日々の憂鬱〜2003年3月下旬〜


1.10602(2003/03/23) 上から読んでも「ごまたまご」、下から読んでも「ごまたまご」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030323a

 吾妻線紀行から帰宅。疲れた。
 今回の旅行で旅客鉄道線乗車距離は3.1営業キロのびた。
 詳細については、明日以降ぼちぼちと書いてアップするかもしれず、しないかもしれない。とりあえず今日はこれからのんびりと3日分のウェブ巡回をしてさっさと寝る予定。

 メモ:東京玉子本舗「銀座たまや」

1.10603(2003/03/24) 一字削除

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030324a

 昨日の文章になぜか意味不明な文字が紛れ込んでいたので削除した。
 それだけだと寂しいので、アクセスログからこんなのを紹介しておく。

1.10604(2003/03/24) きしめん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030324b

 というわけで旅行記を書く。
 出発したのは3/20(木)の午後だった。昔は「せっかく『青春18きっぷ』を使うのだから、できるだけ元をとらないといけない」と考えて、早朝に家を出ることが多かったのだが、人間としをとると堕落するものだ。
 午後5時過ぎに某駅で新快速から新快速へと乗り継ぎ(このように書いただけで、どこの駅かがわかる人も多いことだろう)、まずは名古屋へと向かう。午後11時過ぎに大垣を出る「ムーンライトながら」に乗る前に、名鉄小牧線に乗っておこうと思ったからだ。私はまだ名鉄は半分くらいしか乗ったことがなく、小牧線は全線未乗のままだった。うかうかしている間に今月27日には上飯田連絡線が開業し、上飯田駅が地下化してしまう。その前に一度だけでも乗っておきたい。
 東海道本線から小牧線へ行くにはいくつかのルートがあるが、私は金山総合駅で地下鉄名城線に乗り換えて平安通駅へ行くことにした。平安通駅から徒歩で上飯田駅に向かう。正攻法だ。
 地下鉄の駅から上がってすぐのところにうどん屋があった。うどん、そば、中華そばなど一通り揃っているが、名古屋といえばやはりきしめんだろう。私は迷わずきしめんを注文した。
 ところで、私の認識ではきしめんはうどんの一種なのだが、うどんやそば、そうめんなどと並ぶ日本麺の一つとしてカテゴライズしている人もいる。どちらが正しいのだろうか? そんな事を考えながら麺をずるずると啜る。
 そもそも「きしめん」の語源は何か? 「紀州麺」が訛ったという説もあれば「雉麺」が転化したという説もある。昔、雉肉を具にしたきしめんが食されていたというのはあり得るかもしれないが、紀州から伝わった麺だというのはちょっと考えにくいように思う。紀州といえば和歌山県と三重県南部だが、どちらにもきしめんに似た麺料理はないからだ。三重県南部の東紀州地域ではうどん料理が盛んだが、あれは伊勢うどんが伝播してきたもので、紀州独自の麺とは言い難い。それに、きしめんのように幅広の麺ではない。
 そんな事を考えながらさらに麺をずるずると啜ったのだが、その過程を書くだけで相当の分量になるので、このあたりは省略する。ついでに今日は眠たくなってきたので、ここで打ち止めにする。

1.10605(2003/03/25) もりそば

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030325a

 というわけで昨日の続きだ。
 3/20(木)の夜、地下鉄平安通駅の近くのうどん屋できしめんを食した後、てこてこと歩いて名鉄小牧線上飯田駅へと向かい、そこから犬山行きの電車に乗った。既に日は暮れて車窓から外を見ても家々のあかりしか見えなかったけれど、とりあえずこれで小牧線は完乗した。
 犬山で各務原線に乗り換えた。各務原線は新鵜沼でJR高山線(JR側は鵜沼駅)に連絡しているが、新鵜沼ではなく名電各務原駅で降りた。名電各務原駅とJRの各務原駅の間にBOOK OFF 各務原バイパス店があるので、そこで少し時間を潰した。収穫は特になかった。
 各務原駅から単行のディーゼルカーに乗って岐阜駅で東海道本線に乗り換え、大垣駅に到着したのは午後10時過ぎだった。駅前は既にひっそりと静まりかえっていて、特に見るべきものは何もない。おとなしくホームで「ムーンライトながら」を待った。
 ……なんだか全然面白くないな。だが、せっかくここまで書いたのだから、もう少し続けよう。
 午後11時過ぎに「ムーンライトながら」は大垣駅を出て、翌朝5時前に東京駅着。そこで山手線内回りの始発電車に乗り換えて上野駅へ。さらに高崎線下り始発電車に乗って一気に終点の高崎まで。ここで時間が少し空いてしまう。吾妻線に乗っても途中の駅で降ろされてしまうし、上信電鉄を往復している余裕はない。そこで、特に意味もなく信越本線横川行きの電車に乗った。
 新幹線が開通するまではわりと活気があった信越本線もいまや横川〜軽井沢間が廃線となり、そこから先は第三セクターに転換され、ずたずたのぼろぼろになっている。横川駅はいまやローカル線の終着駅と化し、有名な峠の釜飯も売っていなかった(時間が早すぎたのかもしれないが)。結局、ただ往復しただけだった。
 ええと、それから吾妻線に乗って、上信電鉄にも乗って、終点の下仁田駅前のいそだでもりそばを食べて(非常に美味しかった!)、両毛線で前橋に行き、てこてこ歩いて中央前橋から上毛線に乗り、終点の西桐生からてこてこ歩いて桐生から再び両毛線に乗って……なんだか、もう嫌になってきた。

 今回の旅行中に私は本を3冊読んだ。そのうちの1冊、『疑似科学と科学の哲学』(伊勢田哲治/名古屋大学出版会)の感想を簡単に書いておく。
 この本のタイトルは『「疑似科学と科学」の哲学』とも『疑似科学と「科学の哲学」』とも読める。私は前者だと思っていたのだが、表紙カバーでは「Philosophy of Science」と「Pseudo Science」が併置されていたので、後者の読みのほうが正しいのだろう。どっちでも大した違いはないかもしれないが。
 疑似科学を批判的に扱った本は多く、私も何冊か読んだことがあるが、科学哲学の立場から書かれた本を読むのはこれが初めてだ。取り上げている話題は、創造科学、占星術、超心理学、代替医療などで、それらが正統科学とどう違うのかを丁寧に解説してくれている。奇術師が超能力のトリックを暴くときのような爽快感はないので、そっち方面を期待して読む人はもしかすると失望するかもしれない。だが、これは疑似科学を糾弾する本ではなく、疑似科学と比較することで科学のもつ特性を明らかにしようと試みる本である。そして、その企ては成功していると思う。
 ただ――この本の欠点ということではないのだが――20世紀に流行した言語論的アプローチやグッドマンの「グルー」やクリプキの「クワス」などの"ちゃぶ台ひっくり返し"系の議論がほとんど取り上げられていないことがちょっと寂しかった。
 ともあれ、疑似科学について多少とも関心がある人には一読の価値がある本だと思う。マーチン・ガードナーの名著『奇妙な論理』(市場泰男・訳/現代教養文庫→ハヤカワ文庫)と併読するとなおよい。

1.10606(2003/03/26) 佐野ラーメン

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030326a

 というわけで、さらに続きだ。
 3/21(金)に吾妻線と上信電鉄と上毛電鉄に乗って、西桐生から歩いて桐生に到着したのは午後6時過ぎだった。桐生からはわたらせ渓谷鐵道が出ているが、日が暮れてから乗っても楽しくないので今回は見送ることにした。その日は前橋のホテルに宿泊することにしていたので、そのまま両毛線に乗って西へ……は行かず、逆に東へと向かう。一度、佐野ラーメンを食べてみようと思ったのである。
 佐野ラーメンの知名度はどれくらいだろうか? 関西ではあまり知られていないように思う。私自身、佐野ラーメンは名のみ聞く存在で、いったいどういう傾向のラーメンなのか全く予備知識はなかった。また、事前に情報を仕入れておかなかったため、果たして佐野駅から歩いて行ける範囲にラーメン屋があるのかどうかさえ知らなかった。
 幸い、駅前をぶらぶらと歩いているとラーメン屋の看板がいくつか見えたので、そのうちの一店に入ってラーメンを食べた。昔ながらのちぢれ麺だった。数年前に喜多方で食べたラーメンに似ているような気がした。
 駅前のコンビニでサントリーのゴクリ(グレープフルーツのほう)を買って両毛線に乗り、前橋へと向かう。車中でゴクリを半分ほど飲んでから鞄の中に入れたのだが……それがあのような大惨事になるとは! サントリー許すまじ。
 前橋駅で下車するのはこの日二度めだ。夕方中央前橋に向かう途中で見つけたまえばし駅前天然温泉 ゆ〜ゆにふらっと入る。昼間、温泉密集地帯にそっぽを向いておいて(吾妻線沿線には温泉地が多い)なんでわざわざ県庁所在地の駅前で温泉に入ることになったのだろうか?
 地下1500mから沸き出た、というか掘り出した湯に浸かって一日の疲れを癒し、ホテルに入ってゆっくりと読書をしようとしたとき、私は鞄の中がびしよびしょのぬれぬれのべたべたになっていることに気づいた。途中まで読みかけていた『七姫物語』(高野和/電撃文庫)が見事にゴクリまみれになってしまった。本を濡らしてしまうとは一生の不覚だ。

 さて、『七姫物語』の感想も書いておこう。
 この本は第9回(2003年)電撃ゲーム大賞の金賞受賞作で、先月本が出た直後にいくつかのサイトで言及されていて、なんとなく手を出してみた。金賞受賞作はもう一作あり、さらにその上には大賞もあるのだが、どちらも全然印象に残っていない。どうしてこの作品だけが気になったのかはよくわからない。
 この小説の登場人物は日本語を喋っている(詳しい説明はないが、作中世界には漢字の音読みと訓読みがあるらしい)し、主人公の空澄をはじめ何人かの人物の名前も和風だ。ただし、舞台は大陸の一部ということになっているので、全体的な雰囲気は純日本風というより、日本的無国籍異世界(?)という感じだ。欧風または中華風異世界を舞台にした小説に比べるとやや異色といえるかもしれない。
 この小説の全篇が空澄の一人称で書かれている。12歳の少女という設定と硬質で大人びた文体との間にギャップがあるが、『蜜の森の凍える女神』ほどの違和感はない。
 ストーリーにはさほど捻ったところはなく、ある「謎の人物」の正体も別に意外性があるわけではないが、それなりに楽しく読むことができた。タイトルは『七姫物語』だが、実際に登場する姫の数はその半分程度なので、この先まだまだ長く続くのだろう。続けて続篇を読むかどうかは未定。

1.10607(2003/03/27) おまつり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030327a

 さっき土踏まず日記3/27付の記事を見たらかなまら祭りという祭りが紹介されていた。今年は4/6に行われるそうだ。だが、つい最近この祭りのレポートをどこかで見たような気がする。記憶を辿って行き着いたのはDAIさん帝国3/15付の記事だった。
 別の神社の別の祭りなのに、同じ祭りだと私が誤認してしまった最大の理由は、外人さんではないかと思う。

1.10608(2003/03/27) 讃岐うどん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030327b

 だらだらと続いた旅行記も今日で終わり……になるかな?
 3/22(土)の朝、前橋を出た。7時44分発「あかぎ4号」は見送って(青春18きっぷだから特急には乗れない)7時48分発の高崎行き普通電車に乗る。この電車は各駅停車なのだが、仕様車両は先の「あかぎ」と同じ185系で、しかもグリーン車も開放しているのでお得だ。さらに次の新前橋で「あかぎ」を追い越す(「あかぎ」はここで渋川発編成と併結するため、10分停車する)というおまけつき。これは何かのトリックに使えるかもしれない。
 昼前に東京に到着し、池袋の谷川俊太郎書店に行ってみる。しばらく前にちょっと話題になっていたが、案外狭くて、ほとんどジュンク堂書店の一コーナーのような扱いだったのでがっかりした。そのジュンク堂の自由価格本コーナーで、先日買いそびれた『ケルト妖精民話集』を探したが、見あたらなかった。
 その後、知人2人と一緒にワタリウム美術館のヘンリー・ダーガー展を見た。とことんいかがわしい見せ物を期待していたのだが、ごく普通の下手な絵ばかりでちょっとがっかりした。
 その後、秋葉原の三十三間堂へ。滅・こぉるファンクラブオフ会に出席した。
 このオフ会はもともと今度の旅行とは全く別々に思いついたものだった。最初は関西での開催を考えていたのだが、関東のほうが集まりがいいだろうと思い直し、ファンクラブ会長の((;゜Д゜)ガクガクブルブル55号氏にお願いして会場の手配と会員への連絡してもらった。
 当初、参加予定だったLEGIOん氏は修羅場中ということで不参加となり、186(一服中)氏も直前になってキャンセルしてしまったが、そのかわりに特別ゲスト(別に名前を出しても問題ないと思うのだが、ここここで名前を伏せているので、私も前例に倣うことにする)が飛び入り参加したので総勢5名(((;゜Д゜)ガクガクブルブル55号氏、茗荷丸氏、V林田氏、特別ゲスト氏、そして私)である。V林田氏とは初対面だったが、予想していた通りの人だった。どういう予想だったかは秘密だ。
 もし186(一服中)氏が参加していたら、どうにかして砂雪氏をおびき寄せて、V林田氏と私の三人で確率論的袋叩きを実行しようと思っていた。砂雪氏と面識のある茗荷丸氏に、滅・こぉるファンクラブのことは伏せて呼び出しをかけてもらえばなんとかなったかもしれない。今回はやむなく見送ったが、私はまだ諦めたわけではない。
 さて、オフ会が終わって新宿へ移動して、焼き鳥屋に入ったがすぐに私だけ抜け出して、ホテルに泊まって昼間買った『桜色BUMP シンメトリーの獣』(在原竹広/電撃文庫)を読んで、寝て、起きて、続きを読んで、電車に乗って、恵比寿駅で讃岐うどんを食べて、新宿に行って、『RETROGRADE RENAISSANCE LUTE A CLASSICAL DECONTRUCTION BY JOZEF VAN WISSEM』(ルネサンス期のリュート曲を逆弾きしたものらしいが詳細はわからない。いったいどこのレコード会社から出ているのだろう?)というCDを買って、家に帰った。おしまい。

 『桜色BUMP シンメトリーの獣』の感想。
 オビに「大型新人が贈る新感覚学園ライトミステリー」と書かれているので、最初(文芸のジャンルとしての)ミステリだと思って読み始めたのだが、そうではなかった。どちらかといえばホラーに近いかもしれない。
 核となるアイディアは、私がずっとあたため続けていたもの――私には小説の才能がないのでどうせ形にはならないと諦めてはいるものの、長年あたためるだけあたためているアイディアがいくつかある――と全く同じだったので、解決場面で思わず声を出しそうになるくらい驚いた。
 まとめ方はやや御都合主義的で、そのわりにやや後味の悪いところがある。それが欠点といえば欠点だ。全体を通してみると、よく書けていると思う。今後シリーズ化するのかもしれない(『桜色BUMP』というのはシリーズ総タイトルなのだろう)が、続篇が出たら読もうかどうしようか、ちょっと迷う。

 旅行記が終わったので、いつもの雑談に戻る。
 今日はもうあまり時間がないので一つだけ。
 テレビを見ていることが、戦争を構成する要素の一つであることという文章を読んでいて、反戦の意識の中心には、兵士の死だけでなく戦争の犠牲となる民間人の姿が大きく影響してきたが、この映像が示した「戦争が人道的に遂行されている」というトートロジカルなイメージ、そして全く生々しい戦場が見えない戦争のイメージが、世界的な世論形成に大きく影響したことは間違いがない。という一文が気になった。文中のトートロジカルなイメージは、「戦争が人道的に遂行されている」を受けているのだと思うが、「戦争が人道的に遂行されている」というイメージはトートロジカルなのだろうか? むしろパラドキシカルなのではないだろうか?
 もしかしたら私はひどい誤読をしているのかもしれない。

1.10609(2003/03/28) すべての幻想は幻滅へ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030328a

 今日は『マリア様がみてる 真夏の一ページ』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)の発売日なので、日本全国マリみて一色になっている。私も早速買ってきた。
 だが、マリみては後日の楽しみにとっておいて、同じく今日発売の『小説 スパイラル〜推理の絆〜3 エリアス・ザウエルの人喰いピアノ』(城平京/エニックス)を先に読んだ。マンガのほうの『スパイラル〜推理の絆〜』(水野英多・画)のほうはアニメ化してそれなりに有名になったようだが、原作者自らの手による小説版は、ミステリ系はもとよりライトノベル系のサイトでもあまり話題になっていない。書店での扱いは、エニックスのノベルス本としてはわりといいので、それなりには売れているようだが、やはりオリジナル作品ではないということで割を食っているのだろう。ただ、小説版は主人公の鳴海歩と結崎ひよののコンビが登場すること以外はマンガ版とはほとんど関係がない。
 小説版では、毎回ゲストヒロインが事件を持ち込んで、歩がそれを解決するという体裁をとっている。一作目の『ソードマスターの犯罪』では少女剣士、二作目の『鋼鉄番長の密室』ではバレリーナ、そして今回の『エリアス・ザウエルの人喰いピアノ』では名門女学園に通う令嬢である。前作では『野望の王国』を下敷きにするという無茶なことをやっていた。今回は時節柄マリみてネタかと思ったのだが、あまり意識している様子はなく、むしろ『笑う大天使』に近いような気がする(ただし学園は舞台になっていない)。
 あとがきによれば、

 基本アイディア自体はG・K・チェスタトンやアイザック・アシモフの短編にあり、第一章の時点でそうと気づかれた方もおられると思います。そうと気づかれた上で面白く読めるものにしようとしたのですが、成功しているかどうか。
ということだが、チェスタトンとアシモフの名前だけで気づく人もいるかもしれない。もっともアイディアの処理方法は当然この二人の作例とは異なっている。
 ミステリとしてどうかというと、広げた風呂敷の大きさのわりに解決が地味なので驚天動地の大トリックを期待して読むと肩すかしを食らわされるかもしれないが、よくまとまった小品(100ページ以上ある中篇を「小品」と呼ぶのは不適切だが)だと言っていいのではないかと思う。また第二章の一人称の文章でヒロインの性格をよく表しているのがよかった。当たり前のことだが、一人称の小説は語り手となる人物の文体で書かなければならない。作者の不断の地が出てしまってはいけないのだ。
 この本の後半には「外伝 名探偵鳴海清隆〜小日向くるみの挑戦〜」から3篇が収録されているが、ガンガンNETに掲載された時に読んでおり、今日は改めて読み直さなかったので感想は省略。

1.10610(2003/03/29) 犬マニアのいい奴だった

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030329a

 今日は非常に気が沈んでいる。明日パルナス展を見に行くつもりで数人の知人に声をかけてあったのだが、勝手にキャンセルした。今は誰とも会いたくない心境だ。
 案外明日になったら気分が回復するかもしれないが……。

1.10611(2003/03/30) みずうみ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030330a

 湖畔に立って、「ソルヴェイグの歌」を聴きながら涙を流す夢を見た。
 起きてから調べてみた。「みずうみ」だ。私が聴いたのはずっと昔のことで、しかもテレビではなくラジオだったので、湖の映像を目にしていたわけではないのだが、歌い出しの箇所が強く印象に残っていたものと思われる。
 あまり気分が回復したわけではない(こんな夢を見るのは精神的に弱っている証拠だろう)が、今日は予定どおりパルナス展を見に行くことにしようと思う。

1.10612(2003/03/30) 遠い日の花火は熱くない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030330b

 一人でパルナス展を見に行った。
 実は展示物にはあまり興味はなく、パルナスソングの数々を聴きたいと思っていた。もしかしたらCDでも売っているのでは、と期待したのだが、残念ながら著作権の問題をクリアできなかったそうで、試聴のみだった。
 その後、神戸の南京街で、胡麻団子と肉ピロシキとエビ団子とココナッツ団子と桃まんを食べた。

 センター街のHMVで今朝方の夢に出てきた「みずうみ」が収録されているCDを探した。「NHKみんなのうた」のCDのジャンルがわからないので、J・POP(嫌な言葉だ)のコーナーに行き『大貫妙子 CLASSICS』(BMGビクター BVCR-8015)というCDを見つけて買った。
 近くでほぼ全裸に近い若い男性が歌を歌っていた。「シーモネーター」とかいう人(団体かもしれない)らしい。人だかりしていたから、たぶん有名なのだろう。かたり暖かくなってきたとはいえ、人前で裸のまま歌を歌うのは辛いだろうな、と思った。

 V林田氏の薦めにより『ぐるぐる渦巻きの名探偵』(上田志岐/富士見ミステリー文庫)を読んだ。富士見ミステリー文庫といえば、方向性が不明なのが致命的で、いったい誰を購買層にしたくてどういう作品傾向で行きたいのか見えてきません。「ミステリ」の名前はどうみてもプラスには働いてないように思えます。とか確かに、“ミステリー”と冠してるのが失敗なんですよね。や、ミステリ風ライトノベルを目指してるんだろうけど、、ライトノベルではあっても、ミステリとして成立してる作品が皆無なので、位置づけとして、すごく中途半端になっちゃってるし。と言われるだけあって、ミステリとして評価されたり話題になったりした作品がほとんどない。では、この『ぐるぐる渦巻きの名探偵』はどうか?
 タイトルは秀逸。奇妙な名探偵の設定は、説明のために枚数を使いすぎている点を除けば、まずまず。だが、ミステリとしてはあまり評価できない。学園を舞台にした連続殺人事件を扱っていて、いちおうフーダニットになってはいるのだが、特に魅力的な謎があるわけでもなく、犯人限定のロジックがしっかりしているわけでもなく、奇抜なトリックで驚かせてくれるわけでもない。最後のほうで、ほとんど形だけトリックの解説があるが、よくわからなかった。
 たぶんこの作品の主眼点は殺人動機なのだろう。解決場面では「ああ、なるほど」とそれなりに感心はした。捉え方によっては前例がないと言えなくもないが、動機を成立させるために世界を一つ作ってしまうという発想は評価していい。もっとも、その発想をうまく展開しているとは思えない。
 近々シリーズ第2作が出るそうだが、あまり食指が動かない。だが、とりあえずこのような素敵な小説を紹介してくださったV林田氏には感謝したいと思う。

 天使の階段(3/30付)から。

 消えていこうとする物語を、ぼくはどうやってせき止めればいいのだろう。ぼくは無力だ。自ら消えたいと願う声や文字をまえに、ぼくはどうしていいのかわからなくて、途方に暮れる。
 物語が消えていくという感覚は創作者独特のものだろう。消費者にとって物語とは既に何らかの媒体に固定されたものであって、焚書等の物理的な手段を用いることなしに自然と消えていくという状況はピンと来ない。未だ固定化される前の物語は、確かに消えてしまうこともあるのだろうが、私にはそれを実感することができない。
 ちょっと意地が悪いが、消えていこうとする物語などというものは最初からなくて、ただ物語が消えていくという感覚によって事後的に捏造されたものではないか、という疑問を突きつけることもできる。この問いに対して創作者は物証を提出して反論することができない。消えてしまった物語を消費者の前に差し出すことは不可能だからだ。
 消えていこうとする物語に、創作者と共に立ち会える者はいない。そこには誰もいない。
 なお、上の引用文では「消えていく」と「せき止める」が呼応していない。「せき止める」に対応するのは「流れ去る」(これは2つあとの段落で使われている)だろう。では、「消えていく」に対応する言葉は何か? 「消えるのを止める」ではすわりが悪い。他には「とどめる」「防ぐ」という漠然とした言葉しか思い浮かばない。私の文章ではないのだから、別に思い浮かばなくても構わないのだが、何となく気分が悪い。

1.10613(2003/03/31) のうさぎ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303c.html#p030331a

 きょう は ざんぎょう で つかれました
 かえり に やまみち を はしって いる と くるま の まえ を いちわ の のうさぎ が はしって いきました
 ああ もう はる なんだ と おもった ひととき でした

 「たそがれSpringPoint」を公開したのは2001年10月1日だった。一年半もサイトを運営していると、あちこちの人からさまざまな形で言及されることがあるもので、少々のことでは驚かなくなっているのだが、今朝アクセスログから辿った同時代ゲーム(http://homepage2.nifty.com/jituzon/というURLに管理人の個性があらわれているように思う)の3/30日付の記事には心底驚いた。某哲学系ミステリサイトの方というのはたぶん蔓葉信博氏のことだと思うが、いったい何を話したのだろうか?

 数学で「!」が階乗を表すということは知っていたが「!!」は知らなかった(ここを参照)。あやうく階乗の階乗だと勘違いしてしまうところだった。
 「!!!」だったらどうなるのだろうか? k!!!=k*(k-3)*(k-6)*…*3or2or1でいいのだろうか? もしそうだとすると4!!!=1となるから、パズルを解くのがかなり楽になる。(4!)!!や(4!!)!も使えそうだ。