太地浦捕鯨絵図

和歌山県太地町 和田新氏所蔵

 この絵図は、捕鯨を行って持双船で鯨を太地港まで曳航している様子を描いたものです。

 遠くには岩山をくり貫いて石門を造った太地角右衛門の広大な屋敷が見えますが、わが文書には、「元禄拾一年(1698年)寅二月太地浦森杏庵住居願出相済申候」とあります。多分、この屋敷を指すものと思われます。101年後の寛政11年(1799年)に太地浦を訪問した坂本天山「南紀遊嚢」で、この屋敷を「泰地ノ邑長本姓ハ和田ナリ。当地泰地ヲ苗字ニシテ角右衛門ト云フ。熊野ノ内、新宮領十八ケ村ヲ掌ル大荘屋ニシテ、此浦ノ鯨漁ノ総管領ナリ。門ハ入江ニ向テ小諸侯(※小大名)ノ邸ノ如ク」と記しています。約2000坪の敷地でした。この頃は5代目角右衛門頼徳の時代です。

角右衛門屋敷図(拡大図)

上記絵図の現在の位置(石垣塀)

 この絵図で、勢子船の舳先(へさき)では水主(かこ)が踊っており、その喜びを示しております。鯨踊りには座ったまま踊る「綾踊り」がありますが、角右衛門屋敷内の座敷で酒宴を催しながら踊られたことや、船上でも踊られた事からこの振り付けも定着したのでしょう。三輪崎鯨踊り(新宮市)では「殿中踊り」「綾踊り」があり、「殿中踊り」では扇を持ち、円を描きながら立った状態で踊る形です。太地の「魚(いお)踊り唄」はこの「殿中踊り唄」に対応しておりますが、現在では太地のこの踊りの振り付けは残っていません。しかし、三輪崎の「殿中踊り」の形に似ていたことが推測され、この絵図の様に、船上で踊られているような、立ったまま踊る形だったのでしょう。

水主(かこ)の踊りの図(拡大図)

 この絵図の所有者、和田新氏は和田忠兵衛頼元の長男、和田金右衛門家の末裔で、江戸末期には7代目角右衛門頼在の弟、頼通が和田金右衛門家を継ぎ、太地角右衛門と共に太地浦鯨方の経営に重要な役割を担ってきた家柄です。金右衛門は代々、角右衛門を補佐し、鯨山見宰領として捕鯨現場への指揮を行っておりました。和田新氏は今回、このホームページへの絵図登載に快く承諾して下さいました。

10/27/1997