夕霧太夫の三味線

1/24/1998

 元禄時代の近松門左衛門の「心中もの」にも登場する、京都・島原の遊郭「扇屋」の「おいらん」、夕霧太夫は実在人物でした。紀伊国屋文左衛門が、遊郭で小判を散蒔いたりしてるドラマを見たりしますが、そういった話は、我が家にも伝わっていて、我が先祖(あるいは2代目角右衛門頼盛かも知れませんが)が遊郭で小判を散蒔いたということで、道楽もあったようです。また鯨唄にも「とろりとろりと船漕ぎ寄せて、春は参ろぞ伊勢様へ(鯨を網に)掛けて参ろぞ伊勢様へ(明日の子持ち節)」と、昔の人は信心深かったのかなと思ったら、「これからやっさな、やっさな、一で河崎丹波河崎通い、下女思うてござれ、ヨイヤサ(魚踊り節)」と、伊勢参りと称して遊郭通いが目当てだったということがよくわかり、当時の捕鯨人のおおらかな人間臭さがよく出ております。「伊勢様に行くために、捕鯨で頑張ろう」と語りながらも、ニヤリと笑っている姿が目に浮かんできます。

 角右衛門が扇屋のおいらん、夕霧太夫と出会い、そこで夕霧から譲られたものが「夕霧所持の三味線」でした。この三味線は代々の角右衛門が所持しておりましたが、8代目角右衛門頼成(覚吾)の時に手を離れました。覚吾の叔母、和田半六家より新宮領勘定奉行、中根徳左衛門正晃に嫁ぎましたが、万延元年(1860年)11月26日に娘、を産んだ時、覚吾は祝いにこの三味線を贈りました。この三味線は新宮領主水野忠央公の前で演奏中、その竿が折れたため、忠央公より替わりの竿を拝領したそうです。胴は紫檀製で、金文字で

あふことはくもゐはるかになる神の音にききつつ恋ひ渡るかな  

(古今和歌集巻十一)

と刻まれ、バチは紫檀製と象牙製の2つがあります。入れる木箱には「夕霧」と記しており、夕霧太夫の家紋・桐の紋があります。和歌山県立博物館で、三味線の竿を包んでいる絹製の袱紗の生地を調べてもらったところ、まさしく江戸幕末のものとのことでした。同時に調べてもらった我が家の仏像は、室町時代のものとのことでした。

中根武夫氏

 覚吾の叔母、の孫娘の徳枝七郎氏と結婚しましたが、この七郎氏(元古座町助役)は太地覚吾とは相性が良く、世代を越えての友人だったそうです。その七郎氏の息子、故・中根武夫氏(元京都市助役・元和歌山県公安委員長)は私の叔父・橋爪啓と出会い、親類であることが明らかとなりました。そして私も叔父と共にお会いすることとなり、初めてお会いした昭和58年(1983年)4月24日の後に、「三味線をお返ししたい」ということになりました。そして、同年5月15日、「私は幼少の時に、晩年の覚吾さんとお会いしたことがあります。これは曾祖母が覚吾さんから頂いたものですが、貴方がこれを持つのがすさわしい。」とのお言葉を下さり、私に譲ってくれました。実に123年ぶりの帰還でした。覚吾と中根七郎氏との交友が、今度は中根武夫氏と私との交友となりました。不思議な御縁でしたが、その後京都で御他界されました。当時、高齢ながらも、元官吏というより無駄の無い理路整然とした話し方のする学者肌の魅力的な方でした。中根武夫氏は「京都市史」を編纂された方でもあります。

濱光治先生と夕霧太夫の三味線(毎日新聞より)

 その後、私の父、常路と同郷の同級生だった和歌山市吹上の故・濱光治氏(浜病院理事長、元和歌山県立医大教授)が角右衛門のことを本にしたいとのことで、「元禄の鯨(南風社刊)」という標題で出版されましたが、この夕霧太夫の三味線については特に深く追求され、大阪音楽大学付属楽器博物館大阪市立博物館、更に長唄師匠・杆屋勘寿郎氏にも鑑定をしてもらいました。その研究の結果、濱光治氏は、「この三味線は江戸初期の三味線の名匠・古近江善兵衛製作の名器17挺の内のはるかではないか」と結論付けています。我が子と語り合うかのように、私に捕鯨史のことで接して下さり、この本に詳しく記して下さいました。濱光治氏の御尽力で、この三味線のことが毎日新聞全国版にも大きく報道されましたし、NHK和歌山から角右衛門頼治のことが近畿一円で紹介されました。