1.10167〜1.10171 日々の憂鬱〜2002年3月第2週〜


1.10267(2002/03/04) 滅・こおる、山へ または、「電波、届いた?」

 昨日買った携帯電話のメール機能が今日午前9時から有効になった。
 携帯電話のメールは非常に危険だという話を聞いている。とにかく一日中ひっきりなしにスパムメールが舞い込み、中にはウィルスが仕込まれたものもあるという。これだけでも怖いが、さらに恐ろしいことに、受信するだけで数十万円課金されてしまうメールもあるらしい。ある日突然請求書が送りつけられて、無視するといかつい顔の兄さんたちが押し掛けてくるそうなので、たまらない。これだけでも怖いが、さらに恐ろしいことに、受信したが最後、同内容のメールを十人に送らないと寿命が百日縮んでしまうメールもあるという。百日といえば大したものではなさそうだが、それが毎日やってくるのだ。一年も続けて受信すると、百年分寿命が縮む計算になる。ただしこの計算では閏年は無視しているので念のため。これだけでも怖いが、さらに恐ろしいことに、自分自身にメールを送らないすべての人にメールを送り、かつ、自分自身にメールを送る人には絶対にメールを送らない人がいるらしい。すると、その人は自分自身にメールを送るのだろうか、それとも送らないのだろうか。これを考えただけで夜も眠れなくなってしまう。
 というわけで、携帯電話には落とし穴がいっぱいなのだが、大丈夫、メールアドレスを変更してなるべく長く意味の通らないアドレスにすればそのような恐怖のメールは激減するらしい。そこで私は早速メールアドレスを変更……しようと思ったのだが、アドレス変更方法を書いた紙を家に置き忘れてしまった。仕方がないので、会社ではずっと電源を切っておいた。おかげで今日一日まったくメールを受信せずにすんだ。
 このままずっと電源を入れなければ、恐怖のメールを受信することはない。それはわかっているのだが、電源を入れないと時計が表示されないので不便だ。そうなるとやはりアドレスの変更しかない。私は家に帰るとすぐにアドレス変更方法を書いた紙を持って山に登った。
 なぜ山に登ったのか? それは、「そこに山があったから」だ。私の家の付近は山のかげになって電波が届かない(だからテレビも山の尾根にある共同アンテナからケーブルを引っ張ってきている)ので、メールアドレスを変更することができない。
 春とはいえ、夜八時ともなるとかなり冷え込む。山の上はさらに温度が低い。なぜなら、夜の間は太陽が地球の裏側にあるため、高いところに行けば行くほど太陽から遠ざかるからだ。反対に地中に潜ると太陽に近づくので暖かくなる。その証拠に温泉は常に地中から沸き出すものであり、山の上から降ってくる温泉などない。この伝でいくと、昼間は地中のほうが温度が低いことになるが、深夜電力であたためた温泉は昼間でもそう簡単には冷めないので、湯に浸かる分には支障がない。これが科学というものだ。
 わかっている人にとっては言うまでもないが、ここに書いていることのなかで事実に反する記述(携帯電話への高額課金とか山と地中の温度差とか)はすべて冗談(または、最近の言い方では「ネタ」)である。「その冗談、笑えないよ」という批判に対しては「ごめんなさい」と謝るしかないが、「それは間違ってます。あたなはこんな事も知らないのですか?」などという批判は勘弁してほしいものだ。
 ちょっと脱線したが、ともあれ私は山に登ってメールアドレスの変更をした。冗談のような、嫌がらせのようなアドレスにしたから、きっと迷惑メールはほとんどこないものと思う。そう信じている。信じたい。早速知人にメールを送ろうとしたが、「送信できませんでした」というメッセージが出た。どうやら相手先のアドレスを間違えて入力していたようだ。そこで今度は自分のパソコンのアドレス宛にメールを送ろうとした。ところが、本文を打ち終わらないうちに電池切れしてしまった。私は意気消沈して下山した。
 そんなわけで、まだ送信テストは完了していない。今充電中だが、夜も更けてきたので今晩はもう山に登る気がしない。テストは明日以降に持ち越しということになった。無念

 NHK月曜ドラマ『生存〜愛する娘のために〜』全4回を見終わった。そこそこうまくまとめてはいるが、どうにも間延びしる。特に今日の最終回は対決が終わったあとにだらだらと話が続くのが辛かった。45分×4回は必要なかったのではないか。あともう一つ気になったのは(間延び感とも関係があるのだが)富田靖子が出てきたことだ。原作では中年おやぢの熱い闘いのドラマだったのに、ストーリーの焦点がぼやけてしまった。
 念のために書いておくと、原作の『生存〜LifE〜』は福本伸行とかわぐちかいじの合作で、講談社から本が出ている(全3巻)。私は一年前に一回読んだきりで、手元に現物がないので、今回のドラマとつき合わせてあれこれ述べることはできないが、とりあえず傑作だと言っておく。福本伸行の巧みなストーリー構成力とかわぐちかいじの緊張感を盛り上げる画力とが見事にかみ合って奇蹟の作品となった。ミステリ愛好家の必読書と言っていい。などと偉そうなことを言いながら同じコンビの『告白』はまだ読んでいない。これは老後の楽しみにとっておこうと考えているためだ。

 今日は適当に流して書いた。ここまでで約40分。最後に『指輪物語』のすすみ具合だが、今日も低調で7巻160ページまで。なんだ、100ページも読んでいないじゃないか。

1.10268(2002/03/05) 切羽詰まる

 今週中に『指輪物語』を読み終えるつもりなのに、まだ7巻でうろうろしている。今208ページだ。いかん、こんなことでは間に合わない。そういうわけで、今日はこれから集中読書モードに入る。以上。

(追記)
 その後、7巻を読み終えた。だが、まだまだあと2巻もある。焦っては読み飛ばしてはいけない。だが、立ち止まってもいけない。「ゆっくり急げ!」という古人の言葉に従うことにする。以上。

1.10269(2002/03/06) 意外な盲点

 先日、知人のウェブサイトを見て初めて知ったのだが、「ミステリ系更新されてますリンク」で「たそがれSpringPoint」が「たそがれSprintPoint」と誤記されている(その後、訂正されている)。1月に登録されてから約3か月間まったく気づかなかった。タイトルとハンドルが逆になっていることばかりに気を取られていたせいだ。
 以前も書いたことがあるが「spring point」というのは鉄道や軌道で用いる分岐器の一種だ。では「sprint point」とは何だろうか? 「短距離走の得点」という意味になりそうな気がする。英語に詳しい人の意見をきいてみたい。

 今日は「意外な盲点」というテーマについて文章を書こうと思っていたが、いろいろ調べているときにいやなもの(蛙の目玉の解剖写真)を見てしまったのでその気が失せた。
 盲点についてわかりやすく解説しているページを見つけたので参考までにリンクしておく(「鬱の蠅取壺」への収録時に例によってリンクははずした)

 盲点に気づいたとき、目から鱗が落ちたような気がする。燈台もと暗し、だ。だが、目から鱗が落ちたときの気持ちを実感したことはない。また燈台にあかりをともしたときに本当にその下が暗いのかどうかも確かめたことはない。これも盲点だ。
 目に鱗を入れたら痛そうなので実験する気はないが、燈台のほうは気が向いたら試してみよう(これも誤解を受けるといけないので補足しておくが、ここでいう「燈台」とは蝋燭を立てる燭台のことで、船舶の航行の安全を図る施設のことではない)と思う。その前に忘れてしまいそうだが。

 今日も引き続き『指輪物語』の続きを読む。いま8巻の218ページまで読んでいるので、今日中にこの巻を読み終えて明日9巻を読めば、金曜日には心おきなく旅立つことができる。そう順調にはいかないだろうが。

 読書といえば「若おやじの殿堂」の3/5付の日記で「趣味は読書、という表現はどのレベルから妥当か」という話題を扱っていて、ちょっと興味を惹かれた。「趣味は読書」と言うのと「読書家」と自称するのとでは重みが違うような気がするが、だいたい年間60冊も本を読んでいれば読書を趣味にしていると明言してもいいのではないだろうか。
 ちなみに私は去年たぶん週1冊も本を読んでいない(ただしマンガを除く)。「たそがれSpringPoint」を開設してからは教養系新書を週1冊ずつ読むという目標を立てて、そこそこのペースで読んでいたが、それ以前は全然読まなかった。小説とあわせても月に2冊か3冊くらいだったと思う。
 理想をいえば週に小説3冊、それ以外の本を2冊程度のペースで読みたい。だが、私にはそれだけの時間がない。一時的にはそれくらいの冊数をこなせても、すぐに息切れする。『指輪物語』を読み終えたら、その反動でしばらく本が読めなくなるのではないかと危惧している。別にそれはそれで何も問題はないのだけど。

 今日、ようやく携帯電話のメール送受信テストをした。何とかうまくいったようだ。

1.10270(2002/03/07) 「四大ミステリ」

 先日書いた「四大ミステリ」についてのコメントに対して高橋まき氏から、
ところで『「日本四大ミステリ」などという格付けは一時期の大学ミス研ではわりと常識的だった』(1.10265(2002/03/02)) とありますが、それって本当なんですか? 私の周囲では、『匣の中の失楽』を除いた3作を「黒き水脈」「三大奇書」とか言うことはありましたが、『匣』はちょっと位置付けが違うように思ってました。というか、清涼院流水が出てきたときに「これからみんな (よく使われた呼称ではなく)「日本四大ミステリ」とか言い出したらやだよねー」みたいな話をしたような記憶があるのですが、認識が間違ってますか?
という疑問が提出された(「ただ、風のために。5」3/7付)。ここでいう「一時期」というのは当然清涼院流水デビュー前のことだが、その当時、本当に「四大ミステリ」は常識だったのか? 改めて考えてみると、記憶があまり定かではない。
 その昔、私が一人でこっそりと作ったオールタイムミステリベストテンのリスト(恥ずかしいので公開しない)では『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎)、『ドグラ・マグラ』(夢野久作)、『虚無への供物』(塔晶夫/中井英夫)、『匣の中の失楽』(竹本健治)の四作は除外していた。これらはランク付けには馴染まない「別格」作品だと思っていたからだ。記憶を辿ってみるとたぶん『東西ミステリーベスト100』(文春文庫)か、そのもととなったアンケート結果を公表した「週刊文春」の座談会(内藤陳と瀬戸川猛資と……ええと、あとは誰だったっけ?)の影響だと思う。資料が散逸してしまったので、正確に引用することはできないが、『匣の中の失楽』について「『黒い水脈』に連なる第四の……」というようなコメントがあったように思う。
 ただし、このことが直ちに大学ミス研での「常識」に繋がるわけではない。確か1990年前後の『蒼鴉城』(京大)に「四大奇書」とか「四大ミステリ」という表記があったように思うが、もしかしたら『青髭通信』(立命館大)だったかもしれない。確実にあったのを覚えているのは『第五公理』(神戸大)だが、どれもこれも本の山に埋もれているので引用できない。かなりあやふやな話だ。
 さらに、仮に私の記憶が確かだとしてもごく限られた地域での話なので、北海道大学出身の高橋氏が首を傾げるのももっともだと思う。「一時期の大学ミス研」の前に「近畿地方の」という限定語句をつけておくべきだった。あとでこっそり過去ログを直しておこう。

 しかし、こうやって振り返ってみると、10年という歳月の重みに圧倒されそうになる。先月、現役の神戸大生に会ったときに聞いた話だが、自分の大学に昔ミス研があったことを知らなかったという。神戸大のミス研は1980年代後半にいったん消滅し、その後1990年代初頭に復活した(上で言及した『第五公理』は第二期ミス研が発行したもの)が、それも1990年代半ばには消え去ったらしい。その後、第三期ミス研が発足したという噂を聞いたことがあったのだが、現存しないらしい。諸行無常、万物は生成し、消滅する。なかには消滅したままのところもあるけれど。

 昔話のついでに、ふと思い出した本がある。同人誌(マンガ)で『黒鎧館の殺人』(松平惟光/ホランドテラープロダクション)という本があった。1990年頃に入手し、非常に新鮮な印象を受けた。当時はミステリマンガは今ほどありふれたものではなかったのだ。ためしに検索してみると1件だけヒットした。かなりのレアアイテムのようだ。
 残念ながら、私が入手した本(その頃私は同人誌即売会にはほとんど参加していなかったので友人に頼んで買ってきてもらった)は知人たちの間で回し読みしている間にどこかへ行ってしまった。誰かが黙って隠しているのかもしれないが、もはやこの世には存在しないのかもしれない。著者のウェブサイトを見ると、『黒鎧館の殺人』は133部しか印刷していないそうだ。ああ、もったいない。

 『指輪物語』は最終巻162ページまで読んだ。今日はこれから旅行の準備をしなければいけないので、残りは明日読むことにする。最悪でもオフ会までには読み終えることができるはずだ……たぶん。

1.10271(2002/03/08) 読了

 今日、ようやく『指輪物語』を読み終えた。東方への旅立ちのときが迫っているので、感想は後日。生きて再び故郷へ帰ることができたら、という条件つきだが。