日々の憂鬱〜2003年4月中旬〜


1.10630(2003/04/12) 氷を中に置き換えれば……

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304b.html#p030412a

 昨日(4/11)、私はめでたく『密室ロジック』を読み終えた。面白かった。どこがどう面白かったのかを説明するのは難しいが、ちょっと乱暴にまとめると「整理整頓の面白さ」があった。雑然としたデータを秩序づけ、明確な謎を取り出し、それを解きほぐす過程の面白さだ。構成も雰囲気も全然違うのだが、どことなく鮎川哲也のアリバイものの長篇を連想させる味わいがあるように思えた。
 さて、いちおう形だけ誉めた。あとは不満点を書き並べることにする。

 まず一つめ。文章のよみにくさ。先日も書いたことだが、これはいくら強調してもしすぎということはない。たとえば、次の文章(85ページ)。

 警察が、来た。
(なぜ、こんなことに――)
 この場にいる誰もが、意識か無意識かでそう思っているだろう。疑う余地もないことである。それが、人間というものの基本的反応と言っていい。
 むろんそのなかには、警察が考えるような事件の謎をいっしょになって解き明かそうなどというメンタリティよりはずっと一般的なものとして、自分にごく近いところで起きてしまった事件に対するささやかな好奇心とでもいうようなもののほうが、たぶんずっと強いのだろう。
 でも早野詩緒里は、ほんの二年九ヵ月前に一度、殺人事件に遭遇している。だから、ほんのすこしだけその場の多数派とはちがう反応を示すことができた。

 悪文だ。「意識か無意識かでそう思っている」などという奇妙な言い回し。「だろう」という推量のあとに「疑う余地もない」と断定する不均衡。「人間」に続く不要な「というもの」。そして、目も当てられないほどの長文。「二年九ヵ月前」の前に置かれた「ほんの」。さらに次の文にも「ほんの」が現れる。
 ここでは、警察が現場に来たということ、人々が困惑しつつ好奇心を抱いていること、詩緒里は別のことを考えているということを書けばいいのだから、これほど長くくどい文章は必要ない。
 今例に挙げた箇所以外でも余計な文章が多くて、全般的に冗長で間延びしている。論理というのはもともと冗長なものだが、論理以外の要因によって文章の分量が増えるのは感心しない。もっと簡潔で引き締まった文章こそが、論理重視のミステリにはふさわしい。

 二つめ。叙述の視点に問題がある。
 この小説は三人称多視点で書かれている。節ごとに視点人物が入れ替わり、登場人物表に記載された11人すべての視点が用いられている。当然、犯人の視点もある。
 殺人の前後、犯人は何らかの形で自分の行為について考えるのが自然だ。他の人から見れば平然としているようでも、内心は穏やかではないはず。犯人の視点で書かれた文章には、犯人の心理の動揺が描かれていないとおかしい。だが、『密室ロジック』では、犯人の心理について非常に不自然な描写をしている。
「犯人の心理を描きながら意図的に殺人に関する意識の流れのみを隠すのは、重要なデータの隠蔽にあたりアンフェアである」と考える人もいる。私は今のところそこまで強く主張はしない。だが、虚偽の記述さえしなければ何をどう書いても構わないとは思わない。読者が犯人の正体を知った後、もう一度読み返したときに、犯人の視点で記述された文章に著しい不自然さがあってはならない。
 犯人が犯行の直前まで殺意を全く自覚しないということ、または、犯行直後に自らの行為を完全に忘れ去ってしまうということは論理的にはあり得ないことではない。しかし、それらはありそうもないことだ。ありそうもないことがたびたび生じる世界では、蓋然性に基づく推論(たとえば、殺人現場に抜け穴があったという論理的にはあり得る事態を、ありそうもないという理由で退けるような推論)は不可能になってしまう。

 三つめ。177ページ下段以下の文章は言い訳めいていて見苦しい。そうだとすれば筋が通るとか辻褄が合うとか、そんな水準で謎を解決したとか称するのは最も恥ずべきことだ、というのは確かにその通り。だが、謎を解決したと称することができないような水準の推理を示しただけで閉幕してしまうのは、もっと恥ずべきことではないのか。
 推理のみによっては解決できない謎がある、とか、そもそも真実とは一つではなく人の数だけある、などといった観点を示すことを目的とした小説なら、それでもいいだろう。だが、『密室ロジック』は推理の限界への諦念をテーマにした小説なのか? 相対主義の伝道書なのか?

 四つめ。氷川の推理では説明に苦しむ事柄がある。
 犯人は野毛が第三会議室に入った隙に非常階段から脱出した、と説明されている。だが、第二会議室からC地点は見えない。犯人が野毛の不在をあてにして行動するにしても、予めC地点が見える位置まで移動してタイミングを見計らう必要がある。それではA,B,Cの各地点から丸見えになってしまう。これは危険だ。
 犯人は他人に見つかる危険性をあまり深く考えていなくて、たまたま運がよかったために危機を逃れることができただけなのだろうか? だが、この仮定は、氷川の推理の前提そのものを否定してしまうことになる。

 五つめ。これも氷川の推理に関する疑問。
 氷川は犯人の逃走方法についての仮説から野毛が第三会議室の電話を使って冴子と通話したと推理し、この推理に反する「まちがいなく野毛さんのケータイからだった」という冴子の証言を嘘だと断定している。だが、彼の推理には野毛が第三会議室で自分の携帯電話を使って冴子と話をしたという可能性が全く抜け落ちている。もしこの可能性を検討するなら、冴子の証言を直ちに嘘だと断定することはできない。
 もっとも、氷川が見落とした可能性を考慮に入れても犯人の行動についての仮説に影響が出ることはない。その意味ではこれは瑣末なミスだと言ってよい。

 最後に――これは不満や疑問とはレベルが違う話になるが――地の文で登場人物の名前を省略して表すとき、男性は常に姓、女性は常に下の名前で呼ばれていることに気づいた。たとえば、「氷川透」は「透」ではなく「氷川」、「早野詩緒里」は「早野」ではなく「詩緒里」という具合だ。
 これは別にこの小説に限ったことではなく、日本の小説全般に見られる傾向だ。ただ、「人妻」や「ご主人」という呼称に性差別の匂いを嗅ぎ取る言語センスの持ち主にしては、やや無造作なのではないかと思った次第。

1.10631(2003/04/13) 雑記

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 昨日、スルッとKANSAI3dayチケット(季節限定版)を使って、あちこちに行ってきた。
 このチケットは関西のほとんどの私鉄と地下鉄(どうでもいいことだが、大阪の地下鉄は正式には「高速電気軌道」というらしい)と路線バスに乗ることができる。少し条件が違うが全国版もある。一枚5000円なので、元を取るためには一日に1667円分以上乗らないといけない。
 予め特に目的を決めていたわけではないが、何となくラーメン劇場に行ってみることにした。新横浜ラーメン博物館に比べるとまだまだ知名度は低いが、それなりに頑張っているという話なので、一度行ってみたいと思っていたのだ。
 ラーメン劇場内にあるラーメン屋は7店だが、とりあえず新福菜館山形ラーメン 天童に行ってみた。「新福菜館」のほうは、うまいことはうまいが関西にはありがちな味で、特に新味はなかった。「山形ラーメン 天童」では期間限定(4/20まで)の「みそたまりラーメン」というものを食べた。一食1000円でちょっと高めだが、それに見合うものだったと思う。
 その後、今度は造幣局桜の通り抜けへ。まだ満開の花は少なく、ちょっと寂しかった。「造幣せんべい」というベタな名前の土産を売っていた。
 その後、いろいろあって帰宅したのは日付が変わる直前だった。疲れたので今日はこれでおしまい。特にオチはない。

1.10632(2003/04/13) やきそばとやきさば

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 二日連続でお花見。今日は和歌山県美里町にあるみさとチューリップ園へ行ってきた。美里町といえば天文ファンにとってはみさと天文台の所在地として、またスポーツファンにとってはゲートゴルフ発祥の地として知られている(と書いてはみたものの、ゲートゴルフはそれほど知られているのだろうか? Googleで検索してみたら「ゲートボール」が5万件以上ヒットしたのに、「ゲートゴルフ」だと約361件だった)。だが、交通は不便で、路線バスが日に数本走っているだけなので、いざ訪れるとなるとなかなか大変だ。なお、かつて野上電鉄(廃線)の延長線計画があり、美里町内を流れる川には作りかけの橋脚が今でも残っているそうだ。
 さて、このチューリップ園の最大の特徴はやきさばである。やきそば、ではない(いや、やきそばも売っているが)。鯖を串に刺して焼いて売っているのだ。たこ焼きやソフトクリームなどの屋台にまじって鯖をじゅうじゅうと焼いている風景はちょっと他では見ることができない……と思うのだが、よそのイベントや縁日などでやきさばの屋台が出ているのを見たことがある人はぜひご一報いただきたい。やきさばがポピュラーな屋台メニューになっているのを私が知らないだけかもしれないから。知るは一時の恥、知らぬは一生の恥。


 『密室ロジック』は未完?(゜(○○)゜) プヒプヒ日記4/14付)
 なるほど。確かに本書p.155下段で名指された人物が犯人だと考えるほうが無理がない。『密室ロジック』自体が『真っ暗な夜明け』の続篇らしいので、さらに次作への"ヒキ"が用意されていてもおかしくはない。そうすると、私が書いた感想文の不満点のうち、少なくとも三つめと四つめは意味合いが違ってくる。とはいえ、今さら書き直すわけにもいかないので、そのままにしておく(ただし、読み直してみると文章表現の面で気になる点がいくつかあったので、手直ししておいた)。
 『密室ロジック』絡みでもう一つ。みすらぼ日記から。

 氷川氏も辛いところですね。下手にメールしたり、日記に書いたりすると、鯨氏の二の舞になりかねないです。というか、作家って、言われっぱなしにならざるを得ないのか。大変な商売だ。

 文中の鯨氏の二の舞というのは、見下げ果てた日々の企て『ミステリアス学園』評に対して鯨統一郎が苦情メールを送った件を指しているものと思われる。
 この件については、天使の階段いくら悲しい気持ちになったからと言って読者にメールを出すという行為は、それこそ「あまりにも酷い」とぼくなんかは思ってしまうというコメントがあった。それを読んで私は「ウェブ上では小説家も読者も同格なのだから、作者が読者の感想に対して反応すること自体には問題ない」という逆の考えもできるのではないか、と思った。ただ、発端が商業媒体で発表された小説の場合には単純にウェブ上の意見交換に同化できない面もあるわけで、この問題はなかなか難しい。
 いずれにせよ、私はまだ『ミステリアス学園』を読んでいない。冒頭の一行に仰天してしまい先を読み進めるのが怖いので、いつになったら読めるのか見当がつかない。もし読み終えることができたらこの問題について考えてみようと思っていたところだった。
 さて、『密室ロジック』に話を戻すと、作者の氷川透(ここは上の「鯨統一郎」にあわせて呼び捨てにする)がウェブ上で活動していることはもちろん知っているし、以前私が氷川透氏のサイトに言及したときに反応があったので、私が『密室ロジック』の感想文を書けば氷川氏(以下、下の名前抜きの「氷川氏」で統一する)がそれを読むことも想定していた。ただ、ここで私が書く文章は基本的に不特定の人々を対象にしているので、氷川氏あての私信ではない(もしそのつもりなら直接メールを送るか、氷川氏のサイトの掲示板に書き込む)。そこで、なるべくいつもと同じスタイルで感想文を書くように心がけた。その結果が私の意図したとおりになっているかどうかは解らないが。
 今回はそうやって無理矢理割り切って書くことにしたが、作者自身が見ているかもしれない場で読者が感想文(または書評)を書くときにどのような立ち位置をとるべきか、という問題が解決されたわけではない(ちなみにこの問題は批判的な感想を抱いた場合だけでなく、面白い本を読んで誉めたい場合にも生じうる)。これは、作者が読者の感想文に対してどのように対応するか、という問題と表裏一体だ。あくまでも超然としているべきなのか、それともウェブ上の通常のコミュニケーションのしきたりに準じるべきなのか? いや、「通常のコミュニケーションのしきたり」などというものが本当にあるのか? どうして個人サイトで2ちゃんねると同じことをやってはいけないのだろう。
 脱線した。ヘイ・ブルドッグの【本日の言葉】(4/5付)で紹介されていた【きれいごと・常識を疑ってみること】if→itself)をたまたま今日読んだために、2ちゃんねるを引き合いに出してしまった。これはこれでまた別の要素が絡んでくるので、今はこれ以上触れないことにして、話をもとに戻すことにしよう。
 私は『密室ロジック』を買って読み始めたちょうどその日にごくたま昨日日記読書のカタチを読んだ。うまく説明できないが、そこで取り上げられているテーマと上の問題とは連続しているように思った。とりあえずその日の文章では「読書のカタチ」と『密室ロジック』の最初の印象を並べて書いておいき、徐々に考えを煮詰めて、『密室ロジック』を読み終えるまでには問題を整理して意見を述べたいと思っていたのだが、結局二つの問題を関連づけることはできなかった。
 今日、「みすらぼ日記」の件の記事を読んで再度考えてみたのだが、やっぱりうまくまとまらない。そろそろ時間切れなので、また後日。
 ああ、この日に先送りした問題もまだ手つかずのままだ……。

1.10633(2003/04/14) パズルの快楽

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 今さらながら『法月綸太郎の功績』(法月綸太郎/講談社ノベルス)を読んだ。最近ミステリを読んでは悪口ばかり言っているが、やっぱり私はミステリが好きなんだと改めて自覚した。
 昨年の日本推理作家協会賞を受賞した「都市伝説パズル」が収録されているということもあって、この本を読んでいる人は多いだろう。私ごときがこの本の魅力について駄文を弄する必要はあるまい。
 まだ読んでいない人は、ぜひ一読を。その後で大いに語り合うことにしよう。

1.10634(2003/04/14) 「アリアンナ」は消失し、遺されたのは「嘆き」のみ

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 『オイディプス症候群』(笠井潔/光文社)を読み始めた。これは、「2003本格ミステリ・ベスト10」(探偵小説研究会・編著/原書房)で『法月綸太郎の功績』をおさえて「国内本格ミステリ」堂々の第1位に輝いた作品である。『功績』があれほど面白かったのだから、『オイディプス』はさらに一層面白いことだろう、という期待をこめて。
 とりあえず今日は第1章まで。まだまだ先は長い。今度のオフ会までに読み終えることができるだろうか。というか、本当にオフ会は開催されるのだろうか?
 ともあれ、しばらく『オイディプス』に集中したいので、当サイトの更新はおざなりになる。

1.10635(2003/04/15) 華倫変死す

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 昨日読み始めた『オイディプス症候群』には大きな欠点がある。重すぎて通勤途中に読むことができないのだ。この欠点はノベルス版では多少改善されるだろうし、文庫版だとほぼ克服されるものと思われる。だが、今日のところはノベルス版も文庫版もないのだから、通勤鞄に入れていくわけにはいかなかった。思わぬ誤算だ。
 というわけで、しばらく『オイディプス』に集中したいと言った舌の根が乾かないうちに別の本に手を出した。『聯愁殺』(西澤保彦/原書房)だ。これもハードカヴァーだが、『オイディプス』に比べるとずっと軽くて薄い。何と292ページしかないのだ!
 朝の電車待ちの時間に読み、バス待ちの時間に読み、始業前に読み、昼休憩に読み、帰りのバス待ちの時間に読み、帰りの電車待ちの時間に読み、そして帰宅後最後まで読み終えた。読んでいる間、非常に楽しかった。
 では読み終えた後の評価はどうかというと、実はあまり高く評価できない。『密室ロジック』の感想文で不満点として挙げた事柄のうちの一つがそのまま当てはまる(これだけでは何のことかわからないと思うが、あまり詳しく書くと作品の核心に触れてしまうのであえてぼかしておく)からだ。意図的にやっていることだし、いろいろと気を遣っているのはわかるのだが……。あと、やや細かい話になるが、49ページ4行目あたりで提示されたデータと270ページ以降の説明との間にやや食い違いがあるように思う(たまたま手帳に触れた際に指紋がついた場合と、手帳の中を見た場合とでは指紋のつき方が違うはず。手袋をはめて手帳を開いたと考えればいちおう筋は通るが、状況から考えてやや苦しいのではないか)。
 全体的なストーリーの流れについては、「良くも悪くも『毒入りチョコレート事件』」としか言いようがない。一堂に会した人々が推理を競い合うという趣向はいいが、一つ一つの推理に今ひとつキレがなく、また重要なデータがどんどん後出しされるため「構図の反転」があまり鮮やかではない。
 力作だとは思うのだが、手放しで誉められないのが残念だ。
 最後に、作中でもっとも印象深かった一節を引用しておこう。自戒をこめて。

 なるほど。そういえば口羽公彦と自分とはよく似た側面があるのかもしれない。梢絵は、ふとそう思った。思った途端、なんとも言えない不快感が全身に毒のように回る。瑣末な出来事をいちいち取り上げて文章化する。文章を書ける己れに何の根拠もない特権意識を感じて悦に入る。客観視してみると単なる嫌な奴である。そんな梢絵はおそらく、自覚している以上に口羽公彦とよく似ているのだ。その認識を否定したくても否定できない現実が梢絵には、おぞましい。


 自力での開催を諦めたオフ会の予定が着々と進行中。近日中に詳細を公開できる見込み。


 たのしいAIR(情報もと:おかpのどーんと行くページ2003)が面白かったので、何となくリンク。

1.10636(2003/04/16) 予告

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304b.html#p030416a

 明日の更新で、オフ会の案内をアップ……できたらいいな。

1.10637(2003/04/17) 風邪でダウン

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304b.html#p030417a

 最近、珍しく読書意欲が高まっていると思ったら、どうやら風邪の前兆だったらしい。今日は仕事を途中で切りあげて午後ずっと寝ていたが、明日は無事会社へ行けるだろうか、心配だ。
 それはそうと、オフ会開催案内ページを作った。5/4(日)、京都で開催する予定。
 これで、誰も申し込んでくれなかったらどうしようか。どうしようもないな。

1.10638(2003/04/18) 不調続き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304b.html#p030418a

 意味もなく建国記念の日となる日を定める政令(昭和四十一年十二月九日政令第三百七十六号)にリンク。

 のぞみ停車求め駅名変更へ 山口・小郡町が了承
 小郡が「新山口」になるのなら、米原は「新大津」か。

 重楼疏堂〜城郭と旅と日々のおぼえがき〜が復活。詳細はこちら

 私信:明日京都国立博物館特別展覧会「空海と高野山」を見に行く予定でしたが、発案者が風邪でダウンしたため、急遽神戸市立博物館テイト・ブリテン発世界巡回展「ヴィクトリアン・ヌード」に変更しました。坊主よりもヌード、というわけで。

1.10639(2003/04/19) メールの宛先に「様」をつけるかどうか

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304b.html#p030419a

 白黒学派4/16付、4/18付で取り上げられていた話題なのだが、私はこれまでメールの宛先に敬称をつけたことは一度もないし、宛先に敬称がついたメールを受け取ったこともない。
 初めてメールを出すときには、アドレスを入力するだけで特に表示名の設定をしない。たとえば――まだ一度もメールを出したことはないが――カトゆー氏にメールを出すとすれば、サイト上に記載されている「katoyuu@trust.ocn.ne.jp」をコピーしてメーラーの宛先欄に貼り付け、本文の頭に「カトゆー様」と書く。愛・蔵太氏宛なら――同じく実際にメールを出したことはない――サイト上のリンクをクリックしてメーラーを立ち上げると宛先欄には「lovelovedog@nifty.ne.jp」と記入されているので、そのまま送信する。相手先が受信メールをどのように管理しているのか私にはわからないので、アドレスそのままのほうが無難だと思うからだ。
 他人から来たメールへの返信、またはメールを受信してアドレス帳に登録した後の当該アドレスへの送信には、相手先が表示名に設定している名前をそのまま使う。ちなみに私は自分が出すメールの送信者名を私的なメールでは「no name」、サイト関係のメールでは「滅・こぉる」と設定している。会社で使っている仕事用のメールは送信者名を設定していない。
 前述のとおり、私は宛先に敬称がついたメールを受け取ったことがないのでよく知らないのだが、そのようなメールに返信したり、他の人に転送した場合に、送信者名に敬称がついてしまわないかと心配だ。たぶん、そのあたりはうまく処理されるようになっているのだと思うが、わざわざ自分で自分にメールを送ってまで確かめてみる気にはならない。

 電子メールではなくて、郵便の手紙(ぎこちない表現だ。もうちょっとましな言い方があったと思うのだが、とっさに思い出せない)の話になるが、以前私は差出人名に「御中」がついた手紙を受け取ったことがある。返信用封筒の宛名に「御中」や「様」をつけるのならまだわかる(本当は「行」にしておくべきだが、同人誌の通販などの場合、「行」を「様」に書き直す作業の手間を省くため、あらかじめ「様」と書いておくように求められることが多い。これはローカルルールとして定着しているのではないかと思う)のだが、そのような手紙ではなかった。差出人が「御中」の使い方を知らないのが丸わかりだ。
 そういえば、「御中」ではなく「御内」と書かれた手紙を受け取ったこともある。意味は同じなのだろうが、あまり使わない言葉なので記憶に残っている。「おんない」と読むのだろうか?

1.10640(2003/04/20) 今はただ静かに眠りたい

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 神戸市立博物館テイト・ブリテン発世界巡回展「ヴィクトリアン・ヌード」を見てきた。あまりえっちな絵はなかった。ちょっと残念。
 ルイス・キャロルが撮影した少女のヌード写真が二葉展示されていた。ジョン・テニエルの絵画もあったので、アリスファンも一見の価値があると思う。神戸では5/5までだが、5/24からは東京藝術大学大学美術館で展示されるそうだ。

 神戸から大阪へ移動して、梅田某所で怪しい集会に参加。数ヶ月ぶりにペインキラー氏にお会いした。ウェブサイトのほうは閉鎖してしまったけれど、本人は元気そうで安心した。「サイトの更新に飽きた」とのことだが、いずれまたウェブサイト症候群が再発するものと期待している。
 ちなみに、私もそろそろサイトの更新に飽きてきた。すぐにサイトを廃止する気はないが、今度のオフ会が終わったら、今後の方針について考えてみようと思う。

1.10641(2003/04/20) 思考散漫

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 昨日見たテイト・ブリテン発世界巡回展「ヴィクトリアン・ヌード」でジョン・コリアという人の絵画が展示されていた。コリアといえば、怪奇小説家だったはず……といううろ覚えの知識をもとに調べてみたが、1901年生まれ、1959年没だそうなので、ヴィクトリア朝の画家と同一人物であるはずがない。
 それがどうした、というわけではないが、ちょっと悔しい。
 ちなみに、出展作品の作家のうち私が名前を知っていた人は、キャロルとテニエルのほかはビアズリーだけだった。美術の素養のなさを改めて思い知らされた。

 とあるサイトで、ある意見を述べている。私はその意見に賛成できない。どうして賛成できないのか、そして私自身はどのように考えているのか、ということを文章にまとめてみようと思い、途中まで書いてみた。だが、「これをそのままサイトにアップしたら、個人攻撃だと思われてしまうなぁ」という思いがよぎり、書くのをやめて消してしまった。
 私は意見を批判しようとしているのだが、読者は私が筆者を非難しようとしていると誤解する恐れがある。読者の誤解の可能性をいちいち気にしていたらウェブで文章を発表することなどできない。それはわかっている。わかってはいるのだが……。

 LEGIOん氏の新サイト、SHADOW-ZEROが本日オープン。私がLEGIOん氏のことを知ったのはおよそ1年前だが、それからでも3回か4回くらい、サイトの閉鎖と再開、または移転を繰り返している。私がとやかく言えることではないのだが、次の引っ越しの際にはできれば過去ログだけば元の場所に残しておいてほしいと思う。
 それはともかく、今回は久々にニュースサイト色が前面に出ているので嬉しい。日記がつまらないというわけではないが、LEGIOん氏の個性は他サイトの情報の取捨選択を通じてのほうがよくあらわれると思うので。

 「男の子」「おじょうさん」ダメ セクハラ防止で要綱 朝霞市(情報もと:rough note.)という記事を読んだ。
 見出しだけを見るとかなり突拍子もないことを言っているようだが、おそらく「男の子」や「おじょうさん」がダメなのは職場の同僚や部下に対する呼称として用いた場合だろう(「課長のおじょうさんがご出産なさったそうで」「ああ、元気な男の子が生まれたよ」というような会話を禁じるわけではあるまい)。だが、その場合でもセクハラとはちょっと違うような気がする。