新田開発

 1/31/1998

 太地角右衛門頼治は、「那智勝浦町史」によると、捕鯨だけではなく那智・色川(田垣内)鉱山の開拓を行っておりますが、また見逃せないのは新田開発を行っているということです。太地浦では水田がなく、太田組内では主要な米所は太田地域でした。熊野地域は平野が少ないため、水田規模も小さいわけですが、江戸時代において新宮領主・水野氏は新田開拓政策を取っています。その際、財力のある者にそれを行わせるという方法をとっています。宝永2年(1705年)の新宮領の「新田御改帳」には成川組鵜殿村上野(三重県南牟婁郡鵜殿村)の地域で「上野御証文地」として、角右衛門による新田が広範囲にわたり載せられています。この上野は井田組の上野(同紀宝町井田)へと続いており、高台地となっております。角右衛門は、太地浦よりかなり離れたこの地で何故新田開発を行うことになったのでしょうか。

 「下里町誌」によると、角右衛門は井田・上野を開拓して500石の米を得たとしておりますが、貞享2年(1685年)に鵜殿・梶ケ鼻で捕鯨を行ったとの我が家の文書もあって、その山見にあたる箇所がまさしく上野となります。

 当時の捕鯨は、主に秋より春までの季節業であり、この地では、春より秋までは農業に従事させるといった事が行われたのでしょう。

 この高台の地、上野への潅漑のために、近くの大烏帽子山の谷間に貯水池・大村の池を造り、そこより上野地域の貯水池・ハセデの池までつなぎました。この池は近年まで活用されていました。

 「鵜殿村史」によれば、角右衛門所持の鵜殿・上野、新田畑は2町2反8畝27歩(18石2斗余)、井田・上野、新田畑は6町1反8畝14歩(52石1斗余)とあり、残存する史料によって一部が確認できます。この上野地区は、太地鯨方の米所だったのでしょう。