http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041021a
ある調査によれば、バチカン市国の住民はすべてイタリアに入国したことがあるが、逆にバチカンを訪れた経験のあるイタリア人は全国民の三割にも満たないという。このことから、バチカン人は一般に外交への関心が深く、イタリア人は夜郎自大の傾向が強い、と結論づけることができる。
……というのはもちろん冗談だ。「ある調査」というのもたった今でっち上げたもので、イタリア人全体に占めるバチカン市国訪問経験者の割合など私は知らない。まあ、バチカン市国民でありながらイタリアへ行ったことがないという人はまずいないとは思うが。
全然別の話になるが、日本の盲学校、聾学校、養護学校に在籍している児童生徒は男子が多く、女子は少ない。これは私が勝手に言っていることではなく、文部科学省が実施している学校基本調査による。たとえば平成15年度の調査では、盲学校は男子2495人に対し女子1387人、聾学校は男子3714人に対し女子2991人、養護学校は男子5万5152人に対し女子3万734人となっている。これはいったいどうしてだろうか?
理由をいろいろと考えてみたのだが、自力では解答を得ることができなかった。ご存じの方はぜひご教示いただきたい。
なんとなく『角川家の一族』(リンク先は前編)を読んでみた。角川春樹・実母の手記が泣かせる。スニーカーも電撃も同じ角川だなどと思っている××××に読ませてやりたい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041024a
近頃、時間切れ気味だ。「時間切れ気味」というのは変な言い回しだが、「時間が足りない」と言っているのと同じことだ。何をしようと思っても時間が足りなくて中途半端に終わってしまう。昔は睡眠時間を削って対処したのだが、としをとるとそれでは身体がもたない。読書時間をゼロにすることはできても、マイナスにすることはできない。もしそんなことが可能なら、あの本を読むのに費やした時間を取り戻すのに。本当は例の本の感想文にリンクを張りたいが、もしその本の作者がここを読んでいると大変だから自粛しよう。
週末にいろいろと用事が立て込んで、金曜、土曜の2日間、更新を休んでしまった。パソコンを買い換えてから接続状態がよくなったので、パソコンのせいにはできない。全部私のせいだ。ああ、どうすればいいのか。
今日も実はあまり時間に余裕はないのだが、このままずるずると休んでばかりだと、ネット社会に復帰できなくなるかもしれないので、勇気を振り絞ってこうやって駄文を書き連ねている。ネタ集めの時間がないので、内容なんてないよー、というどうしようもない文章になってしまっている。ああ、どうすればいいのか。
……などと書いているうちに、やっぱり今日も時間切れ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041025a
好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!!の10/23付の記事から。
ライトノベルは入門書うんぬん、という話を聞くといつも思うのだけど、一般文芸に比べてこんなに読みにくいものを「入門書」とはいったいどういう。や、ライトノベルを読む人で一般の本は難しくて読めない、という人はあまり聞いたことないけど、逆に、ライトノベルは意味不明、わからん、という人はむしろ多数だと思うのだけど(笑)。
この記事に対するコメントが10/25付の記事で紹介されているので、併せて読んでみた。諸氏の意見と重なるところもあるのだが、以下、私の考えをまとめてみる。
「ライトノベルとは何か?」という話をしはじめるときりがないので、「ジュニア小説レーベルを拡大して読者層を10代から20代以上にまで広げたもので、表紙絵や口絵、挿絵などと一体的なものとして売られている小説本」と言っておくことにする。これは小説の内容ではなくて外形に基づく特徴づけなので、自分でもあまり納得できるものではないのだが、まあ仕方がない。
ともあれ、ライトノベルは次の2つの点で一般文芸(というのもあいまいだが、文脈から考えてライトノベル以外の小説だとみていいだろう)よりも小説入門書としてふさわしい特徴を備えている。
この2点はどちらもラノベに固有な特徴ではない。たとえば、新聞連載小説は基本的に絵付き小説だし、戦前の小説本は総ルビも珍しくはなかった。しかし、新聞小説が大衆小説の王者の地位を失ったのは遙か昔のことだし、児童文学以外では総ルビ本はほとんどないのが現状だから、一般文芸に比べてラノベが優位に立つといってもいいだろう。
では、小説そのものの文体やストーリー、扱う題材などで比べるとどうだろうか? これは「ライトノベル」とか「一般文芸」という括りでとらえるのはほぼ不可能なのだが、それでは話が終わってしまうので、もう少し続けよう。
そもそも小説に入門しようとする人はどんな層に属しているのだろうか。いろんな人がいるだろうが、やはり若年層が中心ではないかと思う。若い頃に小説に親しまずに過ごした人が中年になっていきなり「小説を読もう!」と思い立つのは稀だろうし、もしそんな人がいたとしても、小説を楽しみたいというよりは、小説で教養を身につけたいという動機のほうが勝るのではないか。
ラノベは今、浸透と拡散の時期を迎えているが、それでもジュニア小説から出発しただけあって主人公や主要な登場人物は若者であることが多い。すると、若い小説入門者にとってはかなり取っつきやすくなる。また、ラノベ作者はたいてい20代でデビューするから、背景知識の共通分野も多いはずだ。よって、ラノベは入門者向きだ、ということになる。
もっとも、逆にいえば、暗黙の共通了解事項が少なければ入門者にとっては読みにくくなるわけで、たとえば現役時代には仕事にかまけて小説などほとんど読まなかった人が定年退職を機会に手軽な暇つぶしのために小説でも読もうと思い立ったなら、ラノベは必ずしも入門書として最適だということにはならないだろう。
では「入門書として」という制約をはずしてみれば、ラノベは一般文芸に比べて読みやすいだろうか? ある程度小説を読み慣れた人なら、挿絵のイメージ喚起力に頼る必要はないだろうし、少なくとも常用漢字なら普通に読みこなすことができるだろう。すると、上で私が挙げた2点はあまり意味がないので、あとは文体や構成の問題ということになる。
少し前のラノベでは、妙にひねくった奇妙な修飾句を多発したり、やたらと難しい漢字(「兎も角」とか「而も」のようなあて字を含む)を使うことが結構多かったように思うが、最近はそれほど癖のある文体の小説は少ない。海燕氏が例示している『平井骸惚此中ニ有リ』(田代裕彦/富士見ミステリー文庫)などはむしろ例外の部類に属するだろう。なお、私はこのシリーズを「其参」まで続けて読んでいるが、癖のある文体のわりにはさほど読みにくいとは思わない。
構成面でみると、ラノベは比較的起承転結がはっきりしたものが多いと思う。シリーズものでもそれぞれの巻で山場といちおうの締めくくりを用意しているから、300枚〜500枚という頃合いの分量でそれなりにまとまったストーリーを読むことができる。これは、最近とみに重厚長大化が激しい一般文芸とは対照的だ。
長さの違いは文章の冗長度の違いとしてもあらわれる。最近、私が読んだ小説で、読むのが苦痛だったものを思い起こしてみると、みなだらだらとしまりのない文章が羅列されていた。ラノベでは呑気に文章を引き延ばす余裕はないから、冗長で退屈な文章に悩まされることもほとんどない。
と書いてはみたものの、私の読書はラノベにせよ一般文芸にせよかなり偏向しているので、私の意見もまた偏見に満ちたものになっているはずだ。事実誤認もあるのではないかと危惧するが、危惧したところで間違うものは間違うのだし、間違えたところて大勢に影響はなく、体制にも影響はなく、当然胎生にも影響はないはずだから、責任をとる気は全くない。
だんだんやる気がなくなってなげやりになってきたが、いちおう今日読み終えた本の感想を書いておこう。
先日、書店で『鳥は鳥であるために』(野島けんじ/MF文庫)という本を見かけた。今月の新刊だがノーチェックだったし、作者についても何も知らなかったのだが、タイトルが妙に気になってついふらふらと手にとってみた。もしかしたらMF文庫のパッケージ効果もあったかもしれない。他の人はどうか知らないが、私はMFが目につくことがよくある。不思議だ。
本を開き、書き出しに目を通す。冒頭の文章が面白い小説は全体として面白い。いつもそうだとは限らないが、その公算が高い。逆に書き出しがつまらない小説は、まず間違いなく駄作だ。
いきなりメイドだった。どこからどう見てもメイドだった。メイドに間違いない。
私はこの本を持ってレジへと向かった。
後から考えれば、ちょっと詐欺にひっかかったような気がしないでもない。なぜなら、冒頭に登場するメイドはその後のストーリーにほとんど何の関係もなく、名前ら出てこないほどの端役だったのだから。また、意味ありげなタイトルの意味も最後までわからなかった。ヒロインの名前が小鳩なので、何かの隠喩になっているのかもしれないが。
この小説のテーマを思いっきり乱暴に要約して一語で言えば「差別」である。作品全体の雰囲気もかなり生真面目なものだった。私の好みでは、もう少しコミカルな描写があったほうがよかったという気がする。だが、人物描写は巧み(特に第四章に登場する不愉快なバカップルの言動は見事だった)だし、小説全体の構成もしっかりしているように思った。
あとがきを読むと、作者が二年前にパンダを見ようとして上野動物園に行ったらメキシコ出張中で不在だったというエピソードが書かれている。私もそれでパンダを見損ねたので、何となく親近感がわいた。
『鳥は鳥であるように』と並行して『赤い霧』(ポール・アルテ(著)/平岡敦(訳)/ハヤカワ・ミステリ)を読んでいたのだが、こちらは全然進まず、まだ半分くらいしか読めていない。やっぱりラノベは読みやすい。
『鳥は鳥であるように』に続いて『鬼に捧げる夜想曲』(神津慶次朗/東京創元社)を読み始めた。『密室の鎮魂歌(レクイエム)』(岸田るり子/東京創元社)とともに今年の鮎川哲也賞を受賞した作品で、受賞決定時には作者は19歳(現在は20歳)だったことと、「横溝正史の世界が舞台の妹萌えミステリ」という前評判があったので、以前から期待していたのだが、冒頭の数ページを読んでみると、かなり読みにくい。最後まで読み切ることができるだろうか?
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041026a
どういうきっかけだったかは忘れたが、こんなことを考えた。
この世には三種類の人間がいる。憎まれるくらいなら無視されたほうがましだと考える人と無視されるくらいなら憎まれたほうがましだと考える人、そして憎しみや無視に無関心な人だ。
私はこの三種類のうちの第一に属する。時には第二区分に近づくことはあるが、どうあがいても第三の境地には至ることができない。憎しみや無視などといったことを考えずに生きることができれば幸いで、めでたいことだとは思うのだが、他方ではこの事に無関心な人はおめでたいとも思う。
ところで、第一の立場と第二の立場はどちらが優れているのだろうか? 好みの問題だから優劣などない、と割り切って考えることもできる。だが、客観的には判断できないことであっても、自分自身に対しては白黒つけておく責任があるのではないか。そんなことを考えた。うまく説明はできないのだが、「私はAよりBが好きだ」という言明は、他人に対しては単なる心的事実の陳述にすぎないけれど、自分に対しては何らかの論拠をもって擁護すべき主張ではないだろうか?
そのような論証は不要だ。自分のことだから全部わかっているはずだ。そう言い切ってしまうには少し躊躇してしまう。それもまた、ある意味ではおめでたい人の考えではないか、と意地の悪いつっこみを入れてしまうのだ。
かくして私は不毛な思考に囚われることになる。他人にとってはどうでもいい話だ。無視されるのが関の山だ。だが、それで他人から憎まれることはないだろう。だったら私はそれでいい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041026b
これまで私は博物館と美術館は似たようなものだと思っていた。美術館というのは美術品に特化した博物館のことであり、正確に言えば「美術博物館」だが、略して「美術館」と呼ぶ、というのが私の基本的な認識だった。
「美術博物館」という言い方はあまり一般的ではないけれど、英語の"art museum"を直訳するとそうなるし、文部科学省の社会教育調査でも、博物館及び博物館類似施設の種類の一つとして「美術博物館」を用いている。ちなみに、社会教育調査では、博物館を次の9種類に分類している。
ここに掲げた説明は、平成14年度調査結果の概要中の「表2-1 種類別博物館数」の欄外の注をもとにしたものだ(「野外博物館」の定義はちょっと怪しいが、文の構造を素直に読み解けばこうなってしまう)。動物園や水族館が博物館のうちに含まれることに違和感がないわけでもなく、そんな施設を博物館に入れるくらいなら図書館も入れてやれよ、と言いたくもなるのだが、それはまた別の話。
さて、「はてなダイアリー - 生活日報」の10/25付「国立新美術館とテナントビル」経由でartscapeの
「国立新美術館」施設の貸出に関する記者発表および施設案内という記事を読んだ。ハコモノ行政に対する皮肉混じりの批判だ。設計者が黒川紀章というだけで苦笑したくなるが、それはそれとして、この記事のポイントは、ところで、日本での名称は「国立新美術館」だが、英語では「THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO」となって、なぜか「MUSEUM」とはいわない。そりゃ恥ずかしくていえないよなあ、図体がでかいだけで中身が空っぽのレンタルギャラリーだもん。
という箇所だ。なんと!
国立新美術館の公式サイトを見ると、確かに「THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO」と表記されている。う〜ん。英語表記に"MUSEUM"を入れるのは気がひけても、日本語表記に「美術館」を入れるのには抵抗がなかったのだろうか?
情報もとの「はてなダイアリー - 生活日報」では、だったら日本語名称も国立新美術センターにすべきだが、そうしたら客は集まらないか。
とコメントされている。この意見にケチをつけるわけではないけれど、そもそもこの建物は「センター」と呼ぶべきものだろうか? 英語表記に含まれた"CENTER"ですら誇大ではないかという気になってきた。中枢というより周縁だろう、これは。
ただ、私はこの施設の存在意義そのものを否定するわけではない。バブル期に金にまかせて買い集めた美術品が日本国内には数多く収蔵されていて、展示に適切なハコがないたろに収蔵庫の肥やしとなっているという話はよく聞く。個人コレクションならともかく、公共団体が所有する美術品は多くの人に見てもらってなんぼのものだから、美術品展示にふさわしいハコを国が用意して貸し出すのは十分意義のあることだ。中枢には中枢の役目があり、周縁には周縁の価値がある。「周縁」ではネガティヴだというなら、「最前線」と言い換えてもよい。国立新美術最前線。なんだか凄そうだ。
でもやっぱりこれは博物館じゃないよなぁ。
上の文章とは何の関係もないが、おおいた香りの森博物館のホームページにリンク。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041027a
あるきっかけから、ふとUNDERGROUNDを思い出した。今はなき「ペインキラーRD」と並んで、かつて私がもっとも愛読していたサイトの1つだが、2002年8月にいきなり前触れもなく沈黙したきり現在に至る。
UNDERGROUNDの管理人樋口康一郎氏は自らの個人情報をネットで公開することにあまり抵抗がなかったようで、生年月日から現住所まで記載されている。にもかかわらず、少なくともミステリ系サイト管理人の間では樋口氏の消息は不明だ。
久しぶりにUNDERGROUNDにアクセスしてみると、何もかもが往時のままで、なんとも言葉にしようのない感慨がこみ上げてきた。ただあんぐら的ネタばれトーク掲示板だけが昔とは違っていた。アングラ系のスパム投稿で埋め尽くされている。
2年以上も放置されたサイトだけに、もはや再開されることはないだろうと諦めてはいるが、何か別の形でもいいから樋口氏の文章をもう一度読んでみたい。
今日は新青春チャンネル78〜の『名探偵に薔薇を』の感想文についてコメントする予定だったが、UNDERGROUNDを読み返しているうちに、だんだん気分が萎えてきたので、リンクだけ。ああ、昔はよかった。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041028a
1箇月ほど前のニュースだが、太地町議会 職員手当廃止案を可決 議員の期末手当廃止は否決という記事を今日たまたま目にした。財政難にあえぐ地方公共団体が諸手当を廃止したり減額したりするのは珍しいことではないのだが、この記事の中でまた、不在となっている町教育長の給与を月額51万円から20万円に減額して期末手当を廃止する。
と書かれているのには驚いた。ちゃんと調べたわけではないが、教育長の月給が20万円というのは、全国最低ではないだろうか?
どうでもいいことだが、今日の文章は引用文を除くすべての文に「だが」が含まれている。私の文体の癖だが、こんなに続くと鼻につく。なんとかならないものかと思うのだが、どうしようもない。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041029a
今朝、メール確認すると、ある人から驚くべき内容のメールが届いていた。といっても、私は事前にある程度予想していたので、別に驚きはしなかったが。
非常にめでたい話でもあるし、別に秘密にするようなことでもないのだが、今はまだ公表する時期ではないし、私が公表すべきことでもないので、黙っておくことにする。そのうち本人が明らかにするかもしれないし、本人が伏せたままでも12月になれば自ずと明らかになることだ。
時代はうたたねこやの中の人の想像の斜め上を行っている。
今晩、仕事から帰ってくると、ある人から驚くべき内容のメールが届いていた。といっても、私が驚いただけで、関心のない人にとってはどうでもいい事かもしれないが。
別に秘密にするようなことでもないので書いてしまおう。メールの送り主は、現在更新停止中のJunk Land管理人のMAQ氏で、内容は、同じく現在更新停止中のUNDERGROUND管理人の樋口康一郎氏に関することだった。
一昨日の記事で、少なくともミステリ系サイト管理人の間では樋口氏の消息は不明だ。
と書いたのだが、MAQ氏はUNDERGROUND更新停止後も樋口氏と断続的にメールのやりとりを続けていたそうだ。気長に復活を待つことにしよう。
お気に入りサイトの閉鎖や更新停止は寂しいものだが、元気そうだと聞くとほっとする。ペインキラー氏や茗荷丸氏も(元気かどうかは知らないが)別のところで頑張っている人もいるし、もう思い残すことはない。
この文章を読んでいるすべての方々にお願いです。1年に一度、いや10年に一度でもいいから「そういえば、滅・こぉるとかいうふざけたハンドルのサイト管理人がいたなぁ」と思い出して下さい。
文章の勢いというのは怖いもので、何だか妙な方向に話が進んでしまったが、それはそれとして今日読んだ本の感想を書いておくことにする。『Alice』(川崎康宏/電撃文庫)だ。
電撃文庫のオビには今月と来月の新刊の一覧表があり便利だ。少し前まで2箇月分並べて記載されていたが、最近は刊行点数が増えて収まりきらなくなったので、今月分は折り返しに追いやられている。
10月は特に点数が多く、一挙に13冊も出た。折り返しの狭いスペースに、細かな字でタイトルと作者名が詰め込まれている。そのいちばん下に位置しているのが『Alice』だ。
オビに記載されている順序は刷り部数を反映しているという話を聞いたことがある。その話が正しいとすれば『Alice』は今月の新刊中もっとも初版部数が少ないということになるだろう。もっとも、先月の最下位は『撲殺天使ドクロちゃん(4)』だったから、この話はあまりあてにしないほうがいい。でも、月も半ばを過ぎてから田舎の書店で『Alice』を探してもなかなか見つからなかったのは確かだ。
私がこの本を探したのは、まいじゃー推進委員会!でかなり気合いを入れて紹介していたからだ。10/14にはとにかく買え。そして読め。
そして、まだあと半月も残っているのに、今月のイチオシ
とも書かれている。続いて10/15にはいいから読め。
の2連発。さらに10/17には、クマ最高。
と強調したのち、そゆわけなんでとにかく読みましょう。
と、いったい何が「そゆわけ」なのか皆目見当もつかないが、とにかく熱気だけは伝わってくる文章に押されて、電撃文庫発売日の頃には全然チェックもしていなかった本を探し回ることになった。
ただ、極楽トンボ氏の紹介文をよく読むと、ただしおすすめしておいてなんですが、万人に合うとはこれっぽちも思っていませんのでその辺もご承知ください(爆)
とか、なおまいじゃー度はきわめて高いので、気に入らなくて私は責任とりませんええ。
とか、微妙に逃げ道を用意しているのがそこはかとなく気になった。
で、『Alice』を読んでみた。
クマ最高。
いや、なんというか、これは面白い。でも、責任はとれない。そんな小説だ。
一言でいえば、バカなバトルアクション小説だ。「バカ」と書いたが、これは褒め言葉だ。私は関西人なので「バカ」より「アホ」を使いたいのだが、この小説の舞台は東京だからあえて「バカ」にした。
アクションものはあまり好きではない。武器や兵器、バイクや自動車などの知識もほとんどない。たとえば、主人公の狗頭蘭子(これで「くどうありす」と読む)のヘルメットが「CCCP」のヘルメットだと書かれていても、何のことだかわからない。もしかすると「СССР」かもしれないが、どちらか判別できない。だから、たぶん何かくすぐりがあるのだろうと思いつつも、スルーするしかない。
だが、そんな私が読んでもこの小説は楽しかった。知識はないけど、間合いとテンポのよさは伝わってくる。どこがおかしいのか説明することはできないが、とにかくおかしくて笑ってしまう。たとえば……
名前はボーボー。ちなみに姓がボーで名前がボーだ。
私は、この一行だけでも『Alice』を読んだ価値があったと思ったほどだ(もちろんこの本の価値がこの一行に尽きるという意味ではない)が、この感覚がわからない人には辛いかもしれない。だから、読んで損をしたと思う人がいても責任はとれない。
だが、念のためにもう一箇所引用してみよう。
「たとえばあれを見て」と、ボーボーは日本文化コレクションの一つ、天井でゆっくり回る大きな扇風機を指差した。「羽の一枚一枚に南無妙法蓮華経って書いてあるんだよ。羽が一回転するごとに一回唱えたことになるんだ。四枚羽だから一回転で四回唱えられる」
なにげに別の宗教がまじっている。
これでぐぐっときた人はすぐに本屋へ行くがよい。まだ踏ん切りがつかないなら、上でリンクした極楽トンボ氏の紹介文(10/22に補足あり)を熟読せよ。
最後に一言。クマ最高。じゃなくて、いいから読め。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041030a
私がこの「たそがれSpringPoint」を始めたのは2001年9月(公開は10/1)だが、その前にも数年間別のサイトを運営していた。外部へのリンクを一切張らないという方針を貫いて、ネット外交とは無縁だったため、知人以外の人がほとんど訪れることのない寂しいサイトだったが、その分気楽に文章を書くことができた。今だったらとても書けないようなことも平気で書いていた。
たとえば、前のサイトでは創作コーナーを設けて、下手くそな小説を公開していた。そのうちのひとつが以前2ちゃんねるの某スレで晒されて恥ずかしい思いをしたが、ほかにも箸にも棒にもかからない小説がいくつかある。
その中ではまだわりと読めそうな作品が、次に掲げる『紅い皿』である。今日も頭の調子が悪いので、昔の記事でお茶を濁そうというわけだ。タグを修正したほかは特にいじっていないので、文章表現は昔のままだ。何もかもが懐かしい。
1998.12.23
私の父は連続婦女暴行殺人犯だった。何人もの若い女性を凌辱して、惨殺したという。
最後の被害者が私の母である。母は当時高校二年生で、クラブ活動の帰りに人通りの少ない公園で父に襲われたが、殺される寸前にパトロール中の警察官に発見されて一命をとりとめた。父は警官に襲いかかり、射殺された。体中から皿を吹き出して野垂れ死ぬという、父の行状にふさわしい末路だった。
その後、母は学校をやめ、数か月後に私を産んだ。なぜ母が出産しようと思ったのか、私は知らない。母は私が三歳のときに肺結核で亡くなった。私は母が始終咳き込んで、皿を吐いていたことしか覚えていない。
私は母の両親に育てられた。家から外に出ることは稀だった。外に出ると近所の子供たちにいじめられるからだった。
連続婦女暴行殺人は過去の出来事だったが、人の出入りの少ない田舎町では、誰もがその頃のことをよく覚えていた。もちろん、私と同世代の子供たちは直接は知らないはずだが、親やきょうだいから話を聞いていたのだろう。私が近づくと、子供たちは遠巻きにして「人でなしの子」とか「おまえには人間の皿が流れていない」などと言って罵った。
私は陰気で無口な子供になった。
小学校でも中学校でもいじめられ続けた私は、中学卒業と同時に町を離れた。ふるさとに未練はなかった。
高校進学は不可能だった。まだ祖父母の家から通うならともかく、遠くの町で一人暮らしをしながら高校に行くだけの金がなかった。私は仕事をすることにした。
中卒で就ける仕事は限られている。おまけに不況でアルバイトの口もほとんどない。私はやむを得ず年齢を偽って風俗産業で働くことにした。背に腹は代えられない。
仕事はそれなりに厳しかったが、私は幸せだった。誰も私の出自を知らないのだから。十数年間私を捉えて離さなかった呪縛から解放されたような気がした。
解放感は私を変えた。私は恋をした。他人となるべく関わらないように自分の殻に閉じこもっていた私が、人を好きになることなど決してないと思っていたのに・・・。
相手は私の勤める店の常連客だった。まだ独身だよ、と真顔で言ったが、懐のパスケースには二人の子供の写真を挟んであることを私は知っていた。でも私は幸せだった。結婚できなくても構わなかった。
幸せは長くは続かなかった。
私の素性が知られてしまったのだ。
誰が何のためにあの人に私の出自を告げたのかは知らない。そんなことを詮索する気にもならない。ただ確かなのは、あの人が私のもとから永久に去ってしまったことだけ。
私は泣いた。アパートに籠もって一人で泣いた。
そして、決心した。生まれ変わってやろう、と。
そのためには、今の私は死ななければならない。恋に破れた女がするように、手首を切って死ぬことにしよう、と思った。もちろん本当に死ぬわけではない。そう、これは儀式なんだ。私は自分にそう言い聞かせて、浴槽に水を張り、果物ナイフを手に取った。
ナイフの刃先は短く、致死量の皿が出るほどの傷を負うことはない。だが、心の奥底では、「いっそ、本当に死んでしまったほうが・・・」と考えている自分がいて、ぞっとした。
左手に果物ナイフを持って、右の手首に軽くあてた。ひんやりとした硬い金属の感触がした。
そのまま、青い皿管の上をなぞるようにナイフを動かした。すっ、と斜めに傷がついた。
じきに傷口から皿があふれてきた。紅い皿だった。
私にもほかの人と同じように紅くて温かい皿が流れていた。冷皿動物ではなかったんだ・・・。
皿は傷口から盛り上がり、風呂場の床へとこぼれ落ちた。
床のタイルに皿が当たって、ばりん、と乾いた音を立てて割れた。
タイトルと本文の間に記してある「1998.12.23」というのは、この小説を執筆した日付だ。今から6年近くも前のことだ。ついでにいえば天皇誕生日だ。きっと、休日に暇つぶしのつもりで書いたのだろう。
当時の私は今より6歳若かった。若いというのはすばらしい。でも「……」を使うところで「・・・」を使ってるのはいただけない。よほど直そうかと思ったが、昔の文章だと言っておきながら手を加えるのはフェアではない気がしたので、修正するのはやめた。もちろんこの形に固執しているわけではないので、本にしたいという申し出があれば、いくらでも手入れをする用意がありますです、はい。版元はできれば新潮社がいいが、本の雑誌社でもかまわない。
それはさておき。
若い人は自分の力量をわきまえずに平気で無茶なことができる。私はそんな若者ではなかったという記憶があるが、今こうやって過去の痕跡を眺めてみると、やっぱり無茶なことをしている。なんといってもメインのアイディア一発でお話になると思っているところが無茶だ。そして、『紅い皿』というタイトルも無茶だ。寡聞にして前例を見聞きしたことはないが、誰でも思いつくネタなのできっとあるはずだ。また、仮に前例がないとしても、技巧も工夫もなしにストレートに書いてしまってはいけない。
他方、本筋とは関係なしに妙にひねっているところもある。たとえば、この小説の「私」は女性らしく書かれているが、よく読めば性別を特定できるデータがない。6年前の私が、ミステリでいう叙述トリック(のうち「男女トリック」)を念頭に置いていたのは間違いない。でも、そんな仕掛けは全く不発に終わっている。
でも、まあ、若いというのはいいことだ。そして、私はもう若くない。あとのことは若人(「わこうど」と読んで下さい)に任せた。
そゆわけなんでこんなところにリンクしておこう。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0410c.html#p041031a
今、黒豆ココアを飲みながらこの文章を書いている。最近、テレビなどでよく宣伝しているそうだ。試しに買ってみた。生まれて初めてのことだ。
しかし、今日は黒豆ココアの感想を書くつもりではないし、「おいしいココアの淹れ方」について一席ぶつつもりもない。この演題、間違ってるし。
今日は何を書くか考えがまとまっていないので、内容に即した見出しをつけることができなかった。そこで、仮に「黒豆ココアの夜」という見出しをつけたわけだ。この文章を書き終えるまでに、より適切な見出しが思いつけば差し替えることにする。もし、あなたが今読んでいる文章の見出しが「黒豆ココアの夜」のままだったなら、結局最後まで代替案が出なかったということなるだろう。つまり、今回はどうでもいいことしか書いていないことになる。よって、この先は読んでも無駄だ。さようなら。
では、本題だ。でも、本題なんてない。
土日に一冊くらい本が読めるかと思っていた。だが、だらだらと過ごしてしまい、まだ一冊も読んでいない。平日は平日で未読本がたまって、「よし、休みの日に一挙に消化するぞ!」と決意するのだが、休みの日には休みたいから自然と本から遠ざかる。本から遠ざかっても本が読めるならいいが、「本から遠ざかる」というのは、1メートル離れるとか73万光年の彼方に去るとかいう意味ではなく、本を読まないということの婉曲な言い回しなので、本から遠ざかりつつ本を読むなどというのは、単に物理的に不可能であるばかりでなく、論理的にも不可能なのである。で、本を読んでいないので、本の感想文も書けない。
昨日に引き続いて、旧サイトのログから引っぱり出した文章の再掲でお茶を濁すという手も考えたのだが、私は「だが」を多用する癖がいやで仕方がないので、これもやめにした。理由になっていないような気もするのだが、ああ、また「だが」を使ってしまった。これは文体上の癖というより、私の思考の癖だといえるかもしれない。一つの筋道を順序よく展開していくのではなくて、「だが」「しかし」「でも」と自分で自分の考えを掘り崩していくのだ。自ずと私は後ろ向きになってしまう。「やればできる」なんて、黒魔術の言葉だ。
こんな時、いちばん簡単なのは他のサイトの話題に言及するという手だ。適当に相づちを打っておけば無難だし、リンク返しでアクセス数アップも見込める。トラックバックを使えばより確実だ。でも、私はトラックバックの方法を知らない。あれって、HTMLの一種なの?
それにしても「トラックバック」というのは変な言葉で、トラックがバックする時には後ろに人がいないかどうか注意が必要だ。気の利いたトラックだと「バックします」と声をかけてくれるが、それを「ガッツ石松」と聞き間違えて……というミステリがあった。ネタばらしになってしまうから、タイトルも作者名も伏せておくが。
まあ、これだけ書けば、今日はもういいか。黒豆ココアも飲み終えたことだし。