいけない。ごくありふれた日本語の間違いだ。つまらない。

 ついふらふらと『十三妹』(武田泰淳/中公文庫)を買った。某氏が「二次創作」との脈絡で言及していたのを思い出したため。中国の古典を下敷きにしており登場人物も借り物だから、二次創作と言えないこともない。では山田風太郎の『妖異金瓶梅』はどうか?
 解説と註釈は田中芳樹だ。それはどうでもいい(と言うと田中ファンに叱られそうだが、私はこれまでほとんど田中氏の小説を読んだことがないので、特に思い入れもない)のだが、解説の最後の段落が気になった。
 最後になってしまったが、今回の文庫化にあたっての目玉は、鶴田謙二さんの手になる数々の華麗なイラストである。ご多忙をきわめるところ、望外にもご快諾をいただいた。心から御礼を申し上げるとともに、いつか私自身の作品にもイラストをいただけたら嬉しいな、と、あつかましいことを考えている。
 あつかましいにもほどがもとい、鶴田謙二を引っぱり出したのは田中芳樹だとすれば(そうとしか読めないのだが)、その功績は大であると言うべきだろう。鶴田謙二はいいなぁ。今、日本で張り合えるのは冬目景だけだ、と断言しておく。

 どうでもいい話。「危機管理」の生みの親(本当か?)佐々淳行のサイトでは、リンク集までもが危機管理リンク集というタイトルになっている。

 今日は「マルコ」の2枚目を聴いた。

1.10278(2002/06/13) 脳混乱への招待

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020613a
 その村の住民は何を訊かれても必ず嘘をつく。そこで近隣の人々はその村を「嘘つき村」と呼んでいた。だが、近年ある文化人類学者のフィールドワークの成果により、嘘つき村の住民のすべてが嘘つきであるわけではないことがわかってきた。
 嘘つき村には4種類の種族の人々が混住している。彼らはみな問いに対して事実に反する答えを返す。だが、その理由は全く異なっている。
1.嘘つき族
この種族の人々は、どのような質問に対しても必ず嘘をつく。おそらく他人を騙そうという意図はないと思われる(いつも嘘をつくとわかっていたら、騙される人はいまい。人を欺くためには本当のことと嘘を織り交ぜるのが肝要だ)が、では一体何のために嘘をつくのかは全くわからない。ただ機械的に、またある意味では"正確に"嘘をつき続ける。即ち、彼らは何かについて間違えるということは絶対にない。
2.誤解族
この種族の人々は驚くべきことに世のすべての真理を虚偽と誤解し、またいかなる虚偽も真理だと信じ込んでいる。彼らは正直者であり決して嘘をつくことはない。だが、肝心の知識が誤っているため、彼らの発言はすべて事実に反するものとなる。
3.錯覚族
この種族の特徴は、質問を常に聞き間違えるという点にある。しかし類似した音の単語と取り違えるというのではなく、言っていることを全く逆の意味に取り違えてしまう。また何かを尋ねる文面を読むときにも同様に読み間違える。このような事態を「錯覚」と呼ぶのは不適切だが、より適当な言葉がないので仕方がない。なお、質問文の理解という場面以外では彼らは全知であり、かつ正直者でもある。
4.失言族
この種族は何かを発言するときに常に言い間違える。それも類似した音の単語と取り違えるというのではなく、全く正反対の意味の主張ないし言明を行う。この点で錯覚族と対照をなす。また、全知かつ正直であるという特徴も錯覚族と同じである。
 たとえば、誰かが「日本の首都は東京ですか?」と尋ねたとする。村人たちはこの質問に対しては必ず「いいえ」と答える。なぜなら、
嘘つき族の場合
日本の首都は東京であるということを知っており、本来ならば「はい」と答えるべきだが、嘘をつくので「いいえ」になる。
誤解族の場合
日本の首都は東京ではないと信じている(彼らは日本の首都が大阪であると信じており、また、名古屋であるとも信じており、さらにモスクワとパリとロンドンと……要するに東京以外のすべてだと信じている)ので、素直に「いいえ」と答える。
錯覚族の場合
「日本の首都は東京ではないところですか?」と聞き間違えるので、答えは「いいえ」になる。もちろん、日本の首都が東京だということは知っている。
失言族の場合
「はい」と言うつもりが「いいえ」と言ってしまう。
 また、「もしあなたが『日本の首都は東京ですか?』と尋ねられたら、『はい』と回答しますか?」という入れ子形式の質問には揃って「はい」と答える。なぜなら、
嘘つき族の場合
上記のとおり、本当は入れ子内の質問には「いいえ」と答えるのだが、そのことを素直に認めずに嘘をつくので「はい」と言う。
誤解族の場合
自分の誤った知識では入れ子内の質問に「いいえ」と答える、ということについて誤解し、「はい」と答えるものだと思いこむ。
錯覚族の場合
質問を聞き間違え、入れ子内の質問に対して「いいえ」と答えるのかどうかと尋ねているものと受け止める。実際、件の質問に対しては「いいえ」と答えるのだから、この問い全体に対する答えは「はい」になる。
失言族の場合
入れ子内の質問に対して「はい」と答えるつもりでも「いいえ」と言ってしまうことを知っているので、問い全体への答えは「いいえ」なのだが、そう言うつもりで「はい」と言ってしまう。
という事情があるからである。
 長年、嘘つき村の住人が全員嘘つき族だと信じられてきたのは、質問に対する答えがほとんどの場合に一致する(もちろん個人名を訊かれた場合などは人によって回答は異なる)からである。では、ここで問題。嘘つき村の任意の村人について、彼もしくは彼女が上記4種族のいずれに該当するかを、何らかの質問への回答から判定することは可能か? もし可能だとすればどのように質問すればいいか?

 このパズルは、「……ということは可能か? もし可能だとすればどうすればよいか?」という問題のパロディをやってみようと考えているときに思いついた。「答え:そんなことはできない」と一言で片づけたら面白いだろうと思ったのだ。だが、どうも前にやったことがあるような気がする。そこで過去ログを辿ってみると、やっぱりやっていた(あえてリンクはしない)ので方針を変更して、わりとまっとうな論理パズルに仕立てた。簡単なので解答は書かないが、時間と心に余裕のある人は一度考えてみてほしい。なお、当然のことながら(と書いたが、なぜ当然なのかを説明するのはちょっと面倒だ)一つの質問だけで判別することはできない。
 このパズルを作っているとき、誤解族と錯覚族の設定にミスがあるのではないか、ということが気にかかった。明白なバグは発見できなかったので掲載したのだが、もしかしたら何か途方もない見落としか勘違いをしている可能性がある。気がついた人はメールか掲示板で教えてほしい。

 日中、パズルのことばかり考えて(仕事は?)、帰りの電車の中でようやく形になったので喜んだ。家に着いて文章のまとめ方を考えながらいうつものように定期巡回サイトを閲覧したのだが、カエレ!〜招かざる厨房たちへ〜(5月下旬に閉鎖した「(=゚ω゚)ノぃょぅ好き」の後を継いで始まったサイト)を見ていると、頭がくらくらするエピソードがあった。まあ、どの話も常識はずれであることには違いはないが、たまたま私が乏しい脳細胞をフル回転させて上記のパズルを考えた直後だったので、衝撃が大きかったのだ。そのエピソードとは「難民92-750 往復ビソタ勝ち誇り厨」である。昨日、「73-177  コス衣装持参」も読んでいたのに、迂闊にも全然気づかなかった。

 白黒学派の「追憶遡行」(6/12付)で、ここのことを「哲学系サイト」と書かれていて驚いた。あまり哲学ネタはないと思うが……。ウィゲンシュタインとハイデガーの麻雀などというネタを扱ったことはあるが、別に哲学とは関係ないだろう。ともあれ白黒学派からリンクを辿ってここに来た哲学愛好家のために、何かちゃんとした哲学ネタでも提供しようかと思ったのだが、今日は頭を使いすぎたので逆さに振っても何も出ない。その代わりと言うと語弊があるが、もっと哲学的なサイトを紹介しておく。たとえば「代表する」という文章を読んでみるといい。ニーチェとかハイデガーといった哲学者への言及はないが、さりげなく埋め込まれた「機械の中の幽霊」という表現はオックスフォード日常言語学派の巨匠を想起させる(と書いてはみたが、Googleで検索してみると、ケストラーの著書のタイトルのほうがヒット数が多い。なんということだ!)。

 先週の土曜日に購入し、半分ほど読んであった『家政婦が黙殺』(篠房六郎/ビブロス)だが、カヴァーを外すのは忘れていた。求道の果て(6/12付)で「ヲタクの基本」と書かれていて、ちょっと凹んだ。まあ、あまり気にしても仕方がないので、指示通り外してみた。ああ、なるほど。
 ところで、私がこの本を買った、難波の「わんだ〜らんど」では平積みだったが、らじ氏が入手した「分かっている」お店はどこだったのだろう? そういえば、その近くの「とらのあな」では見かけなかった。

 「ルカ受難曲」CD1枚目。バッハがまだおねしょをしていた頃の曲だとブラームスが皮肉り、メンデルスゾーンが自らの首をかけて偽作だと断言したという、伝説の迷曲だ。そんなに駄作かな?

1.10279(2002/06/14) 暑くて目が回る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020614a
 さっき、アクセスログを見て知ったのだが、Lycos「定期健康診断 年齢基準日」という検索語で検索してここに来た人がいたようだ。ヒット数22のうち個人の趣味サイトは「たそがれSpringPoint」のみ、あとは真面目な(?)ページばかりだが、検索した人がたぶん知りたかったはずの情報(定期健康診断項目のうち年齢基準があるものの算定基準日は何月何日なのか、ということ)が掲載されているのは「たそがれSpringPoint」だけである(ここ)。私の雑学もたまには他人様の役に立てることもある、と思うとなんとなく嬉しい。もっともこんな事は万に一つの偶然だと思うが。

 昨日のパズルについて、ある人からメールで回答が寄せられた。「はい」か「いいえ」で答えられる型の質問を2回行って、それらの質問に対する4通りの回答パターンに基づき種族を判別するというもの。正解だ。
 設定は多少捻ったが、問題の構造自体は非常に単純なので、ある程度の論理的思考力のある人ならわりと簡単に解ける問題だ。だから正解者が出たことは予想の範囲内だが、同じメールの続きで同じ設定で別の問題を提示していたのには驚いた。その問題とは、
 Q:この村へ旅行に来たあなたは1人の村人に出会いました。あなたは1度だけ(同行者である)正直族の知人に質問することができます。正直族は必ず本当のことだけを答えます。どんな質問をすれば村人の種族を判別できるでしょうか?
というものだ。こちらのほうが論理パズルとしては面白い。が、私の問題より少し高い。1つの質問だけで村人の種族を判別するめには質問の形式を工夫しなければならないということと村人に直接質問するのではなく正直族を新たに登場させたのがミソということをヒントにしておく。これも正解は書かない。

 今日こそ哲学ネタを……と思っていたのだが、頭を斜めに振っても出てこなかった。だが、どのような文章からも適切な(または不適切な)脳内変換により哲学的意義を見いだすことは可能だと思うので、どうしても哲学ネタが読みたい人は自力で成し遂げてほしい。そういう人はあまりいないとは思うが。

 『十三妹』(武田泰淳/中公文庫)読了。面白かった。二次創作がどうこう、という理屈はそのうち機会があれば、ということで。

 「ルカ受難曲」のCD2枚目を聴いた。これで4つの福音書による受難曲すべてを聴き終えた。残念ながら「トマス受難曲」などは存在しない。

1.10280(2002/06/15) 私は今騙されている、そしてそのことに気づいていない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020615a
 朝、目が覚めたときに昨日の文章でひどい勘違いをしていたことに気づいた。今日は更新をしない予定だったが、取り急ぎその訂正だけしておこうと思った……のだが、はっきりと書いていないので訂正のしようがない。というわけで訂正するのはやめた。わかった人は笑って許して下さい。

 知人からメールが届いた。読んでみると私の勘違いに気がついていた様子。ああ、やっぱりわかる人にはわかるものだ。
 その知人は一昨日のパズルについて「メタ論理パズル」とコメントしていた。ある意味ではそうかもしれない。詳しくは説明しないけれど。

 以前こんなミステリを読んだ。ある人物が犯罪にまつわる詳しい手記を書いている。探偵役はその手記から、手記の筆者自身が気づいていない重要な手がかりを見出し、犯人を指摘する。その手がかりとは「手記の長さ」である。ある限定された時間内で書かれたかのように見える手記だが、分量を考えるととてもその間には書けるものではない。よって、その手記はその中で述べられているような状況下で書かれたものではない。このように推理するのである。もちろん犯人は手記の筆者だ。
 私はこの趣向に感心した。反則技のようでありながら、アンフェアではない。読者はちゃんと手記を読んでいるのだから。

1.10281(2002/06/16) 冷麺と冷やし中華

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020616a
 焼肉屋で冷麺を食べながら考えた。冷やし中華は冷麺なのか、それとも冷麺ではないのか、と。
 少なくとも、冷麺と冷やし中華が全く同じだということはない。もしそうだとするなら、盛岡冷麺も冷やし中華だということになってしまうだろう。そこで、選択肢は次の3つに絞られる。
  1. 冷麺と冷やし中華は全く別物である。
  2. 冷麺のなかに冷やし中華が含まれる。
  3. 冷やし中華である冷麺と冷やし中華ではない冷麺の二種類がある。
 ちょっとわかりにくいかもしれない。言葉のレベルで言い直す。
  1. 「冷麺」と「冷やし中華」は適用範囲に重なりがない。
  2. 「冷麺」という言葉の適用範囲の中に「冷やし中華」が適用されるものが含まれる。
  3. 「冷麺」には、「冷やし中華」と適用範囲が同じ場合と、「冷やし中華」と適用範囲に重なりがない場合の二通りがある。
 これでわかりやすくなったかどうか。外延的に語るのと回りくどくなっていけない。「意味」の世界に踏み込むのを恐れずに、もう少し詳しく説明することにしよう。
  1. 冷麺と冷やし中華は別物である。冷やし中華を「冷麺」と呼ぶのは間違いである。
  2. 「冷麺」という言葉の意味は「冷やした麺料理」ということであり、冷やし中華も冷やした麺料理であるから、冷麺の一種である。
  3. 「冷麺」はある場合には「冷やし中華」の同義語として使われる。だが、別の場合には冷やし中華と別の料理の名称として使われる。よって「冷麺」は二義的な言葉である。
 どうも2は違うようだ。なるほど「冷麺」の字面を見れば「冷やした麺料理」という意味が含まれているようではある。そして、ふつうの冷麺(朝鮮半島に起源をもつ、そば粉ベースの麺料理。鉄製のボウルに入っていて、麺の上にはキムチや豚肉、スイカなどが載っている。上から酢をかけて食べる)は冷やした麺料理であるから、「冷麺」という言葉どおりだ。だが、同じく冷やした麺料理である、そうめんやざるそばのことを「冷麺」と呼ぶのか? 少なくとも私はそのような用例は知らない。よって、「冷麺」を冷やした麺料理の総称だとは考えにくい。むしろ、ある種の麺料理の系統を指す言葉だと考えるほうが自然だ。冷麺は朝鮮半島の食文化の伝統のなかにあり、半世紀ほど前に日本にも伝来して独自の発展を遂げたが、その系譜の中に冷やし中華はない。
 すると、1か3ということになる。「冷麺食いて〜」というサイトをみると、1の立場をとっている。私も同じ立場をとりたい。だが、私の身近な人々のほとんどは冷やし中華のことを「冷麺」と呼ぶ。"本当の"冷麺のことは「韓国式冷麺」(平壌が発祥の地といわれているので、「韓国式」というのはおかしいのではないかという気もするが……)とか「焼肉屋で出てくる冷麺」とか言わないと話が通じない。ということは、いやでも3の立場をとらざるを得ないのではないかという気がする。
 ところで、この文章を書くためにちょっと検索して調べてみたのだが、冷やし中華のことを「冷麺」と呼ぶのはどうやら西日本に特有な現象であり、東日本ではそうは言わないらしい。そうすると、東日本の人にとってはこの文章は理解に苦しむものになっているのかもしれない。おそろしいことだ。
 どうして、冷やし中華の呼称に地域差があるのだろうか? 単なる思いつきだが、冷麺も冷やし中華も東日本(というか東北地方。冷やし中華の起源は仙台だという説がある)を中心に広まってきた食べ物だったからもしれない。西日本では盛岡冷麺が伝播する前から、在日コリアン文化の中で冷麺が食べられてきたはずだが、冷やし中華を「冷麺」と呼ぶことで混乱が生じるほど一般化していなかったのだろう。

 このあと「冷やし中華」と「冷やしラーメン」について書こうと思っていたが、時間切れにつき、今日はこれまで。

1.10282(2002/06/17) 解禁日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020617a
 これまで一般には非公開で、リンクできなかった某氏のサイトが今日からリンクフリーになった。サイト名は「黎明なる庭園」である。ネタにつまったときにそこから文章を無断で引っ張ってきてお茶を濁すという手が使えなくなったのは残念だ、というのはこっちの都合。「黎明なる庭園」が多くの人々に楽しみを提供することになったことを喜びたい。
 とりあえず、それだけ。そろそろ寝ないと。

1.10283(2002/06/17) 代休日の午後

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020617b
 特に用事のない休日は一日中家の中にひきこもって本を読んだりCDを聴いたり昼寝をしたりして過ごすことにしている。代休日でも事情は同じだ。土日には人が多くて行く気にならないところ(たとえば映画館など)へ行ってみよう、などと考えることもなく、ただだらだらと一日を過ごす。
 今日はたまっている積ん読本を消化しようと思っていたが、なんとなく本を読む気にならないので、とりあえずサイトの更新だけしておく。こんな弛緩しきった状態なので、あまり面白い話もないのだが、とりあえず思いつくままに。

 先日から気になっている哲学ネタだが、どうにもうまく書けない。なぜ書けないのか? 私が哲学的素養とセンスに欠けているからだ。適当に哲学者の名前を引っぱり出してきて、小難しい哲学用語を並べればいいのかもしれないが、哲学書をほとんど読んでいない私にはちょっと荷が重い。それに、「たそがれSpringPoint」の一般読者(というのは幻かもしれないが)が読んで多少とも面白がってくれるものを書こう、と色気を出してしまい、さらに荷が重くなる。論理学ネタだと読者のことなど考えずに平気で暴走するのだが、これは書いている私が楽しいからいいのである。哲学ネタの場合、そのような純粋な自己満足の境地では書けないので、どうしても読者の目を意識してしまう。
 とりあえず考えたのは「私の哲学遍歴」というネタだ。ただ、これを書いてしまうと私の経歴の一部がばれてしまう。
 これまで「たそがれSpringPoint」では私は極力個人情報を出さないように努めてきた。住所・氏名・年齢・職業・性別(「えっ、性別を隠していたの?」と驚く人もいるだろう。別に隠しているわけではないが、明示的には書いていないというだけのこと)・学歴など。さらに最初の頃は交友関係も極力ぼかすことにしていた。「滅・こぉる」としてのつき合いは別に隠すこともいので、最近はだんだんオープンにしてるが。
 ここで、たとえば「私はカール・ポパーの孫弟子である」(別にハーバマスでもサルトルでも構わないのだが、ポパーにしたのは少し前にちょっと話題に出したからである。もちろん本当に私がポパーの孫弟子であると主張しているわけではないので、誤解しないでほしい)などと言うと、それだけでわかる人にはかなりのことがわかるはずだ。わかったからといって特にまずいことがあるわけではないのだが、ネット上の「滅・こぉる」はなるべく宙に浮いた存在にしておきたいので、「私の哲学遍歴」というのは書きにくいのだ。
 ところで、私の知人に文筆業を営んでいる人がいる。「小説家」と言ってもいいのだが、私がイメージしているふつうの小説家とは少し違っているので、今のところは「文筆業」と言っておく。その人は個人でウェブサイトを運営しているのだが、そこでは筆名を一切出さずに本名をもじったハンドルで通している。ところが、最近そのサイトで今度出る予定の小説の創作内輪話のような文章が掲載された。いちおうサイト管理人とは別人である小説家が書いた文章であるという体裁をとっているのだが、私の性別と同じくらいで、ほとんどバレバレである。ただ、この手法は使えそうだ。今度、絶望的にまでハイになって哲学遍歴を語りたくなったら、「これは私の知人からきいた話なのだが……」と前置きした上で、語ることにしよう。
 ともかく、今はまだそれほど気が向いているわけではない。
 もう一つ思いついた哲学ネタは「ハンプティ・ダンプティの仮装をしたフッサールとアリスになりきったウィトゲンシュタインの対話」というものだが、フッサールはともかくウィトゲンシュタインは猫も杓子も言及する人気哲学者なので、へそ曲がりな私としてはあまり取り上げたくはない。ところで、これは私の知人からきいた話なのだが、その知人は高校生のころまで「ウィトゲンシュタイン」といえば、パウル・ウィトゲンシュタインのことだと思っていて、同姓の哲学者(パウルの弟、ルートヴィヒ)については何も知らなかったそうだ。だからウィトゲンシュタインについての「猫も杓子も言及する人気哲学者」という私の認識はもしかしたら間違いなのかもしれない。少なくとも猫や杓子はウィトゲンシュタインに言及することはないだろう。猫は現前する対象以外のものに関心を向けることはないだろうし、杓子はそもそも「について性」(aboutness)を持たない。

 この調子で毎日「なぜ私は哲学ネタを扱うことができないのか?」というテーマについて書けば、個性的なウェブサイトになりそうだ。だが、私は必要以上に個性的であることを望まない。次行こ、次。

 先日の文章で『樒/榁』(殊能将之/講談社ノベルス)のタイトルについて「二つの漢字から偏だけをとると「木/木」となるので、もしかしたら木々高太郎へのオマージュのつもりなのかもしれない」とボケておいた(正確にいえば「ボケたふりをした」のだが、ここでは「ボケ/ツッコミ」という枠組みで考えているので、意図的に事実に反した、またはピントのずれたことを言うことを単に「ボケる」と言うことにする)ところ、ネット上の各所で予想外の反応があった。
 UNDERGROUND6/15付の記事
旁だけとると「密/室」になるという説も捨て難いです。
というコメントがあり、これに対して天使の階段同日付の記事で、疑問を提示していた。その文章はのちに削除されたので正確な引用はできないが、「滅・こぉるは、誰の目にも明らかな『密/室』という読みをあえて外して『木/木』を読みとることで、強引に木々高太郎へと結びつけたのではないか? 樋口氏はその事を知ったうえでわざと書いたのか、それとも本当に滅・こぉるの意見に対して異説を唱えるつもりだったのか、自分(=松本氏)にはわからない」というような内容だったと思う。
 それに対する樋口氏の回答(6/16付)は、
「ツッコミ」の応用編として「ノリツッコミ」があるように、滅・こぉるさんの「ボケ」に「ノリボケ」を上乗せしたつもりだったのですが、わかりにくかったみたいですね。
というもので、一件落着。なお、松本氏の削除前の文章では「樒/榁」を分数に見立てて、「木」で約分すると「密/室」となる、という美しい解釈が示されていた。これについて白黒学派(6/16付)で
「木々高太郎強引解釈」だと僕は思っていました。それはともかく楽志さんの「約分」は美しい解釈ですね。これが正解でしょう。僕はもっと単純に言葉の中に隠されているという意味で考えてましたから。
というコメントが付けられている。言及先の文章が削除されてしまったため意味不明になっているが、こういう事情だったのです(と書いたものの白黒学派と「たそがれSpringPoint」を併読している人以外にはどうでもいいことだな)。
 ここの一連の出来事からボケることの難しさというのがよくわかる。ボケが成功するためには、読者の側にも一定の知識と理解力が必要であることは言うまでもない(木々高太郎という作家のことを全く知らない人や、彼の作風についてある程度のイメージを持っていない人にとっては、木々高太郎と殊能将之のギャップがわからない)が、読者の知識/理解力を適切に見積もる責任は筆者の側にある。私は「たそがれSpringPoint」の読者で木々高太郎の名前を見聞きしたことがない人はほとんどいないだろうと考え、また、木々高太郎の小説を読んだことがない人でも、殊能将之がオマージュを捧げるとは考えにくい(またオマージュを捧げるとしても、タイトルに「木/木」を仕込むという方法をとるとは考えにくい)と容易に気づくだろう、と考えてボケたのだが、もしかして判断が甘かったか、と悩んだ。別に悩むほどのことではないかもしれないが。今から考えれば、「林不忘へのオマージュ」にしておけばよかった、と後悔している。
 UNDERGROUNDの文章については、樋口氏が「木々高太郎/殊能将之」というコンビにギャップを感じないわけがないので、たぶん「ノリボケ」(という言葉は知らなかったが)だろうとは思っていた。だが、私は未だに『樒/榁』を読んでいないので、もしかしたら作中に木々高太郎を暗示するような要素があるかもしれないと考え、昨日の段階では言及を控えていた。木々高太郎には『美の悲劇』という一部で有名な幻の密室長編がある(当然ながら私は読んでいない)ので、密室テーマの小説で何らかの示唆を行うことはあり得ない話ではない。たぶん、松本氏や蔓葉氏も同じような考えだったのではないか。
 「ボケ」の説明をするのは辛いものがある。では、説明なしで「ボケ」を「ボケ」と理解させるにはどうしたらいいのか? 非常に簡単な方法がある。「(笑)」を使うのだ。
奇妙なタイトルだが、二つの漢字から偏だけをとると「木/木」となるので、もしかしたら木々高太郎へのオマージュのつもりなのかもしれない(笑)
とか、
旁だけとると「密/室」になるという説も捨て難いです(笑)
と書いておけば、誰も誤解しないだろう。「(笑)」が、対象読者の知識/理解の見積もりが困難なウェブ上の文章で頻繁に使われるのは意味がないわけではない。だが、私は「(笑)」を使うよりは、誤解される危険のほうを選ぶ。「(笑)」を多用する人を非難するわけではないし、むしろそのような人のほうに理があるのではないかと思いさえするのだが、それでも私は「(笑)」を使いたくない。
 そういえば、樋口氏も松本氏も蔓葉氏も、「(笑)」をあまり使わないようだ。ちゃんと調べたわけではないが、今この文章を書くために開いているページを検索した限りでは一つも出てこなかった。

 ボケることの難しさについて、もう少し。
 ボケに対してはツッコミが必要だ。読者が勝手に頭の中でツッコんでくれることを期待してあえてツッコミを省略する「ボケっぱなし」が理想だが、樋口氏の言葉を借りれば、それには「勇気が要ります」。
 自分で自分にツッコミを入れるのがいちばん簡単だ。「(笑)」はそのような「自分ツッコミ」の一種とも考えられる。ほかには「←」を使うという方法もある。これは、どのような観点からツッコミを入れているのかを示すことができるという利点があるが、あまり多用すると繁雑でうっとうしいという欠点もある(←そんな事はわかってるんだよ。さっさと話を先に進めろ)。
 ボケた直後にはそのままとぼけて、しばらく経ってからツッコミを入れるという「時間差ツッコミ」という方法もある。たとえば「哲学ネタは扱わないと言っておきながら『について性』なんか持ち出すのはあざとい。『志向性』くらいにしておけ」とか(←これは「時間差ツッコミ」としてはつまらない例。本当はもっとさりげなくやるべきだ)。「時間差ツッコミ」はボケから離れれば離れるほど成功率が下がるが、成功したときの効果は大きくなる。
 「自分ツッコミ」をもっと大がかりにやるとどうなるか? ウェブサイトをまるまる一つ作ってしまう、という手がある。「サイト間ツッコミ」である。たとえば、「オタクまたはオタク的な事柄」にツッコミを入れるサイトの管理人が、あからさまに二番煎じのウケ狙いで「どこからでもツッコんで下さい」と言わんばかりのバーチャルネットアイドルサイト(以下、「バーチャルネットアイドル」を「VNI」と略記する)を立ち上げ、それに元からあったサイトからツッコミを入れる、という趣向を考えたとする。私のように根気のない人間には到底成し得ないわざだが、その管理人はともかく成し遂げた、とする。
 最初は期間限定のネタサイトだったが、じきにそのサイトの管理人はこう考えるようになる……とする。「ボケは壮大なほうが面白い。もっと続けて内容を充実させて、一見したところ"本物"に見えるようにしてみてはどうか」と。そこで、あたかも本物のVNIであるかのように振る舞っていくうちに、あちこちからリンクがはられて、他のVNIが寄ってきて、いつの間にか本家以上にアクセス数を稼ぐようになってしまう、とする。これは困ったことか? そうではない。
 そのウェブサイト管理人は、超能力研究の杜撰さを暴くために研究所に弟子を送り込んで超能力者のふりをさせたジェームズ・ランディや、現代思想家が十分な科学知識もないままに科学理論をデタラメに援用している実態を批判するためにわざとパロディ論文を書いて雑誌に投稿したアラン・ソーカルとは全く立場が違っている。彼(もしくは彼女、といちおう付け加えておこう)は「オタク的なるもの」への根本的な非難も告発も意図してはいない。仲間のVNIたちへをバカにするわけでもなく、騙しているわけでもない。ツッコミはそれ自体の面白さで読者を楽しませるものであり、ツッコむ側がツッコまれる対象よりも優位に立つということではない。そもそも、本家サイト自体が、オタクを毛嫌いしている自称「一般人」が実はオタクそのものであり、随所でボケを演じるという趣向のものだったのだから。本家サイトはVNIサイトへの「自分ツッコミ」を担う以前に、「ボケっぱなし」サイトでもあったのだ。だが、上述のとおり「ボケっぱなし」には勇気が必要だ。そのボケについてこられる読者は限られている。圧倒的大多数の読者はボケをボケと見抜くことができず、脳内ツッコミをすることもなくただ去ってゆく。その管理人は、ボケのレベルを落とすことなく、より多くの人々を楽しませることのできる方法を模索したのだ。その結果が、VNIだったわけである。
 ……とする。
 さて、VNIサイトが大手になっていくこと自体は困ったことではない。だが、本家サイトとは無関係にVNIサイトだけが人気を集めていくうちに、ボケをボケと見抜くことのできない人を大量に吸い寄せることになった。ある種の人々はVNIサイトを素直に読み、別の人々は匿名掲示板で批判する。そういう緊張した状況でVNI界の多くを巻き込んだ事件が発生する。一人の「困ったちゃん」のせいでコップの中がかき回されたのだ。件のウェブサイト管理人に責任があるわけではない。だが、彼もしくは彼女は、この趣向がそろそろ限界に近い、と悟る。いったん、仕切直ししたほうがいい、と。かくしてVNIは死ぬ。
 そして、すぐに生き返る。
 生き返ったVNIは、さらにボケの程度を増す。キャラクターの元ネタとなったゲーム及びアニメのヒロインの性格では絶対にしない言動を平気でとる。これはパロディ(同人界でいう「パロディ」とは違い、一般的な用法でのそれ)の基本だが、一見すると既成のキャラクターを使いながら、そのキャラに"なりきれて"いない中途半端なVNIのようにみえる。元のキャラクターを示すのはほとんど名前だけ、VNIであるということの意味を徹底的に剥奪してしまっている。当然、原作の枠組みのもとで活動することはできない。かといって、「バーチャル」なキャラクターが現実世界に寄りかかるわけにもいかない。そこで、別の架空世界を目指す。それはオンラインゲームの世界である……とする。
 さて読者諸君、私はここで重大な事実を諸君に告げねばならない。それは、これまで仮定の話として語ってきた「ボケののためにVNIサイトを立ち上げた管理人の物語」が実は事実をなぞったものであるということである。無論、細部に至るまで全くここに叙述したとおりというわけではない。おそらくサイト管理人が考えたことについての私の推測は半分くらいは間違っているであろう。了承されたい。
 話を続ける。といってもあとはたいした話は残っていない。私はオンラインゲームをやっていないので、そのゲームの中でいったいどのような事が行われたのかについては、間接的にしか知らないのだ。VNI集団とその取り巻き連中の言動が取り沙汰され、問題視された(そして今も火種がくすぶっている)ということだけ述べておこう。件の管理人は中心的な人物だったらしい。おそらく、自分のVNIサイトと同じようにボケまくっていたのだろう。
 問題が大きくなってきたところで、管理人は今度こそVNIを死なせることにした。だが、ただVNIサイトを閉鎖して本家に戻るのではない。二つのサイトを統合してしまうのだ。原作つきのVNIは捨てるが、そのキャラクターを継承したオリジナルのVNIを新たに作る。そして、一つのサイト内で管理人と掛け合いをさせるのだ。「ボケっぱなし」から「サイト間ツッコミ」を経て行き着いたのが「掛け合い漫才」だったわけである。「ボケ/ツッコミ」という言葉はもともと漫才用語であり、これは原点への回帰ともいえる。この枠組みに安住する限り、ほとんど誤解の可能性はない。なぜなら、ボケに対しては時間差なしに直ちにツッコミが入るからだ。
 しかし――私は危惧する。件のサイト管理人が単なる「掛け合い」に満足できるだろうか、と。誤解され、批判されるのを知りつつも、より高度なボケテクニックを使いたくなるのではないだろうか? 一度「サイト間ツッコミ」をやってしまったら、もう普通のボケには戻れないのではないか? 実際、既にその兆候は現れている。「ツッコミを入れる」という行為自体がボケになっている、というちょっと捻ったわざが使われているのだ。まあ、その程度のボケをボケだと見抜けない人はいない(と断言したいところだが、予想の斜め上をいく思考で人々を驚かせる「厨」が最近増えているから、何とも言い難い)ので今のところは大丈夫だとは思うが……。ただ、ボケを見抜けた人のなかでも、そのボケにあざとさを感じる人は多いので要注意だ。
 やはり、ボケるのは難しい。

 これは「黎明なる庭園」一般公開記念テキストとして書いたものである。後半のVNI関係の話題は「黎明なる庭園」の管理人の冬野氏以外にはわからなくても構わないというつもりで書いたが、これまでにも何度か言及したことのあるサイトなのでわかる人にはわかるだろう。よって、特にリンクはしない。
 と、書いたものの、これだけ書いておいて言及先を明示しないのも失礼なような気がした。別に批判をしているわけではないが、勝手に管理人氏の心理を忖度しているのだから、読者が直に対象サイトを見て私の考えの当否を考えることができるためにリンクをはっておくべきだろう(ミステリ系の人がVNIに興味があるのか、という疑念もあるが)。上で言及したサイトはバーチャルネット一般人無双である。

 ここから先は雑談。
 他人事だと思って毎日楽しく読んでいるカエレ!〜招かざる厨房たちへ〜で、「新たこやき」という秀逸な表現を見かけた。どの話題だったかは忘れたが……。
 出身地や住所を表すのに、そのまま都道府県名を書かずに「鼠の国」(千葉県)とか「お茶とみかんの国」(静岡県)というふうに書く習慣があるようだが、その書き方で大阪府は「たこやきの国」となる。私は、たこやき→明石→兵庫県というふうに連想するのだが、全国的にはたこやきは大阪の名物ということになっている。それはともかく、「たこやき=大阪」という了解を踏まえて「新たこやき」という表現が出てくるあたりが面白い。もちろん新大阪駅のこと。
 同様に、 などいくらでも考えられそうだ。

 しばらく前から全日本妹選手権に関してもにょもにょ語るリンク集などで話題になっている(いや、話題になっているからリンク集ができるのだから、話が逆だな)『全日本妹選手権!』だが、本屋で手に取ったことはあるものの、中は読んでいないし、作者名も出版社も覚えていないくらいなので、これまであまり気にもしていなかった。それより、『マリア様がみてる』(今野緒雪/コバルト文庫)のほうが気がかりで。
 だが、今日男子から見た「リアル」と「デフォルメ」と 「萌え」のボーダーレスという文章を読んで、俄然興味が出てきた。一度、本腰を据えて読んでみようか? でもマンガそのものはあんまり面白くなさそうだ。読まないでこんな事を言うのは偏見かもしれないけれど。

 「木々高太郎のデビュー作は『網膜剥離症』」というボケを考えたのが、上の文中にうまくはめ込むことはできなかった。残念。

 昨日と一昨日、「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」を休んでいたので、今日の分と合わせて書いておく。バッハ・エディション VOL.11 教会カンタータ集 Vol.5からCD1〜3を聴いた。おしまい。

 今日の執筆時間は6時間。この時間を読書に向ければ……などと考えるのはよそう。

1.10284(2002/06/18) 短文

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020618a
 さて、今日は短文である。昨日の反動で短い文章しか書けない、いや、書かない。さっさと更新をすませて読書に励むのだ。
 とりあえず日課の「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」について。今日はカンタータ第115,55,94番を聴いた。これだけ聴いてもまだ半分にも達していない。恐るべし。

 今日は『ルイス・キャロルの意味論』(宗宮喜代子/大修館書店)を読んだ。キャロルの二つの『アリス』物語を、論理学者であったキャロルが古典論理(現在では、フレーゲ・ラッセル流の標準一階述語論理の体系を「古典論理」と呼ぶことも多いが、この本で「古典論理」というのはアリストテレス以来の伝統的形式論理学のことである)の理論と言語的直観のギャップを問題提起した書として読むという意欲作である。
 たとえば、『鏡の国のアリス』に登場するハンプティー・ダンプティーは名辞論者であり、彼(それ?)の「動詞はいちばんプライドが高い。形容詞はどうにでもできるが、動詞は難しい」という奇妙で謎めいた発言は、自然な英語の文を名辞論理の基本パターンである「AはBである」に変換する際の困難さのことを言っているのだという。おお、凄いではないか。
 こうして意味論の観点から本腰を入れて『アリス』を読むと、不思議の国と鏡の国で起こる突拍子もないできごとのつじつまが合ってくる。登場人物のちぐはぐで苛立たしさすら感じる会話が意味をもち始め、著者からのメッセージが浮き彫りになってくる。(略)それほどに『アリス』は現代意味論への予言に満ちている。 (「まえがき」ivページからvページ)
 だが、読み進めていくうちに疑問も出てくる。著者は言語学畑の人のようで、論理学や哲学は畑違いのせいか、ところどころに首を傾げる記述がある。たとえば、
 ギリシャ時代以来の長い古典論理学の時代は19世紀後半に突然終わりを告げることになった。厳密には、19世紀半ばの半世紀ほどの短い期間に命題論理学が発達し、19世紀末には述語論理学が華々しく登場した。通常、この命題論理学と述語論理学を合わせて現代の記号論理学と呼ぶ。(略)また、ギリシャ時代以来19世紀までを論理学の第1期、19世紀半ばの命題論理学の頃を第2期、述語論理学を得た19世紀末から現代を第3期とも呼ぶ。(略)命題論理学は1847年に始まったとされている。ブール(G.Bool)のThe Mathematical Analysis of Logic(『論理の数学的分析』)とド・モルガン(A.De Morgan)のFormal Logic(『形式論理学』)がともにこの年に出版されているからである。 (「第2章 現代の記号論理学」53ページ)
という文章を素直に読めば、19世紀より前の西洋の論理学の歴史には命題論理が全くなかったかのように解されるだろう。しかし、既にアリストテレスより少し後のストア派の論理学で命題論理が体系的に研究されている。ルイス・キャロルについて語る文脈で古代の論理学について言及する必要はないかもしれないが、少なくとも命題論理が19世紀の新発見であるかのような誤解を招く書き方は問題だと思う。
 もう一つ、今度は哲学史に関するミスリーディングな記述を取り上げる。
自然言語の文構造は論理的な命題の構造からかけ離れている。このような言語は思考を妨害する。言語は論理分析をして曖昧さを除去しなければ使えない。重要なのは論理である。フレーゲとラッセルに共通するこのような自然言語不信の態度は論理実証主義と呼ばれ、現在では形式意味論や言語処理の分野で引き継がれている。 (「第4章 現代の意味論」133ページ)

 ヴィトゲンシュタインは前期にあってはケンブリッジでラッセルとともに論理実証主義を推進した。しかしその後、理論上の立場を大きく変え、オックスフォードで日常言語学派すなわちオックスフォード学派の中心的存在として言語哲学を研究した。 (「第6章 現代の語用論」211ページから212ページ)

従来の文の意味論はもっぱら平叙文のみを扱い、どういう時にその平叙文が真であるかを論じてきた。つまり述語論理学の直接的な影響を受けて、文の意味はその文の真理条件であると考えてきた。(略)これが論理実証主義の姿勢を受け継ぐ意味論者たちの立場であった。 (同上 215ページ)
 どうも著者は論理実証主義について誤解をしているふしがある。フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの3人を論理実証主義者と呼ぶのは、ブラウン神父を「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」のうちに数え入れるようなものである。もしかしたら今でもウィトゲンシュタインを論理実証主義者だと思っている人がいるかもしれないし、解釈次第ではそう強弁できないこともないだろうが、少なくとも彼がオックスフォードで言語哲学を研究したというのは間違いだ。まだまだツッコミどころはある……のだが、私も哲学史にはさほど通じているわけではない(「では、論理学史には通じているのか?」と問われたら、答えは「いいえ」だ)ので、あまり追及するとボロが出そうだ。さしあたり、私のような半可通でも気がつくほど論理学・哲学史の基本常識レベルでのミスが多いということを指摘しておくにとどめる。
 さて、ミステリのアラ探しは楽しいが、この種の本のアラ探しはそれほど楽しいわけではない。もう少し本質に踏み込んだ考察をしてみたい……と書いてるうちに11時を過ぎてしまった。中途半端だが、今日はここまでにしておく。次はあるのか?

1.10285(2002/06/19) さらに短文

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020619a
 読冊日記(6/18付)経由でシカクいアタマをマルくする問題(算数)2002年7月版を読む。中学入試問題だそうだ。
 大まじめに考えてみよう。まず各人の証言内容について検討すると、A,C,Dの3人は「……は犯人ではない」と主張しているが、BとEは「……は犯人だ」と主張している。「でない」と「である」の両方が混じっているとややこしいので、犯人は1人しかいないという条件をもとに、BとEの主張を書き換える。すると、 となる。仮に全員が正しい主張をしているとすれば、5人の中には犯人はいないことになるが、これは前提条件に反する。そこで、少なくとも1人は嘘をついている。だが、犯人以外は嘘をついていないのだから、嘘をついているのは犯人ただ1人である。1人だけが嘘をついているということは、複数の証言で犯人でないとされている人物は本当に犯人ではないことになる。なぜなら、もしそのような人物が犯人だとすれば、嘘をついている人が2人以上いることになってしまうからである。よって、A,C,Eの3人は犯人ではないことがわかる。
 残る2人のうちBが犯人であると仮定する。するとBの主張は虚偽であり、BかEのどちらかが犯人だということになる。これは仮定と矛盾しない。
 では、Dが犯人だと仮定するとどうか? Dの証言が嘘だということになり、A,C,EEの中に犯人がいることになる。これは既に明らかとなっているA,C,Eは犯人ではないという事実、及びDが犯人だという仮定の両方に反する。また、Dが犯人であると主張しているEが嘘をついたということになり、ここでも矛盾があらわれる。よってDが犯人だという仮定は支持できない。
 検討の結果、Bが犯人だと結論づけられた。Q.E.D.
 簡単、簡単。所詮は厨房未満が相手のパズルだ。
 だが――このパズルには別のレベルでいろいろと考えさせられるところがある。風野氏は2種類の疑問点――論理的観点に基づくものと、問題設定の不可解さに基づくもの――を提示している。氏の具体的な指摘についてはリンク先を見ていただくとして、私が気づいた点を次に述べておく。
  1. Aの証言「私はずっとCといっしょにいましたから、私もCも犯人ではありません」の真理条件がよくわからない。単に前件と後件の両方が真であればいいのか、それとも前件が後件の理由となっていることが真理条件の一部をなすのか?
  2. Bの証言「犯人は、A,C,Dの中にいるはずです」の真理条件もわからない。「……のはず」の解釈の仕方によって少なくとも2通り考えられるので。
  3. そもそも「A」とか「B」という名前の奴はいないだろう。
 1と2は、問題文が純粋に論理的考察を行う障害となっているという指摘である。推論の前に「から」「はず」の意味論を検討しなくてはならない(そして、その結果万人が認める結論が出るという保証はない)というのは論理パズルとしての欠陥である。3は……まあ、揚げ足取りのようなものだ。
 有名な論理パズルに「嘘つき族と正直族」または「嘘つき村」というパターンのものがある。先日、私もこのパターンのヴァリエーションを思いついたばかりだ。嘘つき族はどのような場合でも嘘をつく。正直族は逆にいかなる事情があろうとも本当のことしか言わない。これだけでも常識はずれだが、さらに嘘つき族、正直族はともに決して物事を誤認しないという得意な能力をもつ。この条件のおかげで、パズルに挑む者は論理外の余計な事柄に惑わされずに純粋に推理力を働かせることができるのだ。これは論理のユートピアを舞台にした一種のファンタジーだととらえることができる。
 他方、今日取り上げたパズルでは、より現実に近い設定となっている。何らかの事件が発生し、容疑者とみなされる人々がいる。犯人であることが明らかになると、きっと不都合なことがあるのだろう。そこで犯人は捜査を攪乱するために嘘をつく。まことに人間くさい動機だ。「嘘つき族」の人々が何の理由もなしに機械的に嘘をつき続ける(いや、それはもはや「嘘をつく」という行為ではないかもしれない)のと対照的だ。犯人もそうでない人々も、単なる事実の陳述を行うのではなく、自分がそのように述べた理由を挙げたり、自分が確かにそう信じているということを強めて言ったりする。ますます人間的だ。
 人間は間違う生き物である。嘘をつくつもりはなくても、物事を正しく認識していなければ事実に反する証言を行ってしまう。また人間の認識能力は限られている。自分の目の届く範囲外にいた人がどのような行動をとったのかを絶対確実な真理として断言するのはそう簡単ではない。件のパズルでは、中途半端に現実的な設定にしてしまったために、人間の不確かさをも引き入れてしまい、さまざまな疑問を引き起こすこととなった。厄介な事だ。
 さて、私の思考傾向を知っている人なら、ここから話をどのように進めるのかが薄々わかってきたことだろう。そう思うと先を続ける気がだんだん失せてきた。「さて、小説という形式で書かれたパズル=ミステリは、この"厄介事"から決して逃れることができないという宿命を負っている」と書くつもりだったのだ。さらにJUNK-LANDで現在進行中の「ロジックとフェアプレイ」に話を繋げて……あるいは「アラ探しの是非」という話題を……とか、いろいろ考えていたのだが、どうも同じところをぐるぐると回って前に話が進まないような感じがする。そこで、ますます書く気が失せてきた。そういうわけで、中途半端で申し訳ないが、この話はここでおしまい。あとは各自脳内補完されたい。

 今さらながら『冬のオペラ』(北村薫/角川文庫)を読んだ。表題作はこれが初読。田中潤司が解説を書いているというだけで感涙ものだ。まあ、「田中潤司」という名前に何の感慨も抱かなくても仕方がないが、次に引用する文章を読んで何も感じない人はミステリなんか読まなくていいと思う。
 もう三十年近く前になるだろうか。思うところがあって、日本のミステリ作品とは一切、縁を絶った。某新聞紙上に、大人げなく、絶縁宣言をして大見得を切り、それ以来、意識して、日本人の作品からは目をそらしてきた。(略)しかし、「謎」という文字を見ては、もうどうしようもない。なにしろ、謎を解くということが、そう、小学生時代からの妄執だった。業であり、果てしない執着なのだ。
 田中氏は論理パズルの本も書いている。たぶん私の部屋の片隅に昔買った本がまだあるはずだ。
 小説そのものについては、何かの機会に触れることもあるだろうから、今は何も言わない。

 今日もカンタータを3曲聴いた。通巻ではCD78枚目。全部で160枚だから、そろそろ半分だ。いくら好きでもバッハばかりだと飽きてくるので、今はジャヌカンのシャンソンを聴いている。作曲者にちなんだクレマン・ジャヌカン・アンサンブルの20年前の演奏だ。やや声質が荒いような気がするが、有名な「鳥の歌」には合っている。

1.10286(2002/06/20) 無題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206b.html#p020620a
 『樒/榁』(殊能将之/講談社ノベルス)を読んだ。多くの人が感想文を書いているので、私ごときが何も言う必要はないだろう。

 今日はカンタータ第103,185,2番を聴いた。