【日々の憂鬱】読む本より読まない本が多いのはいかがなものか。【2003年12月上旬】


1.10854(2003/12/01) 女子割礼とミダス王

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031201a

今日『ドキュメント 女子割礼』(内海夏子/集英社新書)という本を読んだ。正確にいえば、先月の中頃に読み始めたこの本を約半月かけて今日ようやく読み終えた。ごく普通の厚さの教養系新書なのにどうしてこれほど時間がかかったのかというと、一つには私の読書速度が異様に遅いからであり、もう一つには他の本と並行して読んでいたからであり、そして――これが最大の理由なのだが――一気に読み通すにはあまりにも痛い内容だったからだ。

タイトルからもわかるとおり、この本は女性に施される割礼を扱っている。ふつう割礼といえば、ユダヤ教などの宗教上の理由により男性のペニスの包皮を切り取る風習のことで、かのゴルゴ13もユダヤ人に変装してイスラエルに潜入する際に割礼したくらいだから、知っている人は多いと思われる。だが、女子割礼については一般の日本人はほとんど知識を持っていないのではないだろうか。

私はアフリカの一部の地域(と私は思っていたが、実はかなり広範囲に及ぶようだ)で女子割礼が行われているということは知っていたが、その具体的な内容はこの本を読むまで全く知らず、男子割礼からの類推で、クリトリスの包皮を切り取る程度だと思い込んでいた。だが、女子割礼の実状はそんな生易しいものではなかった。

タイプ1 クリトリデクトミー
クリトリスの一部または全部の切除
タイプ2 エクシジョン
クリトリス切除と小陰唇の一部あるいは全部の切除を伴う
タイプ3 陰部封鎖
外性器の一部または全部の切除および膣の入り口の縫合による膣口の狭小化または封鎖
タイプ4 その他、タイプ1〜3に属さないもの
クリトリス、あるいはクリトリスと陰唇を針で突く、穴を通す、切り込みを入れるなど:クリトリスあるいはクリトリスと陰唇を引き伸ばす:クリトリスや周囲の組織を焼く(陰核焼灼):膣口を削り落とす(Angurya cuts)あるいは膣に切り込みを入れる(Gishiri cuts):膣を硬くあるいは狭くする目的で膣に腐食性の物質を入れて出血させ、あるいは薬草を入れる:その他、治療を目的とせず、文化的理由のもとに、女性外性器の一部あるいは全部を削除し、あるいは女性の生殖器官を意図的に傷つける行為のすべて

この本にはもっと生々しい描写がいくつかあるのだが、これ以上の引用は控えておこう。今こうやって書き写しているだけで、私自身のクリトリスが切除される痛みを想像してしまい、何ともいえない気分になる。むろん、私がどれほど想像を広げても、実際に割礼された人々の痛みを追体験することは不可能なのだが。

何の気なしに興味本位で手に取った本だが、人体変形・破壊嗜好のない私にとってはあまり楽しい読書体験ではなかった。


気晴らしのために全然別の種類の本を読もうと思い、書店の文庫新刊の棚で見つけたのが『切手をなめると、2キロカロリー』(監修・唐沢俊一/サンマーク文庫)だ。オビには「トリビアの泉」は…………ここから湧いた。と書かれている。便乗本は数多いが、これは唐沢俊一「一行知識」ホームページに投稿されたネタをもとに構成された、正真正銘本家本元の本だ。だからといって特に格調高いわけでもなければ、内容に深みがあるわけでもなく、一瞬のうちに読み終えてしまった。雑学本だからそれはそれでいいのだが、うまくこなれていないネタがいくつかあったのが少し惜しい。たとえば

ギリシア神話で、酒神ディオニュソスに「触れるものすべてが金になる魔法をかけてほしい」という願いごとをして、食べ物も水も金になってしまい、飢え死にしかけた浅はかな王様のエピソードがあるが、この王様と「ロバの耳」の王様は同一人物。

このネタで感心できるのは、かなり微妙な知識レベルの人に限られるだろう。二つのエピソードを知っていないといけないし、知りすぎていてもいけないのだから。

そういえば、「ロバの耳」について兼行法師が『徒然草』で何かコメントしているという話をどこかで聞いたような気がするが、検索しても見つからなかった。残念。


前段までとは全然関係ない話。

東京創元社編集者・桂島浩輔が選ぶ2003年度「必読」ミステリーを見て、一瞬「大変だ! この人、本名も勤務先も晒されてしまってる」と思った。

1.10855(2003/12/04) 支倉の季節にベスト選びを想うということ

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支倉の季節とは何か? そんなことは問うてはいけない。私も知らないのだから。

それはともかく、今年もミステリの年間ベスト選びの季節がやってきた。案の定、市川憂人氏が『本格ミステリ・ベスト10 2004』をネタにしている(捏造日記12/3付)が、今回はちょっとピントがぼやけている。探偵小説研究会がいかに偏向した投票を行っているかをえんえんと解説して、同姓の研究会員から抗議を受けるくらいだと楽しいのだが。だが、楽しいことは毎年あるとは限らない。来年はぜひ講談社文庫版『ヴァンパイヤー戦争』への組織票を期待したいものだ。

さて、私は年間ベスト選びには全く縁がない。なぜ縁がないかといえば、新刊を読んでいないからだ。今年の「このミス」のベスト10は一冊も読んでいない。では旧刊なら読んでいるのかといえば、そういうわけでもなくて、要するにベスト選びに参加している人々に比べると圧倒的に読書量が少ない。

読書量が少ない人間はベスト選びに参加してはいけないなどと書くつもりはない。本当はそう書きたいのだが、角が立つから書かない。お祭りなのだから読書量の多寡にかかわらず参加したい人は自由に参加すればいい、と書いておくことにしよう。ああ、私はなんと他人の自由を尊重する人間なのだろうか!

私はベスト選びには参加しない。私の一票と他人の一票とが同じ価値をもって扱われるのは不当だと考えるからだ。数多くのミステリを読みこなした人が「今年はこれだ!」と選んだ一冊と、私の選んだ一冊とは全く異なる。ちなみに私が選ぶ今年の一冊は『きみとぼくの壊れた世界』(西尾維新/講談社ノベルス)だ。ほかに何を読んだのか、もう覚えていない。

なんだかとりとめのない文章になってしまった。二、三日更新をさぼると文章の書き方を忘れてしまうものらしい。

ええと……。

そうそう、今日は杉江松恋は反省しる!(12/3付)をもとにあれこれ雑談してみようと思ったのだった。でも、そのためには少なくとも『本格ミステリ・ベスト10 2004』を読まなくてはいけないが、本体価格850円プラス税(消費税4%および地方消費税1%)を払うのはもったいない。

ところで、私はミステリはあまり読まないが、教養系新書はわりとコンスタントに読んでいる。今日は『横書き登場 ―日本語表記の近代―』(屋名池誠/岩波新書)を読んだ。仮名遣いや漢字の字体についての本はいくらでもあるのに、文字の書き順(「書字方向」)に焦点をあてた本はこれまでほとんどなかった。日本語の表記に関心のある人には一読をお薦めしたい。横書き小説の例として小峰元の『クレオパトラの黒い溜息』と吉村達也の『黒白の十字架』に言及しているのも興味深い。

1.10856(2003/12/05) もしも心と言葉が同じものだとするなら、言葉に書き言葉と話し言葉があるように、心にも書き心と話し心があることになるだろう

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031205a

今日も見出しとは全く何の関係もない話題を取り上げる。

まず一つめ。年金妖怪大辞典年金未納者を「妖怪」扱い 岐阜社会保険事務局が謝罪

この広告を見たときには「へぇ、お役所もなかなか工夫するもんだ」と思った。"いったん免除"が何の捩りなのかは知らない(12/6追記:元ネタは一反木綿という妖怪らしい。G.C.W.にご教示いただいた)が、そのほかは元ネタとのギャップがなかなか笑えた。

年金保険料未納者がこの広告を見たら不愉快だろうが、未納者に心地よい広告では効果がないのだから、その点では理にかなっている。ただ、単に不愉快にさせるだけでなく人権侵害を引き起こすようでは具合が悪いだろう。では、この広告は果たして年金保険料未納者の人権を侵害する程度に過激なものなのだろうか? 私にはよくわからない。

ところで、この広告がもし税金に関するものだったなら、「税滞納者の人権を侵害している」という批判が起こっただろうか?


二つめ。反証可能性について。

さて歴史的な事件というのは反証可能か? 反証可能な人は誰だ? 時間を巻き戻すのは人間に可能なのか?

この3つの問いに対する私の見解は下記のとおり。ただし、明日になったら考えが変わるかもしれない。

  1. 原理的には反証可能である。データ不足で反証できないこともあるが、それはこの文脈での「可能性」とは別のレベルの話。
  2. 特定の誰かではなく、理想化された研究者共同体と解するべきだろう。
  3. もちろん、そんなことはできない。

いや、明日になる前に考えが変わった。どうもこの問題は一筋縄ではいかない。

検証可能性や反証可能性の適用対象を法則言明に限定してしまえば、話はかなりすっきりする。個別の歴史記述は法則言明ではないから、はなから検証も反証も関係ないことになる。ただ、その場合でも歴史記述と史料や遺物との関係は問題になるだろう。


三つめ。今日読んだ本の感想。

『道路行政失敗の本質 <官僚不作為>は何をもたらしたか』(杉田聡/平凡社新書)という本を読んだ。筆者は帯広畜産大学教授だそうだ。てっきり政治学か経済学畑の人だと思ったのだが、哲学系の人らしい。

道路行政の失敗が財政破綻を招き、公害の元凶となり、地域社会を衰退させ、交通事故多発の原因となったという論調なのだが、それだけなら別に目新しい話でもない。今後の方策についても、道路建設をやめるとか自動車に課税するとか、同じ問題を考えたことがある人なら誰でも思いつくようなことが書かれている。唯一、クルマ遮断機(交差点遮断機)という発想は面白かったが、全体としては自動車依存社会批判と日本の官僚制批判があまり密接に関連づけられておらず焦点が定まっていないという印象を受けた。

1.10857(2003/12/06) 二階級特進

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031206a

イラクで殺された二人の外交官はそれぞれ二階級特進の扱いになったそうだが、三等書記官が一等書記官になるのはいいとして、参事官が大使になったのはちょっと奇妙なな感じがした。よくは知らないが、イラクの日本大使館には既に大使が一人いるはずだから、今回の二階級特進によりイラクには日本大使が同時に二人存在することになったのではないか。

いや、二階級特進が実施されたときには奥大使は既にこの世の人ではなかった(辞令は日付を遡らせて交付したのだと思うが、もちろんそれは書類の上だけの話で、実際に時間を巻き戻したわけではない)のだから、在任期間はゼロであり、いかなる時点においてもイラクには日本大使が二人同時に存在することはなかった、と解釈すべきかもしれない。

ところで、上の段落で「奥大使」という呼称を用いたが、奥氏は現在大使ではないのだから、肩書きは「前大使」になるのではないかという気もする。だが、そう言ってしまうと、現在の駐イラク大使(名前は知らない)の前任者だということになってしまう。これはまずい。だったら「元大使」か。これもなんだかおかしい。

ところで、昔、二階堂進という政治家がいたことを思い出した。


メモ:二つの作品の比較検討

作品名を挙げておかないと未読かどうかすらわからず、後の祭りになる公算が大きいのではないかと思う。

なお、私は両方とも読んでいない。どちらも年末にゆっくりと読むつもりでいたのに……。

1.10858(2003/12/07) 儀礼的無関心

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ここ数日の間にあちこちでこの言葉を見かける。儀礼的無関心反応リンク集というのがあるくらいだ。

日記を公開したければ公開すればいいし、リンクを張りたければ張ればいい。リンクを張られたくなければ日記を削除すればいいし、それでも世間の人々に知らしめたければミラーサイトを作ればいい……というわけにはいかないか。それでは著作権侵害になる。

この話題の発端の文章を読むと、さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。とかだが、結果としては、誰も幸せになっていない──僕がひとつだけ気になって仕方ないのはこの点だ。とか書かれていて、「幸せ」という言葉が一つのキーワードになっているように思われる。だが、ネット上の活動で人が幸せにならなくても、それで不幸になるわけでもないのだから、別にどうでもいい話なのではないだろうか?

と、なげやりなことを考えた。要するに私は儀礼的無関心には関心がない。

1.10859(2003/12/07) 行列のできるラーメン屋

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031207a

昨晩書いた文章は、当初、儀礼的無関心反応リンク集に捕捉されたら「ひっそりと語っていたかったのに晒されてしまったので削除します」と一言書いて消してしまう予定だったのだが、その種のジョークは誤解を招くおそれがあるし、誤解しないまでもあまり一般受けしないことは確かなので、予定を変更して存続させることにした。

さて、この話題を知って私が真っ先に連想したのは、行列のできるラーメン屋の話だ。同じ事は誰もが思いついていることだろうと考えて、あえて書かなかったのだが、リンク集から辿ってあちこちのサイトを見た限りでは不思議なことに誰も言及していなかった(見落としている可能性もあるが)ので、それについて書くことにする。

たとえば、ひっそりとラーメン屋を経営して人がいるといる。Aさんとしよう。特に宣伝もせず、目立つこともなく、だけどAさんのラーメンを贔屓にしている常連客がわずかながらいたとする。

ある日、Aさんの店に一見の客がやってきた。その客はAさんのラーメンのあまりのおいしさに感動し、知り合いのラーメンマニアのBさんに紹介した。BさんもAさんのラーメンを食べて感動し、雑誌のコラムで紹介した。結果、Aさんのラーメン屋にはラーメンマニアが殺到した。

Aさんは客をさばききれず、手抜きをするようになった。結果、ラーメンがまずくなって客が離れ、その後店をやめざるをえなくなった。

もちろん、ラーメンとウェブサイトには大きな違いがいくつかある。たとえば、ラーメンの具にナルトを使うことはあっても、ウェブサイトの具にナルトを使うことはない。というかウェブサイトには具はないし、麺もなければスープもない。あるのはテキストと画像、そして音声データなどだ。なお私は音の出るサイトが嫌いだ。いや、私の好みはどうでもいい。ともあれ、行列のできるラーメン屋の例をそのままネットにアプライすることはできない。

ん? 「アプライ」って何だったっけ?

そのままネットに当てはめることはできない例を挙げても仕方がないので、この後は行列のできるラーメン屋の話をする。

私の知っている某有名ラーメン屋は行列ができる人気店だが、地元民が近寄らないことでも知られている。あまり具体的に書くと営業妨害になるので店名を挙げるのは差し控えておくが、数年前にそれまで全国的にはほぼ無名だった近畿地方の某県(四国にあると思っている人もいる)のラーメンのブームを巻き起こした例のあの店だ。私は地元民ではないので、ブーム後に素直に行列に並んでラーメンを食べたのだが、行列にいた人々の会話を聞くと、なるほど県外の人ばかりで、地元民が近寄らないという話は本当だったのかと納得した。私が行った時間帯(午後4時過ぎだったと思う)のせいかもしれないが。

で、それ以来、その某有名ラーメン屋には一度も行ったことがないのだが、知り合いの某県の人に聞いた話では、最近はブームも下火になったので行列はなくなったそうだ。でも、地元民が戻ってきたわけではない。ああ、可哀想に。

この話にはオチも寓意も教訓もない。

1.10860(2003/12/07) 日付の訂正

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031207c

前回の記事が12/8付になっていたことに気づき、早速訂正。12/8といえば、太平洋戦争開戦記念日ではないか。日付変更線を跨いで戦争を始めたので、アメリカでは12/7が記念日だけど。まあ、そんな事はどうでもいい。

日付の訂正だけで済ますと無愛想かもしれない(こんな事を考えるようになったのもアンテナが普及したせいだ。技術の進歩は人間に思考にまで影響を及ぼす)ので、儀礼的無関心の話の続きでも書くことにしよう。要するに私は儀礼的無関心には関心がない。と言っておきながら一日に三回も書くのはいかがなものかと思うのだが、別にそれで不幸になる人もいないだろう。逆に幸せになる人もいないわけだが、たかがウェブに幸せを求めてはいけない。

儀礼的無関心反応リンク集に捕捉されているページの中で、本来の問題とは少し外れるけれども興味深い話題を扱っているところがあった。氷見日記(12/5付)「儀礼的無関心について」だ。詳しくは直接リンク先を見ていただきたいが、要するにリンクをされた側の儀礼的無関心の話。

他サイトにリンクをするということは何らの関心のあらわれだ。ある時には悪意からリンクすることもあるだろうし、悪意とまではいえなくても、ツッコミを入れたくてリンクすることもある。また、リンク先の文章に同感して好意を示すためのリンクもある。前二者の場合はネットバトルの芽になるので、リンクされた側はそれなりの利得計算をした上でどのように対応するのかを決定することになる。その戦略について考えるのも面白いが、今は措くことにして、最後のケースに話を絞ろう。

誰かから好意を向けられたなら、それに対して何らかのお返しをするのが礼儀というものだ。にこやかな顔で「こんにちは」と挨拶をされたのにそっぽを向いて知らんぷりをすると何となく罪悪感がつきまとう。見知らぬ人であっても最低限挨拶を返すくらいのことはすべきだろう(もちろん、ここでの「べき」は法的強制力をもつものではない)。

では、ネット上ではどうか? 少し事情が異なるように思われる。個人のウェブ日記は半ば私的な空間のようなものだが、それでも不特定多数の人々に対して開かれているのだから公的な空間といえなくもない。「リンクしていただいてどうもありがとうございました」などと書くのは、ちょうど図書館や演奏会場で私語を交わすような行為ではないだろうか?

いや、静謐さを要求される場の私語は明らかに傍迷惑だが、個人サイトでのリンク謝辞は別に不特定の人々にそのような迷惑をかける行為ではない。だから、この喩えは少し極端で、そのままネットにアプライすることはできない。おお、なんだか「アプライ」が癖になってきた。気をつけなければ。

ただ、迷惑したというわけではないけれど何となく不快に感じるということはある。一般閲覧者を蔑ろにして、一部の人々だけで妙に盛り上がっている姿に薄ら寒さを感じるのだ。ネット用語としての「馴れ合い」のネガティヴな含みは、その不快感に由来している。

そのような感覚がネット上で一般的なのだとすれば、他サイトにリンクされてもリンク返しをしないという礼儀が社会通念になってもいいと思うのだが、なかなかそうはならない。逆に、他サイトにリンクされたならリンク返しをするのが礼儀だと決まっているなら、それはそれで気楽だ。リンクされていることに気づいたら、何も考えずに儀礼的に返礼しておけばいい。だが、現状はどちらでもないので、儀礼的関心と儀礼的無関心の間で悩んでしまうことになる。

さて、こういう文脈で例に挙げていいものかどうか、ちょっと迷うのだが、あまり迷っていても仕方がないので、思い切って紹介してみよう。白黒学派(12/6付)から。

そういえば、遅くなりましたがカンタン系からlinkがはられていて驚きました。ありがとうございます。あっしの文章はちょっと固いと評判です。それと竹本健治と笠井潔はいつまでも古びないと個人的には思っています。あとカンタン系の名前の語源は式貴士の小説からと単純に思っていました。彼の小説ではその筋では伝説の「東城線見聞録」も捨てがたいですし、「スペース・エロス」にはびっくりしたような気がします。

私だったら「ありがとうございます」とは書かないだろうが、その後に続く文章は書いたかもしれない。好意的な文脈でリンクを張られたのでリンク返しをしたいが、単に張り返すだけだと"馴れ合い"の誹りを受けるので、何か関連した話題を探してそれに繋げていこう、と考えるわけだ。もちろん、私ならそう考えるだろうというだけで、蔓葉氏がそう考えて書いたと言いたいわけではない。

でもって、私はさらに考える。別の話題と関連づけたところで、読む人によってはアリバイ工作であることが見抜かれてしまうかもしれない。だから、相手からリンクされたという事は黙っておいて、相手方のサイトで興味を惹く文章を見かけたので紹介してみた、という形をとるべきだろうか、と。実際、どこかのサイトからリンクされているのを確認してから、しばらく当該サイトをチェックして、それとなく言及しても不自然と思われずにするような話題を見つけたら、それにかこつけてリンク返ししたこともある。さらに、その際に若干ネガティヴなコメントを付けておけば言うことはない。ここまで巧妙に隠蔽工作を行うと、まず誰にも気づかれないだろう。「馴れ合い? ああ、そう言えば私のサイトにリンクしていたんだ、この人。ふ〜ん、気づかなかったよ」と言ってとぼければそれ以上追及しようがない。完璧だ。

ただ、この戦略の難点はリンクした相手にも私の意図が伝わらないところにある。だが、そんな難点は儀礼的関心と儀礼的無関心を調停するという至上課題の前では大したことではない。

ところで、豆腐練魔は食べ物を粗末に扱い過ぎているのではないか。鳴魔巣には近寄りたくないものだ。

さて、一つ前の段落はなかったことにして、上の引用文のリンク先であるカンタン系[改訂復刻版]を読む。何度か見たことはあるが、常時巡回しているわけではないので、白黒学派へリンクした箇所(12/4付)以外の文章もこの機会に読んでみよう……と思ったら、12/6付で儀礼的無関心の話題に言及していた。儀礼的無関心反応リンク集には捕捉されていないので事前には読んでいなかったのだが、でも、僕はこの話がとてつもなく退屈。と言いつつこの話題にコメントしているのが、私の要するに私は儀礼的無関心には関心がない。というポーズに似ていて、一瞬「しまった!」と思った。先に読んでいれば、あんな事書かなかったのに……。


もはや後の祭りのような気もするが、『葉桜の季節に君を想うということ』(歌野晶午/文藝春秋)を読むことにした。ところが近所の本屋にはこの本が置いていない。同じ「本格ミステリ・マスターズ」から出た『神のロジック、人間のマジック』(西澤保彦)はあったので、たまたま品切れだっただけだろうと思うが。

そういえば、後輩が前に『葉桜』を読んだと言っていたから貸してもらおう。そう考えて後輩に電話したら「『葉桜』は手許にはありません」と言われてしまった。他人にずっと貸したままになっているのだという。

「では、『葉桜』を貸した相手に早く返すように督促してよ」

「わかりました。4月に貸したままになっている『葉桜』を早く返して下さい。ほら、督促しましたよ」

「……」

そういうわけで、『葉桜の季節に君を想うということ』はまだ私の家にあるのです。すっかり忘れていたよ。

1.10861(2003/12/08) そういえば、もうコミケカタログが出ているそうだけど……

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年の瀬という雰囲気は全然ない。年々季節感がなくなっていくなぁ。

今年も知人のサークルで売り子をする予定だが、某観察スレ376で書かれているように、私にあいたいという理由だけで尋ねてくのは勘弁してほしい。自分のサークルではないので。

まあ、そんな人はいないとは思うけど。

しかし、観察スレオフって実現するんだろうか。ほんとにやるなら名前を隠して参加してみようか?

1.10862(2003/12/08) 無題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031208b

論理的に考えるというのは難しいことだ。理詰めで慎重に一歩一歩確かめながら考えているつもりでも、落とし穴はどこにでもあり、それらすべてを避けるのは至難の業だ。

では、逆に非論理的に考えるというのはどうだろう? それはたやすい事なのか? そうではあるまい。論理的に考えることの困難とは全く次元の違う事情により、人はそもそも非論理的に考えることが不可能だ。論理的な考えから外れたとき、人は単に考えていないのであって、非論理的に考えているというわけではない。

ここで私が言っていることがわからない人は、自分で考えるということについて考えてみればよい。自分で考えるというのは難しいことだ。知らず知らずのうちに他人の考えに流されてしまい、それがあたかもずっと前から自分の考えであったかのように錯覚するのはよくあることだ。だが、だからと言って、そのとき他人で考えているというわけではない。

人はそもそも他人で考えることが不可能だ。なぜなら、「他人で考える」という言い回しがナンセンスだからだ。同様に「非論理的に考える」という言い回しも実はナンセンスだ、というのが私の主張だ。

「P」がナンセンスな表現ならば「Pは不可能だ」という文もナンセンスとなり、真でも偽でもないことになる。先の段落で私が主張に成功しているのなら、それは真か偽かどちらかであるだろうし、そうするとそれはナンセンスではない。よって、「非論理的に考える」という言い回しが不可能であるという根拠に基づいて非論理的に考えることが不可能であると結論づける私の戦略は失敗している。

結局、この試みは冒頭の一文を裏づけるものにしかなっていない。やはり、論理的に考えるというのは難しい。

1.10863(2003/12/09) 人権と尊厳

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031209a

ちょっと微妙な問題を含む話題なのでどうしようか迷ったのだが、先日から引っかかっていたことを確認する意味も込めて取り上げることにする。

講談社に厳重抗議…外務省、遺体写真掲載でという記事によれば、イラクで殺害された二人の外交官の遺体写真を「週刊現代」で掲載したことに対して、川口外務大臣が講談社に抗議したそうだ。

遺体写真の掲載の是非についてはさまざまな意見があるだろう。その点について私は何とも判断しかねる。ただ、2人の人権を踏みにじり遺族の気持ちを全く考慮しない許し難い行為だという報道官の発言には疑問を抱いた。

二人の外交官はもはや生きてはいない。死者には人権はない。

もちろん、相手が人権のない死者だから何をやっても許されると言いたいわけではない。死者の尊厳への配慮は必要だ。今回の事例では遺族がいるので、あえて死者の尊厳まで持ち出す必要はないかもしれないが、仮に殺されたのが家族も縁者も全くない人だったとしても、やはり死者の尊厳は尊重されるべきだ。

「尊厳」という言葉はいかめしく、古くさい。尊厳という観念は現代ではもはや廃れつつあるのかもしれない。だが、尊厳は常に人権により代替可能というわけではないだろう。

ところで、私が参照した記事が本当に報道官の発言そのままかどうかはわからない。愛・蔵太氏がしばしば力説しているように、マスメディアの報道を鵜呑みにしてはいけない。今の例では意図的に発言を歪曲する動機は乏しいように思われるが、それでも発言をまとめて文章化する際に文言に異同が生じた可能性までは否定できない。私は報道官を批判する意図でこの文章を書いたのではない(だから個人名は挙げていない)ので、同じ発言を扱った他の記事やテレビのニュースなどを参照しなかったことを念のため申し添えておく。

先日の二階級特進と今日の話題はどちらもについて考えるためのメモである。これは当サイト開設時以来のテーマなのだが、なかなか前進しないのが悩みの種だ。まとまった意見に達するのが先か、死ぬのが先か?

1.10864(2003/12/09) 寒くて眠くて気分が悪い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031209b

『オーデュボンの祈り』(伊坂幸太郎/新潮文庫)を読んだ。最近あちこちで名前をよく目にする人で、『重力ピエロ』とか『陽気なギャングが地球を回す』とか読んでみようかどうしようかと思っていたところにデビュー作が文庫落ちしたので、試しに読んでみたわけだ。

面白かったかどうかといえば、まあ面白かった部類に入るだろう。もし評判を全然知らずに読んだなら、もっと面白かったかもしれない。だが、事前情報のせいで少し期待しすぎていたせいか、やや拍子抜けしてしまった。

なるほど、一見したところばらばらのエピソードが収まるべき所に収まって一定の図柄が見えてくるという趣向は面白い。だが、がんじがらめの制約のもとで複雑な形のピースをはめ込んだという凄さは感じなかった。この世界設定ならどうとでもなるだろう、と思ってしまうのだ。ミステリとして評価するなら、中くらいという程度か。

同時代ゲーム(12/4付)によれば、この作品は文体にしても構成にしても村上春樹の影響がかなり大きいそうだ。私はずっと昔に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を途中で投げ出したことがあるだけで、ほかに村上春樹の小説は全く読んだことがないので、影響の有無などわからないが、微妙な言い回しや比喩がいちいち引っかかるのは読んでいて具合が悪い。という感想には素直に同感できる。さらに言えば、私にはこの小説の随所に見られる"気のきいた洒落た会話"が気持ち悪かった。

あと、江戸時代の武士が自分の父親のことを「彼」とは呼ばないだろう(159ページ)とか、外界との交流がない島にアスファルト製造プラントがあるのだろうか(171ページ)とか、ツッコミを入れたい点が多かった。奇妙な人物を内包した奇妙な世界を描いているように見えて、実は作者の身近な現実にべったりと寄りかかっているのではないか? SF畑の人ならこの小説をどう評価するのか、ちょっと興味がある。

感想を詳しく述べようとすればするほど悪口に流れてしまうのが私の悪い癖だ。このまま書き続けたら、そのうち驚天動地の大愚作だと言ってしまいかねない。この辺で終わりにしておこう。

1.10865(2003/12/10) 正誤訂正ほか

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312a.html#p031210a

昨日の夜の文章で『オーデュボンの祈り』を『オーデュンの祈り』と誤記していたことに気づいたので、こっそり訂正した。


昨日の朝の文章で言及した外務省報道官の発言が、外務省公式サイトに掲載されていることを愛・蔵太氏に掲示板で教えていただいた。やはり「人権」という言葉を使っていたようだ。

この件に関して、赤尾晃一の知的排泄物処理場(わかば日記)から12/8付の記事の一部を引用しておこう。

一般論として,死者に人権はない。二人の外交官は公人であり,公務中の死亡であり,死因(銃弾の種別)については議論が渦巻いている。遺体写真掲載に公益性を認めた媒体の判断は尊重されるべきだ。

耐え難い苦痛を感じた遺族,著作権侵害を看過しえないロイターだけが異議を申し立てできるわけで,外務省・法務省・総務省が回収・削除を申し入れるのは言論の自由に対する挑戦である。

雑誌への遺体写真掲載の是非について私が判断しかねるのは前に書いたとおりだが、遺体写真掲載への異議申し立ての是非という観点から考えれば、確かに政府が口出しするのはおかしな話だ。なるほど。


恒星日記(12/7付)と杉江松恋は反省しる!(12/9付)を比べてみると、同じ事象を指して前者は「ネタバレ」、後者は「ネタばらし」と表現している。

以前も書いたことがあると思うが、昔はミステリ関係では「ネタバレ」という言葉は使わなかったはずだ。ネットを中心に次第に浸透して、今では紙媒体でもごく普通に使われるようになったが、ばれるのとばらすのとでは重みが違う。少なくとも批判的な文脈では「ネタばらし」のほうが適切な気がする。


aozora blog: 100円ショップの青空文庫(情報もと:闇黒日記)によれば、青空文庫のテキストを利用した本がダイソーで売られているそうだ。

さて、これが出版業界を揺るがす動きの始まりになるのか、それとも立ち消えになるのか、あるいは棲み分けができるのか? ちょっと興味がある。