【日々の憂鬱】貧乳+出腹はいかがなものか。【2004年4月中旬】


1.11029(2004/04/11) 短い小説への少し長い感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040411a

『極短小説』(ステーブ・モス,ジョン・M・ダニエル(編)/浅倉久志(選訳)/和田誠(絵)/新潮文庫)という本を読んだ。最近読書意欲が落ちていて(周期的なものなのだろうか?)あまり長い小説が読めなくなっているが、かといって小説を全然読まないといつまで経っても復調しないし、さてどうしよう、と思っているときに、たまたま松本楽志氏(ふだん滅多にアクセスしないトップページを久しぶりに見てみたら、なんとなく奇妙な味わいがあって楽しかった)がこの本にコメントしているのを見かけて買ってみた次第。

私は最初この本のタイトルを「ごくたんしょうせつ」と読んだが、奥付をみると「きょくたんしょうせつ」と読ませるようだ。「極端に短い小説」ということだろう。新潮文庫編集部が考えた造語だという。

ショートショートより短い小説といえば、最近では「超短編」が思い浮かぶ。今、括弧をつけたのは、まだこの言葉が一般的ではないと思ったからだ。超短編は必ずしも明確なストーリーとオチをもった作品ばかりではなく、言葉そのものが持つイメージ喚起力に頼った散文詩のような作品も多いが、『極短小説』(これは読者投稿企画「五十五語の小説」の入選作をまとめたアンソロジーである)は物語であることを重要な選考基準としているので、自ずと"短いショートショート"、または"必ずしも笑いを意図してはいないテキストジョーク"という趣をもつ作品ばかり(もっとも説明不足、または文化背景の違いなどによりオチがよくわからない小説もある)になる。よって超短編とはかなり印象が異なる。

文章量の単位として語数を用いるのは、膠着語の日本語では考えにくく、我々にはピンとこない。日本ではふつうは400字詰原稿用紙を単位として「枚」を単位とする。昔の映画業界では200字詰原稿用紙(いわゆる「半ペラ」)を用いることが多く、同じ枚数でも分量が異なる、というネタを扱ったミステリを読んだことがあるが、これはまあ例外だろう。今では小学校の作文の時間くらいしか400字詰原稿用紙を用いることはなくなってしまったが、それでも新人文学賞などの募集要項をみると「枚」が使われていることが多い(「400字詰原稿用紙換算」と書かれることも増えてはいるが)。

他方、英語圏では昔から語数で文章量を表すことが多い。「2000語程度の短篇小説」というような言い方はごく自然なものらしい。とはいえ、原稿にいくつの単語が用いられているのかいちいち数えるのは面倒だから、たぶん日本の原稿用紙と似た規格があって、その枚数を語数に換算していたのではないかと思う。しかし、『極短小説』の巻末に収録された「<五十五語の小説>の書き方」を読むと、短縮語や数表現、ハイフンで繋いだ語の取り扱いなど、かなり厳密に定められている。このようなルール設定は、ミステリの「十戒」や「二十則」にも似て、制約の下で想像力と創造力を引き出す手法として面白いと思う。なお、日本語訳では、句読点及び記号込みで本文200字以内となっている。

200字以内で書かれた物語というのはちょっと想像しにくいかもしれない。くどくどと説明するよりも例を挙げたほうがいいだろう。たとえば、次の作品の本文は186字である。

死の接吻

幼い二人の初めてのくちづけは、しかし大人のキスだった。少年は苦い唾液を湧出させ、少女はそれを嚥下して甘酸っぱい吐息を漏らす。『子供』の死。かれらは新しい何かが始まる予感に震えた。

数時間後、検屍官は呟いた。「特異体質が招いた悲劇!」

だが、彼らは愛する者を自ら死に追いやる不幸を知らず、法悦のうちに時間を止めたのだ。

男の肺からは青酸が、女の胃からはストリキニーネが検出された。

こんな感じの小説が『極短小説』に157篇収録されている。上に掲げた例より面白い作品も多いのだが、全体を通して読むとちょっと辛い(「からい」ではなく「つらい」と読んで下さい)かもしれない。これはショートショートにも言えることだが、定型の中で発想した小説を続けていくつも読むと、個々の作品の独自性よりも共通のパー短のほうが印象に残ってしまうのだ。もし、これから『極短小説』を読む人がいるなら、たとえば1日3篇までというふうに限定したほうがいいだろう。

松本楽志氏の感想文では全部で157編あって、面白かったと思えたのが10数編くらいだったのは純粋な読者として読んだ場合に、はたしてコストパフォーマンスとして良かったのか悪かったのかは難しいところだと辛い(「つらい」ではなく「からい」と読んで下さい)ことが書いてあるが、私が面白いと思った作品は20篇くらいあった。もっともその中には有名なジョーク(「私が主への祈りを終えると、それまでもがき苦しんでいた患者の容態が急に落ち着きました。これを恩寵と言わず何と言いましょうか?」「神父さん、そりゃあんたが祈っている間ずっと酸素補給用の管を踏んづけてたからだ」)の焼き直し(「主の恩寵」)があったので、それを除くと19篇になる。

ちょっと気になったのは、既成の物語に寄りかかった作品がいくつかあったことだ。パロディが悪いというわけではないが、それは別物だろうと思う。たとえば「愚者の贈り物」という作品は、O.ヘンリーの「賢者の贈り物」の後日談という形をとっている。原作の設定を継承することができるので、オリジナルの小説と同じ制限語数で勝負するのはアンフェアではないか。実は、「愚者の贈り物」の場合は200字も必要なく、ただ「妻の髪の毛はまた生えてくるが、わたしの懐中時計はもうもどってこない!」と書くだけで言い尽くせている。つまり、このアイディアは物語として述べられる必要すらないということになる。

最後になったが、この本は和田誠ファンにはお薦めの一冊である。各作品は概ね1ページに収まるものばかり(改行の都合で2ページにまたがるものもあるが)で、各篇に1ページのイラストがついているのだから、ページ数に着目すれば、この本の半分近くは和田誠の作品だと言ってもいい。逆に言えば、イラストがなければこの本の厚さは約半分になったはずで、価値観によって評価が分かれることになるが……。


『極短小説』を読んだ人にはわかることだが、上に掲げた「死の接吻」という作品はこの本に含まれているものではない。さっき私が即興ででっち上げたものだ。本当は収録作品を例示するほうがこの文脈では適切なのだが、そうすると一つの作品を全文引用することになってしまう。本全体からすればごく小さな部分でも、一つ一つが独立した小説だと考えると、著作権法上問題が生じるのではないかと考えたためだ。

トップページには区切り線以下の文章は掲載していないので、いつも最新の記事だけチェックして過去ログを読まない人はもしかしたら勘違いしてしまうかもしれない。だが、それで問題が生じることもないだろう。少なくとも私は「死の接吻」が『極短小説』収録作であるとは一言も書いていないのだから、嘘をついているわけではない。感想文のフェアネスとは?を読んでいろいろと感じたことはあったのだが、それをまとめて論じることができなかったので、そのかわりにこんな事をやってみた次第。

1.11030(2004/04/12) メモ2件

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040412a

ふたつ並べたことに特に意味はない。

1.11031(2004/04/12) 削除

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040412b

いろいろ書いた。でも、読み返してみると全然面白くないので削除した。

代わりのネタも思いつかないので、リンク1件でお茶を濁す。長期連載漫画の一覧表十三星の天戒)だ。「こち亀」「ゴルゴ」の次があれだとは意外だった。100巻超えてたのか……。

1.11032(2004/04/16) 雑感と短文

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040416a

人間というのは不思議な生き物だ。他人がみんな馬鹿に見える瞬間と、自分が他人より馬鹿に見える瞬間は、しばしば同時に訪れる。こんなことは他の動物ではまず考えられない。


「消毒済」と書いておきさえすれば、本当に消毒をする必要はない。肉眼で黴菌を見ることのできる人はいないのだから。


国家を擬人化するのは危険だ。


言いにくいことを言うためには、それなりの修辞が必要となる。そのまま語ってしまっては角が立つ。口をつぐんでしまっては生きている価値がない。


IDとパスワードは実印と同じだそうだ。だったら、役所で印鑑証明してくれるのか?


君の言っていることは全く正しい。ただ、君には足りないものがある。それはカルシウムだ。


不測の事態はいつでも起こりうる。そう思って行動すれば、どんな事が起こっても既に予想済みとなる。ただし、適切な対応が可能となるわけではない。


物事には何でも裏がある。もちろんコンニャクにも裏がある。今、あなたが見ているのはもしかしたらコンニャクの裏かもしれない。


ゆるゆるがばがばで締まりのないミステリも、その雰囲気が好きな人なら楽しめるだろう。しかし私には騙すか騙されるかという殺伐としたミステリのほうが心地よい。


B+A+C+Hは14、そこにJとSを足すと41となる。「43だろ?」というツッコミは却下。もともとIとJは同じ文字だったのだ。


長らく新刊の出ていないシリーズがふたつある。一方は上り坂を上り詰めたせいで次が書けなくなったようだ。もう一方は下り坂を下りきって続きを書く意欲が失せたのだろう。どちらも「早く次作を読ませて下さい」などと軽々しく口にするのは慎んだほうがいいだろう。


「忖度」という語は入れ子構造になっている。


オンリーワンになることは難しい。ナンバーワンのほうが現実的だ。オンリーユーは絶対に無理。


鈍い人にはなかなかわかってもらえない。でも鋭い人に比べればまだましだ。鋭い人は一を聞いて十を知るので、説明の順序や過程の重要さを理解してくれないからだ。


周遊指定地は周遊券の廃止とともに消滅した。だが、周遊指定地に指定された場所そのものが消え去ったわけではない。周遊指定地がおそらのおほしさまになっても私の心の中では生きている。JTBの時刻表でも生きている。JRの時刻表は最近見ていないから知らないが。


日本史は大きく三つの時代に区分できる。「先衛生博覧会時代」「衛生博覧会時代」「秘宝館時代」だ。いまや秘宝館時代が終わり、新時代が始まろうとしている。


今からでも遅くはない。いや、今からではもう遅いかもしれない。でも、そのまま突き進んで迎える破滅に比べれば少しはましかもしれないよ。


こんな感じで書いているといくらでも続けられるなぁ。


国益って何? それって食えるの?


9マイルが遠すぎるかどうかは、1マイルが何キロメートルであるかに相対的である。もし1マイルが0.01キロメートルなら、9マイルでもたかだか90メートルにすぎない。


諸般の事情により初版部数が極端に抑えられてしまったのは確かに不幸だ。だが、初版部数がその本の14倍なのにネット上では14分の1未満しか話題にならない小説も現にある。


ここ数年で、ひどく生きにくい世の中になった。あと数年後には、生きていられるかどうかわからない。


階級が2つしかなければ、いつでも革命が起こりうる。安定した支配のためには3つ以上の階級が必要だ。


そろそろこのスタイルにも飽きてきた。


仮説:「たそがれSpringPoint」の管理人の年齢は毎年1歳ずつ上がる。

1.11033(2004/04/17) 心機一転/新奇一点

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040417a

旅行に出ている間に更新を中止したら、

64 :名無しのオプ :04/04/15 00:01
滅た〜ん、現場まで着いたら、必ず「いのちの電話」かけてくれ!
そのまま飛び込んだりするなよ! 頼むぞ!!! 
65 :名無しのオプ :04/04/15 09:57
もういいよ
ちっともおもしろくないよ
滅は鬱画像残して更新止めてなにが楽しいんだよ
悪趣味だよ
見たほうはいやな気分になるだけだよ
66 :名無しのオプ :04/04/15 11:20
>>65
崖の上からウハウハザブーン、波にのまれてピチピチピッチw

と書かれてしまった。

さっきまでトップに貼ってあったこの画像は確かに悪趣味だとは思うが、別に旅行直前に貼ったものではなくて、去年12月中旬からずっと貼っていたものなので、「なんで今さら?」という気もした。だが、よくよく考えてみると、その後私が理由を告知せずに2日以上更新を中断したのは、これが初めてだった。名無しのオプ諸氏のコメントは、私がまだ社会的に抹殺された存在ではないことの証拠として有難く受け取ることにする。

さて、閲覧者を私の意に反して不快にさせるのは申し訳ない。時には、意図的に閲覧者の一部を不快にさせるようなことを書くこともあるが、今回のケースはそれに該当しない。そこで、トップ画像を変更することにしたのだが、今日はこれから外出予定があってゆっくり画像を吟味している余裕がない。ネットで拾った無修正エロ画像でも貼っておこうか、と一瞬思ったが、そんなありきたりの画像で満足する人はいないだろう。

仕方がないので、今日のところはとりあえず無難な画像を仮に貼っておき、後日もう少しトップ画像にふさわしいものに差し替える予定だ。名無しの人もそうでない人も諒とせられよ。

ところで、

70 :名無しのオプ :04/04/17 00:46
滅がウハウハザブーンから生還しとるぞ。
ライヘンバッハの滝から生きて戻ってきたホームズみたいなやっちゃなw
71 :名無しのオプ :04/04/17 02:27
>>70
ニセモノと入れ替わってるかもしれん

ホームズが復活後に別人になっていたという話はどこかで読んだような記憶があるが、誰が唱えた説だったのか咄嗟に思い出せない。私はすっかりとしをとってしまった。それはともかく、せっかく偽者疑惑が出てきたのだから、今までのスタイルを若干変更して閉塞状況を打破したいものだと思う。さしあたって、ネット上の馴れ合いを重視して、和気藹々ほのぼのとした雰囲気を目指すことにしよう。

1.11034(2004/04/18) 下手なミステリの結末より驚きだった!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040418a

早速、馴れ合いを開始する。

今回、馴れ合う相手は嵐山薫氏だ。妙にタイムリーだが、別に狙ったわけではない。たまたま数時間前に大阪の某所にてお会いしたからだ。同じ場所で山沢晴雄氏にもお会いしたが、残念ながら山沢氏はサイト持ちではない(と思う)ので、ネット上で馴れ合うことはできない。というかネット外でも恐れ多い方だ。でも、嵐山氏は別にさほど恐れ多くはない。

さて、相手は決まったものの、具体的にどうやって馴れ合えばいいのか、今ひとつよくわからない。

とりあえず、嵐山氏との会話で印象に残った話題を書いておこう。

嵐山氏はつい最近まで米澤穂信が女性だと思っていたそうだ。確かに名前だけ見れば女性だとも思える。私自身も、『氷菓』を読むまでは、もしかしたら女性かもしれないと思っていた。だが、『氷菓』と『愚者のエンドロール』を続けて読んでみて、おそらく作者は男性だろうと思うようになった。私は今まで女性作家の小説に千反田えるのような性格の人物が登場した例を知らないからだ。もっとも私は米澤氏本人にお会いしたことは一度もないので、今でも氏が男性だという確証を持っているわけではない。

ところで先日「ダ・ヴィンチ」を読んだら、米澤氏の写真つきインタビューが掲載されていた。それを見た限りではごく普通の青年のように思われた。もしかしたら他人の写真かもしれないし、一見したところ男性に見える女性かもしれない。疑う気になれば何だって疑える。だが、今は「米澤穂信は男性である」という前提で話を進めることにしよう。

嵐山氏との会話に戻る。氏は「『氷菓』や『愚者のエンドロール』の書き方が女性的な感じがした」というようなことを言っていたように思う。もしかしたら私の聞き違いかもしれないが。その場ではそれ以上この話は発展しなかったので、どういう点が女性的なのかを訊くことができなかった。そこで家に帰ってから嵐山の館にアクセスし、『氷菓』の感想『愚者のエンドロール』の感想を読んでみた。残念ながら女性的な要素については言及していなかったが、その代わりにもっと興味深い記述を見かけた。

『氷菓』の感想から。

これらの細かい謎は実は文集『氷菓』そのものに秘められた謎を解くためのささやかなる伏線である……、と言う事実はない。尤も、この謎が本書の最大のもので、それを解くのはやはり奉太郎。恐らくは奉太郎という人物の洞察力を読者に認識させるためのエピソードであろう(実際、細かい観察眼に裏打ちされた謎解きだ)。

『愚者のエンドロール』の感想から。

多重解決の系譜「毒チョコスクール」の特徴として解決のつるべ打ちと言うのが挙げられるが、本書にはあまりそう言う感じがしない。本書の真価は、実は、「毒チョコスクール」としてのそれよりも探偵役を割り振られた人間が示す「解答」とそれをハートウォーミングにひっくり返す「動機」と「真実」であろう。「解答」は或る意味ダミーとして機能しているが、ダミーと「動機」及び「真実」が同じくらいの重要さで読者の前に示されている。つまり、「毒チョコスクール」の作品に於いて最終的に示される解答が重要なのであり、極論を言えばそれまでに出された解答はどうでも良い。だが、本書では最終的な解決の直前に示された「解答」と最終的な「真実」が同じくらいの重要度で決着している。解答の重要度の等価、と言う意味で本書は「毒チョコスクール」の中でも特異な位置にあると言える。

あー、だんだん馴れ合いとは別の方向に話が進んできたような……。やはり私には無理だったか。


この文章を書きながら私は海燕氏のところのチャットに参加しているのだが、入るタイミングが悪くて話の流れについていけず、他の人の書き込みを眺めているだけの状態になっている。非常に気まずい状態だ。

何か言わないといけないと思いつつ、うまく話の流れに乗ることができない。もう半時間以上ずっと黙り込んだままだ。今さら話に口出しするのも変だし、かといって黙って出て行くのも失礼だ。さて、どうしたものだろう?

この文脈でこういうことを書くのも場違いかもしれないが、『マリア様がみてる』の文体に関する海燕氏のコメントに感心した。

「マリみて」の文体の魅力について語る人は多いが、文体の辛辣さを指摘した上で、それが古典的な物語の設定を相対化しているという分析、さらに(私は読んだり見たりしたことはないが)比較的原作に忠実らしいマンガ版やアニメ版が小説版ほどの魅力に乏しいと言われる理由の一端を示唆している。熱心な「マリみて」ファンなら、もしかしたら異論もあるかもしれないが、とりあえず一読して損はない論考と言えるだろう。

1.11035(2004/04/18) 馴れ合いと孤独

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040418a

「これから馴れ合いを行う」という宣言には奇妙なところがある。その理由を考えてみた。

まず第一に、ネット上での馴れ合いはどちらかといえばネガティヴに捉えられる傾向があり、わざわざ自分から馴れ合い宣言を行うのは不利にこそなれ、有利にはならないということが挙げられるだろう。「これから他サイトのネタをパクる」という宣言と似たような奇妙さが、ここにはある。

次に、そもそも馴れ合いは結果として示されるものであって、意図的に予告されるものではないということも、この宣言が奇妙に思われる理由の一つだろう。仮に、馴れ合いにネガティヴな含みが全くなかったとしても、「これから馴れ合いを行う」という宣言は奇妙なものであるに違いない。ちょうど「これから和気藹々と語り合います」と宣言するのと同様だ。

そして、馴れ合いにはもう一つ、宣言に馴染まない特徴がある。それは、ウェブサイト管理人が1人で実行可能な行為ではないということだ。「馴れ合い」という言葉自体によって示されているように、これは複数のサイト管理人が共同で行う相互行為である。よって、単独のサイトで宣言したからといって、馴れ合いが成立するわけではない。

前回私は、嵐山薫氏を相手に馴れ合いを行う旨の宣言をした。しかし、よくよく考えてみれば、ふだん私は嵐山氏の文章に向けてリンクを張ることはほとんどないし、嵐山氏から私のサイトにリンクを張って言及されることもあまりない。ネット外では、もうかれこれ10年近く前からの知り合いでもあるし、他のミステリ系サイト管理人と比べれば顔を合わせる機会が多いため、別に疎遠な関係だということではないのだが、ネット上での距離感はまた別だ。今から考えれば、馴れ合う相手としては不適切だった。

ネット上での馴れ合いを円滑に成し遂げるためには、ふたつのサイトでしばしばリンクの張り合いが行われている必要がある。しかも、ネガティヴリンクでは駄目で、基本的に友好的な関係を築き上げていなければならない。そうやって考えてみると、私には馴れ合いにふさわしい相手がいるのかどうか、かなり不安になってきた。

いや、前向きに考えることにしよう。既にそのような関係が築き上げられている必要はない。これから築けばいいのだ。自分の素直な気持ちを押し殺してまで他人を誉める必要はないが、とにかく少しでも面白いサイトを見つけたら積極的にリンクを張ってポジティヴな言葉で紹介することにしよう。最初のうちは、一方通行で、馴れ合いではなく、ただ媚びを売っているだけにしかならないかもしれない。でも、根気強くリンクを張り続けて、いつも関心をもってサイトを見ていることを示せば、そのうちに何らかの形で応えてくれるだろう。そして、相手から好意的なコメントとともにリンクが張られたなら、馴れ合いは成功だ。あとは、その関係が持続するように注意していけばいい。

……。

無理だ。私にはできない。

自分からリンクを張るまでもなく、これまでに多くのサイトから「たそがれSpringPoint」にリンクが張られてきた。中には非常に好意的なコメントつきのものもあった。それらに対して私はどう反応したてきたのか?

ほとんどの場合、ただ無視してきた。こちらからリンクしたことなど数えるほどしかない。前向きに考えるのはいいが、過去の経緯をなかったことにすることはできない。

前々回私はネット上の馴れ合いを重視して、和気藹々ほのぼのとした雰囲気を目指すことにしようと今後の抱負を述べた。それからまだ2日も経っていないが、やっぱり私には無理だった。

これからも今までと同じく、気分のむらにまかせて、他サイトに言及したりしなかったり、閲覧者の興味を惹こうとしたり自分の趣味に走ったりしながら、ぼちぼちとサイトを続けていくことにしよう。


今日は馴れ合いの話に続けて孤独について語る予定だったが、書いているうちにどんどん憂鬱になったので中止した。この話題は危険だ。

1.11036(2004/04/19) 姉、工藤と……

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040419a

思いつきで妙な見出しにしてしまったが、それに見合った内容を考えているわけではない。

とりあえず、軽く小話をひとつ。

精神病院の大浴場で一人の患者が釣り糸を浴槽に垂らしていた。それを医者が見て、からかい半分に訊いてみた。

「何か釣れますか?」

すると、その患者はくくっと笑ってから答えた。

「ああ、釣れるとも。とびっきり馬鹿な医者がね」


ウォーミングアップが済んだところで、今日読んだ本の感想を書いておく。取り上げるのは『平井骸惚此中ニ有リ 其貳』(田代裕彦/富士見ミステリー文庫)だ。

前作『平井骸惚此中ニ有リ』は第3回富士見ヤングミステリー大賞を受賞し、「あの富士見ミステリー文庫からまともなミステリが出た」と評判になった……というのは冗談だが、少なくとも私が見聞きした範囲では好意的な評が多かったように思う。特に大仕掛けや驚天動地の意外な結末があるわけではないが、ミステリとしての骨格はしっかりしており、大正時代の雰囲気や登場人物たちの魅力と相まって、地味ななかにもしみじみとした味わいがある佳篇、といったところか。

シリーズ物は巻数を重ねるごとに、どんどんキャラクターの比重が増していくのがふつうだ。一般にそれが悪いというわけではないが、ことミステリの場合、キャラに振り回されてしまっては妙味に乏しい駄作に成り下がることがよくある。具体的に実例を挙げると語弊があるので自粛するが、あのシリーズも昔はもっと面白かったんだが……。

『平井骸惚此中ニ有リ』も、もしかしたらそのうち同じ轍を踏むことになるかもしれないが、シリーズ第2弾の今作については、まだその兆候はない。前作に比べて死人の数は数倍に増えたが、特にセンセーショナルになるわけでもなく、ハッタリだけでストーリーを進めるわけでもなく、前作同様の雰囲気を保っている。ふつうライトノベルのシリーズだと副題がつきそうなものだが、ただ「其貳」とだけ書かれている素っ気なさも、内容に似つかわしい。

パラレルワールドでもなければマンガ的に誇張されたわけでもない、現実の大正十二年を舞台にしているので、時代考証には苦労しただろうと思うが、少なくともあからさまに時代錯誤な設定やエピソードは見あたらなかった。もちろん、登場人物たちの台詞やものの考え方は現代風にアレンジされているが、許容範囲だろう。一つだけケチをつけるとすれば、作中で用いられるある毒物が当時はマイナーなものであり、探偵小説家や愛好家の間でも共通知識といえるほどのものではなかった、という事実が挙げられるだろうが、別にその時代にその毒がなかったわけではないので、作品そのものの屋台骨を揺るがす欠陥というわけではない。

では、ミステリとしての仕掛けについてはどうか。連続して発生する怪死事件を貫く筋書き(という言い方では何のことかわからないだろうが、これ以上説明するとネタばらしになってしまうので書けない)には前例があり、そちらのほうがより徹底している。「平井骸惚」では人物の心理の自然さを重視したためか、構成美の面でやや劣るように思う。しかし、他方でもう一つ別のアイディア(これにも前例がいくつかあるが、無茶を承知でごりごりと押したような話が多い)と組み合わせているところに独自性があると思う。

部分的には多少無理筋の派手なトリックもないではないが、全体としては淡泊な仕上がりとなっている。島田荘司ばりの大伽藍を求める読者には物足りないかもしれないが、こぢんまりとした四阿もまた風情があっていい。

前作を読んで面白いと思った人なら、たぶん期待を裏切られることはない良作だ。前作を読んでいない人にもお薦めしたいが、シリーズキャラクターの人間関係を理解するためにも順番に読むほうがいいだろう。

最後にどうでもいい感想。読んでいる最中に私はいちばん最初に死んだと思われた人物が生きていて、他の人物を殺しているのだと思っていた。ははは。

1.11037(2004/04/20) 的を得る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040420a

私はずっと「的を得る」というのは間違った表現だと思っていた。私の使っているATOK16でこれを入力すると、《「当を得る/的を射る」の誤用》と注意が出るくらいだから、同じように考えていた人は多いだろうと思う。

ところが、世界史教室というサイトの練習帳問答というページ(「という」が重なった。悪文の見本だ)によれば、実は「的を得る」は決して間違いではないのだそうだ。へぇ。

ただし、リンク先の文章は「的を得る」が「的を射る」と「当を得る」を混乱した結果生じた誤表現であるという説そのものに対して反駁しているわけではない。「正鵠を得る」の「正鵠」が転じて「的」になったときに、同時に「得る」も「射る」に置き換わり、その後別の機会に「当を得る」と混乱したのだとすれば、いったいどういうことになるのだろうか? 件の文章では、「的を射る」という表現がいつごろから使われるようになったのかが書かれていなかったので、その辺がよくわからない。この件について、より詳しいことをご存じの方は、ぜひご一報いただきたい。

ともあれ、今後は安直に「的を得る」は間違いだと言わないようにしようと思う。自分ではちょっと抵抗感があって使いづらい表現だが、かといってこれまでのようにアプリオリ)に「的を射る」を使うのもどうかと思う。困った。


喫煙者採りません 強まる社内禁煙(情報もと:Desert Words

情報もとサイトでなぜこんなあからさまな差別が許されるのか。と書かれていたので、この記事に興味を抱いたのだが、読んでみるとそのことよりも新免流(しんめんりゅう)社長(45)のほうが気になった。凄い名前だ。

「ぬぬ、御主できるな。名を名乗れ」

「姓は新免、名は流、姓名あわせて新免流たぁ俺のことよ」

「や、貴様がかの新免流かっ」

……などという、どうでもいい事を考えてしまった。

ところで、むしろ犯罪者の方が優遇されている気さえする。「前科者は採用しない」と公言する会社はさすがにないだろう。という書き方はミスリーディングだと思う。少なくとも新免流社長の会社では「元喫煙者は採用しない」とまでは言っていないのだから。


註 「アプリオリ」

「深く考えたり検討したりしないで」または「無批判に」などという言葉の高級な表現。自分の見識をひけらかしたいときに用いる。ただし、本気でこんな使い方をすると馬鹿にされるので要注意。よい子のみんなは真似をしてはいけない。

1.11038(2004/04/20) 形式更新

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404b.html#p040420b

今日の記事は朝書いたので、夜はもう更新しないでおこうと思っていたのだが、文中に一箇所誤字があったので修正することにした。それだけだとアンテナ経由でアクセスした人が拍子抜けするだろうから、ついでに何か書いておくことにしたが、特に何も思い浮かばない。でもって、適当にネットを巡回していたら、久美沙織『創世記』 第3回「生ける伝説・氷室冴子」で驚くべき記述を見かけた。(ハーレクインとアルルカンは同じ単語の英語読みとフランス読み、ねんのため)と書いているではないか。これは全然知らなかった。文章の本旨とは全然関係のないこぼれ話なのだが、非常に感心した。

これだからインターネットはやめられない。


おまけ:「ネクタイの数学」

男性の首まわりに1枚の布を結ぶ方法は、数学の理論上85通りあり、これ以上でもこれ以下でもない。著者はそのうち13種を推奨するが、あなたの好みは?

「以上/以下」についての私の見解はここで述べたとおりだが、さすがに数学の話の中でこのように用いるのはどうかと思った。