日々の憂鬱〜2002年6月上旬〜


1.10263(2002/06/01) 心機一転

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020601a
 突然だが、サイトの構成を変えることにした。これまでは、新しい記事はトップページに置いて、ある程度たまったところで、1週間分ずつ別ファイルに移し替えるという方法をとってきたが、今日からは最初から2箇所に同じ文章を掲載することにした。
 この方法だと、他のサイトから「たそがれSpringPoint」内の特定の文章にリンクをはるのが楽になるのだが、その一方私の手間が増える。ついでにURIの表示もすることにしたのでますます手間がかかる。まだ慣れていないのでデッドリンクなどの間違いが多発するおそれがある。ああ、面倒だ。
 今回は試しにどうでもいい文章(今あなたが読んでいるこの文章のこと)を書いて、アップすることにした。一気にスタイルを整えようとしてもなかなかうまくいかないので、これから徐々に整備していこうと思う。

 ついでに、テキスト庵に登録してみた。

1.10264(2002/06/01) 推理の一問題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020601b
 高橋まきさん、どうも長い間お疲れさまでした。
 そして、ありがとう。
 不遜かもしれませんが、ミステリ系更新されてますリンクにお世話になった人々を代表して、一言お礼申し上げます。
 昨日からミステリ系更新されてますリンクの調子がおかしくなっていて、どうも全然更新されていないようだった。もしかすると、高橋氏がリンクの更新に疲れて更新をやめてしまったのかもしれない、と思った。
 200以上のサイトを定期巡回して更新時刻を調べ、新しい順に並べ替えるという作業をこれまでたった一人でこなしてきたというだけでもすごいのに、昼夜を問わず毎時数回ずつ更新していたのだから、ほとんど奇蹟というしかない。夜中に仮眠を取りながら半時間に一度ラーメンのスープをかき混ぜ、アク取りするラーメン職人もすごいが、到底高橋氏の比ではない。そして、高橋氏はこの作業の見返りとして全く何の対価も得ていないのだ。まことに頭が下がる思いだ。
 正直なところ、今ミステリ系更新されてますリンクの更新をやめられると困るのだが、高橋氏にもいろいろ事情があるのだろう。何も言わず、ただ氏をねぎらい、ゆっくりと休養してもらうべきだ。それが利用者の立場からできる唯一のことではないか。
 そのように考えて上の文章を書いたのだが、たまたま「政宗九の視点」の新掲示板を見ていると、高橋氏ご自身の書き込みがあった。高橋氏の事情で更新を停止したのではなく、IPアドレスを変更しただけらしい。最新の情報はhttp://65.108.147.174/m/で見ることができる、ということでほっとした。
 ほっとしたのはいいが、いつミステリ系更新されてますリンクが本当に更新停止されるかわからない。これは問題だと思う。今の態勢では高橋氏一人に負担がかかっていて、たとえば氏が刀傷の治療のためにネット環境のない山奥の湯治場へ行ってしまったら、その間ミステリ系更新されてますリンクの更新はストップしてしまうことになる。治安のいいこの日本で刀傷を負う確率は低いという反論もあるだろうが、全くゼロとは言い切れないはずだ。いまやネット上のミステリ系サイト巡回者にとってなくてはならない存在となっているミステリ系更新されてますリンクだけに、危機管理態勢をより充実させる必要があるのではないか。
 いや、有事の心配をする以前に、1人の管理人が24時間ずっとリンク集の更新をし続けるということは異常事態だと思わなければならない。最低3人のスタッフを用意して、3交替制で運営すべきだ。もっともこれは理想論であり、スタッフの人件費をどう工面するか、などといった課題もある。だが改善策に難があるからといって現状に甘んじていては、いつまで経っても高橋氏の負担は軽減されないままである。
 もしかすると、高橋氏は謙遜して「いや、大した事じゃありません」と言うかもしれない。「これまで一人で何とか運営していけたのだから、これからも大丈夫です」と。昨年末、有明埠頭某所でお会いしたときには「いや、更新はこびとさんがやってくれてますから」と冗談めかして語っていた、と記憶している(もちろん、私の記憶違いという可能性もある)。しかし、我々は氏の言葉に甘えてはいけない。
 ミステリ系更新されてますリンクにはカウンターがないので正確なアクセス数は不明だが、きっと大勢の人々が見ているに違いない。そして、皆ミステリに関心を持っているという共通点があるのだから、ミステリ愛好家向けのバナー広告を設置すれば効果は絶大なものになるだろう。その広告収入でスタッフの人件費くらいは捻出できるのではないか。
 ともあれ、我々は、突き詰めて考えれば大変な事柄なのに、"慣れ"のせいで"当たり前の事"と思ってしまう傾向がある。今回の"事件"を機会にもう一度ミステリ系更新されてますリンクの便利さ、ありがたさを再認識し、高橋氏に感謝の言葉を捧げようではないか。
 高橋まきさん、どうも長い間お疲れさまでした。
 そして、これからもよろしく。
 不遜かもしれませんが、ミステリ系更新されてますリンクにお世話になった人々を代表して、一言お礼申し上げます。

 今日はミステリにおける名探偵の推理法の雛形を一つ取り上げて、その特質について考えてみようと思っていたのだが、ちょっとしんどくなってきたのでパス。そのかわりに、ちょっと愉快な文章を紹介しておく。「吉野屋のコピペ」のバリエーションはもう出尽くした感があったが、工夫すればまだまだ面白いものが書けるという例。こういうのを見ると、私も頑張らねば(何を?)という気がしてくる。

 昨日でバッハ・エディション VOL.8 教会カンタータ集 Vol.3を聴き終えたが、次の巻もやはり教会カンタータ。今日は60枚目のCDを聴いた。全160枚だから、あと残りは100枚だ。

1.10265(2002/06/02) 誤記の訂正

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020602a
 昨日の2回目の文章にはタイプミスがいくつもあった。ふだんは文章を書き上げたあとで一度くらいは見直しをするのだが、昨日は何となく読み返すのが嫌で、書いたあと見直さずにアップしたためだ。「そんな文章、書くなよ」と叱られたら「ごめんなさい」と頭を下げるしかない。
 松本楽志氏に
滅・こぉるさんの今日のネタはわかりにくいなー
 と書かれてしまい、ちょっと鬱。野暮を承知で解説すると、日頃特に注意を払わずに流し読みをしていると、意味はわからないけれどそれなりに筋が通っているように読めるが、よく考えれば全然筋が通っていない疑似電波系の文章というのを書きたいと思っていて、昨日の文章はその習作のつもりだった。だが、あまりうまくいかなかった。
 本物の電波系の文章には独特の凄みがあって読むたびに感心する。昨日も一つ某掲示板で凄いのを読んだばかりだ。本当は全文引用して紹介したいくらいだ。その文章(本当はぜひ紹介したいのだが、何かと差し障りがありそうなのでやめておく)に触発されて書いたのが昨日の文章だが、私には"そっち方面"の才能がないことを露呈しただけだった。

 つい先ほど浄土真宗親鸞会について考えるページ「ジャンヌ」を全部読み終えた。非常に面白かった。私は親鸞会という団体についてはよく知らないし今後も特に調べてみる予定はないのだが、それでも楽しめた。その昔、街角で宗教関係らしい団体の人(大学生ふうの若い男性だった)に勧誘を受けたことがあり、その話の中で「相対の幸福/絶対の幸福」という言葉がしきりに出てきたが、もしかするとあれが親鸞会だったのかもしれない。
 それにしても、カール・ポパーは偉大だ。

1.10266(2002/06/02) 見出しを考えるのが面倒だ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020602b
 今日はこれから久しぶりに感想文を書く予定だが、ちょっと時間がかかりそう(うまくまとまらなければ明日に回す)なので、その前に小ネタをアップしておく。

 ペインキラー氏の「遠隔ネット一人ツッコミ」が面白かったので二回目を待っていたのだが、どうやら一回きりの企画だったよう。それなら、ということで勝手に真似をしてみた。
 どこかのサイトの6/1付の記事へのツッコミ
「悪いことは言わないから、それは封印して創元推理文庫版を探したほうがいい。あれは訳が悪くてアンフェアになっている。嘘じゃないよ。この目で見たんだ!
 あまり真似になっていない気がするが、気のせいだから、気にしてはいけない。

 今日の1回目の記事でポパーについて書いておいたところ白黒学派で「しかし、すごいところから話を持っていきますね」とコメントされた。でも浄土真宗親鸞会について考えるページ「ジャンヌ」が基本的にポパーの議論に立脚していることは明らか(参考文献の中にもポパー関連の本が挙げられている)だ。と学会の活動にもポパーは影響を与えているし、反オカルト、疑似科学批判の文脈ではポパーは馴染みのある哲学者だと思う(逆に、オカルトや疑似科学を擁護する側の陣営は、トマス・クーンの「パラダイム」を引き合いに出すことがある。たぶんクーン本人にとっては不本意だろうが)。
 ああ、偉そうなことを書いてしまった。
 誤解のないように申し添えておくと、私はポパーやクーンの本を一冊も読んだことがない。科学哲学に興味はないことはないのだが、基礎的な科学知識がないため、話についていけないのだ。

 車のタイヤがパンクしたのでオートバックスへ持ち込むと、日曜日で混んでいるため2時間半かかると言われた。仕方がないので近くの本屋で暇つぶし本を買う。なんとなく海外物の小説を読みたい気分だったので、『愛はさだめ、さだめは死』(ジョイムズ・ティプトリー・ジュニア(著)/伊藤典夫・浅倉久志(訳)/ハヤカワ文庫SF)を買った。タイトルがかっこいい。こんな本をまだ読んでいないとは……とあきれる人も多いだろうが、それどころではない。私はまだ『火星年代記』も『結晶世界』も『われはロボット』も『幼年期の終り』も読んでいないのだ。はっはっは。

 いかん、こんな事をだらだら書いていては時間が……。ええと、最後に「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だが、今日はCD61を聴いた。おしまい。

1.10267(2002/06/02) 『冬は幻の鏡』体験版の感想(前編)

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020602c
 1週間ほど前に肺炎時計を見ていたら、『冬は幻の鏡』体験版のレビューが目にとまった。
 発狂評論軍団半端マニアの方々が、原稿用紙5000枚超の大作同人サウンドノベル『月姫』に触発されて、それに対抗すべく熱い意気込みで鋭意製作中だというこれまたサウンドノベルの体験版。なんと原稿用紙4000枚以上の分量があるらしい。長けりゃ良いってもんでもないが、それを実行してしまうのは凄いなぁ。
 コミケに行けば山のように同人ゲームがあり、特にノベル系ゲーム(グラフィックに被さる形で、画面全体に文章が表示されるタイプのゲーム。ウィンドウ内に文字が表示されるタイプのゲームに比べると一画面あたりの文字数が多くなるため、小説に近い文体をとることが可能になる。チュンソフトの『弟切草』『かまいたちの夜』などの"サウンドノベル"、リーフの『雫』『痕』などの"ビジュアルノベル"が有名。その他、"デジタルノベル"という言い方をすることもあるが基本的な形式はほぼ同じ。この文章では一括して"ノベル系ゲーム"と言うことにする……って誰に向かって説明してるんだ?)が多い。TYPE-MOONの『月姫』のように「これが同人ゲームか!」と驚くようなものもあれば、「所詮、同人レベル」の言葉とともに忘れ去られてゆくゲームもあり、当然のことながら後者のほうがずっと多い。ゲームマニアならともかく、商業ゲームさえこなしかねて"放置ぷれい"状態になっている私には縁遠い世界だ。コミケ会場で同人ゲームサークルが集まっているところを通りかかっても、「ああ、この中にもしかしたら宝があるかもしれないなぁ。でもなぁ」と心の中で呟きつつ去ることになる。
 では、どうして私がこのゲームに興味を持ったかというと、上の引用文で「発狂評論軍団半端マニア」と書かれていたからだ。同人ゲーム界の状況を知っているわけではないので、評論系の人々がゲーム制作に乗り出した例がどれくらいあるのかは知らない。また創作批評同人誌【半端マニア】の存在を知っていたわけでもない。それでも、レビューの続きを読んでみようという気にはなった。
 そしてレビューを最後まで読んでみて――感想文の感想文を書いても仕方がないので省略するが――ますますこのゲームのことが気になった。末尾の一文
興味を持った方は公式ページに書いてあるメールアドレスにメールを送ると体験版が貰えるらしいですよ。
に誘われるように半端マニアソフト公式サイトへ。そこでは「体験版タダで送りつけますキャンペーン」というのをやっていて、私が見たとき(5/26の午前1時頃)には、「あと7人」と書いてあった。もしかすると、私と同じように肺炎時計を見てやってきた人が大勢申し込んでいて、もう締め切っているかも……と思いつつ、メールを送った。
応募資格は18歳以上である事と、プレイ後の感想を掲示板なりメールなり自サイトなりで書いて下さる約束をしていただける方、とさせていただきます。
と書いてあったので、この体験版が単なる宣伝目的の"試供品"ではないことがわかる。ユーザーの意見をほいほいと取り入れたからといってよいゲームができるというわけでもないだろうし、そもそも制作者側もそんなことは考えてはいないだろうが、それでも完成品をプレイしてあれこれケチをつけるのとはまた違った楽しみがあるかもしれない。そう考えた。
 そして私は今応募時の約束に従い、この文章を書いてる。前置きが長くなってしまったが、いよいよゲームの感想を書くことにしよう――と思ったのだが、今日は眠くなってきた。このままだとかなり投げやりな事しか書けないので、感想は次回に。なんだか腰砕け。明日「後編」を書くつもりだが、これが「中編」になったら嫌だなぁ。
 あ、そうそう。さっき半端マニアソフト公式サイトを見たら、キャンペーンの締切まで残り5人になっていた。興味のある方はどうぞ。興味があるかどうかはわからないけれど、この人とかこの人のレビューは読んでみたい、と思う。なんとなく。

1.10268(2002/06/03) 『冬は幻の鏡』体験版の感想(後編)

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020603a
 昨日の続き。
 まず、タイトルについて。物語は2003年3月11日から始まる。3月なら春だろう、とツッコミを入れたい気もするが、舞台は北海道だから冬でいいのだろう。「幻の鏡」というのは何のことかわからないが、何か意味があるのだろうか。もしかしたら「冬幻鏡」で「桃源郷」を暗示しているのかもしれないと思ったが、体験版の範囲では特にその思いつきを支持するようなデータはなかった。
 次にグラフィック。背景は絵ではなく写真である。写真を背景にするとキャラクターの立ち絵がどうしても浮いてしまうという難点はあるが、同人ゲームで背景画に労力を割くのは得策ではないので妥当なところだろう。通例に倣って、写真を加工しモノクロにするのも一案だが、今のままでも特に気になるというほどではない。
 で、キャラの立ち絵だが、全体的に白っぽい。特に和泉和歌奈と仁科ゆうはてかてかと光っているような感じがする。塗りは長池小月がいちばん自然なように思う。キャラごとに塗り方が違うと、並べて表示したときにバランスが悪いので、統一したほうがいいのではないか。野郎キャラはどうでもいいけど。
 イベントシーンの一枚絵も数枚ある。夜の校舎での戦闘シーンを盛り上げる絵がもっとほしいという気もするが、この辺りはまだまだ序盤だから、こんなものか。風俗店のシーンのサービスカット(?)は、人物の姿勢が行儀よすぎて画面の中にこぢんまりと収まっている。どアップで、斜め45度くらいのほうがいいかもしれない。小月が廃屋の窓から道明を見ている絵は、その場面が道明の視点であるとを考えると、やや不適切だと思う。少しあとの彼女が道明を見ていたことを告白する場面で使ったほうがいいのでは?
 視点の話が出てきたところで、次にシナリオについて。このゲームには叙述上の特徴が二つある。一つは、視点が突然転換する箇所があるということ。もう一つは三人称と一人称がまぜこぜになっているということ。どちらもノベル系ゲームでは珍しいのではないか。
 前者の特徴については、マルチサイトシステムのノベル系ゲームへの応用、と解釈することができるだろう。すなわち、一つの出来事を複数の人々の視点から少しずつ描くことにより、徐々に全体像が見えてくるようにする、という趣向だ。この趣向を生かそうとすると、どの選択肢を選ぶかによってその後の物語の展開が大きく違ってくる(マルチストーリー、マルチエンディング)では具合が悪い。やってできないことはないが、それよりもストーリー自体は一本道で見せ方に工夫があるほうが効果が大きい。
 他方、ノベル系ゲームが普通の小説と大きく違うのは、まさに「どの選択肢を選ぶかによってその後の物語の展開が大きく違ってくる」という点である。すると『冬は幻の鏡』はノベル系ゲームの利点をあえて殺しているのか? これはまだわからない。ただ、少なくとも体験版でプレイできる1日目だけに限ると、バッドエンドへと直行する選択肢以外はどれを選んでも一つの場面へと収束していく(小太郎ルートは途中までしかないので不明だが、たぶん他のルートと同じ場面に到達するものと思われる)。2日目以降も同様に一本道多視点で突き進むのか、あるいはルートによってストーリーが分岐していくのか? 主要登場人物7人すべての視点で1つの物語を描いたら凄いだろうな、と思うが、同じストーリーを7回読ませて、読者を飽きさせないというのは至難の業だろう。すると――
 私が想像する2日目以降の展開はこうだ。「道明−小月」「鈴夫−和歌奈」「小太郎−早織」という3つのペアに対応する3つのストーリーがあり、ゆうはキーパーソンとしてそれぞれの物語で重要な役割を果たす。各ルートでは適宜視点の転換が行われ、当事者2人の両方の立場から出来事を追うことができる。そして、全部クリアして冒頭に戻ると、おもむろにゆうの物語が始まる――
 まあ、たぶん外れているだろうな。
 さて、このゲームの叙述上のもう一つの特徴――三人称と一人称が入り混じっているということ――はどうか? 意外かもしれないが、さほど違和感はない。三人称の文章がベースになっていて、視点が置かれているキャラクターの内面描写をするときにそのキャラ自身の内的独白が挿入されていると考えれば不思議ではない。ただ、客観的事実についての情報を提示する文で「私」を用いたり、その逆にキャラクターの内心について三人称で語っていたりする箇所もあるので、きっちりと人称の使い分けができているわけではない。もっとも、あるキャラクターの視点で叙述している最中には決してそのキャラクターの知り得ない情報(たとえば他のキャラクターの心理)を語ることはない、という意味で視点の統一はきっちりしており全く混乱はないので、これはこれでいいのではないか。もちろん、全部一人称にしてしまうほうがわかりやすいことは確かだが。
 視点について長く語りすぎた。この文章を「『冬は幻の鏡』体験版の感想(中編)」にしないために、あとは駆け足で述べることにする。
 キャラクター造形は類型的(特に小月と和歌奈)だし、ストーリーにも特に目立った特長はない。だが、まだ序盤であることを考えると別に悪くはない。それよりも、「人間椅子」とか「マカロニ丼」など、どうでもいいネタの出し方を評価したい。高校文系サークルの、ある意味で理想的な日常生活を見事に描いていて、読んでいて飽きない。
 ちょっと気になるのは、冬の寒さがあまり感じられないこと。タイトルに「冬」という言葉が入っているのに、本州の3月のような雰囲気だ(背景写真では雪は積もっているけれど)。早織の薄着もアレだけど、もっと文章で寒さを強調したほうがいいのではないか。また、このことに関連して「小月は廃屋でどうやって暖をとっているのか?」とか「北海道の高校では冬の夜でも水道が使えるのか?」とか疑問に思ったことを申し添えておく。
 音楽はあまり強い印象を与えるものではないが、ゲーム音楽はあまり自己主張すべきではないと思うので、これでいい。効果音も同じ。
 システム面では、既読/未読判定がないのが残念だが、製品版では当然実装されることと思う。定評あるNScripterを使っているので、特に問題はない。なお、画面をクリックすると「ウィンドウを消す」という項目が出てくるが、ここは「文章を消す」とか「画像のみ表示する」と変えるべきだろう。細かいことだけど。
 だらだらと書き連ねた感想文もいよいよおしまい。既にネット上でレビューがいくつか出ているので、なるべく独自の視点で感想を書こうと思ったが、結局はこの程度。あとは、「和泉和歌奈、って道産子らしくない名前だなぁ」とか、本当にどうでもいい事しか思い浮かばないので省略。ついでに総評も省略。それは製品版をプレイしてから、ということで。ちゃんと冬コミで発売してくれればいいのだけれど、『冬は幻の鏡』半鏡版が出たりして……。

1.10269(2002/06/04) 推理と証明

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020604a
 警察署で殺人事件が発生した、とせよ。別に消防署でも税務署でも構わないし、官公署である必要すらないのだけど、とにかく舞台は警察ということにしておく。被害者は捜査一課の敏腕刑事で通称"チビ太"、本名は面倒なのでどうでもいい。トイレの個室前で血塗れ死体となって発見された。凶器は飛び出しナイフ、心臓を前から一突きされていた。彼はバリツ(日本古来の武術)の達人だったが、ほとんど抵抗せずに殺されていた。
 そこに名探偵が登場する。彼女は死体を一瞥して言う。「犯人は身長150cm未満の男性です」と。「事件当時に署内にいた人々の中でこの条件を満たす者は一人しかいません。その人物は……署長の息子です」
 署長の息子は小学5年生。問いつめると犯行を自白した。犯行動機は、チビ太がその少年を無理矢理×××したうえ、それをネタに脅して「俺の××になれ」と脅し、さらに少年××まで強要していたからだった。この想像を絶する事態に周囲の大人たちは驚き、事件をもみ消した。
 後日、関係者の一人が名探偵にどうやって推理したのかを尋ねた。彼女の回答は以下の通り。
「死体に刺さった飛び出しナイフの角度から、犯人は被害者より背の低い人間と推測できます。そして現場は男子トイレなので犯人は男性であると考えられます。女性が男子トイレに入ってきたら被害者は不審に思い、身構えたことでしょう。しかし被害者はバリツの達人なのに全く抵抗のそぶりを見せていません。つまり、犯人は男子トイレに入っても不思議ではない人間、すなわち男性であったということになります」

 さて、この名探偵の推理の構造を分析してみよう。彼女は犯人の備えているべき条件を3つ挙げ、その条件すべてを満たす者が一人しかいないということから特定の人物を名指しした。「条件が3つ? 2つの間違いじゃないの?」と思った人はもう一度上の文章を読み返していただきたい。別にクイズにするつもりなのでさっさと書いてしまうが、名探偵が犯人特定のために用いた条件は、
  1. 身長150cm未満であるということ
  2. 男性であるということ
  3. 事件当時に警察署内にいたということ
の3つである。彼女の推理は、3つの条件を導き出す部分と、それらの条件に基づいて犯人を特定する部分に二分できる。それぞれについて検討してみよう。
 まず、前者について。名探偵は死体発見現場の状況からさまざまなデータを取り出した。それらのデータは個別的具体的な事柄である。そこから犯人が満たすべき条件という抽象的な事柄を導出した。するとこれは帰納法に基づく推理ということになる……のか?
 3つの条件のうち2番目のもの、すなわち「犯人は男性である」、を取り上げよう。現場は男子トイレだから、そこに出入りする人々の大部分は男性である。某月某日の早朝に用を足した人物は男性だった。同じ日の夕方にそこに入った人物も男性だった。さらに別の日の昼間に、あるいは深夜に、その男子トイレに出入りした人々もみな男性だった。これらの観察データから「このトイレに出入りする人物はすべて男性である」という一般的法則が導き出される。よってチビ太殺害犯も男性である。もし彼女がこのように推理したのなら、なるほど帰納法に基づいた推理だといってよい。だが、このように考えるのは馬鹿げている。
 彼女の推理はこれとは全然違っている。「男子トイレは原則として男子のみが出入りする場所である」という慣習があり、「通常の社会人は男子トイレに関する慣習を知っている」という一般的な事実がある。さらに「チビ太は通常の社会人である」という情報をたぶん生前の被害者を知る人々から得ていたことだろう。小学生の男の子相手に×××をするような奴はまともな社会人とは思えないかもしれないが、ここでいう「通常の」という修飾語句には、性癖やモラルに関する健全性は含まれていない。そこで、「チビ太は男子トイレは原則として男子のみが出入りする場所であることを知っている」という推測が成り立つ。これは純粋に演繹的な推論である。この推論の3つの前提のそれぞれをさらに検討するなら、帰納法によって得られた知識が含まれることは十分に考えられる。しかし、あまり突き詰めて考えないことにしよう。
 さて、次のステップでは、仮定を一つ導入することにしよう。その仮定とは「犯人は女性である」というものだ。すると「チビ太は犯人の姿を見たときに身構えただろう」と推測できる。いや、ちょっと飛躍した。「犯人は現場に出入りしている」とか「人は異例の事態に遭遇すると身構える」とかいくつもの前提が必要となる。だが、上と同じく一つひとつの前提を突き詰めることはしない。
 さて「もし犯人が女性だとすれば、チビ太は犯人の姿を見たときに身構えただろう。しかし、チビ太はそうはしなかった。よって犯人は女性ではない」というのは背理法に基づく推理である。帰謬法と言ってもよい。背理法も演繹法のうち……と言ってしまっていいのかな?
 ともあれ、このような過程を辿って「犯人は男性である」という条件が導出された。だが、この推理にはその気になればいくらでも穴を見つけることができる。たとえば、犯人は作業服を着てモップとバケツを持ってトイレに入った中年女性だった、という仮説はどうか? 「男子トイレは原則として男子のみが出入りする場所である」という前提が正しいとしても、それはトイレの使用者に関する慣習であり、トイレの管理者に関する慣習ではないから、この仮説は前提には違反しない。もし名探偵がこのような可能性に気づいていなかったのなら、迂闊だったと誹られても仕方がないだろう。だが、彼女はちゃんと気づいていて、何らかの根拠からこの可能性を消去していたのだ、と考えることにしよう。面倒なので、どんな根拠かは書かないけれど。
 残りの2つの条件もさまざまな前提を組み合わせ、補助仮説の助けを借りて矛盾を導き、可能性を消去し、さらに仮説を立てて……というステップの結果、得られたものだと考えることができる。決して「ナイフを下から突き上げて胸を刺すことができるのは、被害者よりも加害者のほうが身長が低い場合であり、かつ、そのような場合に限る」という都合のいい法則が最初から用意されているわけではない。推理する者が事件に出会う前から持っている知識と信念の体系に含まれる膨大な命題の中から推理の前提となるものをいくつもいくつも取り出しているのだ。諸前提を組み合わせる膨大な過程のなかで演繹法の占める比率は高いと思われるが、必ずしもそれがすべてというわけではないだろう。
 次に名探偵の推理の後半部分について。3つの条件を満たす者が複数いれば、犯人がどちらであるかを決定するにはさらに別のデータが必要となるが、幸いこの事件では該当者が一人しかいないので、限定条件は3つで足りた。犯人はまだ小学生なので仮に「少年A」と呼ぶことにすると、「少年Aは条件1〜3を満たす」というデータと「少年A以外には条件1〜3のすべてを満たす者はいない」というデータがあるということになる。これらのデータを付け加えて、もう一度整理し、並べてみよう。
  1. いかなる者も、チビ太を殺した犯人であるならば、身長150cm未満である。
  2. いかなる者も、チビ太を殺した犯人であるならば、男性である。
  3. いかなる者も、チビ太を殺した犯人であるならば、事件当時に署内にいた人物である。
  4. 少年Aは、身長150cm未満であり、かつ、男性であり、かつ、事件当時に署内にいた人物である。
  5. いかなる者も、もしその者が少年Aでないならば、「身長150cm未満であり、かつ、男性であり、かつ、事件当時に署内にいた人物である」ということはない。
 この1〜5から「チビ太を殺した犯人は少年Aである」という結論が導けるはずだ。嘘だと思うなら、論理記号で書き表してみればよい。「いかなる者も……」を「∀x……」、「……ならば……である」を「…→…」、「……はチビ太を殺した犯人である」を「H…」、「……は身長150cm未満である」を「S…」、「……は男性である」を「D…」、「……は事件当時に署内にいた人物である」を「J…」、「少年A」を「a」、「……かつ……」を「…&…」、「……は少年Aである(少年Aと同一人物である)」を「…=a」、「……でない」を「〜…」でそれぞれ表すと……あれ? 出てこないや。
 おっと、大事なことを忘れていた。「チビ太を殺した犯人が存在する」という前提が必要だ。「……が存在する」を「∃x…」と表すと、
  1. ∀x(HxSx)
  2. ∀x(HxDx)
  3. ∀x(HxJx)
  4. Sa&Da&Ja
  5. ∀x(〜(x=a)→〜(Sx&Dx&Jx))
  6. ∃xHx
となる。ここから結論である「Ha」を導出するのは容易である。面倒なので私はやらないが。
 久しぶりに論理式を書いたら、もの凄く疲れた。これ、ほんとに合ってるのかな? 間違っていたらごめん。

 今回の結論。
 手がかりをもとにして推理をめぐらし犯人が備える条件を見つけ出し、その条件に従って犯人を特定するというタイプの推理は、演繹法を基調としているような感じがするが、必ずしもそうとばかりは言い切れないような気もして、とりあえず条件から犯人を絞り込む場面は論理式で書き表すことができるから厳密な推理といえるのだろうけど、そもそもの前提が絶対確実じゃないから実際のところはどうなんだろうと思う今日だけど、たったこれだけの事を言うのに約1週間うだうだと考えていたらなんか先を越されていて、しかも私よりもっとスマートに論述しているので、かなり凹んだ。

 昨日はバッハ・エディションのCD62、今日はCD63をそれぞれ聴いた。

1.10270(2002/06/05) ネタ切れでも安心!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020605a
 「毎日更新」を謳い文句にしている個人のウェブサイトは常にネタ切れの危機に立たされている。「ネタが切れたら更新を休んだらいいじゃない」と言う人もいるが、その意見は単純すぎる。そのような考えでは来るべき預金封鎖を乗り越えることはできないだろう。
 なぜ毎日更新し続けなければならないのか、という説明は省略する。なぜなら、わかる人には既にわかっていることだし、わからない人にはわからないことだから。なぜわからない人にはわからないのか、という説明も省略する。なぜなら、わかる人には既にわかっていることだし。わからない人にはわからないことだから。以下同文が延々と続くが省略する。なぜなら、(以下略。なぜなら……)。
 今日のテーマは、ネタがないときにどうやって更新ペースを保つか、である。私が考えた方法を実践すれば、あなたはもうネタ切れから永久に解放される。死ぬまでずっとサイト運営を続けることができる。そして最後にはサイト運営から永久に解放される。さあ、個人サイト管理人の皆さん、メモの用意はいいですか?
 まず最初にこれだけは絶対にやってはいけないという方法を挙げておく。それは「ネタがないということをネタにする」という方法である。「ネタ切れをネタにしているサイトなんか見たことがないよ」と言う人がるかもしれないが、嘘だと断言できる。あなたがこれまでにどのようなサイトを巡ってきたのか、私は知らない。それでも嘘だとわかるのだ。別に不思議なことは何もない。「私は自分のことを『私』と称したことは一度もない」と言う人がいれば、誰だって嘘だとわかるでしょ?
 なぜネタ切れをネタにしてはいけないのか、という説明は(以下、略)。とにかくサイト管理者たる者、どんなにネタに詰まっていても超然としていなければならない。その気になれば10年分のネタをいつでも引き出しから取り出せる、という顔をしていないといけないのだ。別に平然とした表情の写真をサイトにアップする必要はないが。
 私がお薦めする方法は次の3つである。
  1. 時事ネタ
  2. 個人ネタ
  3. ネットネタ
 「な〜んだ、こんなの誰でも知ってるよ」と呆れた顔をしているそこの君! バケツを持って廊下に立っていなさい。だいたい君はなんだね、人が苦労してネタをひねり出している最中に茶々を入れたりなんかしちゃったりして。
 人は案外自分の知っている事柄について無知である。たとえば、時事ネタでお茶を濁す方法は知っていても、時事ネタの可能性とかその射程についてはあまり深く考えていないことが多い。ただ、その時どきの時流に流されて後から振り返ると読むに耐えないネタをだらだらと書いてしまうのだ。それではいけない。時事ネタの神髄を究めたとは到底言えない。
 後から振り返ってつまらないネタは相手にするな! 今書いていてつまらないネタを書け! 今日の出来事は誰でもネタにする。W杯を話題にするくらいなら、去年の自民党総裁選をネタにしろ! いやぁ、まさか小泉さんが首相になるとは思わなかったですね。これで郵政民営化にも拍車がかかることでしょう。今後、党内の抵抗勢力がどう巻き返しを図るか、なまあたたかい目で見守ることにしましょう。
 ま、それはそれとして。
 たとえばW杯をネタにするなら、徹底的に自分の生活に引きつけて書くという方法がある。時事ネタ+個人ネタである。私はスポーツ一般に全く興味がなく、W杯でどのチームが勝とうが負けようがどうでもいいのだが、ただ一つだけ言いたいことがある。デンマークはこれ以上勝ってほしくない、と。あと2試合素直に負けて、さっさと祖国に帰ってもらいたい。別にデンマークチームの選手に恨みがあるわけではないが、切に願う。なぜ、私がそのように願っているのか、そしてこれがどうして「個人ネタ」なのか、という説明は省略する。このサイトを誰が見ているか、わからんからね。
 慣れないスポーツネタは書くものではない。だいたい私はデンマークが明日どの国と対戦するかということさえ知らないくらいだ。
 さて、3つめのネットネタはわりと書きやすいと思う。適当に巡回してツッコミを入れられそうなサイトを見つけていじり倒せばよい。ネットバトルに発展することが怖ければ「某氏の某サイト」とでも書いておけばよい。逆に相手を誉めるときには遠慮せずにリンクをはること。
 で、さきほど某氏の某サイトを見た。これまでに何度も文章を無断引用してネタにしたことがあるのだが、今回はさすがにちょっと気が引ける。というのは、ある大手サイト及びその周辺の人々を徹底的に批判しているからだ。某サイトは一般公開していないので、その大手サイト関係者が見ることはまずないだろうが、もし私が転載したら紛糾のもとになる恐れがある。一回そういう地雷を踏んでみたいという誘惑に駆られるのだが、やっぱりまずいだろうなぁ。こっそりメールで知らせようか? いや、某氏本人の許可なしにはできないだろうな。そういう事をつらつらと考えて、さりげなくぼかして言及してみようと思い立ち、ではどのような文脈で取り上げたらいいのか、と考えているうちに思いついたのが「ネタがないときのネタ指南」だった。そういうわけで、今まで書いてきたことは、この話題へと話を引っ張ってくるための長い前振りだった。まじめに読んでくれた人には申し訳ないが、一つ前の段落までに書いたことは別に深い意味があるわけではなく、むしろでたらめに近いと思っていただきたい。
 さて、「さりげなく言及してみよう」と思ったのに、そう書いてしまっては全然さりげなくないわけで、もう少しごまかしておく必要がある。以下、適当に文章を水増しして前段落を埋没させる。

1.10271(2002/06/06) スイカと蛍とメイドさん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020606a
 昨日の文章さりげなく言及した話題はやっぱりかなりまずいものだったらしい。
 某氏曰く
ああ、すみません昨日のダークサイドな日記は2ちゃんねるを巻き込んでのバトルになる可能性があるため、かなりの地雷になります。
とのこと。私のような素人がむやみに触れてはいけない領域のようなので、これ以上突っ込まずに退散する。
 この話題をいじれば二、三日は楽に更新ができると思っていたのだが……。

 全然別の話だがただ、風のために。56/4付の文章について。そこからリンクしている講談社の著作権についてのお願いを読むと、どうしても「感感俺俺」な超先生を連想するのだが、撤退したはずの話題に徐々に近づいているような気がして危険だ。
 私が注目したのでそちらではなく、差分の時代のほう。「メモ」と書かれているが、なかなか示唆的であるように思われる。二次創作に「作品/作品の断片」という二項を想定し、後者を「差分創作」と呼んでいる。ここでの「差分」は"本体の欠点を是正する"とか、"より機能を向上させる"という肯定的な意味合いで使われているのではなく、"それ単独では何の価値も持たない"という含みだと思う。
 ところで「二次創作」という言葉が生まれたのはそれほど昔のことではない。同人界では昔から「創作/パロディ」という二項が対になっていたが、ここでいう「パロディ」は「滑稽、諧謔」という含みがなく、シリアス調の作品も範囲に含むものだった。音楽用語の「パロディ」(主として古楽の分野で使われる)に近いともいえるが、現在一般的な用法とはずれがあり、同人界に通じていない人に誤解を与えるおそれのある言葉だった。もしかすると「二次創作」という言葉が普及した一因はそこにあったのかもしれない。
 これは私の印象であり論拠を示すことはできないのだが、「二次創作」には「パロディ」のような引け目がなく、一次創作と同じ「創作」の仲間だという対等意識が見られる。本当に対等だと思うのなら一度米国生まれのネズミの絵で勝負してみたらどうか、などと挑発してみたい気もするが、これはまた別の話。ともかく、「パロディ」と言おうが「二次創作」と名前を変えようが、"他の「作品」に全面的に寄りかかることによって存在する"代物に積極的に価値を認める気にはならない。
 なんか喧嘩腰になってしまった。「それは違う!」と反論したくなる人もいるだろうから、少し言い訳をしておく。まず第一に、いわゆる「一次創作」であっても他の作品に寄りかかっている部分がゼロではないということを指摘しておかなければならない。一次創作と二次創作の間に厳密な線引きは出来ないのだから。「単なる"程度の差"じゃないか」。だが、"程度の差"は軽んじるべきではないと思う。
 第二に、私は「二次創作」全体にケチをつけているわけではない。「二次創作=差分創作」と言い切ってしまうほうが話が簡単でいいのだが、例外がないわけではない(ただし私は咄嗟に"例外の例"を示すことができない)ので、高橋氏に倣って「ほとんどの二次創作作品は差分創作である」と言っておく。
 ああ、なんか全然まとまっていない。今日は大失敗。この話はもう少し考てみることにしよう。とりあえず高橋氏が「メモ」からどう話を進めるのかに注目。
 ついでなので、ただ、風のために。56/6付の文章について。『ワールドカップ殺人事件』はそんなに話題になっていないのだろうか? 以前、政宗九氏や嵐山薫氏と、今年はW杯の年だから創元はまた『ワールドカップ殺人事件』を増刷するのだろうか、というような話をした記憶があるのだが。もっとも私はこの小説を読んでいないけれど。ちなみに『ゴールド1/密室』は読んでいる。あまつさえ『ゴールド2/死線』も読んだ。あのころ私は若かった……。「若」は「苦」に似ている。

 見出しについて。今日、スイカの皮の漬け物を食べた。ゲテモノかと思ったが、キュウリとあまり違わない。それから、夜に蛍を見た。それだけ。
「じゃあ、メイドさんは?」
 そうそう、冒頭で言及した某氏が激烈な文章の翌日にこんなものに手を出したそうなので、なんとなく見出しに入れてみた。メイドさんチュパチュパ。いや、私は買わないよ。

 今日から受難曲集を聴き始めた。バッハの受難曲は「マタイ」と「ヨハネ」が有名だが、このバッハ・エディションでは現存しない「マルコ」を"復元"した曲と、偽作の「ルカ」を合わせて4福音書全部を揃えている。ブリリアントからは同じカップリングで「マタイ」の演奏が違っているボックスCDも出ていて、私はそちらも持っているが、冒頭合唱で少年合唱パートがオルガンで代用されている変なCDだった。こちらの「マタイ」はちゃんと少年合唱を使っているようだが……今日聴いた1枚目(3枚組)はあちこちで音飛びして、ほとんどまともに聴けなかった。

1.10272(2002/06/07) こうやってのんきに雑文を書いていると、あの忌まわしいサン・バルテルミーの虐殺がまるで夢のようだ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020607a
 ここ数日、疲労が積もり重なって精神的バランスを崩していたため、テンションが高いんだか低いんだかよくわからない、変な文章を書いてきた。今読み返してみると、一昨日昨日の文章はどうにもあざとく鼻につく。「わかる人だけ笑ってください。ウッシッシ」という感じだ。なんか、私自身が私のいちばん嫌いなタイプの人間になってしまったようで、非常に気分が悪い。そういうわけで、今日は適当に買い物日記でも書いて、さっさと頭から布団をかぶって丸くなって寝ようと思う。
  1. 『樒/榁』(殊能将之/講談社ノベルス)
  2. 『法月綸太郎の功績』(法月綸太郎/講談社ノベルス)
  3. 『悪魔のミカタ(3) パーフェクトワールド・平日編』(うえお久光/電撃文庫)
  4. 『別冊アガサス 和歌山の中華そばとラーメン・全県版』(アガサス)
 いちばん最後だけ全然違っているが、気にしてはいけない。
 1は『鏡の中は日曜日』に続く第5長編である、と言いたいが、えらく薄い。講談社ノベルス20周年記念の「密室本」なので、封を切ってみないと何ページあるのかはわからないが、たぶん2の半分くらいだろう。奇妙なタイトルだが、二つの漢字から扁だけをとると「木/木」となるので、もしかしたら木々高太郎へのオマージュのつもりなのかもしれない。
 2は今年度日本推理作家協会賞受賞作『都市伝説パズル』を含む作品集である。かの原田宇陀児をして「カー」 「タカハシ」 「リンタロー」 が自分の三大好物と言わしめた人物の3年ぶりの新刊である。収録作品はすべて雑誌や書き下ろしアンソロジーに掲載されたものばかりだが、私は一編も読んでいないので、これから一編ずつ味読する予定。一気に読んでしまうともったいない。とりあえず『都市伝説パズル』のネタ元、Urban Legends/噂と都市伝説にリンクしておく。あとで暇なときに読んでみるつもりだ。
 3は2ヶ月の沈黙を破ってうえお久光が世に問うシリーズ第3作。ちなみに「2ヶ月の沈黙を破って」というフレーズは、ずっと前にここで上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズの何作目かについて使っていたのを読んで「いつかパクってやろう」と思っていたのだが、ようやくその機会が来た。同じ電撃文庫というのも何かの縁だろう。なお、来月には『悪魔のミカタ(4) パーフェクトワールド・休日編』というのが出るそうな。当然、キャッチフレーズは「1ヶ月の沈黙を破ってうえお久光が世に問うシリーズ第4作」ということになる。

 『マタイ受難曲』の2枚目を聴いた。幸い音飛びはなかった。

 さて、あとは布団にくるまって眠れない夜を過ごすだけだ。だが、何か寂しい。もう少しだけ書いておく。
 hirax.net職場のスフィンクスの名台詞 - 止まったエスカレーターに何故上手く乗れないのか? - を読んだ。よく出来たミステリのようが描いているような、鮮やかな謎解きが楽しめる。しかし、JUNK-LANDの今日付の文章(ロジックとフェアプレイ-32)で提示されている
そもそも“演繹的推理を施す対象となるべき”個別の謎や証拠は、名探偵が恣意的に選び出したものなんではなかろーか
という疑問をぶつけてみることは可能だろう。よく読むと「エスカレーターが止まっている、って判っていても、無意識のうちに体がエスカレーターが動いていると思いこんじゃう」から、という理由付けを排除する根拠はどこにも提示されていない。ただ、より面白い解答を提示することで何となく退けているだけである。これはなかなか興味深い。
 「無意識のうちに」という表現は万能であり、およそ人間の行動に関する事柄ならたいていは説明できる。だが、万能の説明方法は結局何も言っていないのに等しい。上のような仮説では読者は「無意識のうちに」内容のなさを感じ取り、つまらないと思ってしまうのだ。その後で正解(?)を提示されると、先の無意識論法との対比により、思わず膝を打ってしまうのである。むろん「思わず膝を打つ」というのは「無意識のうちに膝を打つ」と言っているのと同じことだから、私が言っていることをあまり信用してはいけない。
 さて、件の謎について私が思いついた解答は、「エスカレーターの段差は端のほうでは均一になっていないから」というものだ。これは誰でも一度は思いつくことだが、一つ難点がある。さて、それは何か?
 答え:
 止まっている「動く歩道」でも乗り降りの際に躓きそうになることがあるが、「動く歩道」にはエレベーターと違って段差がないので、上記の仕方では説明できない。

 ああ、今日もとことん分裂した文章を書いてしまった。

1.10273(2002/06/08) 少林足球

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020608a
 今日は久しぶりに日本橋界隈へ出かけ、いろいろなものを買ってきた。たとえば「ネットランナー」の7月号とか……。中華キャノンのプラモデルにつられたわけではなく、おまけでついてきた3Dマウスパッドにつかれただけである、と弁明しておく。これが弁明になっているかどうかはさておき。なお、どこで買ってもマウスパッドがついてくるわけではなく、某パソコンショップの店頭で「西日本ではここだけ」と言っていたから、ある程度は希少価値もあるのだろう。別にどうでもいいけど。
 ほかには、一部でわりと評判のいい『ハヤシ迷作劇場』(林組)も買ったが、未開封なので特にコメントはない。
 さて、見出しにも掲げた『少林足球』(邦題『少林サッカー』)だが、行きつけのショップでデモを流していて、それが面白かったのでついふらふらと衝動買いしてしまった。もちろん輸入盤だが、地域コードがないので日本のDVD機器でも再生できる。音声は北京語と広東語、字幕は中国語(繁体、簡体)のほか英語もある。
 家に帰ってから、早速再生してみた。私は中国語がわからないので、英語の字幕を頼りに見るしかない。とはいえ、英語読解力もほとんどないので、会話はたぶん理解できないだろうと思っていたのだが、実際に見てみるとだいたい何を言っているのかがわかった。時折字幕が2行にわたることがあり、字面を全部追えないこともあったが、わざわざ一時停止にすることもない。パソコンの小さな画面で見たので迫力はあまりなかったが、約2時間途中で止めることもなく全編見通した。機会があれば、映画館の大スクリーンで見てみたい。
 ちなみに私のお気に入りの場面は、「ソルベイグの歌」がバックに流れる夜のシーンである。

1.10274(2002/06/09) 本を読まない日々

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020609a
 最近、本を読んでいない。
 いや、これは事実ではない。いつも鞄には何冊か本を入れているし、電車の待ち時間などに数ページずつ読んではいる。でも、なんか違うんだなぁ。ただ字面を目で追っているという感じだ。これは本当の読書ではない、と言いたくなる。いや、こんな言い方はおかしい。読書に「本当」も「偽」もあるわけではない。「これは本当の読書ではない」というのはレトリックだと思っていただきたい。これは私が本当に言いたいことではない。
 さて、今日は『トンデモ一行知識の世界』(唐沢俊一/ちくま文庫)を読んだ。最近、テンションが下がり気味で小説が読めなくなってきたので、コラム・エッセイ系の読みやすい本でも読んでみようと思って買ったのだが、全部読み終えるのに約1週間かかった。
 読みにくかったというわけではない。文体は平明だし、扱っている話題が私の好みに合うもので飽きず、非常に楽しめた。だが、一気に読み切るには、密度が濃すぎた。それだけのことだ。
 読んでいる最中にペインキラーRD「遠隔ネット大喜利」という企画が始まった。そこで「フランス手紙の謎」とか「イギリス外套の謎」とか思いついた(意味がわからない人は『トンデモ一行知識の世界』28ページ及び29ページ参照)のだが、
たとえば外回りの会社訪問での話題のきっかけ作りであるとか、入社試験の常識テストの参考書にする、とかいう理由で、生活のタシにしようと思って仕入れたとたん、雑学は実学となり、一行知識の持つ、無用な知識としての純粋性は失われるのである。
 雑学は、頭脳の細胞がその知識を増やしたいと欲する、その純粋な欲求のためにのみ、存在しなければならないのである。
と書かれている(同書9〜10ページ)のを読んで、自分がいかに雑学の本義にもとる行為をしようとしていたのかに気づき、愕然として立ちすくみ、涙を流して悔い改めたのである。雑学本を話のタネにしてサイト運営を行うのは安直であり、恥ずべき行為である。そういうわけで私は泣く泣く「フランス手紙の謎/イギリス外套の謎」をボツにしたのだった。

 さて、「遠隔ネット大喜利」つながりで政宗九の視点の6/8付の記事について(ちょっと話題の転換が強引すぎると思う人がいるかもしれないが、実際強引なのだから言い訳はしない)考えてみた。
 ネット上でウェブサイトを運営したり、掲示板の常連になったりすると、否応なしに「一定のイメージ」を持たれてしまう。良いイメージを持たれるのなら良いが、悪いイメージを持たれるのは悪い。略して「良良悪悪」と呼ぶことにする。悪文の見本だ。
 あれ? 話がずれてしまった。
 ネット上のイメージがいちばん露骨な形であらわれるのが、2ちゃんねるを始めとする匿名掲示板だろう。匿名掲示板をどう評価するかという難問には立ち入らないが、少なくとも他の掲示板や自分の運営するウェブサイトでは書きにくい本心をはっきりと書いてしまえるのは確かだ。その気軽さ、無責任さに倫理的な問題点を感じ取る人も多いことだろうが、私はむしろ「なんでもあり」の緊張感のなさのほうが気になる。それより「ここじゃ書けないよなぁ」と思う話題をいかに粉飾して書くかということを考えるほうが楽しいので、私は匿名掲示板ではあまり"その種の話題"は書き込まないことにしている。と言いつつ、某板の某スレッドの377を書いたのは私です。<某方面の皆さん
 さらに話がずれてしまった。
 幸か不幸か私はまだ匿名掲示板で「たそがれSpringPoint」が話題になっているのを見たことがないので、「滅・こぉる」が一般にどのようなイメージで捉えられているのかがよくわからない。想像してみるに、
  1. だらだらと冗長な文章を書く奴。
  2. 偏った知識をもとに偉そうなことばかり書いている奴。
  3. そのくせ妙に卑屈で自己弁護を繰り返している奴。
というところではないだろうか。まだまだ想像は膨らむのだが、逆に夢と希望はしぼんでいくので、このくらいにしておく。
 ええと、話が続かないぞ。困ったな。
 一度形成されたイメージはなかなか変えることができない。私は自分につきまとうイメージが嫌になってこれまで何度もハンドルを変えてきたが、交友関係を思い切って変えてしまうほどの踏ん切りはつかないし、そもそも自分自身の趣味や嗜好、性格を変えられるわけではないのだから、たいした効果は挙がっていない。せいぜい既成のイメージを少しずらす程度か。昨日の文章などかなり意識的にそれを狙っているのだけど、どこがどう"ずれている"のか、解説しないとわからない人のほうが多いだろう。でもって私は解説などする気はない。
 ああ、話が切れてしまった。
 さらにイメージをずらすためにこんなところにリンクをはっておく。新装開店おめでとうございます。一方では死んだり生き返ったり結婚式を演出したりしながら、もう一方ではただひたすら停滞を続けるという芸をもう少し見たかったような気もしますが、いろいろあったようなのでこの辺りが潮時でしょうね。的確な判断だと思います。次はどのような趣向で楽しませてもらえるのか、期待しています。
 おお、柄にもないことを書いてしまった。さて、そろそろ読書に戻るとするか。

 昨日は(昨日は?)話の流れにそぐわなかったので「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」を休んだのでまとめて二日分書いておく。昨日聴いたのは『マタイ受難曲』の3枚目、今日聴いたのは『ヨハネ受難曲』の1枚目。演奏は特に可もなく不可もなし。古くさいと言われるかもしれないが、私にとってこの分野でのベストはカール・リヒターだ。

1.10275(2002/06/10) 気温が上がるとテンションが下がる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0206a.html#p020610a
 今日は書くことが思いつかないので、いきなり「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」から。「ヨハネ受難曲」の2枚目で、おまけとして1725年版の一部が収録されている。
 ……あっという間に終わってしまった。

 明日もデンマーク戦があるらしい。例によって対戦相手がどこかは知らないが、とにかく負けてほしい。それも2点以上の差があくのでないといけない。お願い。

 今日は暑くて頭がぼんやりしている。いつもぼんやりしているので大差ないとはいうものの、まったく何もやる気が起こらないのは困ったものだ。疲れてだらけてゆるみきったところで、メールチェックをすると、知人からのメールが来ていたが、「Error:気力が不足しています。」という件名で、さらにどっと疲れが増した。たぶんその知人も私と似たような状態なのだろう。
 私は冷房が苦手でクーラーのきいた部屋にいると体を壊してしまうから、いくら暑くても我慢するしかない。だが、「我慢」という言葉は「自己啓発」や「癒し」と同じくらい嫌いな言葉で、できれば我慢はしたくない。我慢するかわりに暑さを辛抱するという方法もあるのだが、我慢するのと辛抱するのとは一体どこがどう違うのかがわからない。
 いつもなら、適当に文章を書いているうちにそれなりにテンションがあがってくるのだが、今日はどうも調子がでない。うだうだしているうちにそろそろ時間切れだ。
 あ、たった今、今日のネタにしようと思って考えていたことを思い出した。それは「1889年生まれの有名人4人による麻雀大会」というものだ。その4人というのは、ヒトラー、チャップリン、ウィトゲンシュタイン(隻腕のピアニストではなく、その弟のほう)、ハイデガーだ。微妙に因縁のあるこの4人が一堂に会して麻雀で勝負したらどうなっただろうか、という「歴史のイフ」に挑戦した意欲作だ。でも私にはこのネタを展開する気力が出ない。うまく書けばモンティ・パイソンみたいな話になると思うのだが……。誰でもいいから代わりに書いてほしい。
 ついでだから、もう一つ。今度は『ポンド氏の逆説』ネタ。「彼は自殺を企てており、彼女は彼を殺そうとしていました。だから当然、どちらの計画も失敗に終わることとなったのです」。登山中の事故死に見せかけるためにロープに切れ目を入れておいたら、そうとは知らずにそのロープで首をくくろうとした、というオチ。これもうまく書けば面白いかもしれない。
 いや、どんなネタでもうまく書けば面白いんだよなぁ。ただ、「うまく書く」というのが途方もなく大変なだけで。