かわしま農園

私の園は わかやま 有田 吉備町にあります
古くからのみかん産地です


有吉佐和子の小説 有田川を読むと有田みかんの歴史が分かります
私の家で作っているのは 完熟みかん  春峰 当園独自育成オレンジ 等です
10月から5月までよく熟れたものから順次収穫します
又 新しいオリジナルフルーツの交配育成にも取り組んでいます



《紀州みかんの歴史》
紀州に初めてみかんがもたらされたのは天正二年
宮原糸我村の伊藤孫衛門が肥後の国八代から持ち帰り近在に広めた事に始まります
豊臣秀吉の紀州での検地を実施した浅野幸長の御検地帳によると
1601年(慶長6年)当時のみかん植裁本数を見ると
長谷川村 6本 中野村 10本 下六ツ川 大小5本 小川 15本 黒松 15本 丹生 25本
金屋 5本 市場 3本 上六ツ川 9本 釜中16本 糸野18本 田殿荘13ケ村 98本
須谷村 19本 道村 6本 土生村 34本
又 亨保19年10月に書かれ 天明8年10月に中井甚内により書き次がれた紀州みかん伝来期
によると 慶長の初めには保田の荘では各村に50本から70本植裁されていたとあります



この紀州のみかんを奨励したのが 紀州藩主として着任した徳川頼宣公であったと云います
紀州のみかんの優秀さに目をつけ 発展する江戸での需要を予見した頼宣公は紀州みかんの
大恩人でもあるともいえます
着任当時18才 非常に優れた殿様であったようです
後に南龍院と呼ばれ南紀にて天下をうかがったとも云われていますが
自身は紀州の発展に尽くし 息子の吉宗が8代将軍となった事は良く知られています
もう一人 江戸送りを実行した先達がいます
それは滝川原の籐兵衛
1634年(寛永11年)にみかん400篭を紀州回船に船積みし
自らも乗り込み江戸での販売に成功
紀州みかんを一躍日本一の座につけた人でもあります
価格は一篭(15KG)で一篭半で一両
今のお金にして約8万円〜10万円と云う
1KGにすると約4000円となります
翌年には近在の人々も籐兵衛に頼み込み船積みして江戸に運び
江戸は神田の仲買を介して販売をする
篭数は2000篭であったと云う
価格は前年(一篭約60000円)より下がり 一篭約25000円(現在の価値にして)
となったと云う
みかんが経済作物として有望と見た農家は増殖をして有田側北岸の傾斜地での
栽培が盛んになった
頼宣公は傾斜地の有効利用を奨励
みかんに対しては税金を課さなかったと云う
1680年には30万篭に達したと云う
ちなみに江戸の人口は1601年 3000人
1634年 100万人
1651年 130万人
徳川家康が江戸幕府を開くとともに 多くの人々が集まり
家屋敷を建て橋を架け その工事の為に爆発的な人口増加となり
世はバブルの様相を呈し 物が良く動いたと云う
そうした中 紀州のみかんは江戸庶民の嗜好にマッチし水菓子として重宝されたそうです


吉備町の元祖は岡山県の吉備一族であると云う説もありますが
では 古い時代の藤並組 土生村とは
1601年当時一ケ村で34本のみかんが栽培されていたといいます
これは一戸に一本程度 自家用に植えてあったものだと思われます
当時の植裁本数としては多い方であったといえます
土生は波夫または植生とも云われたそうです
粘土の土(色彩を含んだ土)を産出した場所で
古墳時代から焼き物を製造していたと云います
寺院の瓦や須恵器なども焼いていたとも云われています
先年 土生池が発掘調査された時に石の包丁などが発掘されています
これらの石器の特徴から3万年前のサヌカイト遺跡であるとも云われています
土生池周辺には石器時代から人が生活していた様子を思い浮かべる事が出来ます
今はその池の半分は工場用地となり 星電気の主力工場が稼働しています
残り半分は今も水をたたえ 水田や畑の潅漑用池としての役目を担っています

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  とれたてフルーツ 完熟みかん

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                                 園主 河嶋美樹