日々の憂鬱〜2003年7月下旬〜


1.10746(2003/07/21) 「ゲーセン」と発音するとまるでゲームセンターのようだ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030721a

 ようやく『ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹』(西尾維新/講談社ノベルス)を読み終えた。長い戦いだった。
 読了記念にこの小説で最も印象的だった一節を引用しておこう。

「じゃ、じゃあ、『G線上のアリア』は!? あ、あれを聞いたらいくら師匠でもお泣きになるでしょう!」
「えっと……どんな曲だっけ」
「…………(絶句)」
「ああ、思い出した」
「思い出したですか!」
「あのかったるい曲だ」
「きえー!!」
 殴られた。
「ば、ば、バッハ先生に謝れ! ウィルヘルミ先生に土下座しろおー!!」

 なぜこの箇所が一番印象に残ったかというと、単に私がバッハファンだからであり、それ以上の意味はない。
 『G線上のアリア』(しばしば「じーせんじょーのありあ」と発音されるが、「G線」というのはヴァイオリンの弦の名称なので「げーせんじーのありあ」と発音するほうが適切だ)の原曲はバッハの管弦楽組曲第3番第2曲の「エア」で、それをG線のみで演奏できるように編曲したのがウィルヘルミだ。バッハはともかくウィルヘルミの名前を出すのが、いかにも西尾維新らしい。このような蘊蓄の使い方をもとに西尾維新の作風を分析して評論を書くことも可能だろうと思うが、私には荷が重すぎるのでやらない。
 さて『ヒトクイマジカル』の感想を軽く書いておくことにしよう。
 まず最初に感じたのは、長すぎるということ。シリーズ前作の『サイコロジカル』ほどではないが、この長さはなんとかならないものか。それぞれのエピソードはそこそこ面白くて退屈しないのが救いだが、物語全体とのバランスを崩してしまっている。いまやミステリよりもライトノベルの文脈で語られる作家なので、「この長さがミステリとしての仕掛けの効果を減じている」などといった批判がどの程度有効なのかはわからないが、(物理的に)重いライトノベルというのはいかがなものか。欧米では考えられないことです。
 小説の長さとも関連しているのだが、登場人物が多すぎるようにも思う。とびとびに読んでいると、どの人物がどの小説で出てきた人でどういう経緯により主人公と知り合ったのかを忘れてしまっていて、混乱してしまう。これは私の記憶力の減退にも一因があるので、単純に作者を責めるわけにはいかないが、私のような忘れっぽい人間のために登場人物の再紹介をするくらいのサービスはほしいものだ。
 たとえば――今回は回想シーンにしか登場しないが――第1章の冒頭では葵井巫女子(あおいいみここ)のことをぼくの通う私立鹿鳴館大学の同じ学部に所属する同回生にしてクラスメイトでもある葵井巫女子、と軽く紹介しているが、それだけでは思い出せないので、彼女が過去の作品でどのような役割を果たしている人物なのか、多少詳しく説明してほしかったと思うのだ。それで失われかけた記憶が蘇り固定されれば、次作以降で巫女子が再登場したときに読解の助けになるかもしれないのだから。
 登場人物についてまだまだいろいろ言いたいことはあるのだが、あまり長々と語っても仕方がないので、最後にミステリとしての仕掛けについて一言。上でも述べたが、西尾維新の小説をミステリとして評価するのは適切かどうか疑問はあるが、いちおうミステリを意識しているようだし、私はどうしてもミステリ読みの発想で小説を読む癖があるので、いちおう書いておこうと思う。
 今回のミソは容疑者不在という状況だ。現場が完全な閉鎖空間であれば不可能犯罪ということになるのだが、それだと犯人があまりにもバレバレになってしまう。そこで、外界からいちおうは隔てられているが出入り不可能とまではいえないという状況が設定されている。このバランス感覚は重要だ。凡庸な作家なら嵐の山荘とか孤島を舞台にするだろう。
 もちろん、この程度のことではある程度ミステリを読んだ人間を騙すことはできない。そこで、『クビツリハイスクール』の末尾でミステリ史上この上もないほどやる気のない絵解きを行った人物を再登場させることになったのだろう。この調子であと二、三回続ければパターンギャグとして面白くなるが、できれば徐々にでも難易度を上げていってほしいものだ。
 やー、一言では済まなかった。

1.10747(2003/07/21) 忘れものは何ですか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030721b

 デジカメを買ったので、調子に乗って写真をアップしてみよう。

鉄道忘れもの店

 左の写真(ちゃんとこの文章の左に表示されているだろうか?)は昨日の午後1時過ぎに大阪の上本町付近で撮影したものだ。別にどうということはないのだが、何となく気に入ったため。画像をクリックすると看板の下で何を売っているのかを見ることができるが、別にさほど意外なものが写っているわけでもないので、強いてお勧めするわけではない。なお、リンク先の写真のサイズは80.3KBなので、ダイアルアップ接続の人にはちょっと重いかもしれない。というか、私の接続環境もダイアルアップで、夢のブロードバンド実現は少なくともあと2年先だとNTTの人が言っていたので、本当は80KBの画像データなどアップしたくはないのだけれど、これまで画像ファイルをあまり扱ったことがないためファイルサイズを減らす方法を知らないのだから仕方がない。元のサイズは600KBを超えていたのをトリミングして縮小してようやっと80KBまで落としたのだ。これ以上縮小すると看板の文字が見えなくなってしまう。と、どうでもいいことを書いているのはなぜかというと、隣の画像の下のほうが次の項目の見出しにかかっているからだ。レイアウトを工夫すれば、わざわざ文字で埋めなくてもちゃんと配置できるのだろうが、私の中途半端なスタイルシートの知識ではベタベタと文字を埋めるほうが手っ取り早い。実は、私の環境ではすでに画像のいちばん下に文章が回り込んでいる(上の「くはないのだけれど、」から一行まるまる文字で埋まっている)のだが、小さな文字で見ている人もいるし、1027×768とかで見ている人もいるのだから、もっと頑張って文章を書き続けなければならないのだ。それなら改行を増やせばいいのだけれど、もはや目的と手段が転倒してしまい、無駄にだらだらと文章を書くことに倒錯した被虐の快感を感じるようになっているので、もう止まらないのだ。いや、別に被虐は関係ないか。ともあれ、人間の合理的思考というものがいかにはかなくいかにむなしいものなのかよくわかる実例といえるだろう。で、画面の解像度に話を戻す。私が今使っているモニタは15インチ液晶ディスプレイで、解像度は800×600に設定している。ところでモニタとディスプレイはどう違うのか。コンピュータの中身を"監視"するのがモニタで、コンピュータの中身を"表示"するのがディスプレイなのか。どっちでもいいような気もするが。閑話休題。一昨日、デジカメを買うために日本橋のソフマップに行ったついでに最新のパソコンをいろいろと見たのだが、17インチ液晶ディスプレイがなかなか魅力的で、次は大画面にしたいなぁと思いつつ、ちょっとネットサーフィン(死語)してみると、私のサイトが自分のパソコンとは全然違う見え方だったのでびっくりした。スタイルシートにさえ対応していれば、基本的にどのような環境で見ても差しつかえないように設計していたつもりなのだが、同じIEでも画面の設定が違うだけでこうも違うものかと驚いてしまったのである。テキストをべたべたと並べているだけのサイトなので、閲覧に支障があるわけではないのだけれど、ぱっと見が異なるとかなり違った印象を受けてしまう。それはそうと、最近そろそろ今のレイアウトに飽きてきたので、模様替えをしようかと思っているのだが、私にはデザインに関するセンスが皆無で、いや、それ以前に視覚的な事柄についての感受性に欠陥があるのではないかと思ってしまうくらいなので、たぶんマイナーチェンジで終わってしまうのだろう。ただ、この機会にタグの使い方を変えようと思ってはいる。今は段落ごとに頭の一字下げをスペースを挿入することで行っていて、改行にはBRタグを使っているのだが、BRタグは文章の論理的構造とは関わりなしに強制改行するときに使うタグなので、本来ならばPタグを用いるべきなのだ。Pタグを使うと段落と段落の間に一行空いてしまうのが嫌で、最初のうちは全く使っていなかったし、今でも話題の転換のために一行空きが必要なときに使う程度なのだが、スタイルシートを勉強してみると、Pタグを使っても行間を空けないように設定できることがわかったし、行頭一行空けもスタイルシートで実現できるようだ。ちまちまとCSSファイルをいじるのが面倒なので、いつになったら実施することになるかはわからないが、そのうちなんとか正常化を図りたいと思う。さてさて、さすがにそろそろ大丈夫だろう。いい加減キーボードを叩くのに疲れてきた。今から思えば、画像の横にテキストを回り込ませようとしなければこんな面倒なことにはならなかったのだ。気づくのが遅すぎた。いや、まだだ。まだ手遅れではない。生きてさえいれば、いったん書いた文章をすべて削除して、なかったことにすることは可能だ。でも、これはこれでいいような気もするし、せっかく書いたものを消すのはもったいないから、えいっ、このままアップしてしまえ。
 他人のことは言えないなぁ。長文失礼。

(追記)
 画像が表示されていない。なぜだ? FTPソフトで見ると、ちゃんとアップロードできているはずなのだが……。

(追記の追記)
 はっぴい!ぱらだいす!のFrom E氏のご教示により、画像表示に成功。

ローカル上で表示する場合は、拡張子が大文字小文字は、
関係無く表示されますが、ネット上で閲覧する際には、
今回の様に問題が発生しますので、
該当画像の拡張子を小文字に変更後、再アップして下さい。

 なんか途方もなく初歩的なミスで恥ずかしい。ともあれ、From E氏には大いに感謝します。
 ところで、ここの人(早く半角カナハンドルをやめてほしい……)からもメールが届いた。

でも、画像が表示されていないんですが、画像への
リンクが「j/wasure.jpg」になっているのが原因では?

 読んでもすぐには意味がわからなかったが、とりあえず感謝。
 では、画像&本文へ! ……と改めて言うほどのものでもないか。(←トップページでは「追記」と「追記の追記」を見出しのすぐ下に置いた)

1.10748(2003/07/22) フレーゲはクリムトの恋人

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030722a

 ただし、ゴットロープ・フレーゲではなく、エミーリエ・フレーゲのこと。この二人は同時代人だが、親戚かどうかは知らない。

 しばらく涼しい日が続いていたが、今日は久しぶりに蒸し暑くなり、まるで夏が来たかのようだ。暑い日には頭の調子が悪くなるので、あまり難しい事は考えられなくなるのだが、蔓葉氏との「プラトン風」論争(おお、いつの間にかK氏そっちのけで私が当事者になってしまっている!)が佳境にさしかかっているので、少しだけ書いておくことにする。
 まず白黒学派7/21付「『宵の明星』の指し示すもの」から引用。

「プラトン風の愛」がフランス語のamour platoniqueの翻訳仕立ての表現であることは、登場人物の設定や、会話の前後の表現から類推するに当然の帰結だと思います。それらをこれまで「小説の文脈」とし指摘してきました。またその文脈を踏まえれば「プラトニック・ラブ」と書かなかったことが、「プラトン風の愛」がamour platoniqueの意味で用いられていることをほのめかしていると考えることもできるでしょう。

 フランス語のamour platoniqueの翻訳仕立ての表現、と言い回しはちょっと曖昧で微妙だが、この文章は私が先日書いた文章を踏まえているのだから、フランス語の"amour platonique"の(字義どおりの意味ではない)通俗的慣用の翻訳仕立てのことだと解釈する。では、『サマー・アポカリプス』中の「プラトン風の愛」がフランス語のamour platoniqueの翻訳仕立ての表現であることは、果たして登場人物の設定や、会話の前後の表現から類推するに当然の帰結なのだろうか? もしそうだとすれば、同じ小説の中にあらわれた「一年にも満たない短いつきあい」や「カタリ派の古文献収集」なども、それらの表現を構成する単語の意味から構成される通常の意味ではなく、フランス語の慣用表現の翻訳仕立てだとみなすべきなのだろうか? おそらく、日本語に直訳すると「一年にも満たない短いつきあい」とか「カタリ派の古文献収集」になるフランス語の表現が、字義以外の慣用的な意味をもつことはまずあるまい。だが、本当にそのような慣用表現がないと断言するためには、フランス語の辞典を当たってみる必要があるだろう。
 もちろん、『サマー・アポカリプス』中のありとあらゆる表現について、"原テキスト"(?)たるフランス語の慣用句を想定し、仏語辞典を引いて確認しながら読むというのは常軌を逸した読み方である。まさか蔓葉氏もそんなことはしていないだろう。では、蔓葉氏はなぜ「プラトン風の愛」に限って、フランス語の慣用表現を引き合いに出して解釈しようとしているのだろうか? その言葉にルビや傍点が振ってあって、何らかの示唆をそこに感じたからなのだろうか? 「プラトニック・ラブ」と書いていないことが、フランス語の表現をほのめかしていると考えたからなのだろうか? どちらでもない。「同時代ゲーム」の指摘で当該表現に注意を喚起されたためだ。
 小説内の明示ないし暗示とは別の理由で「プラトン風の愛」に着目したにも関わらず、"amour platonique"が「プラトニック・ラブ」と同様の意味をもつ慣用表現であることを発見した後になって、これがフランス語のamour platoniqueの翻訳仕立ての表現であると主張し、かつ、その主張が小説の中でほのめかされた手がかりに基づくかのように述べるのは、いささか無理があるように思う。
 言うまでもなく、作中で「プラトン風の愛」には「アムール プラトニクー」などというルビを振ってフランス語からの翻訳であることを明示しているわけでもなく、傍点や括弧などのほのめかしにより読者の注意を喚起しているわけでもないのだから、特にプラトンの哲学や思想に関心のない読者はそのまま読み過ごしてしまうだろう。同様に、作者である笠井潔も特にプラトンの哲学や思想に関心がなかったために「『プラトニック・ラブ』=『プラトン風の愛』」と素直に考えて書き過ごしてしまった(「書き過ごす」という日本語はないと思うが、ほかに言葉が見つからなかった)と考えるほうが、作者がプラトンの愛についての考え方を熟知した上であえて「プラトン風の愛」という表現を"amour platonique"のぎこちない翻訳表現として用いることで小説の雰囲気づくりを図ったのだと考えるよりもずっと自然で無理のない解釈ではないだろうか?

 ……なんだかもの凄く長い文を書いてしまった。これでは誤読されても仕方がないので、直前の段落の最後の文を解きほぐしておこう。

  1. 笠井潔は特にプラトンの哲学や思想に関心がなかったために「『プラトニック・ラブ』=『プラトン風の愛』」と素直に考えて書き過ごしてしまったと考えられる。
  2. 笠井潔はプラトンの愛についての考え方を熟知した上であえて「プラトン風の愛」という表現を"amour platonique"のぎこちない翻訳表現として用いることで小説の雰囲気づくりを図ったとも考えられる。
  3. 上記1のように考えるよりも、2のように考えるほうがずっと自然で無理のない解釈ではないだろうか?(1と2が逆になってしまっている。訂正後の文はこちら)

 続いて、白黒学派7/21付「『宵の明星』の指し示すもの」の後半部分について。今度はフレーゲ的"Sinn","Bedeutung"(以下、「フレーゲ的」という修飾語句を省略する。また、これら二つの語を日本語の単語と同様に扱う。従って文中で使用するときには括弧はつけないし、語そのものに言及するときには""ではなく「」で括る)に関わる話題……なのだが、正直いってフレーゲの意味論の枠組みで「プラトン風の愛」とか「プラトニック・ラブ」というような表現をどう処理すればいいのか、私にはよくわからない。そもそもこれらの表現は指示表現なのだろうか? もしそうだとすると、指示対象たる"プラトン風の愛"そのものや"プラトニック・ラブ"そのものはどのような存在論的身分をもつのだろうか? どちらかといえば私はこれらの表現を関数(「xはyをプラトン風に愛する」など)の一部だと考えたい。だが数学の領域ではプラトン風の考えをもっていたフレーゲのことだから、もしかしたら愛についてもプラトニックに考えていたかもしれない。ああ、混乱を招く書き方だなぁ。
 形而上学が絡むと一気に問題がややこしくなるので、できれば避けたいのだが……。さしあたり、プラトン風の愛とかプラトニック・ラブは何らかの仕方で存在する対象である、とみなすことにしよう。その前提のもとで蔓葉氏の意見を検討してみる。
 まず、amour platoniqueと「プラトン風の愛」は意味Sinnはちがえども、表示(指示・指し示す対象)Bedeutungは同じであるという仮定について。この仮定が成立するためには、"amour platonique"を日本語の文の中で使用する(または「プラトン風の愛」をフランス語の文の中で使用する)ことが可能でなければならない。まあ不可能ではないだろうが、自然な日本語(または自然なフランス語)にはならないだろう。その場だけの特別ルールで日本語やフランス語の語彙を拡張するなら、SinnやBedeutungの調整方法もその場で決めることになる。決め方次第では上記仮定は真とも偽ともなるから、具体的な規約の場を度外視して一般にこの仮定の真偽を問うのは適切ではない。
 次に、「明の明星」と「宵の明星」について。意味Sinnが違うというのは、その対象が夜空に見えるときの時刻の違いとして「明」と「宵」の差異が生じていると考えている、というのが私にはよくわからない。私もフレーゲの専門家ではないが、要するに明け方にひときわ明るく見える星のことを「明の明星」と呼び、宵の口にひときわ明るく見える星のことを「宵の明星」と呼ぶ、という対象の捉え方の違いが二つの言葉のSinnの違いということだと思う。
 ただ、注意しなければならないのは、「明の明星」も「宵の明星」も対象の捉え方の名前ではなくて、捉えられた対象の名前だということだ。明の明星は明け方に見たときに限り明の明星なのではなくて、昼間でも(太陽の光が眩しくで見えないが)明の明星だし、夜でも(地球の陰になって見えないが)明の明星である。もちろん宵の口に見えたときでも明の明星が明の明星でなくなることはない。要するにこの星は24時間ずっと存在し続けており、明け方だけひょっこり生成してそれを過ぎると消滅するわけではない。宵の明星も同じ。

 う〜ん、何を書いているのか自分でも解らなくなってきた。これは暑さのせいだ。そうだ、それに違いない。

 「Sinn」とか「Bedeutung」などというややこしい専門用語の話はこのくらいにしておいて(全然語っていないような気もするが……)最後に蔓葉氏の次の問いについてコメントしておく。

ちなみに滅・こぉるさんは「プラトニック・ラブ=プラトン風の愛」は成立すると考えられますか。何となく問題となっている言葉の位置関係を明らかにしたい気がしているのです。

 以前から言っているように(慣用表現としての)「プラトニック・ラブ」は、実在するプラトン本人への指示言及をもはや含んではいないと考えられる。ちょうど「ハンバーグ」がドイツの港町を引き合いに出すことなく、挽肉をこねて焼いた料理を指すのと同様に、「プラトニック・ラブ」はプラトン本人が愛についてどう考えたかとは関わりなく、精神的で純粋な愛を指す。他方「プラトン風の愛」は、プラトンへの指示言及を含んでいるので、この表現がどのような愛を指すのかは、プラトンが愛についてどのように考えたかということと密接に関係している。ちようど「ハンブルグ風ステーキ」がハンブルグへの指示言及を含むのと同じように。
 さて、私はフレーゲの専門家ではないが、かといってプラトンの専門家でもない。今さら告白するのも気がひけるが、実は『饗宴』は未読だ。そんなわけで、プラトンの愛についての考え方についてはあまりよく知らない。まあ、プラトン自身は別にプラトニック・ラブを推奨したわけではないというのは確かだろうが、よくよく探究してみればプラトンが推奨した愛の形はつまるところプラトニック・ラブと同じだということが判明するかもしれない。ありそうもないことだとは思うが。

 やっぱり、少しだけでは済まなかった。
 こうやって、呑気に「プラトン風の愛」について文章を書いていると、あの比叡山延暦寺の焼き討ちがまるで遠い昔のことにように感じられる……じゃなくて、だんだん常連さんが離れて、どんどんアクセスが減っていくように感じられる。
 ネットを通じての議論はでは、ちょっとした言葉の行き違いや取り違えを是正するにも多くの労力が必要だ。蔓葉氏とは饗宴の場で直に語り合いたい、と重ねて願う次第。

1.10749(2003/07/24) 調子が悪い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030724a

 頭の調子とパソコンの調子の両方が悪いので、毎日更新が難しいりだが、蔓葉氏との議論が進行中なので、あまり間をあけるわけにもいかない。しばらく、「プラトン風の愛」関係の話題ばかりになりそうだ。
 さて、白黒学派7/23付で、一昨日の私の文章に誤記があることを指摘されている。ふつうなら特に注意書きなしにこっそり訂正するところだが、あとから読んでわけがわからなくなるといけないので、明記しておく。
 訂正箇所はここ。原文の上記1のように考えるよりも、2のように考えるほうがずっと自然で無理のない解釈ではないだろうか?を「上記1のように考えるほうが、2のように考えるよりもずっと自然で無理のない解釈ではないだろうか?」に訂正。
 ああ、ちょっとわかりにくいかもしれない。要するに訂正して次のようになったわけだ。

  1. 笠井潔は特にプラトンの哲学や思想に関心がなかったために「『プラトニック・ラブ』=『プラトン風の愛』」と素直に考えて書き過ごしてしまったと考えられる。
  2. 笠井潔はプラトンの愛についての考え方を熟知した上であえて「プラトン風の愛」という表現を"amour platonique"のぎこちない翻訳表現として用いることで小説の雰囲気づくりを図ったとも考えられる。
  3. 上記1のように考えるほうが、2のように考えるよりもずっと自然で無理のない解釈ではないだろうか?

 結局、1をとるか2をとるかということがポイントなのだが……。時間がないので、続きは次回に。

 確か訂正用のタグもあったような……。でもタグ辞典で調べるのが面倒だ。

1.10750(2003/07/24) 今日の一発ネタ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030724b

 『FIESTA!! −フィエスタ−』(犬威赤彦/コアマガジン)144ページ最下段の一言のために、私はこの本を買った。

1.10751(2003/07/25) これは『牧歌メロン』ではない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030725a

 見出しとは全く何の関係もなく、例によって「プラトン風」についてについて。
 先日の文章でほぼ決定的な論証をなし終えたと思っていたのだが、白黒学派の7/23付の記事を読んで、蔓葉氏のねばり強さに驚かされた。まるで砂雪氏の再来のようだ。
 今回は【大前提】から【結論】まで論証のステップを明示しているので、基本的にそれに従って話を進めることにしようと思う。
 まず気づいたのは、【中前提】が宙に浮いている(【解釈1〜6】の中に【中前提】への言及はない)ということだ。【中前提】が機能するとすれば、それは【解釈5】のステップだと思われる。『サマー・アポカリプス』の登場人物たちはフランス語で会話しているのだから、英語起源であることがあからさまな「プラトニック・ラブ」という表現を用いることは具合が悪い、という推論が隠されているのだろう。そう考えると【中前提】にも意味がないわけではない。
 だが、それでも蔓葉氏の文章の流れにはどうにもひっかかるところがある。自家製メロンを食べながらしばし考えて、ようやく思い至ったのは、次のことだった。【大前提】〜【結論】の流れは、蔓葉氏が「プラトン風の愛」に注意を喚起された理由の一応の説明にはなっているが、フランス語の慣用表現を引き合いに出す理由を正当化するわけではないということだ。なぜならば、同じ前提群は、蔓葉氏の解釈以外にも、笠井潔は「プラトニック・ラブ」と「プラトン風の愛」の語義の違いを見過ごした、という解釈をも支持するからだ。
 ……笠井潔は『サマー・アポカリプス』の作中でプラトニック・ラブに言及しようと考えた。だが、「プラトニック・ラブ」という表現をそのまま使うと具合が悪い。「じゃあ、多少ぎこちないけど同じ意味の『プラトン風の愛』という表現を使うことにしよう」と彼は考えた。ああ、悲しいかな、彼はプラトンの思想に通じていなかったので、プラトニック・ラブがプラトン自身の思想からかけ離れたものであることに気がつかなかったのだ!……
 これは自然な解釈であり、この解釈を退けるべき理由は今のところ特にないように私には思われる。たまたまフランス語の"amour platonique"が「プラトニック・ラブ」と同じ慣用的意味をもつことがわかったとしても、あえてその慣用表現を引き合いに出す根拠がない限りは、とるに足らない瑣末な事柄に過ぎない。
 思うに、蔓葉氏には「笠井潔はこのような初歩的なミスを犯す人ではない」という思いこみがあるのではないだろうか? この思いこみに従って考えを進めるならば、まずは「プラトン風の愛」に何らかの意図が込められているものと仮定し、その仮定に合致するようなデータを探すことになるだろう。そこでフランス語の"amour platonique"を見つけ、それなりに笠井潔の意図らしきものを組み立てることができた(ただし「プラトン風」についてではストーリーの都合上、"作者の意図"ではなく"翻訳者の意図"として議論を構成しているので、話がややこしくなってしまっている)。そうすると、蔓葉氏にとっては、こちらのほうが自然な解釈だということになるのだろう。あえて、笠井潔が単純に間違った言葉遣いをしたとみなすならば、それなりの根拠が必要だ、と考えて蔓葉氏は次の文章を書いたのだと思われる。

1と読む人もいるとこのたび気付かされましたが、もちろん僕は2のほうが自然で無理のない解釈だと考えています。だから、1についての論証を待っていたのですが、その論証はどこかであったのでしょうか。2の反証としてはありましたけれども。

 私が2つの解釈を並べてみたときには、両者を見比べてみれば特に論証するまでもなく1のほうが自然だということが誰の目にも一目瞭然だと考えていたので、特に1を擁護する論拠を示してはいなかった。だが、蔓葉氏と私の食い違いは予想以上に根深いようなので、改めて論証の必要があることが明らかになった。
 とはいえ、ある解釈が不自然であることを説明することはできても、解釈が自然であることを説明するのは並大抵のことではない。解釈が自然であるということはことさら説明するまでもないということなのだから。
 今の私に提示できるのは、文章を解釈する際に引き合いに出す事柄は最小限にすべきだという一般的な原則だけである。文章に間違いがあるなら作者のミスのせいだと考えるのが多くの場合には最も自然な解釈になるだろう。
 もちろん一般法は特別法によって破られるものだから、この原則にもさまざまな例外がある。たとえば、ミステリの場合には一見したところ作者の誤記だと思われた描写が実は真相を暗示する伏線だったということがしばしばある。『サマー・アポカリプス』もミステリだから、読んでいる最中には「ここで『プラトン風の愛』という表現を使うことによって、作者は登場人物の哲学史に関する教養の浅薄さを示そうとしたのだ」と疑ってみてもよい。別人になりすました人物が知識をひけらかすことによって逆に偽者であることを暴露してしまう、というのは常套手段なのだから。
 と、ここまで書いて、もしかすると『サマー・アポカリプス』はそんな話だったのではないか、という疑問が沸いてきた。なにぶん15年くらい前に一度読んだきりなので、犯人もトリックもすべて忘れてしまっているのだ。話を続ける前に一度再読してみなければならないかもしれない。困った。
 話が止まってしまったところで、今回はおしまい。

1.10752(2003/07/25) 石女または石中美人のこと

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030725b

 「石女」と書いてふつう「うまずめ」と読む(いや、この言葉は今ではあまりふつうではないかもしれない)。だが、今日の話題はその事ではない。見出しの「石女」はそのまま素直に「いしおんな」と読んでいただきたい。文字通り、石の中にいる女性のことである。
 石女の伝説は一般にはあまり知られていないようだ。ネット上にはさまざまな情報が溢れているが、検索しても石女に言及したサイトは見あたらなかった。このページに、石女という妖怪のことが書かれていて、一瞬「へえ、東北地方にそんな伝説があったのか」と感心したのだが……。
 ちなみに、「せきじょ」と読むと、宮城県石巻女子高等学校の略称になる。これも東北地方だ。

 さて、石女とは何か?
「天草版『蕗蕨三才草紙』巻之十参異本によれば、石女とは……」というふうに典拠を示して語ることができればいいのだが、私が知っているのは地元の人々の間の伝承だけである。それも親戚が一同に会して宴会を行い、ほろ酔い加減になってきた頃に、何かの弾みで出てくる話題という程度で、決まったストーリーがあるわけでもなく、人によって言うことがばらばらだったりする。以下の記述は記憶を頼りにまとめたものだが、細部には間違いもあることと思う。
 石女は女石の中に潜んでいる。女石というのはどこかの山の崖から時折発見される等身大で卵形の乳白色の岩石である。「女石」というのは安直だし、「どこかの山の崖」というのもいい加減で、もう少し何とかならないかと思うのだが……。せめて、女石の実物が神社の境内にでも飾られていればいいのだが、私の知る限りでは女石はお話の中にしか存在しない。
 石女を女石から掘り出す方法は「はじめのみなかかみやすりしあげした」と言い習わされる。漢字交じりで書くと「始め鑿、中紙鑢、仕上げ舌」である。最初に鑿を使って石を女の形に大まかに削る。このときにあまり掘りすぎると鑿が女体に刺さって死んでしまうので、適当なところで切りあげて、次に紙鑢に替える。紙鑢で皮一枚のところまで丁寧に磨き上げて、最後は舌で舐めて完全に石を除去する、という手順だ。紙鑢で最後まで磨くと皮膚を傷つけてしまっていけないのはわかるが、仕上げに舌を使うというのはちょっとピンとこない気もするが、ちょっとしたエロティシズムを入れて、話に彩りを添えているのだろう。
 さて、首尾良く女石から石女を取り出すことができたとしよう。彼女(彼女たち?)は伝説中の女性たちの例に漏れず、神秘的な美女ということになっている。ただし、容貌の美しさよりも、肌の柔らかさと温かさを強調して語られる傾向がある。苦労して石女を掘り出した男は、女を妻に娶り、その肌の心地よさを存分に楽しむのである。
 先ほど私はこの伝説が主に宴席で語られたと書いた。少しエロティックな話なので、大人が子供に語って聞かせることには抵抗がある。決して下ネタというわけではないのだが、どうしても大人のお話という色彩を帯びるのはやむを得ない。もちろん、語り手も聞き手もたいていは男性である。岩石と対比させることで、女体の素晴らしさを謳いあげたのだろう。
 石女伝説の話はこれでおしまいだ。もしかしたら昔は何らかの物語の一部として語られていたのが、時代を経るに従って物語本体の伝承が途絶え、石女という部分だけが残ったのではないかと想像するのだが、確証はない。また石女自体が農村共同体の変質と解体に伴って急速に忘れられつつある。私が最後にこの話を聞いたのは、祖父のお通夜のときなので、もう10年以上も前のことだ。それから今日の今日まですっかり忘れてしまっていた。

 最近、ふと思いついて澁澤龍彦を読んでみることにした。私は高校生の頃に『少女コレクション序説』ほか二、三冊を読んだ程度なので、まず手始めに昨日『東西不思議物語』(澁澤龍彦/河出文庫)を買って読み始めた。もとは毎日新聞日曜版に連載されたコラムということで、一般向けの軽い内容になっており、一回あたりの分量も短い。今の私にはこれくらいがちょうどいい。
 その『東西不思議物語』の中に「石の中の生きもののこと」という項があり、「長崎の魚石」の話が紹介されている(確か同じ話を北村薫のエッセイでも読んだ記憶がある。かなり有名な話なのだろう)。澁澤龍彦は『耳袋』からこの話を紹介したのち、同じ『耳袋』に書かれている木内石亭に関するエピソード(これもなかなか面白い)を語り、さらに石亭自身の書物にはそのエピソードがないことを指摘した上で、最後に次のように述べている。

 まあ、石亭に言われなくても、それが伝説であることは明らかだが、こうした種類の伝説には、それなりの必然性があったのではないかと私は思っている。石のような緻密な物体の中に生きものが隠れているというのは、それが不可能であればあるだけ、イメージとして面白いのだ。
『西遊記』の孫悟空だって、石から生まれているではないか。

 澁澤龍彦がもし石女伝説を知っていたなら、どのようにコメントしただろうか。想像してみるとなかなか楽しい。

1.10753(2003/07/27) 武田尾にて

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030727a

 最近、日に日に鉄道に疎くなっている。最近ショックだったのは、近鉄北勢線がいつの間にか三岐鉄道になっていたことだ。久しぶりに近鉄電車に乗って路線図を見ると、北勢線が他社線扱いになっていて、それで気づいたのだ。手元にある今年3月の時刻表では近鉄線として扱われているので、それ以降に移管されたのだと思うが、いつ行われたのか全く知らない。これほどのショックは、いつの間にかのと鉄道の一部が廃止されていることに気づいた時以来だ。
 このままではいけない。危機感を抱いた私は、次の瞬間には別にこのままでもいいような気がして平穏な日常に戻った。だが、これではあまりにもしまりがないので、昨日日帰り小旅行を敢行し、福知山線武田尾駅を訪れた。特にこの駅を選んだ切実な理由があるわけではない。ただ、たまたま昨日読んでいた『もっと秘境駅へ行こう!』(牛山隆信/小学館文庫)で紹介されていたからに過ぎない。別に保津峡駅でもよかったのだが、満員のトロッコ列車を見るのは不愉快だし、その中には、える・おー・ぶい・いー・ラブラブカップルもいるかもしれないから、無用なストレスを避けるために武田尾駅にしたのである。
 ところで、鉄道ファンの間には「駅で彼女を待っていても来ないことがある。しかし、電車は必ず定刻に着く」という格言が伝わっている。冷静になって考えてみれば、待ち合わせにすっぽかされる確率と電車が遅れる確率との間にさほど大きな差はないようにも思えるのだが、ここは冷静になってはいけないところなのだ。数多くの鉄道マニアたちが、一度は鉄道を捨て真人間として生きていこうと思いながらも、挫折を味わい、悔やみ、嘆き、諦めてきたという、この日本近代史の闇黒を我々はよく噛みしめ、共感をこめて上の言葉を復唱べきなのである。「駅で彼女を待っていても来ないことがある。しかし、電車は必ず定刻に着く。電車は必ず定刻に着く。電車は……必ず……必ず……定刻に着くのだっ!!」
 おっと、いけないいけない。私はネットで知り合った素晴らしい恋人と熱愛中なのだった。自分で考えた設定を忘れてしまうようでは、長期連載はおぼつかない。
 それはさておき、武田尾駅の付近は本当に何もないところで、まさに秘境駅の名にふさわしい。何もない山間の写真も撮影したのだが、ここに掲載してもあまり楽しくないので省略し、そのかわりに駅から少し歩いたところにある武田尾温泉の看板を紹介しておくことにしよう。
武田尾温泉の看板
 両端のコカコーラの広告が鮮やかで、田舎の雰囲気をよく醸し出しているが、ポイントはそこではない。4つ並んだ旅館名のうち向かって最も左に着目。
 まるき旅館
 マルキ・ド・サドに由来するのか、マルキシズムへの傾倒を示すのか、それとも単に丸木さんが経営しているだけなのかはわからないが、一瞬ちょっとここでは書けないような妖異に満ちた幻想に囚われてしまったことを私はここに告白しておきたいと思う。私は誘われるようにまるき旅館の門構えの前まで行ったが、別に宿泊予定もないのに中に入っても仕方がないと思い直し、そこで引き返した。温泉だけの利用も可、とのことなので、ちょっと惜しいことをしたような気もするが。
 結局、私は写真を何枚か撮影しただけで、旅館前から廃線敷(付け替え前の福知山線)を歩き、トンネルの中を通って駅に戻った。すると、半分橋の上、半分トンネルのホームの中ほどのベンチでカップルが肩を寄せ合って二人だけの世界を作っていた。いったい何をしにこんな駅に来たのだろうか?
 その後、三田(「みた」ではなく「さんだ」と読むべし)から神戸電鉄に乗って菊水山駅を目指したが、鈴蘭台駅で時刻表を見ると、次に菊水山に停車する電車は1時間後(普通電車の半分以上が菊水山を通過する)になることがわかり、根性のない私はそのまま神戸に出て、花火を見て帰った。花火会場には数万のカップルがいて、それぞれ二人だけの世界を作っていた。

1.10754(2003/07/28) 「論理的存在」について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030728a

 *the long fish*論理的存在という文章を読んで、いろいろと考えてみた。以下、引用を交えつつ、つらつらと書いていくことにしよう。

 通常「存在」という言葉は物理的存在に対して使用される。霊魂の存在を確認するために人体の重さが死亡直後に軽くなるか測定したという実験があるが、質量イコール存在という考えは根強い。

 日本語の「存在」には「存在するもの」と「存在すること」という2つの意味がある。これはちょうど「探偵」に「探偵するもの」と「探偵すること」の2つの意味がある(ただし現在では後者の意味で用いられることは少ない)のと同様であり、「存在」という言葉だけに関わる特別な事情があるわけではない。
 上の引用文中「物理的存在」は前者の意味(物理的に存在するもの)で、「霊魂の存在」は後者の意味(霊魂が存在すること)である。これはこれで特に紛れがないので別に構わないのだが、私は紛れの多い文章を書くので、前者の意味での「存在」を「存在者」と書くことにしようと思う。すなわち、「物理的存在」は「物理的存在者」、「論理的存在」は「論理的存在者」と、それぞれ書き換えるわけだ。ただし、当然のことながら、引用・言及の場合は原文どおり「物理的存在」「論理的存在」と書く。
 さて、ふつう我々が存在者の典型とみなすものが物理的存在者であることに疑いはない。「私の目の前にはパソコンがある」「京橋にはグラン・シャトーがおまっせ(関西ローカルなのでわからない人にはわからないと思うが、別にわからなくても一向に差しつかえない)」「渋谷駅前にはハチ公像がある」などなど。また、物理的存在者が質量をもつことも確かだといえる。ただ、物理的存在者の特徴は質量をもつことだけではない。時空の中に決まった位置をもつ、他の物理的存在者と因果関係をもつ、などなど。また、すべての物理的存在者に当てはまるわけではないが、我々が典型的な存在者とみなすものがもつ特徴として、感覚によって捉えられるということを挙げてもよいかもしれない。霊魂は感覚によって捉えられることはない(世の中には霊魂を感知できると思い込んでいる哀れな人々がいる。彼らは幽霊でも見ているのだろう。かわいそうに)から、典型的な存在者とはいえない。

 数少ない例外が「男女の間に友情は存在(成立)するか?」といった観念的存在や「ぼくのおうちにサンタクロースはきてくれるかな?」といったフィクションにおける存在だ。これらの「存在」は社会的行為や言語行為の集積だから、当然質量を持たない。このような存在を以下便宜的に「論理的存在」と呼ぶことにしよう。

 友情は質量をもたないから非物理的存在者だといっていいかもしれない。「そもそも、友情は存在者なのか?」という疑問もあるが、暫定的に友情の存在を承認してもいいだろう。そうしないと話が前に進まない。
 問題はサンタクロースのほうだ。サンタクロースは非物理的存在者なのだろうか? サンタクロースは体重がゼロなのだろうか? サンタクロースには血も涙もないのだろうか?
 私の知る限りでは、サンタクロースの質量に関する公式の伝承(?)はない。だが、もしサンタが質量をもたない非物理的存在者だとすれば、橇をひくトナカイたちは一体何を運んでいるのだろうか?
 サンタクロースなどのように物語や伝説の中に登場するキャラクターのことを虚構内存在者と呼ぶことにしよう。果たして虚構内存在者は物理的存在者ではないのかどうか、というのは虚構の存在論を考える上で非常に大きな問題である。この問題について考え始めるときりがなく、コミケカタログをチェックする時間もとれなくなるので、ここでは「ほとんどの虚構的存在者は当該虚構内において物理的存在者として現れる」ということと「『ぼくのおうちにサンタクロースはきてくれるかな?』と問う子供は、非物理的で質量をもたない存在者ではなく、生身のサンタクロースを前提として語っている」ということだけ指摘して、さらりと流しておくことにしよう。
 ところで、非物理的存在者として私が真っ先に思いつくのは、数的存在者である。たとえば「2より大きく5より小さい素数がひとつ存在する」と述べる場合のように、数学では数に関する存在言明はごく自然に行われている。2より大きく5より小さい素数は3だが、3には質量もなければ、何かの原因になったり結果になったりすることもなく、我々の住むこの時空間のどこにも位置をもたない。もちろん、見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりすることもできない。どれほど有能な霊能者でも3を感知することはできないし、3の幽霊を感知することすらできない。

 さて、こう考えると例えば小説は物理的存在と論理的存在の二つの側面を持つ。本を構成する紙やインク、綴じ紐が物理的存在だろう。そして物語内容である舞台や登場人物、プロットは論理的存在だろう。

 舞台、登場人物、プロットを同じ「論理的存在」という語で包括的に捉えていることに若干の疑問がある。ふつう、登場人物は当該虚構内において物理的存在者であるが、プロットは現実においても虚構内においても質量をもたない。というか、そもそもプロットは虚構内存在者であるかどうかすら怪しい。物語の舞台がどのような仕方で存在するのかを一般的に述べるのは難しいが、現実に存在する場所を舞台にした小説の場合だと、当然その舞台は現実に存在するのだから、物理的存在者だと考えられる。
 なんだか、もの凄く論理に飛躍があるような気がしてきたが、あまり気にしているとコミケカタログのチェックが(以下略)。

 このとき個々の本は物理的存在としては別々のものだが、論理的存在としては同一のものとなる。レビュアーの文章を参考に次に読む本を決められるのも、それぞれが手にした本は物理的存在としては個別のものだが、論理的存在としては同一のものだからだ。

 結局、全文を引用してしまった。ここまで読んで、筆者が何のために「論理的存在/物理的存在」という区別を行ったのかがわかる。わかる……のだが、どうにも釈然としない。
 今私の手元にある一冊の本――『ラブやん』(田丸浩史/講談社アフタヌーンKC)の2巻――は昨日の夜から私の机の上に乗ったままで、その間に私以外にこの部屋に立ち入った人間はいないはずだから、同じ本を別の人が読めたはずはない。だが、他方で昨夜から今晩にかけて日本中の多くの人々が同じ本を読んでいるはずだ。具体的な人数はもちろん挙げられないけれど、発売後間もない本だから、きっと数千人は読んでいることだろう。一見したところ相矛盾するこの事態を「物理的に同じ本を読むことはできなくても、論理的に同じ本を読むことは可能だ」と説明するのも確かに一案だが、「同一の本を読むことはできなくても、同種の本を読むことは可能だ」と言えばそれで済むように思う。
 別にどっちでもいいではないか、と思われる人もいるだろう。確かに小説とかマンガの場合にはどちらでも説明がつく。だが、フィクションとか物語ではない場合はどうだろうか? 今、私は通勤に使う鞄から『天皇家の財布』(森暢平/新潮新書)を取り出した。この本はタイトルが示すとおり、皇室経済について書かれた本で、まだ全部読んだわけではないから断言はできないが、架空の人物はたぶん一人も登場してはいないだろう。天皇、皇后、皇太子、その他の皇族、侍従、侍医、等々すべて現実に質量をもつ人々ばかりだ。
 最後に用語法について一言。「物理的存在(者)/論理的存在(者)」よりも「具体的存在(者)/抽象的存在(者)」のほうが、字面から意味が把握しやすいのではないかと思う。上で私は数学で扱う存在者のことを「数学的存在者」と呼んだが、それと同様に論理学で扱う存在者のことを「論理的存在者」と呼びたい気もする。

 「プラトン風の愛」論争が小休止しているので、今日はまったりと過ごそうと思っていたのに、なぜかいつもの癖が出てしまった。いけないいけない。そろそろ本当にコミケカタログのチェックをしないと。

1.10755(2003/07/29) 今とにかくミステリ以外の本が読みたい

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 というわけで、今読んでいるのは『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(鬼界彰夫/講談社現代新書)だ。教養系新書にしては珍しく400ページを超える長い本なので、ちょっと気合いを入れて読もうと思っている。
 だが、その前にもっと分厚い本を制覇しなければならない。本文(?)だけでも1000ページ以上もあるその本を8月中旬までに読破(?)しなければならないのだ。
 このような事情により今日はこれでおしまい。これから付箋紙とボールペンを使ってその本と格闘する。今回は「マリみて」が多いだろうなぁ。

1.10756(2003/07/30) 萌えの泉

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0307c.html#p030730a

 昨日に引き続き手抜きモード。今日は他人の文章の転載でお茶を濁す。
 だが、その前に砂色の世界・日記(7/29付)を読んでおくべし。これを読まないと次の引用文の意味が理解できない。

 さて、用意はできただろうか? いよいよ転載開始! 無断なので、筆者本人から抗議があれば直ちに削除する。

(都合により全文削除)

 ……などというベタなネタはさておき、本番。

萌えにおける聖属性という点では、巫女に敵うものなどあるものか。
町内に一人はいる、ご近所の由緒正しき巫女さんに萌え♪
一家に一人のメイドさんとは、安心感が違います。

しかも、巫女さん好きは袴だけでは萌えぬのが王道。中身が伴ってこその巫女。
メイド喫茶でお喜びのメイド萌えの人たちとは違い、格好だけの巫女は
「チッ、なんちゃって巫女かよ」と一蹴。洋モノなぞに負けるものですか。
巫女さんこそ、現代に残る和(なごみ)の心、萌えの泉(´¬`)

 私にはメイド属性もなければ巫女属性もない。ついでに言えば、ロリ属性もないし、ショタ属性もない。だから「メイドか巫女か、などというのは瑣末な事だ。重要なのは、12歳以上か未満かということだ」などと主張するわけでもない。そんなことより老後の余生は海の見える静かな温泉地でのんびりと湯煙に包まれながら過ごしたいものだ。
 さて、カタログチェックに戻るか。

1.10757(2003/07/31) 二○○三年七の月

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 今日で7月もおしまいだ。7月といえば忘れもしない、あの1999年7月、人類が滅亡してから4年が経過した。年月が経つにつれて徐々に人々の記憶が薄れつつあるのは残念だ。我々は決して人類滅亡という悲惨な事件の記憶を風化させずに次世代へと語り継がねばならない。
 さて、今日は私の知人の某氏が某社を退社した記念すべき日でもある。その某氏は、昨年末のコミックマーケットでとてもここには書けないような出来事を体験し、「コミケには飽きた」という捨てぜりふを残し有明埠頭を後にしたのだが、何の因果か今年の夏コミで某社ブースの担当にされてしまい、西館4F地獄の3日間を過ごすことになった。某氏は当初じたばたしたものの、やがて諦念の境地に達し、粛々とイベントグッズの作成に励んでいたものの、さまざまな災難や災厄が襲いかかり、すっかりうちひしがれて、とうとうこのたびの退社と相成ったという。一時は『緋牙刻』(的良みらん/ヒット出版社)の巫女さんパワーで立ち直るかと思われたが、コミケの魔力には叶わなかったようだ。
 そんな某氏に送る今日のテーマは、「メイド喫茶に比べて巫女喫茶はなぜはやらないのか?」だ。
 答えは簡単。本物へのアクセスの難易度の差である。おしまい。
 これではあまりにあっけないので、もう少し補足説明しよう。現在の日本では本物のメイドさんにアクセスするのは非常に困難である。その理由は2つ。

  1. 絶対数が少ない。
  2. 仕事場が私的な空間である。

 このような事情により、メイド属性という業をもつ者どもは否応なしに疑似メイドへと導かれることになる。すなわち、メイド喫茶のウェイトレスである。
 他方、巫女さんはどうか。本職の巫女さんがどれくらいいるのか私にはわからないが、少なくともメイドさんよりも多いだろう。そして、巫女さんの職場は基本的に誰でも立ち入り自由な神社なのだから、あえて巫女喫茶で茶髪巫女もどき(某氏の言葉を借りればなんちゃって巫女)に心のよりどころを求める必要はない。
 巫女喫茶には、どうしても安っぽさや風俗臭がつきまとう。仮にナース喫茶があるとすれば、風俗臭はより強く感じられることだろう。本物へのアクセスが容易であればあるだけ、偽物(と言ってしまうと身も蓋もないが……)の価値は下がってしまう。

 と、ここまで書いたところで、甲影会から書籍小包が届いていることに気づいた。早速開封すると、中から出てきたのは『別冊シャレード74号 天城一特集9』『別冊シャレード76号 天城一特集10』だった。わっ、一気に2冊か、凄いな。
 今日はこのあと、偶像としてのメイド喫茶ウェイトレスを通じてメイドさんの聖性へと至る脳内妄想について語る予定だったが、予定を変更してこれから早速『別冊シャレード』を読むことにする。
 今ぱらぱらとページを繰ってみると、どうやら天城一特集は10冊で完結したようだ。『9』にはここで大絶賛されている角川文庫版『黒いトランク』解説も収録されている。
 なお、今度の夏コミで甲影会のスペースは2日目東ポ32aだ。別に頼まれたわけではないが、宣伝しておこう。