【日々の憂鬱】煮物なのに「土手焼き」とはいかがなものか。【2003年8月上旬】


1.10758(2003/08/01) 夢は大きくカール・セーガン(声:横内正)

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030801a

ここを読んで思ったこと。

セーラー服属性の人は、セーラー服と機関銃の微妙な関係を描いた物語が好きなのだろうか。

ブルマ属性の人は、ブルマと秋葉原の微妙な関係を描いた物語が好きなのだろうか。

私もオチが思い浮かばなかった。

1.10759(2003/08/03) サイトリニューアル

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030803a

いろいろあって気分転換のためにサイトリニューアルを敢行することにした。あらましは下記のとおり。

  1. 改行タグを使わず、スタイルシートを調整して「段落頭一字空き・段落間スペースなし」という日本語の標準的な文章の見かけを実現することにした。
  2. フォントサイズの絶対指定をやめて、各閲覧環境に任せることにした。ただし、マージンとパディングはpxで指定。
  3. 見出し、本文背景色を変更。ちょっとはましになったかもしれないし、かえって趣味が悪くなったかもしれない。
  4. 外部へのリンクは下線つき(別窓で開く)、サイト内リンクは下線なし、と見た目で区別することにした。
  5. その他、ここではとても書けないあんな事やこんな事を試みた。もしかするとお子様は見ないほうがいいかもしれない。

まだ作業途中なので、見づらい点も多いと思うが、そのうちなんとかなるだろう。なんとかならなければ、仕方がないので少しずつ修正することにする。私は修正主義者ではないが、スタイルシートの修正くらいでイデオロギー上の対立を引き起こしたり、粛正の嵐が吹き荒れたりすることはないだろう。それにしても、強調のために文字色を赤にするのはいいとしても背景色を青にするのはちょっとやり過ぎか。

だが別に伏せ字にしたからといって大したことが書いてあるわけではないとも考えられる。しばらくこのままにしておこう。


今日は疲れたのでこれでおしまい。あとはゆっくり通販生活コミケのカタログをチェックする予定だ。

1.10760(2003/08/04) 世界と感覚とヴ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030804a

まずはヴから。ヴというのはなかなか発音しにくいものだ。下唇を噛みながら声を出さなくてはならない。もちろん上の歯で噛むわけで、下の歯では下唇を噛んではいけない。私は試したことがないが、きっとヴとは似ても似つかぬ音にしかならないだろう。

ところでヴといえば当然ヴィトゲンシュタインである。何が当然なのかはさておき、私はふだんヴィトゲンシュタインではなく、ウィトゲンシュタインと書く。下唇を噛むこともない。ああ、こう書いてしまってはいけない。私はふだん「ウィトゲンシュタイン」と書く、と書かなければならなかったのだ。言葉について語るとき、その言葉を括弧の中に入れないと、言葉を用いてその言葉が指し示す物事について語っているかのように誤解を招く危険があるのだから。ああ、駄目だ駄目だ、「私はふだん『ウィトゲンシュタイン』と書く」と書かなければならなかったのだ。

それはさておき。

先日からぼちぼち読んでいる『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(鬼界彰夫/講談社現代新書)もいよいよ300ページを越して、油断しなければ今週中には読了できる見込みとなった。読み終えたら感想文を書こうと思っているが、その時になったら気分が変わるかもしれないし、どうせまとまった事は書けないだろうし、さてさてどうしようかなぁ、などと考えながら第弐齋藤 | 土踏まず日記を読むと7/30付で感想文がアップされていることに気づいた。毎日読んでいるはずなのに今日まで見落としていたようだ。

この人の書く文章はいつも鋭くて感心するのだが、今回も例に漏れず、脱帽した。いや、もとから帽子などかぶってはいないのだが、そこは言葉の綾で、しゃっぽを脱いだということだ。同じか。

まあ、しゃっぽを脱ごうが尻尾を振ろうが、そんな事はどうでもいい。要するに「こんなの読んでしまったら、後から書くことなんて何もないよ〜」と思ったわけだ。そんなわけで、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読み終えても、もう感想文は書かない。語り得ないことではないけど、沈黙するほうが身のためだ。

とはいえ、これで引き下がってしまっては癪だ。一つ誤りを指摘しておこう。「土踏まず日記」の感想文ではウィトゲンシュタインのことを「ヴィトゲンシュタイン」と表記しており、書名に言及する際にも末尾の一箇所を除いて『ヴィトゲンシュタインはこう考えた』と書いているが、これは間違いだ。本当にどうでもいい指摘だけど、鬼の首でもとったように他人のあら探しをするのが私の癖だ。はっはっは。


なんだか、惨めな気持ちになってきた。鬱のドツボにはまる前に次の話題へ。


次は感覚の話。「新青春ダイアリー78」8/3付『銀盤カレイドスコープ(1)(2)』の感想について。

私はそこで言及されている本を読んでいないしこれから読む予定もないのでいい加減なコメントになってしまうのだが、「新青春ダイアリー78」で紹介されている設定から思いついた疑問がいくつかあるので、以下箇条書きしてみる。

まだまだいろいろ考えたのだが、時間がないのでこれくらいにしておく。最後に一言、「およそ想像できない事柄については、妄想するしかない」。


だんだん時間切れっぼくなってきた。駆け足でいこう。最後は世界について。

「Takahashi's Web -diary-」8/4付「セカイ系」経由で「In a flurry/晴雨両用日記」8/3付「誰かが救われるためには、必ず他の誰かが犠牲にならなければならない」を読んだ。前日付の「月宮あゆが助かるってことは、残りの2人は助から…」、二者択一の論理と倫理。 からの続きなので、併せて読んでみたのだが……。

実は、私はKanonで「月宮あゆが助かるってことは、残りの2人は助からないってことを意味するんですよ」なんて思っている人なので、Takahashi's Web -diary-好き好きおにいちゃん!の考えのほうがしっくり来る。

主人公の選択により救済された女の子以外の者の末路はたぶん悲惨なものだろう、と想像すると、何か頭の片隅にトゲが引っかかったような気分になるが、このトゲを抜いてしまったら、『Kanon』の世界は摩擦のないものになってしまう。私はツルツルとした世界より、ザラザラとした世界のほうが好きだ。

同じページの下のほうでバーナード・ウィリアムが功利主義批判のために行った思考実験に言及している。『Kanon』の話とどのように繋がっているのかがよく解らなかったのだが、このエピソードはそれ自体として非常に面白い。

たまたま私の手元には大昔に諸般の事情により買わされた"Utilitarianism and Its Critics"という本がある。そこにウィリアムズの論文も収録されていたはずだと思い、数年ぶりに本のほこりを払ってページを繰ってみたのだが……。

Jim finds himself in the central square of a small South American town. Tied up against the wall are a row of twenty Indians, most terrified, a few defiant, in front of them several armed men in uniform. A heavy man in a sweat-stained khaki shirt turns out to be the captain in charge and, after a good deal of questioning of Jim which establishes that he got there by accident while on a botanical expedition, explains that the Indians are a random group of the inhabitants who, after recent acts of protest against the government, are just about to be killed to remind other possible protestors of the advantages of not protesting. However, since Jim is an honoured visitor from another land, the captain is happy to offer him a guest's privilege of killing one of the Indians himself. If Jim accepts, then as a special mark of the occasion, the other Indians will be left off. Of course, if Jim refuses, then there is no special occasion, and Pedro here will do what he was about to do when Jim arrived, and kill them all. Jim, with some desperate recollection of schoolboy fiction, wonders whether if he got hold of a gun, he could hold the captain, Pedro, and the rest of the soldiers to threat, but it is quite clear from the set-up that nothing of that kind is going to work: any attempt at that sort of thing will mean that all the Indians will be killed, and himself. The men against the wall, and the other villagers, understand the situation, and are obviously begging him to accept. What should he do?

うう、読めない。こんなの日本語じゃない!

仕方がないので、Exciteのテキスト翻訳にかけてみた。

……やあ、哲学者って危険なことを考える人種なんだなぁ。うん、面白いぞ、哲学。 良い良い。


私は別に危険ではない……と思う。ついでに言うと、「プラトン風の愛」にかかる議論の火種となったK氏は既に撤退している。ついでのついでに言うと私と蔓葉氏が議論の続きをメールでやっているということはない。念のため。

1.10761(2003/08/05) 怪しい「少年少女博物館」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030805a

何となく検索しているうちに辿り着いたねこの博物館リンクページ怪しい「少年少女博物館」という、胡散臭い名前の博物館(?)の紹介文が掲載されているのを発見した。

近々にHP立ち上げ予定…もうしばらくお待ちください♪
2003年9月13日オープン予定

期間限定営業で昨年閉館した「ペンギン博物館」の跡地に
今年9月中旬にオープン予定の博物館です。
内容は…というと
タイトル通りのかなり「あやしい」博物館みたいですよ♪
詳細はまだ秘密ですが、乞うご期待の…博物館です!

同じページからリンクしている熱海博物館村「ふしぎな町1丁目」は、以前どこかの個人サイトで紹介しているのを見た記憶がある。こちらも怪しい。8/17までの営業だそうだから、まずはこっちが先か。コミケのついでに行けるかなぁ。


重楼疏堂〜城郭と旅と日々のおぼえがき〜経由でわたらせ渓谷鉄道 基金が枯渇という記事を読んだ。私もG.C.W.氏と同じく、群馬のローカル線を乗り継いだときに、わたらせ渓谷鐵道を残してしまっている。わたらせ渓谷鐵道が存続している間にもう一度群馬へ行くことができるだろうか?

1.10762(2003/08/07) お金で命は買えませんが知識と道具は買えます。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030807a

見出しは国立歴史民俗博物館の企画展ドキュメント災害史1703-2003 の案内ページから。ここを見たとき、一瞬感動を覚えたのは、私だけだろうか?

たぶん私だけだろうな。

1.10763(2003/08/07) 蔓葉ドール風の愛/滅・コール風の愛

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030807b

白黒学派「プラトン風」についての追記 その5について簡単にコメントしておく。

  1. 『サマー・アポカリプス』で、もし「プラトン風の愛」のかわりに「精神的な愛」という表現が用いられていたなら、登場人物たちは「精神的な愛」に相当するフランス語を語っていたということになっただろう。その場合に、日本語の「精神的な愛」が本来のフランス語の言葉から離れすぎてしまうということにはならなかっただろう。
  2. 前後の文脈から作者が言いたかったことを推測できるということは、当該表現が誤用であるという主張に対する反論にはならない。ある言葉の使い方が正しいかどうかは、その言葉の使い手の意図によってではなく、社会的慣習によって決まる事柄である。並記による内容の引継説は意図に関する理論であって、慣習に関する理論ではない。
  3. 固有名(詞)の理論は難しい。できればこの話題は勘弁してほしい。
  4. この議論を「誤用だと断定できる/誤用だと断定はできない」と定式化するのはいかがなものか。まずは「誤用ではないのか?/誤用ではないだろう」から始まって、議論の積み重ねにより「誤用だと解釈するほうが自然だ/誤用ではないと解釈するほうが自然だ」というふうに話が進んできたのではなかったのだろうか?
  5. 別に「プラトニック・ラブ」を根絶やしにする必要はないと思うが……。既に定着した慣用にあえて異を唱えてみせてその非現実性を示したうえで相殺論法に持ち込むというテクニックには感心するが、「この表現は誤用だ」という指摘と「だから根絶やしにしなければならない」という意思表明をストレートに結びつけるのはいかがなものか。
  6. あ、「いかがなものか」が重なった。欧米では考えられないことです。
  7. ある要素を完全に除外することが難しい、ある解釈を全否定はできない。そのような材料から構築された議論は非常に瑣末なもののように私には思われる。
  8. 余談だが、「トゥルヴァドール」はフランス語では"troubadours"と綴る。「トルヴェール」"trouvères"とごっちゃになっているのではないか。しかし、フランス語を知らない私でも『広辞苑』で調べればわかった程度のことで笠井潔がミスをするとは考えられない。もしかしたら、笠井潔はオク語の発音を忠実に日本語に音訳したのかもしれない。むろん私はオク語など全く知らないから、その解釈を全否定することはできない。故に「トゥルヴァドール」が誤記であると断定してはならないのだ!

以上、400字詰原稿用紙換算で約3枚(タグ内の文字を除く)。

1.10764(2003/08/10) 悪趣味な発想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030810a

私が先日書いた文章コメントされているのに気づいた。「俺の女にフられた男を見ると自分には恋人がいると心底実感する」って発想なわけで、間違ってるたぁ言わないが悪趣味だとは思ったそうなのだが……。

自分の恋人にふられた男を見て優越感を抱いたり、その男がふられたせいで不幸になったことを喜んだりするのが悪趣味だというのはわかる。だが、私はそんな発想で次の文章を書いたわけではない。

主人公の選択により救済された女の子以外の者の末路はたぶん悲惨なものだろう、と想像すると、何か頭の片隅にトゲが引っかかったような気分になるが、このトゲを抜いてしまったら、『Kanon』の世界は摩擦のないものになってしまう。私はツルツルとした世界より、ザラザラとした世界のほうが好きだ。

私は物語の登場人物にあまり感情移入できないたちで、シナリオ分岐型のゲームで自分の選択が主人公の行動を決定するような場合でも、主人公に自分自身を重ね合わせたり、擬似的に一体感を味わったりできない。これはある種の障害ではないかと思うこともあるのだが、それはともかく、私が比較したのは「幸福な自分/不幸な他人」ではなくて「摩擦のある世界/摩擦のない世界」だ。プレイヤーの内部に存在する攻略されなかったキャラに悲惨な目にあっていて欲しい、という昏い欲望に基づいて上で引用した文章を書いたわけではない。というか、そもそも非攻略対象キャラクターが幸福になろうが不幸になろうが、にとっては他人事だ。なぜなら、私は当事者ではなくて、傍観者に過ぎないのだから。

なんだか、こっちのほうが悪趣味な気がしてきた。


ちなみに、私が摩擦のある世界のほうを好むのは、虚構世界を実在論的に解釈する傾向があるからだ。説明抜きに「実在論」などという用語を持ち出しても意味不明なので、本当はきちんと説明しないといけないのだが、説明しようとすると長くなる。ここでは差し当たり、「記述されているかどうかにかかわらず、世界の隅々に至るまで決定されている」という主張を掲げておくことにする。

マルチシナリオの場合だと、選択肢の選び方によってその後の展開は変わるから、世界はただ一つのあり方で決定されているわけではない。だが、それでも最初の選択肢以前の出来事については決定済みであり、その後の展開次第で過去が改変されることはない、と考える。だから、回想シーンに選択肢が出てくるようなゲーム(タイトルは挙げないが本当にそんなゲームがあった)には強い違和感を覚える。


どうもこの辺りとネタがかぶってしまう。理路整然としていて、反論もないし付け加えるべきこともない。


最後にちょっと思いついた問題を提示しておく。

問:『kanon』冒頭の主人公と名雪の再会場面で、彼女の髪の本数は奇数か偶数か?

  1. どちらかはわからないが、奇数であるか偶数であるかどちらか一方であることは間違いない。
  2. 作中で明示されておらず、合理的に推測できるわけでもないので、不確定としかいいようがない。よって偶数か奇数かどちからである、とも言えない。
  3. 実は、名雪の髪の本数が奇数である世界と偶数である世界が重ね合わされている。

1.10765(2003/08/10) 貨幣としてのコミケット

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030810b

見出しには特に意味はない。「××としての○○」という見出しにすると何となく現代思想っぽくなるのではないかと思って試してみただけだ。


先日からだらだらとカタログチェックをしていた。昔は全ページの全サークルカットを見て、細かな書き文字も見落とさないように努めていたものだが、最近はかなり雑にしかチェックしていない。知り合いのサークルカットのほか、好きなジャンルのカットをざっと見回して付箋を付けるだけだ。

前回のコミケ前にも同じことを書いたような……。

今回、カタログにべたべたと貼り付けた付箋は全部で22枚。内訳は一日目2枚、二日目10枚、三日目10枚だ。ひとつのページに目当てのサークルがふたつ以上ある場合もあるが、それでも30サークル程度。どうも気合いが出ない。

特に大手サークル(ふと「大手サイト」と書きそうになってしまう)の行列に並ぶ予定はないので、今回は開場前に行列に並ばず、昼くらいに行くことにしようと思う。前回まで、「一般参加者の入場待ち行列こそコミケの華!」と考えていたのだが、寄る年波には勝てない。

二日目は知り合いのサークルで売り子をするので、朝から会場に行く予定(たぶん午後4時の三本締めまで会場にいることになるだろう)だが、一日目と三日目はどうしようか思案中。


メモ:銀盤カレイドスコープ感想リンク集まいじゃー推進委員会!

私の後輩は「『ヒカルの碁』のスケート版」と言っていたが……。