1.0258〜1.0262 日々の憂鬱〜2002年5月第5週〜


1.10258(2002/05/27) 書店・破産

 今日、行きつけの本屋に行くと、ドアが閉まっており、そこに裁判所の執行官が出した破産公告文書が貼られていた。近所にもっと大きな本屋が二つあり、挟み撃ちにあっていたので、もう長くはないと思っていたが、まさか破産とまでは……。たぶん同じ会社が経営している本屋があと二店舗あるのだが、破産ということは全店舗閉鎖ということなのだろう。(その後、ほかの二店は健在であることがわかったる同じ店名だが、会社が違っていたようだ)
 ちょっと鬱になったので、今日も投げやりな文章でお茶を濁すことにする。

 私は「大文字の"作者"」などという言い回しを無造作に用いる人を信用しないことにしている。なぜなら、漢字には大文字も小文字もないからだ。どうしても日本語で書きたいのなら「大文字の"Sakusya"(ヘボン式なら"Sakusha")」と書くべきだと思う。

 殺人事件の被害者が髪の毛を一本握りしめていたなら、その髪の主が犯人だと推理することができる。犯人の偽装工作である可能性もあるので絶対確実とは言えないが、ある程度のもっともらしさはある。では、髪の毛を一本失った人物がいたとき、その人物が誰かを殺したと推理するのはどうか。もちろんそのような事態が絶対にあり得ないわけではないが、ほとんどもっともらしさがない。

 昔書いた超短編がある。原文はどこかへ消えてしまったので、記憶を頼りに書き直すことにする。
 完璧なアリバイ
「犯人はあいつに決まっています。でも、東京で事件が発生したとき、彼には大阪にいたという完璧なアリバイがあります」と警部が困惑顔で言った。
「なに、犯人はトリックを使ったんですよ。大胆だが、ごく単純なトリックをね」と名探偵が答えた。「このトリックを使えば、一人の人物が同時に東京と大阪にいることが可能です」
「そのトリックとは?」
「一人二役です」

 『鋼の錬金術師』(2)(荒川弘/エニックス・ガンガンコミックス)を読んだ。面白い。話がどんどんダークな方向に向かっているのが気になるが、少年マンガのある種の王道と言っていいだろう。ところで、作者名が「ひろし」ではなく「ひろむ」であることに今気づいた。どちらにしても男名前だと思うが……確か女性だよな、この人。

 昨日(と書こうとしたら「帰納」と変換された)でバッハの世俗カンタータを全部聴いて、今日からはまた教会カンタータを聴く。今日はカンタータ第172,182,90番の3曲。第182番「天の王よ、よくぞ来ませり」はブロックフレーテ(リコーダー)が大活躍する。私の好きなカンタータの一つだ。あとの二曲は、まあどうでもいい。

 だらだらと文章を書いている最中に、知人から電話がかかってきた。「コミケに当選した。チケットをやるから売り子をしろ」とのこと。

1.10259(2002/05/28) 時間切れ

 今日は何を書こうかと考えているうちに午後11時を過ぎてしまった。時間切れということで、一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」のみの更新ということにする。
 今日も教会カンタータを聴いた。第106,199,161番の3曲だ。カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」はバッハの初期カンタータの傑作である。毎週1曲ずつカンタータを作るようになると、冒頭合唱(シンフォニアの場合もある)のあとアリアとレチタティーヴォを交互に並べてコラールで締めくくるという定型に沿った曲が多くなり、ややマンネリ気味になってくるが、若い頃のバッハは1曲ごとにいろいろな工夫を凝らしている。特にこの第106番は楽器編成や独唱と合唱の重ね合わせなどが独特で、私のもっとも好きなカンタータの一つである。

 あ、そうだ。一つ書くことがあったのを思い出した。
 昨日コミケの当落発表に軽く言及したが、ネット上を巡回しているとあちこちで当落に関する情報が出ている。その中でちょっと面白いと思ったのは、3日目(日)西地区"ね"16aのサークルのこと。5月下旬になってもトップ絵がクリスマス仕様という某氏と、5月下旬発売なのにクリスマスから話が始まるゲームのシナリオを書いた某氏の日記に書いてあったのが印象的だった。3日目の西地区というと……ジャンルは何だろう?
 ちなみに、私が売り子をする予定になっているのは、同じ3日目だが、たぶん東地区だ。東地区には随所に肉壁が出現するが、そのなかにマイナージャンルが緩衝帯として配置されることが通例になっている。そのジャンルでは午後4時ぎりぎりまで販売を続けるサークルがほとんどで、4時数分前になると人がどんどん集まってくる。そして閉会宣言とともに三本締めをする(なかにはマンセー三唱をする人もいる)、と書けばわかる人にはどのジャンルかがわかるだろう。

1.10260(2002/05/29) テトラポット1個100万円

 最近、読書意欲が減退していて困っている。別にそれで困るわけではないのだが、ここに書く話題がなくなってしまうのは困る。いや、ネタがなければ何も書かなければいいだけなので、それで困るというわけではないのだが、何も書かないとアクセスが減ってしまうので困る。私はアクセス数至上主義者ではないので、アクセスが減ったからといって困りはしないが、でもやっぱり一人でも多くの人がアクセスしてくれるほうが嬉しいので、アクセスが減るのは困る。とはいえ、こんな些細なことで困っても、それで死んでしまうわけでなし、あまり困るわけではないが、それを言い出すと私一人が死んだところで誰も困らないだろう。なんとなく鬱になってしまうのが困る。全く困ったもんだ。
 ここで改行する。
 もう一度改行。そろそろ何かネタをひねり出そう。ええと、某サイトで「縄を編む」という言い回しを見かけたのだが、これってごく自然な言い方なのだろうか? 縄を使って何かを編む、という意味ならわかるのだが、藁を捩り合わせて縄を作る作業を指す動詞は「綯う」ではないか?
 なんか、この話は前にもしたことがあるような気がするなぁ。最近物忘れがひどくなって、同じ話を繰り返すことが増えてきた。としはとりたくないものだ。
 もう少し面白そうな話をしよう。
 先日、とある一級河川の河口付近を歩いていると、テトラポットがごろごろと転がっていた。それを見ながら「私の生涯賃金はテトラポット何個分なんだろう」と考えた。そして、どう考えてもそこにあるテトラポットの数よりはるかに少ないことに気づき、むなしくなってきた。毎日毎日ただ潮の満ち干に揉まれて摩耗するだけのテトラポットのほうがあくせく働いている私よりも価値があるとみなされているのだ。まあ、私が入水したところで、海からうち寄せる波を和らげることもできないので、仕方がないか。
 ところで、「テトラポット」というのは登録商標であるという話はご存じだろうか? 一般的な名称としては「消波ブロック」というらしい。これは雑学ネタとしてわりと有名なので、あまり威張って書くことではないが、知らない人は感心するかもしれないと思い、紹介した。
 ところで、世の中には他人の間違いを見つけると、鬼の首でもとったように自慢する輩がいる。恥ずべき行為である。私はこれまでたった一度もそのような下賤かつ下世話な言動を行ったことがないことを誇りに思っている。たかが縄、編もうが綯おうがどうでもいいじゃないか。人間、寛容でなければならない。
 というわけで、私が書いたことのなかで多少間違いがあっても許してほしい。たとえば、見出しでテトラポットの値段が100万円だと書いたが、テトラポットには大小さまざまなタイプのものがあるので、すべて同じ値段であるわけではない。だいたい、この値段に運搬費が含まれているのかどうかさえ知らないのだ。いい加減だと思うかもしれないが、雑学というのはもともとそういうものなのだ。
 ついでに言っておくと「テトラポット」というのは俗称であり、正式には「テトラポッド」という。これは株式会社テトラのサイトで確認したから、たぶん間違いないと思う。
 あんまり面白い話じゃないな。じゃ、もう一つ。
 現在、日本では猛烈な勢いで少子化が進んでいる。外国からの移民なしに人口を維持するためには、一人の女性が生涯に2人強の子供を産まなければならないのだが、いまや平均すると1.5人程度しか産まなくなっているらしい。今後この数値が1.3くらいまで低下するという予測もある。
 そこで、だ。この調子で順調に少子化が進んだら、西暦3000年には日本の人口はどれくらいになっているだろうか? 答えは500人だ。さらに西暦3500人には日本の総人口は1人になるらしい。数字のマジックというのは恐ろしい。同じ方法で西暦3000年の東証平均株価も計算してもらいたいものだ。
 なお、言うまでもないことだが、具体的な計算方法は不明である。ただ私の記憶のみが根拠である。この話のソースを知っている人はぜひ教えてほしい。

 このあたりで一行あける。

 さらに一行あけたところで、今日の日課。バッハのカンタータ第99,35,17番を聴いた。それだけ。

(追記)
 その後、こんなページ(手入れに伴いリンクを外した)を見つけた。私の記憶とは違っていて、西暦3300年には日本の人口は1人以下になっているそうだ。

1.10261(2002/05/30) 冥福に勝る幸福なし

 今日珍しく私宛の郵便物が届いた。しかも二通である。
 一通は冊子小包で、『鉄道未成線を歩く 国鉄編  夢破れて消えた鉄道計画線 実地踏査』(森口誠之/JTB)が入っていた。著者贈呈本である。同封されていた送り状の一部を紹介しよう。
謹啓
 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
 先日、和歌山県和歌山市にある水軒という駅で偶然お会いした森口と申すものです。その節は様々な情報を提供していただきまして有り難うございました。
 あれからちょうど3日、ようやく「鉄道未成線を歩く 国鉄編」が完成いたしました。ここに謹んで贈呈申し上げます。(略)本書が未成線に関心を持つ人々の一助にでもなれば幸いです。
 今後とも一層のご協力を賜りますようお願い申し上げます。

敬具

JTB出版事業局「鉄道未成線を歩く」執筆担当 森口 誠之

 森口氏は鉄道同人サークル「とれいん工房」代表で、鉄道同人界では有名人である。私も何度かコミックマーケットで「とれいん工房」のブースに立ち寄ったことがある。コミケ会場ではなかなか話をする機会がなかったのだが、先週、南海和歌山港線水軒駅へ行ったときにいろいろと話をした。そのときに『鉄道未成線を歩く 国鉄編』が近々発売される、という話も伺っていたのだが、こうやってわざわざ送っていただけるとはありがたい。まだ読んではいないのだが、目次を開いただけで、わくわくしてくる。曰く「ヒグマの楽園に刻み込まれた名宇線を歩く」、曰く「美幸線第三セクター化構想と残務処理の結末」、曰く「大阪外環状線計画から外れた阪和貨物線と阪堺臨海線」……。さあ、あなたも血沸き肉踊る妄想の世界へ!

 もう一通の郵便物にはCD-ROMが入っていた。こちらは……いや、ネタは小出しにしたほうがいい。どうも私は思いつきを思いついたときに思いついただけ放出してしまう癖があり、それがネタ切れの大きな要因になっている。そういうわけで、今日のところはパス。

 昨日の文章について掲示板で遊美氏からツッコミが入った。そのうちログが流れてしまうと思うので、引用しておく。
ともすると、すでに術中にあるのかもしれず
>「テトラポット」というのは登録商標であるという話はご存じだろうか? 一般的な名称としては「消波ブロック」というらしい。
>「テトラポット」というのは俗称であり、正式には「テトラポッド」という。

なんか、激しく矛盾しているように思えるのは気のせいでしょうか?
 もちろん気のせいではない。なぜならわざとそう書いたからだ。しかし、矛盾しているわけでもない。「テトラポット」というのは登録商標である、というのは事実ではないが、そういう話が流布しているということは事実だからだ。「という話」を「ということ」と書いてしまうとアンフェアだが、ぎりぎりのところで私はフェアプレイのルールを守っていると思う。叙述トリックとしてはカーター・ディクスン並なので特に説明するつもりはなかったのだが……。

 カンタータ第123,87,173番。

1.10262(2002/05/31) 演繹法と帰納法

 今日は難しい話をする。どれくらい難しいかというと、甲子園球場250個分である。テーマは見出しにも掲げた「演繹法と帰納法」である。ちなみに「演繹法」は「えんえきほう」と読むのが正しいが、違っていても別にこの文章を読む妨げにはならないので、気楽に読んでもらいたい。
 さて、このテーマをとりあげたきっかけは、JUNK-LANDでいま連載している「ロジックとフェアプレイ」という文章である。そこではミステリに登場する名探偵の推理の仕方について緻密な考察を行っていて、非常に興味深い。ただ、そこで「演繹的推理/帰納的推理」という言葉を用いて推理法を整理分類しているのがどうにもひっかかり、こことかここで疑念を表明しておいた。
 それはそれとして。
 他人の意見や主張にケチをつけるのは簡単だが、代案を示すのはなかなか難しい。私はミステリの名探偵の推理法についてMAQ氏のように論を立てることができない。いや、それどころか、演繹法とか帰納法についての理解すら十分なものではない。そこで、ちょっと勉強をしてみよう。本当は「ミステリにおける名探偵の推理」という主要テーマに沿った形で考えていくのがいいのだが、私の場合、ごく基礎的なレベルで知識が不足しているので、まずは特にミステリを念頭におかずに一般的なところから始めよう……と、考えた。
 従って、以下の文章はJUNK-LANDとは何の関係もないことを予めお断りしておく。

 まず最初にGoogleで「演繹法/帰納法」で検索してみる。いっぱい出てきたので、どれから見ればいいのかわからない。適当にいくつかのページを開いてみたが、その中に興味深いページがあった。「親鸞会と科学」というタイトルがついている。この検索語でなぜ宗教関係のページが引っかかるのか? ちょっと興味を惹かれた。正直に言おう。電波系の文章だと思ったのだ。
 だが、私の予想は裏切られた。その文章は至極まっとうなものであり、筆者は相当頭がいい人のようだ。そのページは浄土真宗親鸞会について考えるページ「ジャンヌ」というサイト内にあるので、早速トップページを「お気に入り」に登録した。これからぼちぼち他のページも見ていくことにしようと思う。と、そんな事を考えて「お気に入り」に登録したまま一度も見ていないページが山のようにあるのだが……。ところで、このサイトを見ていると既視感にとらわれるのだが、気のせいだろうか?
 それはともかく、肝心の演繹法と帰納法については、次のように書かれている。
 近代科学の基礎づけを行なったのは、帰納法のベーコンと、演繹法のデカルトです。
 しかし、帰納法や演繹法には弱点があります。長くなるので詳述は避けますが、帰納法には「枚挙の有限性」、演繹法には「前提の確かさを証明できないこと」という問題があり、論理として完璧ではありません。
 そこで、帰納法と演繹法を組み合わせた、仮説演繹法という考え方ができました。それが、今日の科学の基礎になっているのです。この方法論が抜けていては、科学的だとは言えません。
 できれば詳述してほしかったところだが、仕方ない。とりあえず、この文章を手がかりとして考えてみる。
 まず、帰納法の弱点とされている「枚挙の有限性」から。このような言葉があるのを初めて知ったが、言わんとしていることはだいたいわかる。つまり、枚挙は有限だということだ。繰り返す。枚挙は有限だ。念のためにもう一度。枚挙は有限だ。さあ、これで飲み込めた。
 飲み込めたところで次の「前提の確かさを証明できないこと」に移ろう。これも一目瞭然だ。要するに、演繹法で推論を行う際に必要な前提が確かなものであることを証明できないということだ。前提が確かなものだと証明できない。前提が確かだと証明できないんだってば。これくらい繰り返しておけば十分だろう。
 さて、次に帰納法のさまざまな方法について調べてみた。帰納法といえばベーコン、ベーコンといえば帰納法、というくらいで、上記引用文にもベーコンの名前が挙がっているし、昔私が高校生の頃、社会科(若い人にとっては意外かもしれないが、昔は高校にも「社会科」という教科があったのだ)の授業で教わった記憶がる。だが、帰納法を体系化したのは後の時代のJ.S.ミルだという。ミルといえば誰もが固有名の直接指示説をとなえた人物だと思うだろうが、彼の業績はそれだけではないのだ。私はあまりよく知らないけれど。
 さて、ミルは帰納法を次の5つに分類したらしい。
  1. 一致法
  2. 差異法
  3. 一致差異併用法
  4. 余剰法
  5. 共変法
 なんだかよくわからない。おまけに、だんだんこの話題について考えるのが嫌になってきた。だが、もう少し続けよう。
 まず「一致法」だが、これはたとえば次のような推理で用いられる。
 ある日、池の鯰が大暴れした。すると次の日に大地震が起こった。その後、何十年か経って、また池のなまずが暴れた。今度は三日後に地震が発生した。調べてみると、過去にも鯰が暴れた後に地震が起きたという記録が残っている。このことから、鯰が暴れることが地震の原因だと考えられる。
 次に「差異法」。
 中井久夫と中井紀夫は非常によく似ている。しかし、中井久夫は精神科医なのに中井紀夫はそうではない、という違いがある。両者を比べると「中」「井」「夫」は一致しているので、上から三文字目が職業の違いを決定づけていると考えられる。
 もうひとつ。「一致差異併用法」。
 ある日、池の鯰が大暴れし、かつ中井久夫は精神科医である。また別の日、やはり池の鯰が暴れたが、中井紀夫は精神科医ではない。このことから、鯰が暴れると何かがあると考えられるが、どうやら中井久夫とも中井紀夫とも関係がないようだ。だとすると、たぶん中井英夫に関係があるのだろうと考えられる。
 あとの二つは面倒なので省略する。
 今日のまとめとしては、
  1. 帰納法は電波人間向きの推理法である。
  2. 演繹法まで話を進めることができなかった。
  3. どちらも難しい。
ということになる。ああ、疲れた。

 今日の日課:CD59枚目。