【日々の憂鬱】赤字続きの有料道路の無料開放はいかがなものか。【2003年9月中旬】


1.10785(2003/09/11) とりあえず

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0309b.html#p030911a

『猟奇の果』を読み終えた。感想は後日。

1.10786(2003/09/15) 聖地への巡礼の旅

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0309b.html#p030915a

偉大な鉄道紀行文学者にして、元鮎川哲也担当編集者でもあった故・宮脇俊三氏(本年2月26日逝去)が国鉄全線完乗を達成したのは足尾線間藤駅だった。足尾線は現在第三セクターのわたらせ渓谷鐵道として存続しているが、国鉄の赤字路線を引き継いだ第三セクター鉄道は概して経営状態がよくないもので、宮脇ファンの聖地間藤駅もいつ廃駅になってしまうかわからない。以前、重楼疏堂〜城郭と旅と日々のおぼえがき〜経由で上毛新聞の「わたらせ渓谷鉄道 基金が枯渇」という記事を読み、「鉄道のあるうちに、鉄道に乗って進め」というトルストイの有名な言葉(うろ覚えなので若干文言は違っているかもしれない)を実践すべく、このたびの三連休を利用して聖地巡礼の旅に出たわけである。今日はその旅行記を書くことにする。


高崎駅前バスターミナルにて

9/14(日)午前9時55分、私はJR高崎駅西口バスターミナルから伊香保温泉行きの群馬バスに乗った。予め時刻表と運賃は調べてあったが、鉄道に比べるとバスの情報はどうしても断片的なものになりがちなので、若干の不安がなかったといえば嘘になるといえば嘘になるかもしれないが嘘にはならないかもしれない。

目指すバス停は「上の原」というところだが、果たして本当に目的地最寄りバス停なのかもわからないし、バス停から目的地までの距離も不明だ。事前にウェブ上で調べた限りでは、ほとんどの人が自家用車を利用して目的地へ向かっている。唯一このページすず地獄より。今回この記事を書くにあたって同サイト内の別のページも閲覧してみたが、面白い記事がいくつもあった)で高崎線終点高崎駅から「伊香保」行きバスに揺られること1時間強。「おもちゃ博物館」前で下車と書かれているが、群馬バスには「おもちゃ博物館」などという停留所はない。いろいろ調べてみると、どうもこれはおもちゃと人形博物館のことらしいが、ここを見ても公共交通機関でのアクセス方法は記されていない。1日5往復の路線バスなど現代人にとってはもう走っていないも同然なのだろうか?

結局、ウェブ上では情報が入手できず、ガイドブックと道路地図で最寄りバス停を突き止めた。だが、もう一つの問題である、最寄りバス停から目的地まで徒歩でどれくらいかかるのか、ということは解らずじまい。先に見た記事では坂道を上る途中で空腹に耐えかね「はちみつうどん」(うまい!)を食べて身体を温め、歩くこと3分と書かれているが、「はちみつうどん」とやらの店までの所要時間がわからないのだ。

だが、机上で唸っていても仕方がない。いざとなったらタクシーもあるさ。あまり使いたくはないが……。ともあれ出発進行!


命と性 おもしろミュージアム

およそ1時間後、いよいよ目的地が近づいてきた。高まる期待にどきどきしながら窓の外を見ると……何やら非常に怪しげな看板が目に止まった。き、気になる。思わず停車ボタンを押しそうになってしまった。

だが。目的地はまだ先だ。一時の気の迷いで所期の目的を逸してはいけない。私はぐっとこらえた。

それから2つめのバス停が「上の原」停留所だった。事前の調査に誤りはなく、おもちゃと人形博物館のすぐ前。あとで時間に余裕があれば立ち寄ることにする。しかし今はまず目的地へ。

先ほどまで乗っていたバスが走り去った方向、すなわち伊香保温泉方面へと通じる道をてくてくと歩き始めた。上り坂なので、長く歩くことになると嫌だと思ったが、最初の緩やかなカーブを曲がったところで「はちみつうどん」の看板が見えた。「うどんぜんざい」に優るとも劣らぬいかがわしさが漂う名前だが、いったいどんなうどんなのだろうか? うどんの上にねっとり、どろ〜りとした蜂蜜がたっぷりかけられてているのだろうか? それともうどんつゆのかわりに蜂蜜が出てきて、ざるに盛られたうどんを摘んで蜂蜜にべっとりと浸して食するのか? き、気になる。思わず(以下略)。


珍宝館入口

「はちみつうどん」の店(山一屋という屋号だそうだ)を過ぎてさらに坂を上ること3分、いよいよ目的地であるべべ観音・珍宝館に到着した。ここは、ニッポンの歩き方で熱海秘宝館と並んでオススメ度100%と評価されている。また、当然のごとく『珍日本紀行』でも紹介されていた。ぜひ一度訪れてみたいと思っていたスポットである。

私が入館したとき、ちょうど若い男女の一群が先に入ったところで、館長兼万長(とチラシには書いてあった)のちん子さんの案内を聴くことができた。あちこちのサイトを見て予備知識を仕入れてはいたものの、実際にちん子さんのセクハラトークを聴くと感慨もひとしおで、「ああ、はるばると群馬に来てよかったなぁ」と思った。有難う、宮脇先生!

館内は撮影禁止ではなかったので、いっぱい写真を撮りまくったのだが、どれもこれも品性下劣過ぎて、格調高い当サイトの雰囲気にそぐわない。どうしても写真が見たい人は連絡してくれればお送りするが、それより『珍日本紀行』〔東日本編〕0260ページ〜0263ページを見るほうがいいだろう。とにかく、ここはお薦めだ。1人で行くとちょっと寂しい思いをすることになるかもしれないが、人間、こんな事にくじけてはいけない。カップル客を庭の池に蹴りこむくらいの意気込みがほしい。

えっ、私? 私はもちろん恋人と一緒に行きましたよ。本当だってば。「ひとり珍宝館に赴く滅・こぉるちん」などと書かないように!


ほどよく妄想気分を味わったところで現実に返ると、少しおなかが空いてきた。珍宝館の隣りには「夫婦石」という料理屋があるが、ここはやっぱり「はちみつうどん」だろう。というわけで、先ほど上ってきた坂を下り、山一屋に入った。

この「はちみつうどん」は、商標登録だか特許だかをとっているそうで、この店オリジナルらしい。予想していたような「蜂蜜ぶっかけ/蜂蜜つゆ」ではなく、うどんの麺の中に蜂蜜を練り込んでいるそうだ。蜂蜜の甘さや風味があまり感じられなかったので、ちょっとがっかりしたが、腰が強い美味しいうどんだった。麺類が好きな人なら食べて損はないと思う。店の前にはドラえもん(なぜかサッカーボールつき)とキティちゃんの石像があったが、諸般の事情により画像の公開は差し控えておく。

さらに坂を下っておもちゃと人形博物館へ。別に私は特におもちゃや人形に興味があるわけではないが、これもついでだ。なお、帰ってから『珍日本紀行』を繙くと、これも紹介されていた。もっとも、俗悪・軽薄と罵られてもやむを得ないような、ときには地元の人間でさえ存在を忘れてしまいたいスポットというより、ごく普通の健全で一般向けの観光地(ただし、「おもちゃと人形工場」の機械からにゅるにゅると産み出されるキューピー人形はちょっと悪趣味かも)だ。

これでもかこれでもかとばかりに様々なグッズを詰め込んでいて、"ぎっしり感"が好きな人(『珍日本紀行』で紹介された理由はこれだろう)にはたまらないスポットだが、私が特に気に入ったのは昭和30年代の街並みを再現したコーナーだ。同種の企画はあちこちにあって、大阪だと天保山とか北梅田にそういう場所があるが、こちらのほうがよく出来ている。なお、先月のコミケ旅行のついでに立ち寄った国立歴史民俗博物館の第5展示室も同趣向だったはずだが、この時には時間がなくて中に入らなかった。もう一度行きたいと思ってはいるのだが、佐倉は遠い。


おもちゃと人形博物館を出たのが午後1時半頃。1時43分に高崎行きのバスが通過するのでそれに乗って帰るか、それとも1本見送って3時13分のバス(終バス!)にするか。少し迷ったが、たぶん私の生害でこの地を再び訪れることはないだろうと思い、朝見た怪しい看板のある場所へと行ってみることにした。バスを待ってもいいが、どうせバス停2つ分、下り坂だから歩いてもしれている。そこで私は、やたらと自動車の通行量が多いわりに人の姿がほとんど見えない道路をてくてくと歩き始めた。

草むらに埋もれた乗用車、廃墟と化したスナック、異臭を放つ養鶏場(?)などなどを見ながら歩いていると、なぜか乗用車が私の隣りで停まった。道でも尋ねたいのだろうか?

違った。

助手席側の窓を開けて、運転席から身を乗り出した中年男性が私に向けて発した言葉は「どこへ行かれるのですか?」というものだった。まさか「『命と性』と書かれた怪しい看板のある場所へ」と言うわけにもいかないので「いえ、別に。なんとなくぶらぶらと」と当たり障りのない返事をした。すると……

「ちょっとそこに面白い所があるんですが、どうですか?」

怪しい、怪しすぎるよ、ママン。

私の当惑を知ってか知らずか、件の男性は懐からチケットらしきものを取り出した。見ると「ご優待券 愛と生命のミュージアム」と書かれているではないか。これは、私が行こうとしていたところではないか。

「このチケットで入館料が半額になります。私はここの館長で、今から館に戻るところなんです。もしよかったら車に乗っていきませんか?」

冷静になって考えてみると、これほど怪しい話もないわけで、見知らぬ人に誘われて名前すら知らない施設についていくのは軽率この上ないのだが……

  1. わ〜い、入館料半額だぁ。
  2. 歩かなくてすむから楽ちんだ。
  3. 次の更新のネタになるかも。

……というわけで、私は「館長」と名乗る人の車に乗った。後部座席には荷物を積んであったので、助手席に乗って、数分間のドライブ。聞くと、朝に私が見た看板は伊香保女神館という施設のもので「とても面白いところ」だそうだ。開館して1年6箇月になるが、最近はお客さんも増えて、月に500人くらい来てくれるようになった、という話だった。でも、さっきの珍宝館は観光バスが何台も停まっていたから一日に100人以上は入ってそうだ。それに比べると一月500人は少ないのではないだろうか?

伊香保女神館に着くと駐車場を見回したが、観光バスはおろか乗用車すらほとんど停まっていなかった。ちょっとやばい所に来てしまったかも、と思いつつ中に入ると、館員とおぼしい中年女性がいたが、客の姿は見あたらない。でもここまで来て引き下がっては猟奇の徒ではない。私は「ご優待券」(本当は100円引きなのだが、「入館料半額券」というスタンプが押してあった)を使い、450円を払って館内に入った。

中に入ると、まず先ほどの中年女性がトイレの解説をしてくれた。男女あわせて6つの個室があり、それぞれ微妙に内装が違うのでぜひ全部見ていってほしい、とのことだった。なんかずれている……。その後、「現代日本は環境問題が……」というような話があって、夏休みに多くの親子連れが愛と性について学んで帰った、という話も聞かされた。なんだか、最初に考えていたのとは別の意味で怪しい場所ではないかという気がしてきた。

このまま先に進むと宗教の勧誘をされるのではないかと危ぶんだが、すぐに中年女性は入口に引き返した。どうやら私の後に男女二人連れが入ってきたようで、同じ説明をしているのが聞こえてきた。よかったるとりあえず私はひとりぼっちではない。落ち着いて薄暗い館内を進むことにした。

最初のほうには、昔保健体育の教科書で見たようなこんなパネル展示(以下、画像をページ内に貼り付けるのは避けて、リンクのみに留める)があって、なんだか非常に真面目そうだったが、角を曲がるとあまり学術的とも教育的とも思えないオブジェが置かれていて、やっぱりその種の施設であることがわかった。性教育の絵本とか、避妊方法を解説したビデオとか、妊娠体験コーナーとかもあって、真面目なんだか不真面目なんだかよくわからないアンバランスさを楽しんだのち、2階の喜びの性の勉強館へ。館内案内ページには2階のことは何も書かれていないが、案内図の「office」と書かれた場所のすぐ裏に螺旋階段があって、2階に上がれるようになっている。高校生以下は入ってはいけないそうだ。

で、2階に何があったかというと、先般皆様ご想像のとおり。私のデジカメのフラッシュが不調であまり写真が撮れなかったので、1枚だけ(なぜネコ耳?)で勘弁してほしい。

あ、あと1枚、2階から1階を写した写真があった。面白いかどうかはわからないが、参考までに。


この後もいろいろなことがあったのだが、そろそろ文章を書く意欲も画像を編集する気力も尽きてきたので、これで聖地巡礼の旅の記録はおしまいにする。非常に疲れたが、故・宮脇俊三先生の遺徳を偲ぶ旅としては充実したものだったと思う。

ところで、伊香保女神館へ公共交通機関で行く場合は、群馬バスの「北野」停留所で下車するとよい。ただ、先にも述べたようにこのバスは1日5往復しかない。時間が合わない場合は2つ隣りの「上野田四ツ角」停留所を利用するといいだろう。そこからは渋川駅や前橋駅行きのバスも出ている(ただしバス停はそれぞれ少しずつ離れているので注意)。

最後になったが、このささやかな旅行記がきっかけで宮脇ファンが一人でも増えれば、私にとってこれ以上の喜びはない。

1.10787(2003/09/16) 『猟奇の果』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0309b.html#p030916a

今日は宣言に従って、『猟奇の果』の感想文を書く。

私は主に中学生から高校生の頃にかけて乱歩作品を読んだが、あまり系統だった読み方ではなく、たまたま何となく手にとった本を読んだ程度なので、まだ半分も読んでいないと思う。この『猟奇の果』もたぶん今回が初読のはずだ。ただ、後半部分は昔読んだような記憶がある。もしかしたら後半だけ少年向けにリライトした版があるのかもしれない。いや、他の作品と混同しているだけか?

この小説は、同じ巻(光文社文庫版江戸川乱歩全集第4巻『孤島の鬼』)に収録されている『孤島の鬼』とは比較にならないほどの大失敗作で、前篇と後篇が全然別の話になっているわ、伏線は回収していないわ、話の運びが行き当たりばったりで御都合主義だわ、と欠点だらけなのだが、その分、乱歩の"体臭"が色濃くあらわれていて面白い。一度手に取るとなかなか途中でやめることができないのは、さすがだ。

『孤島の鬼』の感想文では未読の人に予備知識を与えたくなかったため粗筋は一切紹介しなかったが、『猟奇の果』では気を遣う必要はないだろう。こんな話だ。

高等遊民の主人公、青木愛之助は暇にあかせて猟奇趣味に興じていたが、ある時、友人である科学雑誌社長の品川四郎に瓜二つの人物を見かける。興味を抱いていろいろ探っているうちに、品川四郎とそっくりな男が秘密の逢い引き宿で密会している現場を覗くことになる。

青木が代わって、真赤な丸い幻燈絵が再び彼の前にあった。だが、それが何とまあ意外な光景であっただろう。貴婦人は曲馬団の女のつける様な、ギラギラと鱗みたいに光る衣装をつけ、俯伏の品川四郎の背中へ馬乗りになっていた。馬は勿論着物を、…………………………。乗手の貴婦人も衣装とは名ばかりで、近頃流行のレヴュウの踊子の様に、…………………。

そして、何と驚いたことには、馬の品川四郎は貴婦人の騎手を乗せて、首を垂れて、グルグルと部屋中を這い回っているのだ。

(略)

その内哀れな痩馬は、とうとう力尽きて、ペシャンコに畳の上にへたばってしまった。……………………、………………。立上がった女騎手はそれを見て、さも心地よく声を上げて笑ったが、次には倒れた痩馬の上での、残酷な舞踏である。グタグタに踏まれて蹴られて、馬はもう虫の息だ。さい前からずっと下向きになっているので、……………馬の表情を見ることが出来なかったけれど、力なくもがく手足の様子で、この見知らぬ品川四郎の心持を察しることが出来た。

その後も愛之助は品川とそっくりな男の動向を探るが、相手に気づかれてしまう。そして、偽品川は愛之助と品川の二人を嘲笑するかのように挑発的な行動に出るのだ。

そのうち、愛之助は品川とそっくりな男の不義密通の相手が自分の妻の芳江ではないかという疑念を抱くようになる。一度は思い違いかと思ったのだが……。

だが、それから一時間程たって、ある瞬間、愛之助は相手をつき放して、部屋の隅へ飛びのいた。

芳江は、非常に唐突にガラリと変った夫の態度が呑みこめなくて、ボンヤリと蹲っていた。彼女は蒼ざめた夫の顔に、物凄い敵意を認めた。血走った目が怒りに燃えているのを見た。

(略)

彼は人通りのない廃墟の様な町を、めくら滅法に歩いて行った。

「確かに、確かに、女は人種が違うのだ、どこか魔物の国からの役神なのだ。嘘をつく時には真から顔色までその通りになるのだ。泣こうと思えば、いつだって涙が湧いて出るのだ」

今更らの様にそれを感じた。

「だが、うっかり尻尾を出してしまった。あの仕業は確かに俺の教えたことでない。俺はそんな被虐色情者じゃない。あいつは、幽霊男に教わったのだ。そして彼女もいつの間にかサジズムを愛し始めたのだ」

これは決して彼の妄想ではなかった。動きの取れない証拠があった。彼は例の赤い部屋での、幽霊男とある女性との遊戯を、まざまざと記憶していた。今夜の芳江の仕業は、そのある場面と寸分違わなかったではないか。彼女は彼を馬にしてまたがったではないか。そして、手綱代わりの赤いしごきを、彼の首にまきつけようとしたではないか。彼が真蒼になって飛びのいたのも、無理ではなかった。

家を飛び出した後、愛之助はまたしても幽霊男(品川とそっくりな男)の姿を見かけ、尾行する。幽霊男を追いかけて空家に忍び込んでみると……

そこには人間の、まだ若い女の、首丈けがテーブルにのせてあったのだ。しかも、今胴体から切離したばかりの様に、生々しく、血のりにまみれて。

(略)

首は目を半眼にして、眉を寄せ、口を開き、歯と歯の間に舌の先が覗いている。猥褻に近い苦悶の表情である。蝋燭の光が、赤茶けた光を投げ、異様な隈を作っている。血は白い歯を染めて、唇から顎へとほとばしり、テーブルに接する切口の所は、さかなの腸みたいにドロドロして、その間から、神経であろうか、不気味に白い紐の様なものがトロリとはみ出している。そんな微細なことがハッキリ分る筈はないのだが、愛之助はアリアリとそれを見た様に思った。

この後、幽霊男の生首陵辱の描写が続くのだが、あまり引用が長くなってはいけないので、ここでやめておく。

愛之助の猟奇冒険譚がしばらく続いて、とうとうアレがナニして「この先いったいどうなるの?」と思ったところで「前篇 猟奇の果」が終わる。続く「後篇 白蝙蝠」は、明智小五郎が怪人たちと闘ういつもの活劇ものになり、最後に愛之助・芳江夫妻が一般読者にはとても考えられない仕方で再登場して、幕。この展開はあまりにも無茶苦茶だ。

今回の光文社文庫版では、戦後の闇市時代に戸田城聖(!)に請われて乱歩が書いたと思われる「もうひとつの結末」が併録されている。この異版について、(゜(○○)゜) プヒプヒ日記(8/10付)ではこの新しい結末(および後半部分の削除)により、「猟奇の果」は乱歩作品群の中でCクラスからBクラスへの格上げになったと思うのだが、いかがなものだろう?とコメントされている。また、不壊の槍は折られましたが、何か?(8/21付)でも、こちらはそこそこ着地していて、話としてはまとまりがマシだと思われる。一読の価値はある。と述べられている。私も両氏の意見に異論はないが、全く予備知識なしに前篇のあとすぐ「もう一つの結末」を読んだら、ちょっと拍子抜けしたのではないかと思う。後篇の破天荒なハチャハチャ騒ぎを読んだあとに「もう一つの結末」を読んで、その落差を味わうのが正しい(?)読み方だろう。乱歩本人が意図していたはずはないが、『生者と死者』(泡坂妻夫/新潮文庫)を逆の順番で読んだような、奇妙な感慨に浸ることができるはずだ。

そういうわけで、これから『猟奇の果』を読もうとしている人には、ぜひ「前篇→後篇→もう一つの結末」の順で読み進めることをお勧めする。まあ、言われなくてもふつうはそう読むだろうが。


江戸川乱歩全集第10巻『大暗室』収録の『怪人二十面相』を読んだ。引き続き表題作に取りかかる。『怪人二十面相』の感想は明日か明後日くらいにアップする予定。

この調子だと、しばらく乱歩の感想文ばかりで埋め尽くされてしまいそうだ。それだと読者より先に私のほうが飽きてしまうので、適宜どうでもいいくだらない話題を織り込むことにしよう。

1.10788(2003/09/18) 雑談3件

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0309b.html#p030918a

人は減る減る、赤字は増える

少子化社会対策基本法という法律ができたそうだ。前文がなかなか楽しいという話なので、法令データ提供システムで探してみたが、なぜか前文が掲載されていない。未施行だからだろうか? 仕方がないので、法案段階のものを引用しておく(強調は引用者)。

我が国における急速な少子化の進展は、平均寿命の伸長による高齢者の増加とあいまって、我が国の人口構造にひずみを生じさせ、二十一世紀の国民生活に、深刻かつ多大な影響をもたらす。我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面している。

しかしながら、我らはともすれば高齢社会に対する対応にのみ目を奪われ、少子化という、社会の根幹を揺るがしかねない事態に対する国民の意識や社会の対応は、著しく遅れている。少子化は、社会における様々なシステムや人々の価値観と深くかかわっており、この事態を克服するためには、長期的な展望に立った不断の努力の積重ねが不可欠で、極めて長い時間を要する。急速な少子化という現実を前にして、我らに残された時間は、極めて少ない

こうした事態に直面して、家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み育てることができる環境を整備し、子どもがひとしく心身ともに健やかに育ち、子どもを生み育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかけることが、今、我らに、強く求められている。生命を尊び、豊かで安心して暮らすことのできる社会の実現に向け、新たな一歩を踏み出すことは、我らに課せられている喫緊の課題である。

ここに、少子化社会において講ぜられる施策の基本理念を明らかにし、少子化に的確に対処するための施策を総合的に推進するため、この法律を制定する。

笑ってはいけないのだが、思わず顔がにやけけてくる。危機感に駆られて書いたのがありありとわかる切羽詰まった文章と、世間一般の認識レベルとの落差があまりにも激しいからだ。

ところで、少子化対策基本法を探しているときに、こんな法律を見つけた。タイトルが秀逸だ。


サイト開設2周年を控えて

当サイトは明後日9/20で開設2周年を迎える。よくもまあ2年間も続いたものだ。

最初の頃はごく少数の知人しか見ていなかったので、細々と運営していたが、その分、好き放題書き散らかすことができた。ところが、一日100ヒットを突破するようになってからは、なかなかそういうわけにもいかなくなり、だんだん窮屈な思いをすることが増えてきた。いっそ店じまいして新規まき直しを図ろうかと思ったことも一度や二度ではない。だが、ネット上で知り合った人との縁を絶つ勇気がないため、ずるずると運営を続けてきた。

その間もアクセス数はじわじわと増えていったが、一日300ヒットくらいで頭打ちとなり、現在に至っている。私が書く文章に興味を持ってくれる人はだいたいこの程度ということなのだろう。

限界が見えてしまうと、もうアクセス数アップのためにあくせくするする気もなくなってきた。あとはのんびりと老後の余生を過ごすだけ、という心境だ。すると、気合いが抜けてしまい、別に毎日更新しなくてもいいか、という気にもなってきた。

5月半ばくらいから、ネット接続障害が多発するようになり、定期巡回にも一苦労するようになった。他サイトで私や「たそがれSpringPoint」に言及されてもすぐに応じることができず、機を逸してそのままになってしまうことも多かった。それでさらにやる気を失った。確か7月以降は毎日更新した週は全くないはずだ。

更新しないと当然のことながらアクセス数は減る。アンテナが普及しているので、更新しなかった日のアクセス数が二桁にまで落ち込むことも稀ではない。だが、更新するとだいたい一日300ヒットくらいにはなる。ということは、更新頻度が落ちたからといって常連さんが逃げてしまうわけではないということだ。これもアンテナのおかげだろう。

考えてみれば、私自身の巡回スタイルもはてなアンテナ導入後、かなり変わった。それまでは、定期巡回サイトの更新頻度が落ちたら見に行く回数が減り、そのうちにそのサイトのことを忘れてしまうことも多かった。だが、いったんアンテナに登録したら、アンテナは忘れない。一ヶ月ぶりだろうが半年ぶりだろうが、当該サイトが更新されたら上位にくるので、ほとんど自動的にクリックして閲覧することになる。

もちろん、すべての人が私のように杜撰なアンテナ管理を行っているわけではないだろうし、アンテナを用いずにブックマークやリンク集からアクセスする人もいるのだから、一日あたりのアクセス数を維持するには毎日必ず更新をするに越したことはない。だが、ないネタを苦労して無理矢理ひねり出す必要もないだろう。ネタがなければ更新しなければいい。疲れている日も更新しなければいい。「自分では満足できる文章が書けたのに誰も読んでくれなかったらどうしよう」などと心配することはないのだ。


書かない/書けない

平穏無事な日々を漂う (9/18付)から。

鮎川哲也は本格ミステリしか書かなかった作家なのか。それとも本格ミステリしか書けなかった作家なのか。私は後者だと思うのだが、どうだろう。

漂泊旦那氏が「本格ミステリ」という言葉にどのようなニュアンスを込めているのかがわからないので、なかなかコメントしづらいのだが、少なくとも『絵のない絵本』(鮎川哲也の短篇小説の中で私が最も好きな作品)は、氏の基準では「本格ミステリ」には該当しないのではないだろうか? 人によっては「悪趣味」の一言で切り捨ててしまうかもしれないが、鮎川哲也らしい作品であることは間違いない。

そういえば、そろそろ命日だ。久しぶりに「三番館」シリーズを読み返してみることにしようか。


『怪人二十面相』

一昨日『怪人二十面相』の感想は明日か明後日くらいにアップする予定と書いたが、今日は雑談だけで一回分になったので、次回にまわすことにする。ちなみに、『大暗室』はまだ読み終えていない。