ナガスクジラ

網取り捕鯨の技術を確立した角右衛門頼治は、他の捕鯨業者が撤退する中で、一人座頭鯨を捕獲することに成功し、天和3年(1683年)暮れより翌春までにザトウクジラ91頭、セミクジラ2頭、コクジラ3頭を捕獲して一躍「角右衛門組・太地鯨方」を世に知らしめました。この捕獲した鯨の種類を見てもわかるように、セミクジラ・コクジラはわずか数頭、イワシクジラ・マッコクジラの記録が無いのに対し、ザトウクジラは多数捕獲していて、網取り捕鯨が如何に画期的であったかがわかります。ザトウクジラを捕獲の対照としなかった突き取り捕鯨ではそれほど他のクジラが捕獲できなかったことが推測されます。

この頃、紀州藩主を通じては朝廷に、新宮領主を通じては幕府に鯨肉を献上した功労により、2代紀州藩主・徳川光貞より「太地」姓を賜りました。和田角右衛門を改め、太地角右衛門を名乗った頼治は、大阪の井原西鶴の耳に入ったらしく、西鶴は「日本永代蔵 巻弐」「天狗は家名風車」で、天狗源内として彼を紹介しています。

太地浦でも、

      太地角右衛門大金持ちよ

      瀬戸で餅つく表で碁打つ

      沖のど中で鯨打つ

このような里謡が残されております。

また、鯨唄でも歌詞が数多く残され、節のわかるもので現在まで残されているものは、「魚踊り唄」・「綾踊り唄」・「轆轤唄(ろくろうた)」の3つがあります。   

     めでたの若松様よな枝も添えアーそれじゃい 

     栄える葉も茂る

     エー今夜の祝いで明日は座頭掛けよな

     これも祝いの御利生から

     エー掛けたや角右衛門様組よエー角右衛門様組よ

     親も取り添え子も添えて

     座頭は座頭は角右衛門様へ寄せかかる

(太地鯨唄:魚踊り唄より)

鯨唄を聴くと、今でも捕鯨を行っていた頃の息吹が感じられます。