熊野古道     熊野古道関係の古書   

熊野古道関係古籍著者

東 勘兵衛 あずま かんべー
(生没年未詳) 「関東筋名所喰」は文化十四年二月〜四月、70日かけ伊勢路、東海道、江戸、鹿島、香取、筑波、霞ヶ浦、日光、善光寺、木曽を6名の従僕とまわった記録。東勘兵衛は三重県尾呂志の名門で二十九代目。娘のオフカは新宮の大石家に嫁ぎその孫は大逆事件で処刑された大石誠之助、また孫の長男は東京文化学園創設者の西村伊作である。
小原桃洞 おはらとうどう
(1746〜1825) 熊野中辺路採薬巡覧記」を著した江戸時代後期の本草学者。「紀州物産誌」「本草余纂」「南紀土産考」など多くの著書がある。桃洞門下から、当時の名医であり紀州本草学を確立させた畔田翠山をはじめ、山中信古、上辻木海らを輩出した。天保10年(1839)紀州藩が刊行した「紀伊続風土記」の物産篇を担当した。
 小野蘭山の弟子にあたる。
小野蘭山 おのらんざん
(1729〜1810)  京都生まれ、江戸後期の有名な本草学者で本名小野職博。熊野関係の著書「紀州採薬記」「本草綱目啓蒙」は紀州藩の要請で幕府から紀州の採薬を命ぜられ享和二年(1801)2月江戸を出発して紀南で採薬したのち伊勢から京都、大津、中山道を経て江戸に帰っている。
 南方熊楠の和歌山中学校時代の博物学教師、鳥山啓(1837-1914)は、蘭山の弟子であった田辺藩士、石田盤谷の孫弟子にあたり、熊楠が師と仰ぐ人物である。ある意味で小野蘭山から派生した紀州本草学の系統に熊楠も連なっているともいえる。
加納諸平 かのうもろひら
(1806〜1857)

 国学者であり紀州藩藩士、藩命を受け「紀伊続風土記」後編の編纂の中心となった。静岡県の愛知県との境、東海道に面した白須賀の名主夏目甕麿の息子として生まれる。夏目甕麿は後に本居宣長門下に入り国学を修めた。加納諸平も同じく国学を修め紀州徳川家に仕える。

川井立齋 かわいりゅうさい
(生没年未詳) 熊野紀行」は寛政十年(1798)三月、林信章氏と同伴の熊野詣の記録である。林信章氏はその時の記録を『熊野詣紀行』と題し絵入りで町並・宿・名所・旧蹟等詳しく記録しているのに対し この本は歌を中心にしたもの。
畔田翠山 くろだすいざん
(1792〜1859)  寛政4年(1792)和歌山湊南仲間町生まれ。著作は確認されているだけで七十一部三百五十七巻にもなる。熊野関係は、「熊野物産初志」「和州吉野郡群山記」等があり、「紀伊続風土記」の編集にも加わっている。
 大著である博物学辞典『古名録』は本草関係の書籍、辞典・字典類、歴史書、国文学関係にいたるまでじつに多様な書物から引用されている。博物学では後の南方熊楠に匹敵するとまで云われる。
 翠山は実地を何度となく踏査しているだけに記述は信頼できる。熊野本宮で調査中の急死は、いかにも博物学者らしい。
児玉荘左衛門 こだまそうえもん
(生没年未詳)  「紀南郷導記」の撰者。「紀南郷導記」は写本を続けているうちにいつの頃からか「熊野独参記」と書名が変わったらしい。書かれたのは元禄二年と云われているが諸説あり定かでない。
 詳しいことがわからず「南紀徳川誌」によれば紀州初代国主南竜公に仕えた紀州藩士で和歌を好み、殺生巧みなる人物で根来の人となっている。 
後小松天皇 ごこまつてんのう
(1377-1433)  「道成寺縁起絵巻」を書いたと寺伝で言われているが???
 足利義満の推挙により、第百代天皇(南朝を正とする現在の皇統譜による)として永徳二年(1382)即位。明徳三年(1392)後亀山天皇より神器を譲り受け、南北朝合一なる。応永十九年(1412)称光天皇に譲位。永享三年(1431)出家。永享五年(1433)崩御。享年五十七歳。
斉藤拙堂 さいとうせつどう
(1797〜1865)  「南遊志」(原文は漢文)の著者で藤堂藩士、津の藩校「有造館」の講官より督学(校長)になる。藩校の発展に尽力した漢学者で、洋学・種痘術・兵術・砲術等に力を入れたリアリスト「経世家」でもあった。また文筆に優れ紀行文「月ヶ瀬記勝」は、月ヶ瀬を一躍名所にしたと言われている。隠居前の禄高は三百石で、隠居後十五人扶持となる。
 紀州旅行は、隠居後の64歳の時で、万延元年(1860)3月4日津を出発、松阪、和歌山街道、和歌山、大辺路、古座峡、那智、大雲取、小雲取、湯峰温泉、本宮、九里峡、新宮、新鹿、逢神坂、太郎次郎坂、八鬼山、尾鷲、古本、船津、長島、荷坂峠、伊勢をまわり津に帰還している。
 
(生没年未詳) 北野殿熊野参詣日記」は「後崇光院御筆熊野詣日記」とも呼ばれ、応永三四年 (1427)10月、 室町幕府三代将軍足利義満側室の先達をつとめた住心院僧正實意が記した日記。この時の北野殿の参詣は応永三年(1396)以来13回目。室町時代の熊野参詣を記した唯一の記録ものといってもよく、平安・鎌倉からの熊野参詣の変化を考える上で参考になる。
慈 円 じえん
(1155〜1225)  天台座主慈円は藤原忠通の子。著書の「愚管抄」は歴史物語で承久2年(1220)成立。6巻に付録1巻という構成で、巻1・2は神武天皇より順徳天皇までの天皇・摂政・天台座主の記事。3巻より6巻まではその間の盛衰の歴史。付録では世の変遷する道理を説いている。文章は口語的俗語表現が多用されている。
鈴木牧之 すずきぼくし
(1770〜1842)  明和七年越後塩沢生まれ、「秋月庵発句集」の中にある「西遊記神都詣西国巡礼」は、27歳の時の伊勢、熊野、西国の吟行記である。著書に40年近い歳月を費やしてを完成さした「北越雪譜」や「秋山紀行」「夜職草」が名高い。
増基法師 ぞうきほうし
(生没年未詳) いほぬし」(庵主)は増基法師の作と考えられ、熊野に関する紀行文としては最古のもので、長徳元年(995)十二月熊野より新宮、那智、伊勢路を通り京都に帰っている。平安中期の歌僧、中古三十六歌仙のひとりで、熊野参詣や遠江下向の折の旅日記を残している。同書には天暦十年(956)十月一日庚申の詠とみとめられる歌があるので天暦(947-957)の頃との説もある。
橘 南谿 たちばななんけい
(1753〜1805)  本名宮川春暉(はるあきら)伊勢国・久居の藤堂藩家臣宮川保長の五男。医学でも死刑因の解剖を描き優れた「平治郎解剖図」を残している。33歳から全国くまなく旅行し「東遊記」「西遊記」全二十巻を著した。
 四十五歳の時大阪から和歌山、田辺、熊野社、木本の南紀州に遊び、「西遊記続編」に熊野地方に関する記述が見える。
玉川玄竜 たまがわげんりゅう
(1734頃〜1813)  本名、玉川惇こう(さんずいに)、 武内養浩
熊野巡覧記」の著者、以下は紀南文化財研究会発行「熊野巡覧記」より
 東牟婁郡誌に、「続風土記に『玉川玄竜、熊野の地、時々夷国漂流人ある故に訳官を命ぜられ月俸を与えられる』とあり、又紀藩儒官菊池衝岳の三山紀略に『先生医に隠れ、書を読みて博識、嘗て本朝資治通鑑綱目二百余巻を著はし、一部を手書きし我が公に献ず。今年(享和二年・1802)七十老て益々健なり』とあり、名は玄竜、固は武内氏、泉溟と号す。泉州堺の人、安永元年、年四十の頃古座町に移住し玉川と改む。その自譜に少くして著述に耽る。本朝資治通鑑綱目を編集し、紀公の府に献ず。是より先、南京船熊野に漂泊す。国守の命を奉じ筆訳す。寛政二年月俸を賞賜せらる。清客筆録・熊野巡覧記・紀伊志略・連璧文髄・明史断等を著はす。とあり、博覧強記、精力絶倫、凡そ熊野の地理・歴史・伝説、一として通暁せざるなく、一として探討せざるなく、その著す所悉く斯界の珍壁たり。四十余年前(明治十年頃)其の家火災にかかり、藏する所の文書挙げて烏有に帰せしは惜しむべきの至りなり。」 と述べており、又熊野史(小野芳彦)に 「続風土記・名所図絵・未だ出ざるのとき独力巡覧記の大著を編成せられたるの一事を以っても先生の博識と精力の非凡なるを知るべきなり。」と、その文業をたたえている。
 玉川玄竜は養浩の名を用い、字を惇[こう]という。文化十(1813)年五月十一日、八十歳で没した。墓は古座町中湊にあり、「武内養浩」と刻している。
鳥居源之丞 とりいげんのじょう
(生没年未詳)  「熊野道中記」は「南紀徳川誌」でも著者不明となっているが、鳥居源之丞に間違いなさそうである。
 詳細について調査中
仁井田好古 にいだこうこ
(1770〜1848) 「紀伊続風土記」の編集にたずさわる。
紀伊国海部郡加太浦(現在の和歌山市加太)に生まれ、のち和歌山藩へ儒者として出任した。「紀伊続風土記」編さんの関係事業として、好古の撰文により史跡や伝承地に顕彰碑が藩内24箇所に建てられる。塩屋王子の「王子祠碑」新宮の「徐福顕彰碑」、白浜・金徳寺の「温泉碑」・・・・
仁井田長群 にいだちょうぐん
(生没年未詳)  仁井田好古の子で紀州藩士、父好古と共に「紀伊続風土記」の編集にたずさわっている。
「登大臺山記」は天保5年(1834)10月に大台ヶ原に登った紀行文である
林 信章 はやしのぶあき
(生没調査中)  「熊野詣紀行」(別名「浦のはまゆう」)は寛政十年(1798)川井立齋氏と同伴の熊野詣での記録。中世の皇族や貴族・将軍家の旅行記と違って、旅籠の宿賃や町並みの様子など庶民感覚の記載である。上下2巻。
藤原経房 ふじはらののりふさ
(1143〜1200)  「吉記」は権大納言までのぼり詰めた藤原経房の平安末期から鎌倉初期にかけての日記である。経房は承安四年(1174)9月、熊野詣でをしている。題名は経房の別邸が京吉田にあったことから、後に付けられたもの。
藤原宗忠 ふじはらのむねただ
(1062〜1141) 中右記」は中御門右大臣宗忠公の日記。宗忠は藤原道長の裔にし承保元年始めて、叙爵せられ、承暦二年侍従に任ぜらる、順次辨官、藏人頭、参議、納言等に累進し遂に従一位右大臣に陞り保延四年二月出家。寛治元年二月より保延四年二月廿六日出家の日に至るまで実に五十二年に亘り巻を積むこと蓋て二百軸を超える。
 47歳の時熊野詣での記録は始めの部分が失われ天仁2年(1109)10月18日有田川を渡る所から熊野三山に詣で京都に帰るまでを記している。
藤原経光 ふじはらのつねみつ
(1213〜1274) 「民経記」は鎌倉中期の藤原経光の日記(1226〜1272)、経光が晩年民部卿に任じられた事から「民部卿経光日記」を略して民経記と呼ぶようになった。
寛喜元年(1229)には、「路次の王子皆もって破壊倒壊し実なし・・・」と荒廃を嘆く文書が記されてる。
藤原定家 ふじはらのさだいえ
(1162〜1241) 熊野御幸記」は元京極中納言藤原定家の日記「明月記」の抄、後鳥羽上皇の熊野御幸に供奉した建仁元年(1201)39歳の時の日記、「後鳥羽院熊野御幸記」「熊野道之間愚記」 「熊野幸庫記」 「熊野御幸道之間記」「熊野詣記」などの別名がある。 
藤原頼資 ふじはらのよりすけ、
(1194〜1255) 熊野信仰に篤く20数回参詣。承元四年(1210)、建保四年三月(1216)、建保五年十月(1217)、寛喜元年十一月(1229)の熊野御幸随行記。承元4年の御幸随行は「修明門院熊野御幸記」、建保五年は「後鳥羽院・修明門院熊野御幸記」とよばれている。修明門院・鳥羽院の参詣が紀伊国司をはじめとする受領の奉仕でなされたのに対し、頼資個人の参詣は自己の経済力によって行なわれ、中級貴族の間に熊野信仰が広がっていたことがうかがわれる。
藤原為房 ふじはらのためふさ
(1049〜1115) 為房卿記」は永保元年(1081)9月21日京都を発ち10月13日帰洛するまでの為房(31歳)の熊野参詣日記、熊野御幸が盛んになる以前の熊野詣での様子がわかる。別名「為房卿熊野参詣日記」
藤原経俊 ふじはらのつねとし
(1214〜1276) 「経俊卿日記」。もともとは嘉禎 3年(1237)から40年分のものがあったと考えられるが、現存しているのは一部で、自筆原本15巻と抄出記事ぐらいである。自身の熊野詣の様子が分かり、途中の紀州の宿泊地や接待の人々のこと、新宮と那智山のことがくわしく記されている。嘉正元年(1257)の本宮参拝は9度、新宮・那智は7度目であった。
 勧修寺流の宗家吉田家の人で吉田経俊とも云う 
源 師時 みなもとのもろとき
(1077〜1136) 「長秋記」は権中納言源師時の日記。師時が皇后宮権大夫を勤めたことから、皇后宮の唐名である「長秋宮」にもとづいた名。 寛治元年(1087)から保延二年(1136)までが現存しているが、欠けている部分も多い。長承3年(1134)正月から2月にかけて鳥羽院・待賢門院の熊野参詣に同行、本宮から帰京の様子が残っている。他の熊野参詣記が途中の風景、神事、儀式を中心に書かれているのに対し、山伏の峰入りの様子、僧への供養米配分、院・女院の参詣日程の調整などの記述が多い。
三好宗月  みよしそうげつ
(生没年未詳) 元禄四年(1691)に『熊野紀行』を著している。徳川時代も落ち着き、生活にゆとりの生じた農民や町人たちの間に、信仰に名を借りた観光の旅が流行するようになり、紀行文や道中記が刊行されるようになる。熊野紀行はそのはしり的存在。

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