太地浦捕鯨開始前後とその後の状況

1/15/1998

鯨山見合図

 太地角右衛門頼治の祖父、和田忠兵衛頼元慶長11年(1606年)太地浦で初めて捕鯨を行いましたが、当時の状況は豊臣秀吉から徳川家康の時代となった頃ですが、忠兵衛頼元がどういうきっかけで捕鯨業を行うことになったのでしょうか。熊野の一豪族に過ぎない人物が突如捕鯨を行えるはずはありません。そこには捕鯨業を行える下地があったものと思われます。

 ここ熊野の地域は、徳川幕府が開かれる前は豊臣秀吉に服従した堀内氏善の支配でした。堀内氏は秀吉より朝鮮出兵を命じられ、水軍(574名)を動員しています。その編成は和田(太地)、小山(現・古座町西向)、高瓦(現・古座町)、世古(三重県尾鷲市)等の各氏の水軍でした。この時、忠兵衛頼元の兄、和田勘之丞頼国が数十人を引き連れて出陣し、当地で戦死しています。

 その後、頼元の父、蔵人盛頼(頼実)も、堀内氏善の子、若狭守行朝の支配の下、関ヶ原合戦で石田三成に組しましたが、行軍中に石田軍が敗れたため帰郷しています。堀内氏は石田軍に組したため、知行を没収されました。

 豊臣秀吉の死後、石田三成と対立した浅野幸長は、関ヶ原の合戦では徳川家康方となり、慶長5年(1600年)10月に紀州を与えられ、翌年に入国しています。そして一族の浅野忠吉が新宮領主となります。浅野幸長は旧土豪を家臣としており、新宮領主・浅野忠吉も熊野の土豪を家臣としておりますが、この時、頼元も家臣となったのではないでしょうか。慶長9年(1604年)には徳川幕府より浅野幸長に課された江戸城修築普請で、熊野浦より石垣運搬船が393艘建造されています。水軍の家系の頼元もこの役割の一端を担って江戸まで出向いたのかもしれません。

 忠兵衛頼元は当初、仕官した時金右衛門を名乗っておりましたが、官を辞し、帰郷しております。熊野地方は熊野三山勢力があり、また山峡僻地が多くて大軍をもってしてもゲリラ戦では敗退するほど支配し難い地であり、そのため、陸よりの攻めが困難なこの熊野の地に対する進出や防備には水軍力が必要で、浅野氏転封の後、入国する徳川頼宣熊野水軍の重要性をよく認識していたのではないかと推測されます。徳川頼宣元和5年(1619年)に紀州に入国後、当初より水軍を兼ね備えた鯨方を重視して大規模な捕鯨を行ったため、幕府より捕鯨と称して水軍の軍事訓練を行っているのではないかと疑われるほどでした。その時、加納五郎左衛門の進言で、今中止すればかえって軍事訓練を認めることになるので、幕府の警告を無視して500艘の船で捕鯨を行った結果、それ以上はお咎めがなかったという記録も残っております。この加納家は後の吉宗と深く関わった家柄だと思われます。

和田忠兵衛頼元の墓石

 忠兵衛頼元は官を辞して帰郷後の慶長11年(1606年)に尾張・知多半島師崎浦の伝次と泉州堺の伊右衛門と計画して捕鯨業を始めることとなるのです。頼元についてはほとんど史料が無いため推測の域から出ず、何処でこの3人の接点があったかは不明ですが、頼元は和田家系図添書「於東都蒙貴名拝士官其之時革和田金右衛門」とされているので、もしかしたらその出会いは江戸であったかもしれません。(但し、伊右衛門・伝次の両名が太地浦に漂着したとの説もあります。)おそらくこの三者は各々捕鯨業のノウハウを持っていたはずです。頼元は親から受け継いだ水軍力とその支配下の人員、伝次は元亀年間(1570年〜1572年)日本で最初に開始された尾張内海地方での捕鯨の技術、伊右衛門は商業地の堺での商品流通機構だと思われます。

 ところで、「深沢家覚書」には次のように記されています。

一、鯨突き始めは慶長十七年(1612年)紀州熊野太地浦にて、伊右衛門と申す人と師崎浦の伝次という人と語らい此の業をなす。

一、慶長十七年十八年相続き十九年止む。元和元年(1615年)伊右衛門一人頭立って三年まで相続く。四年太地浦金右衛門、尾州小野浦を語らい与三次と申すもの槍を以って突き組をなす。是羽指の始めなり。

 ここでは忠兵衛頼元の名が見えませんが、わが太地家文書では捕鯨開始は慶長11年(1606年)となっているため、当地の文書でもあり、ここでは慶長11年説を採用しています。ただ、「深沢家覚書」では、慶長19年(1614年)には捕鯨が中止されており、この年、頼元が亡くなっています。更に翌年、伊右衛門が一人で元和3年(1617年)まで捕鯨を行っていますが、頼元が亡くなった時、伝次は帰郷したのかもしれません。元和4年(1618年)には忠兵衛頼元の長男、和田金右衛門頼照尾州・小野崎浦の与平次を雇い入れて、捕鯨業を再興しています。上記の「深沢家覚書」の文言の前に、慶長11年(1606年)の捕鯨開始があって、6年後の慶長17年(1612年)の頃は頼元の死の2年前であり、既に捕鯨業を行っていなかったのではないでしょうか。捕鯨が中止されたのは頼元の死で伝次も帰郷し、頼元の配下も動揺があったかもしれません。そのため、頼元死後、長男の金右衛門が直ちに伊右衛門と共に捕鯨業を行わなかったのだと思われます。しかし頼元が素晴らしいと思うのは、社会状況の変化の中、捕鯨業に着目し、創始したことにあります。

和田金右衛門頼照の墓石

 ところで、徳川頼宜が入国する1年前に水軍の末裔である金右衛門頼照が捕鯨を再興したということは、紀州藩との関わりが何か感じられます。伊右衛門から金右衛門頼照に捕鯨業が委譲されたのは、先に述べたようにその後、紀州藩が水軍の軍事訓練らしき事を行ったりしているところから、捕鯨業認可権を持つ紀州藩の水軍重視の意向があったかもしれません。しかし水軍だけを考えるならばもっと有力な土豪がいた訳で、既に捕鯨組織を持っていた和田家に対し、「平時は捕鯨、有事は水軍」という形で、捕鯨業の許可を与えたのではないでしょうか。

 これ以降、寛永13年(1636年)10月3日には太地・灯明崎に常灯明が設置されました。これは鯨油を使用し、年間1石2・3斗、1日当たり3・4合が必要でした。ちなみに徳川幕府が浦賀に菜種油を使用して常灯明台を設置したのは寛文元年(1661年)で、太地浦では25年も前に既に燈台が設置されていたのでした。尾州小野崎浦の与平治以降、勝浦(那智勝浦町)の権十郎・惣十郎、三輪崎(新宮市)の彦兵衛・勘兵衛、太地浦の六兵衛等の羽差の名が見え、捕鯨技術がここ熊野でもようやく確立したことが理解できます。このことは、金右衛門頼照も捕鯨の経営を安定化させたことが推測され、彼の進取的な優れた経営能力の一面を見ることができます。頼元から受け継いだ先見性が彼の息子・孫達にも引き継がれたのではないでしょうか。

 金右衛門頼照には八郎左衛門頼賢(孫才治祖)庄太夫頼近(治右衛門祖)の弟がおり、彼等もまた漸次分家して個々に捕鯨業を開始しました。寛文4年(1664年)には八郎左衛門頼賢の子、忠兵衛頼則九州の大村周辺(長崎県)で、また庄太夫頼近の子、庄太夫頼如(治右衛門)貞享2年(1685年)志摩地方(三重県)の各々の遠隔地で捕鯨を行っています。そして2代目角右衛門頼盛の代には更に分かれて和田家とは別系統(既に姻族関係であったことが推測される)の泰地家(杢之助・重之丞)2家も含めて全体で10家(太地一類)の4組と地下組1組で5組にもなったのでした。(この外に一類の庄八の2・3艘の鯨船組織の浮世組がありました。)しかし、初代角右衛門頼治の頃より他の地域でも乱立して捕鯨が盛んに行われるようになった結果、不漁となり、後に忠兵衛・庄太夫共に遠隔地より撤退し、座頭鯨を主な捕獲対象とした網取り捕鯨法での角右衛門だけが一族の中で有利に捕鯨を行うことが出来ました。このような状況下、角右衛門頼治の兄、金右衛門頼興は、「角右衛門、巳ノ年(1677年)家請仰」「金右衛門家よりは唯今之角右衛門一類ノ地下ヲ致候」とあるように、頼治に家督を譲り、自らはその補佐役となり、2代目角右衛門頼盛の代の正徳3年(1713年)11月には親類の鯨組全てが「一類之儀も近年不自由之内、角右衛門今年迄取続き候」とあって、今後は「一類之内壱人立鯨船致間敷候」とされ、角右衛門組に吸収合併されたのでした。正徳3年(1713年)11月に太地一類の結束文書を取り交わした時には八郎左衛門の系統は3家(忠兵衛・孫才治・八郎左衛門)だったのが、後年には忠兵衛家は断絶して2家となりました。また、和田庄八は当時浮世組だったためか、契約文書には載っていませんが、後年、一類10家の一つに加わっています。和田系統8家は角右衛門・金右衛門・与市(伴十郎)・半六(重郎右衛門)・孫才治・八郎左衛門・治右衛門(庄太夫)・庄八となり、これが世襲化されて、寛政年間に紀州藩営、文久年間に新宮領営と、一時的には他に資本を委ねながらも明治初期まで角右衛門組として継続しました。