【日々の憂鬱】何をやってもうまくいかないのはいかがなものか。【2004年9月中旬】


1.11166(2004/09/15) いとしの「愛し野」から、あいのない「相内」へ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409b.html#p040915a

北海道から帰ってきた。今回の旅行の目的のうち

  1. 帯広で本場の豚丼を食べる。
  2. 廃線間近と噂される北海道ちほく高原鉄道に乗る。
  3. 北海道秘宝館を訪れる。
  4. 札幌市営地下鉄の未乗区間(琴似〜宮の沢)に乗る。
  5. 札幌ラーメン横町でラーメンを食べる。
  6. トワイライトエクスプレスに乗る。

以上6項目(達成順)はこなしたが、残念ながら旭川ラーメンを食べることはできなかった。また、別に残念ではきないが、定山渓温泉まで行きながら時間がなくて温泉に入ることができず、足湯に足を浸けただけで終わった。

文章のうまい人なら軽妙な文体で旅行中の出来事を面白おかしく語ることができるのだろうが、私が真似しても泥臭くなるばかりだ。また、今はネットへの接続不調が続いているので、写真をアップすることもかなわない。よって旅行記は省略する。

なお、今日の見出しに掲げた「愛し野」と「相内」はともに石北本線の駅名だが、別に愛し野から相内へ向かって旅したわけではない。

1.11167(2004/09/15) 読んでも読んでも終わらない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409b.html#p040915b

先月末に『監獄島』(加賀美雅之/カッパノベルス)を買った。上下巻で分厚い本なのですぐには読めないだろうと思いつつ黙々とページを繰り続け、北海道旅行の前日にようやく上巻を読み終えた。引き続き下巻に取りかかれば今頃は全部読み終えていたのかもしれないが、旅行中は『監獄島』を読む気になれず、旅行鞄の底に入れっぱなしで一行も読むことがなかった。

そのかわりに、というわけではないが、関西空港から帯広空港へと向かう飛行機の中で『食卓にビールを』(小林めぐみ/富士見ミステリー文庫)を読んだ。非常に楽しく、すらすらと読めた。主人公は未成年の女子高生のくせにビールを飲んだりパチンコ店に入ったりしているのが不思議だった。高校生活を描いたパートはもしかして作中作ではないだろうかと勘繰って読み返してみたが、どうやらその種の叙述トリックは用いられていないようだ。ともあれ、この小説を雲の上でよかったと思う。

楽しい小説に巡り会えたのはよかったが、このままライトノベルしか読めない身体になってしまってはいけない。そこで、ライトノベル以外の小説を求めて札幌で書店に入ったところ、『暗黒館の殺人』(綾辻行人/講談社ノベルス)が新刊コーナーに山積みになっていた。これも分厚い上下巻だ。ただでさえ重い荷物を抱えているのに、これ以上荷物を増やしてどうするのか。別に北海道限定の本ではないのだから、帰ってから地元で買えば十分だ。理性的に考えれば確かにその通りなのだが、その時ふと魔が差した。帰りのトワイライトエクスプレスで一気に読破してみてはどうか、と思いついたのだ。

で、買った。上下巻とも買った。

トワイライトエクスプレスの車中で私は『暗黒館の殺人』を読み始めた。なんだかノリが悪い。仰々しくもったいぶった文章が並んでいるが、一向にわくわくしてこない。昔は「館シリーズ」の新刊が出るたびにわくわくどきどきしながら読んだものだが、もはやあの頃には戻れないのか。気のせいか『監獄島』よりも読みにくく感じた。

列車が終点の大阪駅に到着する寸前に、なんとか上巻を読み終えた。しかし、続けて下巻を読む意欲は既になく、私は疲れ果てて帰宅した。

その後もぼちぼち『暗黒館の殺人』を読んではいるのだが、読んでも読んでも終わらない。妙に思わせぶりで鬱陶しい挿入句のせいで気分がささくれ立つ。この書き方だったらなんでもありだろうと思ってしまうのだ。今、第二十一章の途中まで読んでいるのだが、事件の謎を推理しようという気にもならないし、この先どんな結末が待ちかまえていようがもうどうでもいいや、という気分になっている。巻頭の「主な登場人物」に各人の年齢が記載されていないので、その種の仕掛けがあるのだろうとぼんやり想像しているのだが、当たっていてもうれしくないし、外れていても悔しくないことだろう。

ここらで『暗黒館の殺人』を一時中断して『監獄島』に戻ろうかどうしようか迷っているが、『監獄島』のほうもあまりわくわくする話ではない。『暗黒館の殺人』と逆のトリックが用いられているのではないかと考えているが、私の想像が正しいかどうか一刻も早く確かめたいという気にはならないのだ。

だんだん、もうラノベしか読めない身体になってもいいかもしれないという気分になりつつある。ネガティヴな文章で申し訳ない。

1.11168(2004/09/16) 行き詰まる展開

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409b.html#p040916a

先月末からずっと『Rance VI ―ゼス崩壊―』(アリスソフト)をやっている。途中、北海道旅行の間は中断したが、それ以外は平日でも一日2〜3時間、休日だと5時間くらいはかけているのだが、なかなか終わらない。というか、行き詰まって先に進めなくなってしまった。弾倉の塔と跳躍の塔を攻略する場面で、行けるところには一通り行ってみたはずなのだが、イベントらしいイベントも発生せずに停滞している。もしかして闘技場で勝ち抜かないと先に進めなくなっているのだろうか? それとも先に進むための条件を何か見落としているのだろうか?

RPGは久しぶりなので、本当は自力でクリアしたいのだが、ひたすら経験値を上げていくだけという作業に嫌気が差してきた。私の人生は有限だ。

気分転換のために本でも読もうとしたのだが、これがまた見事なほど全然読めない。会社への通勤途中や昼休みなどには読めるのだから、余計な邪魔が入らず気が散らない自宅のほうがより捗るはずなのに、視線が字面を上滑りして意味が全く掴めない。これはいったいどうしたことか?


仕方がないので、何か別のことで気を紛らわそう。たとえば……。

ある哲学者(中島義道だったと思うが違ったかもしれない)が書いた本を本屋でぱらぱらと立ち読みしていると次のようなエピソードがあった。ひきこもりの大学生の父親が哲学者のもとを訪れ、自分が息子に殺意を抱いていると告白し、この気持ちをどうすればいいのかと相談した。それに対して哲学者は「あなたは一つの生命を世界に生み出すという罪を犯した。この上、その命を絶つというのは、罪を重ねることにほかならない」と言って叱った。その言葉を聴いた父親は吹っ切れて、息子への殺意が解消した、というエピソードだ。記憶違いがあるかもしれないが、本のタイトルすら覚えていないので確かめようがない。このまま続けることにする。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」と考え込む人はたまに存在するが、「なぜ人を生んではいけないのか?」という問いを考える人はほとんどいないだろう。妥当性のあるなしはともかく殺人が悪であるというのは一つの常識だが、人を生むことが悪だとはふつう考えられていない。そんな突飛な考えを持ち出しても全く説得力がない。また、一歩譲って人を生むのが悪だとしても、そこから殺人が悪であるという結論を導出することはできない。「自分の子供を殺すのは過去の過ちを精算するためであり、悪というより善である」という論を立てることもできるだろう。よって、上で紹介した哲学者の言葉は穴だらけで、非哲学的である。むしろ文学的だといってもいいかもしれない。

ここから一足飛びに「哲学のことばよりも文学のことばのほうがより有意義だ」と結論づけるのは飛躍だが、少なくとも哲学が現に苦しみ悩んでいる人にとって何の助けにもならないことは確かだと私は考えているので、このエピソードにはなるほどと思った。宗教、思想、そして文学はときには人を救済することができるかもしれない。しかし、哲学にはそのような機能はない。ちょうど、数学や力学にその機能がないのと同じように。

このような哲学観に対しては異論があるかもしれない。件の哲学者の言葉を「非哲学的」という表現で評した私のほうが間違いであり、これこそが真の哲学なのだ、と主張する人もいるだろう。論理を弄んであれこれ議論するのは哲学以前の戯言に過ぎないのだ、と。

もしかしたら、ここには「哲学」という語の用法の違いのみがあるのかもしれないし、言葉の上の問題とは別に、より深みに断層があるのかしれない。ただ、いずれにせよ私と批判者の間で、私が「哲学」と呼び批判者が「戯言」と呼ぶ事柄よりも、私が「非哲学」と呼び批判者が「真の哲学」と呼ぶ事柄のほうがより有意義であるという点について合意が成立することだろう。合意が得られないのはその先だ。私は他人の苦しみや悩みに立ち向かうよりも、いや、自分が苦しみ、悩んでいるときでさえも、概念的な探究のほうに心惹かれる。これは批判者にとっては全く了解不可能なことかもしれない。

1.11169(2004/09/17) ながいながいくらやみのはなし

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409b.html#p040917a

ようやく『暗黒館の殺人』(綾辻行人/講談社ノベルス)を読み終えた。長く辛い道のりだった。

上巻のカバーには上下巻、総原稿枚数二千五百枚という長大な作品ですが、どうぞご心配なく、決して無駄に長いわけではありません。という作者の言葉が記されている。だが、私はこの長さに"世界"を統べる冷ややかな悪意を感じた。大技小技を数多く繰り出しているので、ある程度長くなるのは仕方がないが、それにしても二千五百枚は長すぎる。『ドグラ・マグラ』の二倍以上もの長さが本当に必要だったとは思えない。

この小説いちばんの大仕掛けは今となってはごくありふれたものであり、「館」シリーズの読者にとってはほとんど自明と言ってしまってもいい。そのままの形で用いるのではなく何らかの捻りを加えているものと予想して読み進めた読者は、最後まで読んでも何の捻りもないことに驚愕するかもしれない。私はかなり早い段階でまともに推理しようという気構えを捨てていたので、予想通りの結末を迎えても特に何の感慨もなかったが。

それにしても二千五百枚は長すぎる。

小技のいくつかには感心したが、それらが明かされるのは下巻の後半に入ってからで、それまでの筋立ては単調だった。雰囲気づくりのために言葉を積み重ねていて、それはそれなりに効果を上げているのだろうが、一つ一つの言葉は軽く薄いものになってしまっている。作中に引用されている中原中也の詩句との密度の差に驚くほどだ。もっとも、小説のことばと詩歌のことばとでは重みが違って当たり前なので、このような比較はアンフェアかもしれない。

それにしても二千五百枚は長すぎる。

終盤付近に、これまでに張られた伏線を逐一回収していく場面がある。その数は膨大だが、固有名詞を含む一部の記述(それらは読者に知識がなければ伏線として機能しない。おそらく最近の若い人には荷が重いだろう)を除くと、「一見同じようにみえる記述に些細な違いがある」という形のものがほとんどだ。それに気づかなかったのは読者が粗忽だからであり、作者はあからさまに手掛かりを示していたのだ、と自慢したいのかもしれない。自慢ではないが、私はその種の伏線を一つ残らず見逃していた。にもかかわらず、仕掛けそのものは丸わかりだったのだから、あの大量の伏線は無益なものだったのではないだろうか? いや、ただ無益なだけではなく、違いを強調することによってかえって偶然の一致が浮かび上がってくるというマイナスの効果をもたらしているようにも思う。

ああ、それにしても二千五百枚は長すぎる、長すぎる。

ミステリとは技巧小説であり、ある意味では不自然さを運命づけられた小説ジャンルである。よって、時には偶然に頼らざるを得ないこともある。しかし、『暗黒館の殺人』では少し度を過ぎているのではないか。そのためにあれだけ執拗に雰囲気を作っているのだ、と反論されるかもしれないが。結局、あの世界が気に入るか気に障るかという、読者の好みの問題に過ぎないのか。いや、最終的には好みの問題に帰着するにせよ、それ以前にいくつかの論点を提起することは可能だろう。たとえば、「ある事実を知っている/知らない」ということを基調にした推理を展開する場で、通常の認識手段を超越した啓示をどうやって排除するのか、というような。

だが――それにしても二千五百枚は長すぎる――私は疲れ果てた。

最後に、館の名称について気になったことを書いておこう。この館は「暗黒館」よりも「闇黒館」のほうがよかったのではないだろうか。どちらでも意味は同じだが、この館の住人には「暗」よりも「闇」のほうが似つかわしく思われる。「言う」ではなく「云う」を採用する綾辻氏のことだから、漢字制限に配慮したというわけではなさそうだ(実際、作中に「闇」という漢字は何度となく用いられている)が、どうして『闇黒館の殺人』ではなく『暗黒館の殺人』というタイトルにしたのか、私にはよくわからない。