カツオクジラ

和田金右衛門頼興は病弱のために、後に弟の角右衛門頼治に家督を譲り、自らは補佐役となりました。

この頃の、寛文2年(1662年)には鯨船は塗り船となり、更に同4年(1664年)には八丁櫓の15人乗りとなって鯨船の高速性が確立され、道具類も発達して、組織も分業化されました。

太地浦周辺20ヶ村を束ねた太田組大庄屋となった角右衛門頼治は、延宝3年(1675年)に太地浦を含む七ヶ浦(太地・森浦・浦神・下里・勝浦・宇久井・三輪崎)の庄屋と、「鯨突き定め」の取り決めを行いました。これは、捕鯨を行う取り決めを行うことで、紛争を無くする目的もありましたが、鯨組が増加した反面、鯨が減少してきたことで競合が激しくなってきたという実態がありました。