【日々の憂鬱】「いかがなものか」を連発するのはいかがなものか。【2003年10月上旬】


1.10797(2003/10/01) 「たそがれSpringPoint」正式公開2周年

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だが、何も企画などない。私は憔悴しきっている。

全然関係ないが、今日、関西文化の日という企画があることを知った。博物館や美術館の常設展の入場料が無料になるそうだ。

私は、たいてい特別展にあわせて博物館に行くので、常設展だけ見ることはほとんどない。ぐるっとパスは気になっているのだが、わざわざ東京まで行って常設展だけ見るのもどうかと思うので、まだ買っていない。おお、来年2月末までだ。どうしよう。

関西文化の日のほうは完全無料だし、東京に比べれば近いので、常設展だけでも見に行く価値があるかもしれない。ちょうどスルッとKANSAI 3dayチケット(季節限定版)の期間中なので、この機会に関西の博物館・美術館巡りでもしてみようか。

ところで、関西2府7県(福井県、三重県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県および徳島県)というのはいかがなものか。

1.10798(2003/10/02) 残業疲れ

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どうも頭がうまく働かない。

JR山陰を高速ネット 米子駅で完成記念式(情報もと:重楼疏堂〜城郭と旅と日々のおぼえがき〜)という記事を読んでいたら、特急通過駅のレールを片側直線方式にしたり、高速でカーブが曲がれるように傾斜を改良した。という一文がちょっと引っかかった。文中の「片側直線方式」というのは、確か別の言い方があったはずだが、それが思い出せなくて、頭を抱えた。

しばらく経って、ようやく「一線スルー方式」という言葉を思い出した。思い出してみると何ということはないのだが。

ところで、「片側直線方式」という言葉は初めて目にしたのだが、本当にこんな用語があるのだろうか?


今日、白黒学派を読んでいて、何の拍子にか突然気づいたこと。蔓葉氏は「電脳」という言葉をインターネットの意味で用いているらしい。今日の今日まで気づかなかったのは迂闊だった。


少し前のことになるが、砂色の世界・日記(9/27付)の未来を予測する機械に関する文章を読んだ。議論そのものがかなり錯綜している上に、文章の書き方があまり読者に親切なものとはいえない(たとえば、おそらく間違っている物の、それ以下ではありえないという意味で敢えて提示するならばという挿入句は、いったいどういう意味なのか私にはわからなかった)が、発想は面白い。頭の調子がまともなときに検討してみたい。その時のために、今思いついた疑問を書きとめておくことにしよう。

「未来を弾き出す」とはいったいどういうことか? 機械にディスプレイがついていて、そこに未来の情景が映し出されるということか? それとも言語的記述を行っているのだろうか? それとも、全く別の種類の事柄なのだろうか?


一昨日の帰りに道を走る狸を見かけた。今朝、その付近で車に轢かれた狸の死骸を見かけた。あれは一昨日見た狸だったのだろうか?

1.10799(2003/10/03) 今日も不調

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今週は体の調子も頭の調子も低くて、もしかしたら乗り切れないかもしれないと思った。そんな具合なので、何も書く気がしないのだが、「何も書く気がしない」とだけ書くのは気がひけるし、「『何も書く気がしない』とだけ書くのは気がひける」と書いても大きな違いはない。

そこで、ここの真似をしてみようと思う。


楽しくて夜の公園に行った。木陰のベンチでカップルが乳繰りあっていた。「乳繰る」というのはほとんど死語だが、気にしてはいけない。黙ってこっそり覗いていたが、ばれてしまって凄い形相でにらまれた。逃げ帰った。翌日、公園の脇を通ると、まだ乳繰りあっていた。

嬉しくて夜の公園に行った。流しのヴァイオリン弾きがテレマンの無伴奏幻想曲を弾いていた。しばらくその演奏を聴いていたが、そろそろ潮時だと思った。逃げ帰った。翌日、公園の脇を通ると、昨夜ヴァイオリン弾きがいた場所にテレマンの銅像があた。だが、悲しいかな、公園を散歩する人々は誰もテレマンを知らないのだった。

愛おしくて夜の公園に行った。予め用意しておいたボートに、気絶させた男を乗せて、逃げられないようにロープで縛った。そしてボートの底に小さな穴を開けた。犬にほえられた。逃げ帰った。翌日、公園の脇を通ると、犬はいなかったので、池に近寄った。男は溺死していた。ボートを引き上げて処分し、男が池に誤って落ちて死んだかのように偽装した。死亡推定時刻にはアリバイがあるので、疑われることはないだろう。

美しくて夜の公園に行った。まだ夜になっていなかった。出直すことにしたほうがいい。逃げ帰った。翌日、公園の脇を通ると、まだ翌日になっていなかった。やっぱり出直したほうがよさそうだ。

甲斐甲斐しくて夜の公園に行った。あれは忘れもしない昭和12年のことだ。当時の日本にはまだ携帯電話という便利なものはなく、公衆電話すら都会のごく一部の街角に設置されているだけだった。もちろんインターネットなどというのは夢物語に過ぎなかった。しかし、戦前日本の技術力をなめてはいけない。既にテレビジョンの開発は進んでいたし、真空管を用いたコンピュータすら試作されていたのである。逃げ帰った。翌日、公園の脇を通りかかると、やはり携帯電話は発明されていなかったが、もはや昭和12年ではなかった。さて、ここで問題です。夜の公園に行ったのは何月何日のことだったでしょう?

人恋しくて夜の公園に行った。かつて恋人たちは木陰のベンチで乳繰りあっていた。流しのヴァイオリン弾きもいた。池のボートを使ってアリバイ工作する者もいた。昼夜の感覚を見失った人や、大晦日と元旦に続けて公園に行く人もいた。だが、いまや誰も公園にはいない。少子化が想像を絶する速度で進んだせいだ。逃げ帰った。翌日、公園の脇を通ると、近所に住む老人が散歩していた。その老人はこの街の最後の生き残りだ。


私にはこの種の文章は向いていないことがよくわかった。

1.10800(2003/10/04) 「言葉の暴力」という言葉

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私は「言葉の暴力」という言葉が嫌いだ。どうして嫌いかといえば、中学生の頃の忌まわしい記憶が蘇るからである。当時の私は今と同じくらい軽率で無神経な人間だったので、しばしば失言してトラブルを起こすことがあった。そんな時に担任の教師はいつも「それは言葉の暴力だ」と言って、私を他の生徒の前で詰るのだった。私の失言のせいで他人を不愉快にさせたのだから仕方がない、と思って我慢しても、さんざん暴力を振るわれるのはたまらなかった。むろん、それは"言葉の暴力"ではなく、殴る蹴るという類の本当の暴力だった。

その頃の記憶が強いため、私は今でも「言葉の暴力」という言葉を見聞きすると冷静ではいられない。とはいえ、完全に我を失ってしまうほどでもないので、ここでは表面上冷静なふりをして、この言葉について考えてみることにしよう。

先にも述べたように、本当の暴力とは、他人を殴ったり蹴ったりすることだ。「言葉の暴力」というのは比喩的表現である。話し手が行った発言を聞き手が聞くことによって、聞き手に悲しみや憤りを引き起こすことを、暴力の構図(加害者が被害者に対して暴力を振るい、その結果、被害者が怪我をしたり苦痛を味わったりする)になぞらえたものだ。物理的な力の行使と言語を用いた意思疎通の間には、さまざまな差異があるため、この類比はどうしても不完全なものになることは、言うまでもない。

だが、この類比が不完全だからといって、そのことを問題視しようというのではない。そもそも物の喩えというのは概して不完全なもので、喩える事柄と喩えられる事柄の間に完全な構図の一致が成立することはむしろ稀だ。そのことさえきちんと理解していれば、ふつうは問題にはならない。

私が疑問に思うのは、「言葉の暴力」という言葉は、暴力とのアナロジーが見取りやすい場合にはあまり用いられず、むしろ暴力に喩えることに無理がある事例にこそ多用されるということだ。話し手の、聞き手を侮辱したり不快にさせたりする意図があからさまな場合、「暴言」という言葉でそれを評する。「言葉の暴力」という言葉が用いられるのは、むしろ、話し手の意図が明確でない場合、単なる失言であることが明らかな場合などである。

私は、暴言と"言葉の暴力"の違いを次のように考えている。ある発言が暴言であるかどうかは、その発言を取り巻く社会的文脈によって決まるが、それが"言葉の暴力"であるかどうかは、聞き手の心理的状態によって決まる。暴言に対して暴言で応酬することはあるが、"言葉の暴力"を受けた側が何を言っても"言葉の暴力"には当たらない。

話が抽象的になってしまった。本当は具体例を挙げたいところだが、これはなかなか難しい。暴力を言葉で描写しても、その言葉自体が暴力行為になるわけではないが、暴言ないし"言葉の暴力"を言葉で描写すると、その言葉自体が暴言ないし"言葉の暴力"だと見なされる恐れがあるからだ。言葉によって言葉について語るのは大変だ。例によって、私はこの文章でも二種類の引用符(「」と"")を使い分けたが、その意を汲んでくれた人がどれくらいいるだろうか?

1.10801(2003/10/05) 本と銭

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「借金は身を滅ぼす」(情報もと:UP↑DOWN↓)を読んだ。鬱になった。私はギャンブルはやらないし、今のところ借金はないが、なぜか他人事とは思えない。というのは、積ん読本に関する私の態度が、この文章の筆者と非常によく似ているからだ。

今、私の部屋にはたくさんの未読本が積み上げられている。全部で何冊なのかはわからない。怖くて数える気にもならない。でも大丈夫。毎日こつこつ一冊ずつ本を読んでいけば、そのうち何とかなるだろう。本はひとりでに増殖するものではないのだから。そう、これ以上買わなければいいだけなのだ。しかし……ああ、何ということだ! また本を買ってしまったじゃないか。こんなに買い込んでしまって、いつになったら読めるのだろう。大変だ。いやいや、大丈夫大丈夫。明日から心を入れ替えて消化していけばいい。

世の中には、本を大量に買い込んで積ん読状態になっていることを全く恥じることなく、むしろそれを誇るような言動をとっている人もいる。そんな人に向かって「積ん読は多重債務みたいなものだ」などと言っても仕方ないし、別に喧嘩を売るつもりもない。ただ、私自身は、未読本を大量に抱えていることを疚しく思っている。それなのに、毎日のように本屋に出かけては新刊を買ってくる(さすがに古本屋通いはやめた)。「わかっちゃいるけどやめられない」という状態だ。この意志の弱さはなんとかならないものか。


毎日このサイトを閲覧している奇特な方ならご存じのことだと思うが、最近私は調子が悪い。どのくらい調子が悪いかというと、『銭』(1)(鈴木みそ/エンターブレイン)を読んで思わず涙をこぼしたほどだ。鈴木みそで泣くなんて……どうかしているとしか言いようがない。

ちなみに私が泣いたのは、「続々・アニメの値段」の98ページあたりから。

アニメ業界の劣悪な賃金実態はよく知られている。いや、知らない人は知らないかもしれない。これがアニメ業界の真実だ! (情報もと:A@)5/8付「足りないアニメーターを養成するには? 」を参照のこと。


なんとなく『路面電車ルネッサンス』(宇都宮浄人/新潮選書)を読んだ。ヨーロッパやアメリカでは、一旦廃止した路面電車が復活したり、新規に軌道を敷設したりする例が増えているが、日本ではまだまだその機運が高まっているとはいえない。これからの時代、日本の鉄ヲタにとって希望を持てることってLRTしかないんじゃないかという気がします。「富山に住む叔父の中島さんが危篤のためV林田日記が早退いたしました」10/3付「鉄道の時代は終わった」から)という意見もあるが、まだまだLRT(Light Rail Transit)の時代は遠い。頑張れ! 宇都宮市長

ところで、V林田氏の名前から連想したのだが、路面電車はハヤシライスに似ているように思う。ハヤシライスは一時期、野暮ったい、古くさい、カレーライスのまがい物、などといった負のイメージが強くて廃れていたが、その後、「ハッシュドビーフ」と名前をかえて復活した。生まれてから一度もハヤシライスを食べたことがない世代の人々にはこの料理への負のイメージもないので、仕掛けがうまくいったのだそうだ。日本の路面電車の多くは30年以上前に廃止されていて、それ以降の世代だと路面電車に乗ったことがない人のほうが多いだろう。果たしてLRTは第二のハッシュドビーフになるや否や?

1.10802(2003/10/05) 処女航海は1日5回

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箱根登山鉄道株式会社との路線バス事業の統合についてのご案内東海バスグループ 路線バス運行案内サービス)を読んだ。10/1(といっても去年のことだが)に伊豆東海バスが箱根登山鉄道のバス路線の譲渡を受けて営業開始したことに伴う案内文だ。全車両で傘の販売を行います。1本500円。急な雨でも安心です。と書かれていた。傘の絵がキュートだ。

どうでもいいことなのだが、どうもこのページは私のサイトとレイアウトが似ているような気がする。で、ソースを覗いてみると、見出しはきちんとhx、強調はem及びstrongでマークアップされていた。brなんか一つも使っていないし、ヘッダには文字コードセットの指定より前にascii以外の文字列は配置できないとかタイトル要素[必須]ヘッダ内に配置とか書かれている。非常にきまじめなページだと思った。おお、HTML4.01strictだ! 見かけは似ていても、私のサイトのぐちゃぐちゃな作りとは天と地ほども違っている。反省しなければ。

で、なんでこんなページに言及したのだろう?


光文社文庫版江戸川乱歩全集を全巻読もうと決意したのはいいが、まだ『黄金仮面』の途中で止まっている。冒頭に収録された『何者』の感想だけでも先に書いておこう、と思っているうちに、ずるずると日は流れ、10月になってしまった。今月もまた一冊出るはずだ。早く読まなければ。

あまり喩えとしては適切ではないのだけれども、なんとなく借金返済のために借金をしているような、焦燥感と疲労がある。他人がすらすらと本を読んで感想をアップしているのを見ると、焦りは一層増す。創元推理文庫版で読んでいる人春陽文庫版で読んでいる人には何とも思わないのだが、特に全巻読破宣言をしているわけでもないのに着々と感想をアップしている人を見ると、自分の不甲斐なさ、だらしなさに自責の念を禁じ得ない。誰に強制されたわけでもなく、惰性で義務化したわけでもなく、最初から自分の意志で始めたことなのに、どうしてこれほど重荷に感じられるのだろうか?

いっそ何もかも振り捨てて、伊豆東海バスに乗って逃げ出したいほどだ。雨の日でも安心だし。


「ゲーデル問題」もそうだが、私は「パフォーマティヴ」なる用語が勝手に一人歩きしていることが気になる。『郵便的不安たち#』(東浩紀/朝日文庫)によれば

読まれた方だったらお分かりですが、僕は『存在論的、郵便的』のなかで「コンスタティヴ」と「パフォーマティブ」という二つの概念を何度も使っています。それらはもともとイギリスの言語行為論が用いる概念なんですが、僕はそれをさらに、アメリカの文学者ポール・ド・マンが読み換えた意味で使っています。

と、いちおう断りを入れている。だが、ネット上でオタクとかサブカルについて語っている人々はどうだろうか? 東浩紀的用法が標準だと考えているのではないか?

今さら「オースティンに還れ!」と言っても詮ないが、どうにも居心地の悪いことではある。


明日から残業続きになる見込み。三連休に疲れを持ち越さないため、ネット巡回はほどほどにしておくことにしようと思う。このサイトの更新も休みがちになるはずだ。


銀行は株式会社なのに、どうして一番偉い人は社長でも代表取締役でもなく頭取なのだろう?


『東京ディズニーシーハンディガイド』〔第2版〕(講談社)を読んだとき、次の一節が気にかかった。

ポートディスカバリーのマリーナと東京湾は、たった一枚の水門で隔たれている。水門の隙間からは、なんと東京湾の水が流れ込んでいるよう。

なんで気にかかったのか、自分でもすぐにはわからなかった。ディズニーシーと東京湾の間にはモノレールと道路が走っているから、「たった一枚の水門で……」というのはもちろん嘘だが、そんな事は問題ではない。ディズニーシーは虚構世界を具現化したものなのだから、ガイド本の中で「AはBである」と書かれていれば、それは「(この虚構内では)AはBである(という設定になっている)」と読まれるべきなのだ。

しばらく経って、違和感の正体がようやくわかった。虚構内に架空の東京湾を持ち出すには、現実の東京湾はあまりにも近すぎる。20世紀初頭のアメリカなら架空のものだと受け入れることができても、東京湾を受け入れることは難しい。

同じ違和感を別のところで味わったことがある。『ミステリ・オペラ』を読んだときだ。小城魚太郎という探偵作家が登場する小説の中に小栗虫太郎への言及があったのが気になったのだ。夢野久作なら構わない。だが、小栗虫太郎はあまりにも近すぎる。


誰でも背伸びしたい時期がある。そのうちに、背伸びをした自分の姿がいかに滑稽だったかを知り、赤面する。背伸びをやめて足を地に着けて生きていくうちに腰が曲がり、背伸びをしたくてもできないようになってしまう。


ずっと『アガスティアを吹く冷たい風』というタイトルだと思っていた本が、実は『アデスタを吹く冷たい風』だと知ったときの衝撃を、私は一生忘れることはないだろう。その時、私は確かに理性のゆらぎを感じた。

そういえば、私は今年に入ってからまだ一冊しか海外ミステリを読んでいないことに気づいた。そのことは別に衝撃ではないのだが、読んだのがポール・アルテだというのは何だか寂しい。


今日もgoogleで「滅」1字で検索して、「たそがれSpringPoint」が最上位であることを確認し、ほっとした。寄る辺ない人は、こんな下らないことでも拠り所にしないと生きていけない。

もっとも、これが全く下らないかといえば、そういうわけでもなくて、当サイトを知らない人に説明するときに「googleで検索すれば一発」と言えば済むのは便利だ。いや、それだけではない。実は私自身、このサイトのURIを覚えていないのだ。プロバイダに割り当てられた領域の名前がhp10203249などという非常に覚えにくいもので、最初のうちは語呂合わせで何とかならないものかと思っていたが、何ともならなかった。ふつう人が丸暗記できる意味のない数は7桁までというから、8桁並んだ数字を覚えられなくても仕方がないのだ。うん。


今日、気に入った言葉。コンバンハチキンカレーヨ再10/5付「21 『脳男』というものを読んでみる。」から。

江戸川乱歩賞という存在が僕にとっては、小さいものでしかない。しかしながら、メフィストという存在は僕の土台であったり、僕がミステリを語る場合では欠かせない存在だったりする。だから『メフィストかよ』と馬鹿にされるのは、結構辛い。そういう世代が登場しているというのを忘れないで欲しい。次は、何が出るか創造者以外分からない。

何が出るかわからないということ、そのこと自体には私はもう関心を持てなくなっている。新しい感性よりも、落ち着いた熟練の技を楽しみたいという嗜好のほうが強まっているからだ。だから、時にはメフィスト賞作家の作品を馬鹿にすることもある(「馬鹿にしてばかりでは?」と言われるかもしれないが、そんなことはないはず。私は西尾維新を結構高く評価しているつもりだ)。

他方、江戸川乱歩賞はどうかといえば、これはもう全然読む気にならない。たぶん平成に入ってからの受賞作は一冊も読んでいないはずだ。ということは、私にとっても乱歩賞よりメフィスト賞の占める位置は大きいということになるのだろう。

もっとも、私の場合、メフィスト賞はミステリとしてよりライトノベルとして読むことが多いような……。

1.10803(2003/10/06) げーでる

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メモ:柄谷行人vs.ダグラス・ホフスタッター

『ゲーデル・エッシャー・バッハ』は私の青春のバイブル(の一冊)だった。金がなくて買えなかったから、図書館から借り出して読んだ。一度で読み切れず、何度も更新したことを思い出す。あんな重い本をよく持ち歩けたものだ。

柄谷行人が何を言おうが知ったことではないが、尻馬に乗ってミステリの分野で「ゲーデル問題」を云々する人々には猛省を促したい。

1.10804(2003/10/06) 赤い拇指紋

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資産家で美術品愛好家としても知られた大河内伯爵が、ある夜自室で惨殺され、国宝級の名画が何点も盗まれた。早速、警視庁捜査一課の並腰警部が現場に赴き、検証を行った。すると、犯行現場の白い壁に血染めの指紋が付着していることが判明した。犯人は、伯爵殺害後、現場を立ち去る際に、誤って血に濡れた手で壁に触れてしまったものと思われる。幸い、右手親指の指紋が明瞭に残っていたので、そこから一人の人物の存在が浮かび上がった。大江春泥である。

「成る程、大江春泥か。確か彼奴は半年前に出獄していたはずだ。さすがの大怪盗も現場に指紋を遺すとは、焼きが回ったものだ。おい、すぐに春泥の居所を探して、しょっぴいてこい!」

並腰警部の命を受けた警視庁きっての邏卒たちは大江春泥のアジトを急襲し、見事捕縛に成功した。これで事件は解決したも同然だ、と並腰警部は安堵した。

だが、しかし――。

「フフフ、並腰君。君は大江春泥が本当に大河内伯爵殺しの犯人だと思っているのかね」

おお、そこに現れたのは天下の名探偵、空地古語老ではないか! 並腰警部は一瞬ひるんだ。が、すぐに反論する。

「ハハハ、いくら空地さんでも、この動かぬ証拠を無視するわけにはいかないでしょう。この指紋は三年前に大江春泥が逮捕された時に採取したものと完全に一致しているんですから、他に犯人がいようはずがありません」

「しかし、その指紋が狡知にたけた犯人がわざと遺した偽の証拠ではないという確証はどこにあるのだい?」

ああ、名探偵空地は一体何を言おうとしているのか。もしや、かの有名なゲーデル問題を引き合いに出そうとしているのではあるまいか。

「並腰君、身給え。あの壁に付けられた血染めの指紋は床からおよそ五尺六寸のところにある。ところで、釈放時の大江春泥の身長はわずか四尺八寸だ。一体、彼はこの半年の間にニョキニョキと身長が伸びたというのかね?」

さすがは名探偵。いつも懐に忍ばせている探偵七つ道具の一つ、巻き尺を用いて何やら調べ事をしていると見えたはこういうことだったか。並腰警部はぐうの音も出ない。

と、そのとき、鑑識課員の一人が「警部!」と叫びながら駆け込んできた。「大変です。壁に付着した血を分析したところ、大河内伯爵の血液型と一致しませんでした」

「なな、なんと!」

鑑識課員の話によれば、殺害された大河内伯爵の血液型はA型なのに、壁の血の血液型はB型だったという。では、一体、あれは誰の血なのか?

「あれは人間の血ではありません。おそらくゴリラの血ではないかと……」

愕然とする警部。そこに追い打ちをかけるように、刑事の一人がこっそりささやいた。「警部、春泥は監獄に収監中、厳しい寒さのため凍傷にかかり、右手親指を根元から切断していることが判明しました」

ああ、何たることだ。血染めの指紋が動かぬ証拠だと思われたのはわずか数分前のこと、それが今や大江春泥の無実を証拠立てるものに変貌しようとは。並腰警部は嘆き、悲しんだ。

すると、そこに大江春泥の取調べにあたっていた係官がやって来た。「警部、とうとう春泥が泥を吐きました」

「なな、なんと!」と思わず叫んだのは、今度は警部ばかりではなかった。隣の名探偵空地古語老もぽかんと口を開いている。

「春泥の野郎、自分の指紋のスタンプを拵えてやがったんで。わざわざゴリラの血を擦り付けて、あまつさえ植木鉢を土台にして自らの身長より高いところに偽の指紋を付けて、捜査を攪乱しようと図ったんでさ。だが、肝心のお宝を隠しておかなかったのが杜撰でやした。アジトを探って盗まれた絵画を見つけ、春泥の野郎に突き詰めたら、これ以上シラは切れぬとみて、一切合切自白しました」

こうして事件はめでたく解決した。一件落着。

1.10805(2003/10/07) 三宮〜奈良間などとケチなこと言わずに、アーバンライナーを姫路へ乗り入れさせろ!

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神戸−難波−奈良が直結 阪神西大阪線延伸で起工式 (情報もと:カトゆー家断絶

長年、「阪神の次の優勝と西大阪線の開通のどちらが先か?」などと揶揄されてきたが、阪神優勝の年に起工するというのも何かの縁か。これをきっかけにJRも東西線経由で神戸と奈良を直通する電車を走らせて競争すれば面白いのだが。

もう一つ、カトゆー家断絶経由で、あなたも3分でミステリ通になれる(仮) 。いや、別に大した意味があるわけではないのだが、何となくリンク。


同時代ゲーム(10/6付)で私が昨日書いた文章に対して、次のようにコメントされている。

余談だが、「柄谷行人が何を言おうが知ったことではないが」という物言いに対しては、「あなたが何を言おうがこっちだって知ったこっちゃない」と言い得るのだから、未来ある若人はいちいち猛省などせず勝手に突っ走れば良いのである。というより、猛省する暇があったら、MAQさんのようにもっと建設的なことをした方がよい。

建設的なことがそんなにいいことなのだろうか? 建設的なことをやり続けた人の末路はこんなものだ。どうでもいいが、この騒動を毎日新聞は"政"vs."官"と捉え、読売新聞は"改革派"vs."守旧派"と捉えていて興味深かった。朝日と産経は読んでいないが、どういった論調だったのだろうか? ちなみに私は、"ホワイトカラー"vs."メタルカラー"の抗争だと思っている。

閑話休題。私が柄谷行人が何を言おうが知ったことではないが、尻馬に乗ってミステリの分野で「ゲーデル問題」を云々する人々には猛省を促したい。と書いたのは、ミステリ批評における"ゲーデル問題"の問題を取り扱う際に、いちいち柄谷行人の文章に当たるのが面倒だったからで、他意はない。ついでにいうと、MAQ氏を標的にしていたわけでもない。ミステリで探偵役が行う推理を安直に数論の公理系における定理の証明になぞらえて、そのアナロジーの限界を弁えずに無茶な結論を引き出すような一部の評論家を念頭においてのことだ。MAQ氏の場合、「ゲーデル問題」という言葉は用いても、別に不完全性定理を援用した議論を展開しているわけではない。同様に、同時代ゲームで引用されている「ゲーデル問題」の4つの使用例がミステリ批評に大きな問題をもたらすことはないと思われる。

ところで、昨日私はいわゆる"ゲーデル問題"を具体例で解説しようと思い、変な文章を書いてみたが、解説に取りかかる前に眠たくなり、放置したままになっている。今日はいよいよその続きを書こうと思っていたのだが、江戸川乱歩全集の今月の新刊が既に出ていることを知ってショックを受けたので、今日はここで打ち切って、『黄金仮面』の消化に励むことにする。

1.10806(2003/10/10) 『何者』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310a.html#p031010a

光文社文庫版江戸川乱歩全集第7巻『黄金仮面』所収の『何者』を読んだ感想。

これはあまり乱歩らしくない小説だ。併録されている本人のあとがきでは私の体臭のない作品と書かれている。乱歩の体臭が強烈に漂う『大暗室』の次に読んだので、私にはいい気分転換になってよかったが、乱歩ファンにはあまり受けはよくないだろう。

『何者』はほぼ純然たる謎解き小説だが、その観点から見れば、重要なデータが解決場面になって初めて出てくるという欠点が大きい。犯行動機の工夫や二人の探偵役の心理的闘争など見るべき点は多いのだが、この欠点は如何ともしがたい。

昔私は『何者』をかなり高く買っていた(さすがに乱歩の全作品中ベストだとまでは思わなかったが)が、足跡テーマを扱った小説を嫌というほど読んだ後では、もはや感銘を受けることもない。その代わりに、ちょっと面白いと思ったのは、次の箇所だ。

彼等は内外の名探偵について論じあっているらしかった。ヴィドック以来の実際の探偵や、デュパン以来の小説上の探偵が話題に上った。又弘一君はそこにあった「明智小五郎探偵談」という書物を指して、この男はいやに理屈っぽいばかりだとけなした。赤井さんもしきりに同感していた。彼等はいずれ劣らぬ探偵通で、その方では非常に話が合うらしかった。

この書き方だと、明智小五郎が『何者』の世界で実在の探偵とみなされているのか、それとも小説上の探偵とみなされているのかがわからない。意図的にやったことなのかどうか、ちょっと気になるところだ。


『何者』のあと引き続いて表題作の『黄金仮面』を読み、今日読み終えたところだが、体調がすぐれず、あまり長文を書く気にならないので、今日のところは『何者』の感想のみ。