日々の憂鬱〜2003年5月中旬〜


1.10666(2003/05/11) オタク馬、オタク犬

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030511a

 砂色の世界・日記(5/9付)から少し長い引用(強調は引用者)。

 今日は自分の学校の授業は普通にサボって他大学の夜間部の授業に出てました。言語哲学。論理記号学の所やってて、なかなか面白かったです。先生がマシーンのような人で、さくさくと授業が進むので非常に宜しい。ただ、個体項のところの説明で騙されたような気が。個体変項と述語の違い、てなんですかね。
 例えば、個体定項が太郎=aとする。これを個体変項=xにした時、ここに入るのは人間だけなんですかね。馬でも犬でも牛でも良いんですかね。しかし、もし犬とかウマではなく、人間しか入ってはいけないのだとしたら、それはxが人間であるとされるわけだから、「…は人間である」という述語Fについて、∀xF(x)としなきゃいけないんじゃないですかね。なので、「太郎はオタクである」をG(a)とするなら、「誰かはオタクである」はG(x)。しかしそこに犬とかはいっちゃだめで、人間しか入ってはならないとすると、「誰かはオタクである」はG(x)∧∀xF(x)にならないんですかね。いや、よくわかんないんですけど。
 で、そんな質問をしたら先生は、「例えば君が人間と言う言葉を使った時、その言葉は二つの意味を指す。一つは人間個人個人を指すのであり、一つは人間と呼ばれる者たちの全ての集合を指す。そして、後者の意味では確かに人間の性質をあらわしてしまうが、前者の意味ではそうではない。そして、この場合前者の意味のみが使われている」と答えてくれました。なんか騙されている様な気がしてなりません。私としては、「人間という言葉が人間の個人個人を指すのだとしても、そもそも、個体変項xには『人間』を『指す』という制限(性質)があるのだから、これはきちんと宣言されなければならないのでしょうか」という事を言いたかったのですが、その時はこの疑問が言葉に出来ませんでした。今、日記を書いている途中に綺麗に言葉に出来ました。つーか、これを見る限りやはり騙されていると思わざるを得ない様な気が。それとも、この場合のxには豚や馬が入っても良いんですかね。でも、もし何が入っても良いのだとするのなら、無機物が入っちゃったりして、そもそも意味を成さない文が出来る可能性を許すのでは。それは問題にならないんですかねえ。まあ、これからの授業を受けて行けばわかりますかね。とりあえず、面白いのでこれからも受けに行きます。単位にならないですけど、無料だし。にんにん。

 「論理記号学」という言葉があっただろうかと思ってgoogleで検索してみたら、3件ヒットした。うち2件は「論理・記号学」だが、残る1件は一語として用いられている。たぶん記号学の中にそういう分野があるのだろう。ただし、上の引用文で話題となっているのは、明らかにsymbolic logicだから、「記号論理学」と書くほうがいいと思う。えっ? 「象徴論理学」? う〜ん。
 もう一つ指摘しておきたいことがある。「誰かはオタクである」という文を記号化するなら「G(x)」では不十分で、「∃xG(x)」でなければならない。個体変項xを用いたら、量化子で束縛しておかないと完全な文にならない。
 さて、砂雪氏の疑問を再構成してみよう。「誰かはオタクである」を「∃xG(x)」と記号化すると、xの範囲に限定がないため牛や馬でもいいことになってしまうのではないか? オタクかそうでないかということは人間についてのみ言われる事柄だから、「…は人間である」という限定が必要なのではないか?
 「誰かはオタクである」の「誰か」の範囲が人間に限られることを明示して記号化すれば「∃x(G(x)∧F(x))」となる(砂雪氏は全称量化子を用いているが、そうすると「みんなが人間である」という意味になり、牛も馬も人間に含まれてしまうので具合が悪い)。
 ところで、自然言語の文を記号化するのは何のためだろうか? それは推論の見通しをよくして、妥当か妥当でないかの判定を簡単にするためである。従って、ある文をどのように記号化すればいいのか、という問題は、想定される推論に即して判断しなければならない。たとえば「太郎はオタクである。ゆえに、誰かはオタクである」というごく簡単な推論を考えてみる。前提の「太郎はオタクである」を「G(a)」、結論の「誰かはオタクである」を「∃xG(x)」と記号化すると、この推論が標準論理の推論規則(この規則には名前があったのだが忘れた)に合致しており、妥当であることがわかる。他方、「誰かはオタクである」を「∃x(G(x)∧F(x))」と表すと、「G(a)」からは帰結しない(前提に含まれていない述語Fが結論に出てきてしまっている)ので、この推論の妥当性を示すことができない。
 オタクであるのは人間に限られるのだから、太郎も当然人間だ。そう解釈すれば「太郎はオタクである」は文字通りの意味のほかに、「太郎は人間である」という含みを持っていることになる。そこでこの文を「G(a)∧F(a)」と記号化することにしよう。そうすると、ここから「∃x(G(x)∧F(x))」が帰結するので、もとの推論(「太郎はオタクである。ゆえに、誰かはオタクである」)の妥当性を示すことができた。よかったよかった。
 だが、このようなやり方は余計な手間をかけているだけのような気もする。「以下の推論は人間に関するものである」と予め宣言しておけば、各々の文に「…は人間である」という述語を挿入する必要はないのではないか? 要するに、「オタク」という言葉を使って何事かについて語る場合は、はなから人間だけを念頭に置き、牛や馬や犬、または無機物などは論外とみなす、ということだ。ふつう私たちは言葉をそのように用いている。「東京タワーはオタクである」とか「チョモランマはオタクではない」という文は真でも偽でもなく無意味なものとして退けられる。
 だが、文法上全く問題がないのに真でも偽でもなく無意味な文を論理学でどう処理するのか、というのはなかなか難しい問題だ。第三の真理値を導入するのか、それとも無意味な文を排除する規則を打ち立てるのか。あるいは、「東京タワーはオタクである」を偽、「チョモランマはオタクではない」を真とみなすのか。どれも一長一短あって、私には何とも言えない。というわけで、砂雪氏の疑問に明快な解答を提示することはできない。
 だらだらと書き連ねて、結局尻切れトンボになってしまった。論理学の哲学は難しい。

 若干の補足。
 上の文章では「文」という言葉を使ったが、もしかすると「命題」または「言明」のほうがよかったかもしれない。このあたりはかなりいい加減だ。

1.10667(2003/05/12) この辞典は兇器にもなる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030512a

 鬱だ。明日から2週間カロリーメイトだ。
 講談社『類語大辞典』を買ってしまった。一昨日の段階ではまだ迷っていたのだが、じゃんぽけ(5/11付)でとどめを刺されてしまった。それでも本屋になければ買わずにすんだのだが、運悪く会社の近くの行きつけの本屋に置いてあった。それでも金がなければ買わずにすんだのだが、運悪く2週間分の生活費を引き出したばかりだった。私は『類語大辞典』を手にしてしまった。
 買ってしまったからには仕方がない。箕崎氏に倣って「ちんこ」の類語を探すことにしよう。
 冒頭の五十音順索引で「ちんこ」を検索。2802k15だ。ちなみにすぐ下は鎮護だ。2802は「交わる」。どうして「ちんこ」が「交わる」に分類されているのか、一瞬訝しんだが、「交わる」の下位分類に「性交する」があったので納得。
 さて、2802kは「交わる」にまつわる名詞のうち「モノ」が収められている。同じ名詞でも「コト・サマ」はh(人の交わりなど)、i(性行為など)で、「ヒト」はs、というふうに分けられている。2805kの最初に出てくる(2805k00)は「性器」だが、「ちんこ」は男性器だから「男性器」(2805k11)以降を見ることにする。

  1. 男性器
  2. 陰茎
  3. ペニス
  4. ちんちん
  5. ちんこ
  6. 魔羅
  7. 男根
  8. 一物
  9. 陽物
  10. 亀頭
  11. 雁首

 あれ? 11個しかないじゃないか! この後に続くのは「陰嚢(いんのう)」「陰嚢(ふぐり)」などで、これもまあ男性器には違いないが機能が違う。最低12種類は呼称が載っていた筈というのは嘘だったのか? これでは、12人の妹に別々の呼び方で呼ばせることができない。
 鬱だ。もう死ぬしかない。
 死ぬ、死する、没する、果てる、事切れる、亡くなる、身罷る、押っ死ぬ、くたばる、ごねる、御陀仏になる、死亡する、死去する、物故する。死没する、死人が出る、死者が出る、天寿を全うする、自然死する、脳死する、心臓死する、死に絶える、死滅する、全滅する、絶滅する、息が絶える、息絶える、絶息する、息が途絶える、息を引き取る、絶え入る、絶え果てる、脈が上がる、命が絶える、絶命する、命が尽きる、命を落とす、落命する、逝く、逝去する、長逝する、他界する、世を去る、消える、消え入る、倒れる、眠る、永眠する、永遠の眠りに就く、永久の眠りに就く、目を瞑る、瞑する、瞑目する、散る、花と散る、散華する、冷たくなる、骨になる、土になる、土に帰る、朽ち果てる、空しくなる、亡き数に入る、鬼籍に入る、帰らぬ人となる、不帰の客となる、黄泉の客となる、幽明境を異にする、白玉楼中の人となる、巨星墜つ、御隠れになる、崩ずる、崩御する、薨ずる、薨去する、往生する、大往生する、成仏する、浮かばれる、御迎えがくる、昇天する、神に召される、寂する、入寂する、入定する、示寂する、寂滅する、遷化する、入滅する。以上、「死ぬ」の項から(0005a00〜88)。
 「死ぬ」とは別に「殺す」という分類(0007)もあり、その中には「自分で自分を殺す」という下位分類(0007b14〜42)がある。命を絶つ、自殺する、自害する、自決する、時裁する、自尽する、自刃する、刃に伏す、生害する、自刎する、腹を切る、切腹する、割腹する、屠腹する、諫死する、身を投げる、身投げする、投身する、入水する、首を吊る、首吊りする、首を縊る、縊れる、縊死する、心中する、無理心中する、後追い心中する、相対死にする、情死する。
 う〜ん、「無言の帰宅をする」と「ブランコ往生する」がない。死のう。

 この文章はif → itself五月病雑文祭に参加するつもりで書いたのだが、五月病をテーマにしていることという条件を満たしていないので、前回に引き続き、参加を見送ることにした。無理をすれば五月病に関連する話題を入れられないこともないが、まとまりが悪くなってしまう。
 生きていればあと一回くらいはチャンスがあるだろう。

1.10668(2003/05/14) ふつうの人

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030514a

 この世には二種類の人間がいる。ふつうの人とそうでない人だ。もちろん、これは排中律の適用例の一つに過ぎず、瑣末な事だ。
 ふつうでない人には概ね三種類の人がいる。才気溢れる人、ひきこもり、自殺未遂者(自殺志願者を含む)だ。これは瑣末な分類ではない。私の独断と偏見に基づくものだ。
 才気溢れ、かつ、ひきこもりでもある人がいる。ひきこもりで、かつ、自殺未遂者もいるだろう。自殺未遂者で、かつ、才気溢れる人もいるに違いない。だから、三つの項目は排他的なものではない。また、ふつうでない人はみんなこれら三つの項目のうちのどれかに分類されるというわけではない。たとえば、私自身はふつうでない人間だと思うが、溢れんばかりの才気とは無縁だし、ひきこもってはいないし、自殺未遂者でもなければ志願者でもない。
 私はふつうでない人々と接するのが苦手だ。才気溢れる人に会うと、自分の矮小さを思い知らされる。ひきこもりのメンタリティに私に通じるものを感じて落ち込む。そして、自殺未遂者に接すると、私自身も引きずり込まれそうになるので、怖い。
 では、ふつうの人々と接するのはどうか? 実はそれも苦手だ。ふつうの人のふつうの言葉が私には異形のものに感じられる。私の言葉はふつうの人々には通じないことが多く、時には茫然と立ちすくむこともある。何ともいえない、嫌な瞬間だ。
 要するに、私は他人と接するのが苦手なのだ。そういうことだ。

 (追記)
 上の記事を書いたあとで思いやりのある人たちへ(情報もと:幻燈稗史)を読んだ。何か関係ありそうだが、上の「ふつうの人」がリンク先の「シミン」と同一だという単純な話にはならないだろうから、どう結びつけたらいいのかがわからない。
 忘れる前にとりあえずリンクしておく。

1.10669(2003/05/14) かわいいコックさん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030514b

 この話題を扱うのは一回きりにして、そのうちほとぼりが冷めた頃に削除し、そしらぬ顔をしようかと思った。どうも私のキャラクターに合わないからだ。だが、いくつかのサイトでリンクを張られてしまったので消さずに置いておくことにする。
 「この話題」というのは一昨日の「ちんこ」ネタのことだ。『類語大辞典』には11個しかなかったが、ネタ元の箕崎氏から「シャフト」「肉茎」を提供していただいたので、13個確保できた。と思ったら、茗荷丸氏からそもそも10は部分の名称であるようなというツッコミ(5/13付日記)が入った。10というのは「亀頭」だが、11の「雁首」も同じだから、2個減って、差し引き11個のままだ。だが、捨てる神あれば拾う神あり(?)、砂雪氏の「珍矛」(砂色の世界・日記5/12付)で何とか12個確保できた。
 念のため、再掲分を併せて12の名称を列挙しておこう。

  1. 男性器
  2. 陰茎
  3. ペニス
  4. ちんちん
  5. ちんこ
  6. 魔羅
  7. 男根
  8. 一物
  9. 陽物
  10. シャフト
  11. 肉茎
  12. 珍矛

 これで難点の大部分は解消した。あとは、12人の妹をどうにかして調達するだけだ。

1.10670(2003/05/14) たまにはミステリの話でも

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030514b

 インターネットで選ぶ本格ミステリ大賞2003政宗九の視点)の結果が発表された。私はこれに投票できなかった。4月に入るまで1作も読んでいなかったのだから当たり前といえば当たり前なのだが、続けて『法月綸太郎の功績』と『聯愁殺』を読んで、この勢いで『オイディプス症候群』も……と思った瞬間もあり、実際今でも私の枕元にはこの本が鎮座している。でも第一章を読んだだけで、そこから先には進んでいない。やはり私には無理だったのだ。ああ、新刊書店で定価で買ったのに……。
 だが、勢いが止まってしまったのは必ずしも『オイディプス』のせいばかりとはいえない。通勤途中に読もうと思って『マレー鉄道の謎』も買ったのだが、これがまた難物で、別に読みにくい話ではないはずなのに全然先に進まず、導入部分の観光案内と人物紹介を兼ねた箇所で止まったままになってしまっている。もし『マレー鉄道』を完読していれば、『GOTH』も読めただろうし、残り一作というところまで漕ぎ着ければ多少しんどくても『オイディプス』を読み終えたことだろう。そう考えると、『マレー鉄道』での躓きは大きい。
 オフィシャルのほうでは『GOTH』が『オイディプス』を辛うじておさえて受賞したそうだが、ネット版では『聯愁殺』がトップとなった。私は『法月綸太郎の功績』のほうが、パズラーとしてよく書けていると思ったが、「本格ミステリ」という言葉からイメージする評価基準が人それぞれなのだから、あまり深くは追及しないことにする。
 ところで、西澤保彦氏の日記を見ると、西澤の『聯愁殺』は、あえなく玉砕。まあ、他の候補作の強力な布陣に鑑みるに半ば予想されていた結果ではあるんですが、やっぱり自分で思う以上に期待していたんでしょうか、ダメだったと判った途端、ちょっと凹みました(笑)と書いている。悔しさが滲み出ていて、文末の「(笑)」も痛々しい。だが、ネット版では受賞しているのだから、今頃複雑な心境ではないだろうか(文面から察するに、ネット版の結果を知る前に書かれた文章だと思われる)。私の好きなミステリ作家の一人なので、この悔しさをバネにして、傑作を物して貰いたいものだと思う。
 ところで、同じ日記で創元推理文庫より復刻中の都筑道夫先生の『退職刑事』の6冊目の巻末へ寄稿予定の解説、書き始めたものの、どうも切り口が気に入らない。結局、書いていた分は全部破棄して、最初からやりなおすことにする、と書かれていて、何となく心苦しい。いや、ここで「心苦しい」という言葉を使うのは変だ。もっといい表現はないものか。「遣り切れない」? 違う。「胸が痛む」? これもちょっと違う。「同情する」? やや意味がずれる。う〜ん。困った。『類語大辞典』でもぴったりの表現が見つからない。
 もどかしいが、仕方がない。
 少し前に私は『退職刑事』シリーズを通読した。創元推理版の『退職刑事6』はまだ出ていないので、徳間文庫版の『退職刑事5』(本当は「5」は囲み文字なのだが、便宜上囲みなしで表記する)を読んだ。巻数が違っているのは徳間版の『退職刑事3』と『退職刑事4』の間に書かれた『退職刑事健在なり』が『退職刑事4』と改題されて創元推理文庫に収録されたからである。なんだか某名作ミステリのトリックのようだ。
 それはともかく、このシリーズは後になればなるほど、どんどん変になっていく。総じて初期のほうが出来はいいのだが、後期の作品は単にレベルダウンしたというのではなくて、変になっていく。どう変になるのかはちょっと説明しにくいのだが、とにかく変だ。常人には解説不可能、と言い切ってしまおう。徳間版『退職刑事5』に解説がなく、作者あとがきだけが収録されているのは、きっと誰も解説が書けなかったからだろう、と邪推したくなるほどだ。
 この本にまっとうな解説を添えることができるとするなら、「21世紀の都筑道夫」と呼ばれる西澤保彦その人しかいない、と私は勝手に思っている。なお、「21世紀の都筑道夫」と呼んでいるのは私だ。もう一人、法月綸太郎(念のため書いておくが、探偵ではなく作者のほうだ)も「21世紀の都筑道夫」と呼ばれるに値する。特に『法月綸太郎の功績』は『退職刑事』の系譜に位置する傑作(今、ふと思いついたのだが、私が『聯愁殺』より『法月綸太郎の功績』のほうをパズラーとして高く評価するのは『退職刑事』の読書体験のせいかもしれない)なのだが、残念ながら(?)法月氏は創元版『退職刑事1』の解説を書いているから最終巻の解説を書くことはあるまい(一人で2冊の解説を書いた人もいるが……)。そういうわけで、西澤氏がトリを飾るのは至極当然、妥当な人選だと思うが、さすがの西澤氏ですら難航しているとは……。『退職刑事』、恐るべし!
 あ、なんだか話が『退職刑事』のほうに流れている。よ〜し、ついでだから退職刑事の本名についての推理を披露しちゃうぞぉ。
 『退職刑事』の探偵役、退職刑事の本名は作中では一切言及されない。いわゆる「名無しの探偵」の系譜に属する探偵役だ。だが、よく読むと彼の名前が何であるかを示すデータは作中にちゃんと提示されている(とみなす)。これまで誰も指摘してこなかったことだが、『退職刑事』にはあからさまに不自然な記述が随所にある。その不自然な記述が実は伏線で、よく考えれば退職刑事の本名が自ずと明らかになるという仕掛けなのだ。では、彼の本名は何か?
 それを明かす前に、ちょっと風呂に入ってくる。しばらく待たれよ。

 風呂から上がった。
 ええと、退職刑事の本名、か。
 なんだかつまらないなぁ。「たそがれSpringPoint」の読者のうちどのくらいの人がミステリに興味をもっているのかもわからないし、さらにその中で『退職刑事』シリーズを読んでいる人がどれくらいいるのかもわからない。さらにさらに、退職刑事の本名の話を理解するためには最低でも『退職刑事4』くらいまで読んでいないといけない。いくら読者のことを無視して突っ走る私でも、この話題を続けるのはちょっと気がひける。そういうわけで、この話はなかったことにしてもらおう。削除するとかえって思わせぶりになるので、そのまま残しておくけれど。
 そういうわけで、今日はこれでおしまい。

1.10671(2003/05/15) 靴を買うなら靴屋の靴を!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030515a

 見出しは先日近所の靴屋で思いついたフレーズ。特に意味はない。

 あまり続けたくはなかったのだが、また一件情報提供があったので、ちょこっとだけ。「破前(はぜ)」は平安期頃まで一般的だった呼称だそうだが、私は今まで知らなかった。例によって検索してみたが、全然関係なさそうなページが多い。その中で、松屋筆記という見聞録(小山田与清が弘化 4年(1847)に歿するまでに書き溜めた見聞や、事物の考説をまとめたものだそうだ。当然のことながら、私は小山田与清などという人物のことは知らない)の一節が関係ありそうなので、一部引用してみる。浅学非才ゆえ、文の切れ目を間違えているかもしれないが、ご容赦願いたい。

また玉茎を破前といふも常は痿貌の物の春心発動すれば走顕るゝゆゑにさはいへるにや麻良も破留の通音にて張ふくるゝ由の名にても有べし

 よくわからないが、「破前」という言葉の語源を解説しているらしい。「麻良」は「魔羅」のことか?
 ところで、リンク先相撲評論家之頁というサイトの一部で、相撲関係の文献を集めた史料庫に収録されている。私は特に相撲に興味はないが、このように充実したウェブアーカイヴを見ると心躍る。私は百科事典や博物館が大好きなのだが、それらに通じるものを感じるのだ。飽きっぽい私には到底なし得ない業である。

1.10672(2003/05/17) 死なない程度に、こけちゃう程度に

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030517a

 見出しは知人から受けたメールのタイトル。例によって本文とは何の関係もない。

 「政宗九の視点」の新掲示板政宗九の視点)で論争が起こっている。先日発表された「本格ミステリ大賞」(インターネットで選ぶ本格ミステリ大賞2003ではなくて公式のほう)の投票者数が少ない(2003年1月現在の会員総数126人に対して、小説部門の有効投票数は53票、評論・研究部門の有効投票数は32票)ということについて、さまざまな意見が出されている。なかなか面白いやりとりがあるのだが、記事を引用してコメントをつけるのは控えておく。興味のある人はログが流れる前に一読することをおすすめしたい。
 本格ミステリ作家クラブはもともと「本格ミステリ大賞」を活動の中心に据えた団体だそうだ。発足当時に会員だった石川真介はこの方針に馴染めず退会している(「本格ミステリ作家クラブ通信」第4号)くらいだ。そうすると大賞への投票はほとんど会員の義務に近いとでもいえるだろう。それなのに、小説部門ですら全会員の半数以上が棄権しているというのは確かに問題であるに違いない――本格ミステリ作家クラブにとっては。もちろん、本格ミステリ作家クラブ会員ではない私にとっては直接関係がないことなので、このことについて当然の権利に基づいて非難したり何らかの要求を行ったりすることはできない
 とはいえ、「本格ミステリ大賞受賞作!」というオビがついた本を書店で見かける可能性があるわけだから、非会員の一般読者が本格ミステリ大賞の運営について全く無関係というわけでもないだろう(というのはかなり苦しい言い分で、現状では本格ミステリ大賞の認知度は協会賞などと比べるとずっと低い)。そこで、ちょっと提言。今は単純にいちばん多くの票を獲得した作品を大賞にしているが、その方法を改めて、1位作品の獲得票数が2位作品の獲得票数プラス棄権者数を上回る場合にのみ大賞を授与することにすればどうか。議会や首長選挙などでこの方法をとったら大変なことになってしまうが、幸い本格ミステリ大賞受賞作が出なくても、日本のミステリ界の活動が1年間ストップするわけではない。もしかするとこの方法では永久に大賞受賞作が出ないかもしれないが、仕方がない。「準大賞」とか「大賞なしの優秀賞」とか適当な名目をつけて毎年何らかの賞が出るようにすれば、本格ミステリ作家クラブの存続意義が根本から揺らぐこともないだろう。
 ところで、そもそもどうしてこんなに棄権が多いのか? 人間関係のしがらみがあって投票しづらいからという理由もあるだろうが、候補作すべてを読んでいないので投票条件を満たしていないという理由で棄権する人もいるだろう。たかが5冊、だが人は本格ミステリ大賞候補作のみを読んでいればよいというわけではない。さまざまな事情により他に優先して読まなければならない本が多くあって候補作まで手が回らないということは十分考えられる(言うまでもなく、私は棄権者を擁護しているわけではない。擁護するにせよ非難するにせよ会内部の事柄である)。そのような理由で棄権した人は最初から有権者のうちに入れないことにすれば、投票率はもっと上がるだろう。大賞の権威が上がるかどうかは定かではないが。

 今日はさくっと流して書くつもりだったが、予想外に手こずった。選挙の投票率低下の話題と絡めて書きたかったが、眠気に負けた。残念だが断念。

1.10673(2003/05/18) 煙草について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030518a

 喫煙者を救え!(情報もと:幻燈稗史)は、よくできた文章だと思う。喫煙者の位置づけを非喫煙者にとっての憎むべき敵から憐れむべき被害者へと転換することで、非喫煙者に優越心を持たせることができる。逆に、非喫煙者から見下げられることになる喫煙者は感情的に反発したくなるところだが、筆者自身が元喫煙者なのだから「喫煙者の気持ちも知らずに勝手なことを言っている」というような反論(実はこれは論理的には有効な反論ではない。相手の気持ちを忖度しているかどうかと議論の論理的な説得力の有無は別の事柄なので)も難しい。もし喫煙者が筆者の意見に誠実に同意するなら、喫煙をやめねばならないし、もし同意しつつ喫煙を続けるならば、不誠実だということになるだろう。
 私は生まれてこのかた一度も煙草を吸ったことがないので、喫煙者のようなジレンマに陥ることはない。よって筆者の意見に全面的に賛成しても何も問題はないのだが、一つだけ留保をつけておきたい。(9) 嫌煙運動について嫌煙運動家の方たちにお願いする。喫煙者は病人なのだ。どうかいたわってあげてほしい。「喫煙者なら死んでもかまわぬ、本人が悪いのだ」と言う態度だけはやめて欲しい。という要請には実際問題として応じることはできない。喫煙者をどうやっていたわればいいのだろうか? 私の目の前で煙草を吸っても「相手は病人だから許してやろう」と大目に見ることが喫煙者をいたわることになるのだろうか? 明らかにそれは筆者の意図に反する。だとすれば、私にできることはせいぜい「私に煙を吹きかけないでほしい。吸いたければどこかよそで吸ってほしい」と言う程度のことだろう。私は喫煙者に対してそれ以上のことはできない。喫煙者がよそで煙草を吸う権利を積極的に肯定したくはないが、かといって無理矢理煙草を取り上げるのは犯罪だし、それ以外の方法で喫煙をやめさせる有効な手段があるわけではない。結局、自分に害が及ばない限りは放っておくしかない。
 そういうわけで、タバコを吸う人は、他の人の迷惑にならないように吸って下さい。 他の人に迷惑をかけなければ、タバコを吸うこと自体はかまいません。 という考えに事実上同調せざるを得ないのだ。このような立場は非常に利己主義的で他人への慈愛の情に欠けた非人間的なものである、という批判は甘受しなければならない。とかく物事には優先順位がある。まずは私自身が受動喫煙のせいで健康を損ねないようにすることのほうが大事だ。この目的を達するために喫煙者に喫煙をやめさせるように働きかけるというのは迂遠で実効性に乏しい。それよりも、当座はよそで煙草を吸うことは認めておいたほうがましだ。全面禁煙(あらゆる場所での喫煙を禁じる)よりも、まずは分煙(非喫煙者のいる場所では禁煙、その他の場所は喫煙者の自主的な判断に任せる)だ。
 最近、あちこちで分煙が定着しつつある。いくつかの県では学校敷地内での喫煙を禁じているし、今年5/1からは関東の大手私鉄の駅構内での喫煙が禁止された(これらの施策をよく「全面禁煙」と呼ぶことがある。別に喫煙者が煙草を吸う権利を否定したわけではないので、あくまでも「分煙」の延長線上だとみるべきだと思う)。ここ数年で非喫煙者が煙害に悩まされる機会は格段に減った。喜ばしいことだ。
 ところが、社会的な分煙化の流れにとって具合の悪い研究論文が発表された。この記事によれば、受動喫煙と肺がんや心臓病との関連性について、これまでの定説が裏付けられなかったそうだ。これが本当だとすると、分煙化推進の根拠の一つが崩れる。もしこれで分煙施策が廃止されるようになれば、非喫煙者はせっかく逃れられた煙害にまた悩まされることになるし、喫煙者にとってもこれまで制限されてきた喫煙の機会が増すので喫煙本数が増えて健康への被害が拡大することになる(上のリンク先の記事は主流煙の害を否定したものではない)から、両者ともに困った事になる。
 と、そんなふうに考えていたところ、同時代ゲーム(5/16付)で、この記事についてこれが本当なら、喫煙者にとっても非喫煙者にとっても良い報せですね。とコメントしているのを読んで、首を捻った。これでは話が逆ではないか、と。
 しばらく経って、突然ひらめいた。

 なるほど。こう考えれば確かにどちらにとっても朗報だ。
 一本の棒は常に正反対の二方向を指し示している、というブラウン神父の警句(今手元に資料がないので、若干ニュアンスが違っているかもしれない)を思い出した。

 (追記)
 上の文章を読み返してみると、喫煙者に対する皮肉ととられかねないことに気づいたが、別にそういう意図はない。また、K氏に対する嫌みでもない。
 こういうことをわざわざ書いてしまうと、打ち消すはずの読みをかえって助長してしまうのではないかと恐れる。ちょうど「酔ってない酔ってない」と言えば言うほど酔いが回っていると思われてしまうのに似ている。誤解を招かないようなうまい書き方があればいいのだが、いくら思案しても思いつかなかった。

 (追記の追記)
 上でリンクした受動喫煙と肺がんは無関係、英医学誌に論文では触れられていないが、同じ論文を紹介した5/16 間接喫煙による危険性は低い!? ――新たな研究結果、大きな波紋を呼ぶマジですか?受動喫煙と肺がんは無関係 英医学誌に論文掲載、波紋必至では、この研究が煙草会社からの資金提供を受けて行われたものであることを報じている。
 ここからさまざまな想像が可能なのだが、語り始めると長くなって「追記の追記」程度では済まなくなってしまうので、また別の機会に。

1.10674(2003/05/18) 暗合

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030518b

 私はふだん文学に親しむ生活を送ってはいないのだが、知人からのメールで言及されていた芥川龍之介の『或阿呆の一生』と『歯車』を読みたくなって、昨日大阪へ出かけた機会に角川文庫版『或阿呆の一生/侏儒の言葉』を買ってきた。他の文庫にもあると思うが、この本には二篇とも収録されていて都合がよかったからだ。
 帰宅後、ウェブを巡回していると、求道の果て(5/17付)で『歯車』に言及していて少し驚いた。「シンクロニシティ」という言葉がふと浮かんだ。もちろん、こんな偶然はよくある話で、さほど不思議な事でもないのだけれども。
 ところで、昨日買った本は下記のとおり。

  1. 『伝奇ノ匣5 夢野久作 ドグラマグラ幻戯』(東雅夫(編)/学研M文庫)
  2. 『マンガ量子論入門 だれでもわかる現代物理』(J.P.マッケボイ(文)・オスカー・サラーティ(絵)・治部眞里(訳)/講談社ブルーバックス)
  3. 『微熱 彼女は水泳部』(青橋由高/フランス書院美少女文庫)
  4. 『鉄道廃線跡の旅』(宮脇俊三/角川文庫)
  5. 『完訳 ナンセンスの絵本』(エドワード・リア(作)・柳瀬尚紀(訳)/岩波文庫)
  6. 『或阿呆の一生/侏儒の言葉』(芥川龍之介/角川文庫)

 「伝奇ノ匣」シリーズは毎回気になってはいるのだが、買ったのはこれが初めてだ。「『ドグラ・マグラ』伝奇十景」と題して『ドグラ・マグラ』からの抜粋が約150ページにわたって収録されているのだが、これはあまり意味がないように思う。原典が今でも簡単に入手できるのだから、関連文献の紹介に徹してほしかった。やや俗っぽいけれど各界有名人の『ドクラ・マグラ』讃などを収録するほうが未読の人へのガイド本としては適切だと思う。
 2は、ちょっと量子論の勉強でもしてみようと思って買った。マンガで現代物理がわかるなら都合がいい、と思ったのだが、本を開いてみるとやたらと文字が多い。これでもマンガなのか?
 3は新創刊のフランス書院美少女文庫の一冊。同時発売の『メフィスト学園』もとい『メフィストの学園』を買って受けを狙うというのも考えたのだが、たぶん同じことを考えている人が100人くらいいるだろうと考え直した。早速読んでみたが、なかなか愉快なお話だった。青春っていいな。ところで、ナポレオン文庫はどこへ行ってしまったのだろう?
 4は著者最晩年の『七つの廃線跡』の改題文庫化。元版は未読だったのでこの機会に買うことにした。
 5は、ちくま文庫版を持っているのだが、大幅に増補されてほぼ倍になっているので買い直した。
 そして6は最初にも書いたように『或阿呆の一生』と『歯車』が読みたくて買ったもの。
 こうして並べてみると、ジャンルも傾向もバラバラで、私の興味の散漫さが如実に表れている。自分でも呆れるほどだ。本ではないので上のリストには入れなかったが、『むすんでひらいての謎』(監修:海老澤敏/KING RECORDS)を加えると、さらに混沌の度合いが増す。度眩目眩だ。
 さて、『歯車』を読んでみた。とりたてて紹介できるような筋や起承転結があるわけではなく、幻覚と妄想がところどころに出てくる奇妙な雰囲気の陰鬱な作品だ。だが、散漫な小説というわけではなく、徹頭徹尾何か思い詰めたような求心力が全篇を貫いている。作中の「僕」(芥川龍之介本人)が精神病院へ行こうとする場面で、僕は往来に佇んだなり、タクシイの通るのを待ち合わせていた。タクシイは容易に通らなかった。のみならずたまに通ったのは必ず黄色い車だった。と書かれていて興味を惹かれた。これは「黄色い救急車」伝説と何か関係があるのかもしれない。暗合と隠喩に満ちた作品だけにいろいろと裏読み、深読みをしたくなる。
 『歯車』は青空書店にもある(ここ)ので、ディスプレイで長文を読むことに抵抗のない人は、一度読んでみては如何?
 さて、更新を終えたら次は『或阿呆の一生』だ。

1.10675(2003/05/19) 胎児よ 胎児よ 何故踊る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030519a

 『或阿呆の一生』を読んだ。『歯車』に比べるとやや落ちるかな、という気がするが、その印象をうまく言葉にすることはできない。異様な雰囲気は面白かった。
 この小説は51の断章から成り立っている。「彼」と呼ばれる主人公は基本的には芥川龍之介自身のことなのだが、書かれている事のどこまでが本当なのかは不明だ。仮に全部事実だとしても、もしかしたら『戻り川心中』みたいなことをやっているかもしれないし。
 数ヶ所に「狂人の娘」なる人物が登場する。その一つ「三十八 復讐」を全文引用しよう。なお、本から書き写すのは面倒なので、青空文庫からコピペ。

 それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
 狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
 少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、媚(こ)びるやうに彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似てゐやしない?」
「似てゐません。第一……」
「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
 彼は黙つて目を反(そ)らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへない訣(わけ)ではなかつた。……

 もし私が編集者で、書き下ろしショートショートのアンソロジーを組む際にこの原稿を読んだとすれば「君、最後の二文は余計だよ。削ろう」と言ったことだろう。「胎教」という言葉が出てきたところで幕を閉じるほうが切れがいい。
 そんな事を考えながら読んだのだから、私の理解の程度もたかが知れ。

 政宗九の新掲示板に「横レス」と題して私が投稿した記事を先ほど読み直してみて、書き間違いに気づいた。

おちつけ→もちつけ→もちけつ
「落ち着け」と言っている本人が慌ててスペルミスするさまを表すさまを表すネット用語。

 「さまを表す」がダブっている。この掲示板には削除キーがあるので、管理人の政宗九氏の手を煩わせることなく、投稿者が自分で削除できる。ただし編集はできない。さて、どうしようか。しばらく思案したのだが、書いている内容が内容だけに、わざわざ削除して再投稿することもあるまいと思い、そのままにしておくことにした。
 わざとやったことだと思われる人もいるかもしれないが、これは単純ミスである。

1.10676(2003/05/19) 観念の鉄道、可能世界の鉄道

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030519b

 一昨日買った『鉄道廃線跡の旅』(宮脇俊三/角川文庫)は『鉄道廃線跡を歩く』(宮脇俊三(編)/JTBキャンブックス)第1〜7集の巻頭エッセイをまとめた本である。この『鉄道廃線跡を歩く』は近年の鉄道本としてはかなり売り上げが好調なようで、その後も続刊が出ている(ここで調べたら第9集まで出ているようだ)が、めぼしい廃線跡は最初の頃に取り上げ尽くしていて、最近は落ち穂拾いの感がある。あと1巻出るという話を聞いたことがあるが、「宮脇俊三・監修」のままなんだろうか。まるで『新・本格推理』のようだ。
 この『鉄道廃線跡を歩く』シリーズに触発されて生まれた同人誌がある。『鉄道未成線を歩く』(とれいん工房)である。こちらは確か5冊くらいあったと思うが、正確な冊数は覚えていない。
 廃線も未成線も似たようなものだと思う人もいるかもしれないが、両者の間には大きな違いがある。廃線は「過去には存在したが、現在は存在しない鉄道」である。他方、未成線とは「過去・現在・未来のいずれにも存在しない鉄道」であり、廃線とは存在論的身分を異にする。もっとも、もともと「未成線」とは単に「未だ成らぬ路線」のことで、「未来にも存在しない」という含みはなかった。だが、鉄道がたそがれの時代を迎え、かつて「未だ成らぬ路線」だったものの多くが「永久に成らぬ路線」となり、「未成線」という言葉は次第に計画倒れの架空の鉄道を指すようになっていった(近年、本来の意味での「未成線」は「計画線」(着工前)とか「建設線」(着工中)と呼ばれることのほうが多い)。
 未成線は実在しないのだから「歩く」ことなど不可能である。着工に至った未成線の場合、遺物を探し歩くことは可能だが、その場合でも「未成線跡を歩く」とは言えても「未成線を歩く」とは――言葉の本来の意味からすれば――決して言えない。従って、『鉄道未成線を歩く』の「歩く」は実際に二本の足を使って散策するという意味ではなく、鉄道計画資料を収集したり、地図上に路線を再現したり、架空ダイヤを組んでみたり、さらに当該鉄道が開通したという反実仮想のもとでの乗客流動や経済効果などを試算したり……というような諸活動の総体を意味する。廃線跡を歩くのが鉄道考古学のフィールドワークだとすれば、未成線を「歩く」のは鉄道形而上学のデスクワークである。
 未成線を扱った同人誌は以前にもなかったわけではないが、未成線趣味の形而上学的側面に光を当て、本家『鉄道廃線跡を歩く』のパロディ(むしろ川島令三氏の一連の著作のパロディといったほうがいいのだが、そっち方面に話を広げると長くなるので省略)を交えつつ、質量ともに豊富な資料を駆使して論述した『鉄道未成線を歩く』の登場は、未成線に愛着を持つ一部の鉄道マニア(一般の鉄道ファンは未成線に興味はありません。念のため)を瞠目させた。1999年8の月、東京は有明埠頭にて鉄道同人界に一つの新ジャンルが生まれたのである。
 『鉄道未成線を歩く』を出した同人サークル、とれいん工房は、それ以前にも『さよなら鉄道マニア』『宮脇俊三の世界』『片町線百年史』などを世に送っており、鉄道同人界では有名サークルだった。私もかなり初期の頃からチェックしていた(最初の頃は他サークルへの委託が多く、探すのが面倒だった)。もちろん『鉄道未成線を歩く』も初売り時に入手している。あとのほうになってくるとやや疲れが見えるものの、Vol.1とVol.2はまさに「同人レベルを超えた作品」だと言っていいだろう。実際、本物の同人誌だと気づかずに「同人誌のような、手作り感覚の本」と評した人もいるくらいだ。JTBの編集者が手にとって感銘を受け、とれいん工房代表の森口誠之氏を本家『鉄道廃線跡を歩く』の執筆メンバーに迎え入れたのもむべなるかな。とれいん工房は鉄道同人界のTYPE-MOONであるといっても過言ではない。
 だが、「同人レベルを超えた作品」が商業媒体でもそのまま通用するという保証はない。JTB版『鉄道未成線を歩く』(既刊2冊)は、私の見たところ、本家『鉄道廃線跡を歩く』の番外篇と位置づけられたせいか、未成線趣味の特殊性があまり前面に押し出されていないように思われる。特殊性を強調すると一部のマニアの読み物になってしまうから、営業戦略の観点からするとこれはこれで正しい選択だったのだろうが、ちょっと寂しい。
 ここまでだらだらと書き連ねたのは、ヘイ・ブルドッグに掲載された「国鉄編」の書評(「仮装日記」5/3付)を読んだから。どうも読者のニーズを考えると、未成線の歴史的事情よりも現地の写真をもっと多くしたほうがよかったかもという指摘はもっともだと思うし、読んでてどうも飽きてくるんですなというのも同感(「私鉄編」のほうは地方によっていろいろな話題が出てくるが、「国鉄編」のほうは――全国どこでも同じような鉄道誘致運動をしていたので仕方がないことなのだが――金太郎飴のような記述になってしまっている)。ただ、最近流行っているスタイルらしい鉄道好きのための本とか少ししか(あるいは、小さい大きさでしか)扱われていない鉄道の跡部分と風景が、もっと美しく掲載された本になっていてもよかったんじゃなかろうかというコメントに対しては、上で述べた未成線趣味の特徴をもって異論(反論ではない。あくまでも趣味の問題だから)としたい。
 たぶん愛・蔵太氏が検索して見つけた意外な(でもないですか)かたがたのうちの一人(ここを参照。非鉄道系サイトではほかに深川拓氏が言及している)として、僭越ながら筆者に代わって弁明した次第。

1.10677(2003/05/20) やる気がない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305b.html#p030520a

 「本格ミステリ大賞」の票の数え間違いは実は市川憂人氏の仕業ではないか、という疑念がむくむくと沸き起こる。だが、いったい氏がどうやって開票を妨害したのかがわからない。不思議だ。まるで魔術のような大イリュージョン。ほら、闇の奥から市川氏の哄笑が……。

 先日から『童貞としての宮沢賢治』(押野武志/ちくま新書)を読んでいて、今日読み終えた。表紙に引用された童貞で一生を終えた著名人は多い。賢治もそのひとりである。結婚の機会もありながら、生害童貞であったことが、彼の作品にどのような影を落としているのか。…本書では、童貞とオナニーを、広い意味で賢治の他者とのコミュニケーションのありようを記述する用語として使っていくつもりである。という「まえがき」の一節を読んで興味をそそられたのだが、最初のうちは性風俗史の愉快な話題が多かった(17ページで紹介されている「童貞の恐怖 花婿失そう後日物語」という新聞記事が特に面白かった)ものの、だんだんまともな文学論になっていき、とうとうデリダまで登場するに至っては、童貞もオナニーもどこかへすっ飛んでしまい、やや名前負けの感がなきにしもあらず。それはそれで別につまらなくはなかったのだけど。
 なお、「名前負け」というのは、対戦相手の勇名に恐れをなして負ける、という意味ではない。
 本当は、もう少し詳しく感想文を書くつもりだったのだが、今日はどうにもやる気が出ないので、これでおしまいにする。