10/6/1997

 太地浦鯨方

一、慶長十一丙午年(1606年) 和田忠兵衛頼元泉州堺伊右衛門と申すもの、並びに尾州師崎伝次と申す者と語らい、鯨捕り始め申し候て、羽差採りも尾州小野浦より雇い来る。忠兵衛男子二人、一人は金右衛門先祖、一人は孫才治先祖、両家より鯨船十二艘つつ仕出し申し候。

一、寛文二壬寅年(1662年)より塗り船に相成り、夫れ迄は櫓も七挺立て十三人乗りにて之有り候所、同年より櫓八挺立て十五人乗りに成り、櫓も、延べ櫓にて之有り候所、継ぎ櫓に相成り申し候。

一、延宝五丁巳年(1677年)和田角右衛門頼治鯨網工夫始め候て、金右衛門・忠兵衛・孫才治組十二艘つつ、角右衛門十二艘、庄太夫・八郎左衛門両家にて十二艘、杢之助・重之丞・半六の三家にて十二艘、庄八二艘、これは一組に相成り申さず、浮き世組と申し候て、掛け取り候組に之有り候所、右銘々鯨船は勿論、諸道具其の外にも相集まり、網方一本に相成り申し候。今に其の形を以て、本株半株之割り符之有り候。丹後之国にて縄網を以て、小さき鯨偶々捕り候事之有る故に候え共