背美鯨捕鯨絵図

太地町 和田新氏所蔵

この絵図は前の絵図の続きです。これは網取り捕鯨法ではなく、突き取り捕鯨法です。背美鯨の場合には通常は突き取り捕鯨法で捕獲ができましたが、明治十一年(1878年)の漂流事故で太地鯨方が壊滅した時の背美鯨は巨大であったためか、網取り捕鯨法で行っています。その時の事故のことを「背美の子持ちは夢にも見るな」という格言として残っていて、これを、背美鯨の母子の場合には捕鯨を行わないというこの「戒め」を無視して捕鯨を行ったため、事故が起こるべくして起こったといった迷信めいた一部の解釈がありますが、5代目太地角右衛門頼徳が寛政三年(1791年)に伊豆・神津島の役所の捕鯨事業開設の問い合わせに対して、返書を提出していますが、その中に

何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、鯨船寄り集り、子江銛を突候而しらせ綱を付、船を引せ申候得者、母鯨子をいたわり、介抱致候様ニ仕候処を、船之銛を段々突鯨を弱らせ、子の頭江鼻もりと申候銛を突、地方江潜入候得者、母鯨何所迄も慕来るを、もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候。右者座頭鯨せひ鯨児鯨同様ニ御座候。

とあって、セミの子持ち鯨も捕っており、上記の格言はこの事故そのものを指したものであって、古式捕鯨は、母子鯨が来た場合には、先ず子鯨を捕獲すれば母鯨は子鯨を思う気持ちから逃げようとはしないという習性を利用しての捕獲方法が基本でした。そのため、確実に母子鯨を捕獲することができたのです。

太地常路(10代目角右衛門)建立の漂流殉難供養碑

 「鯨記」「一、子持鯨は憐れなり。先ず子を突大小に順ひ森(※銛)二、三本、或は十本も突て網を扣て遠く去ざる様にするときは、母鯨二、三里行きても又立帰り、子をひれの下に隠し、己が身に森を受終に死す、誤て子を殺しぬれば半死の鯨も迯去なり。」と記していますが、山見を行いながらひたすら鯨を待つ者にとり、さまざまな条件を付けて捕鯨を躊躇していたのでは莫大な資本を必要とする捕鯨業は成り立たなかったでしょう。背美鯨親子を捕獲したことは鯨唄の歌詞にも記されております。

突いたやあーア

太地の組やよオ エー太地の組やよオ

親も取り添え子も添えて

お背美アお背美ア太地へ寄せ掛かる

「親も取り添え子も添えて」とは親鯨も子鯨も捕獲するという意味になります。「お背美」とは言うまでもなく、背美鯨を指し、「太地へ寄せ掛かる」とは捕らえた鯨を太地の港に運ぶ様子を語っています。

 明治11年(1878年)12月24日午後3時より捕鯨が始まったこの事故は、事の外巨大な背美鯨だったため捕獲にてこずったため、捕鯨が翌日に及び、後に強い寒風吹き荒ぶ季節風雨となって黒潮に流されたのが最大の原因だったと思われます。太地鯨方がこの鯨に執着したのは、他の資本からの脱却を目指していた時期であり、現場の人々の間に必ず捕らえるという執着心と大獲物への中途断念をしたくないという漁師の誇り等の心理があったのかもしれません。この事故で百八名の命が絶たれ、優秀な漁師を失った角右衛門組太地鯨方は太地覚吾(8代目角右衛門)がその再建のために尽力したのですが、明治13年(1880年)に終焉しました。