土佐捕鯨と角右衛門

1/2/1998

太地角右衛門頼治の墓石(五輪)

 天和元年(1681年)の頃、土佐(高知県)の津呂(室戸市)に多田吉左衛門という人がおりました。彼は捕鯨事業を行っておりましたが、経営がうまくいきませんでした。ある日、紀州・熊野の太地浦で網捕り捕鯨を行って、成功している話を聞きました。そこで、吉左衛門は水夫に身を変えて、ひそかに太地浦へやって来ました。

 2年ほど経った天和3年(1683年)のある日、吉左衛門は角右衛門が碁を好きなことを知り、碁会を催していたところ、角右衛門と面談することとなりました。角右衛門は「そちは何者だ」と尋ねました。「水夫でございます。」と吉左衛門は答えました。角右衛門は彼の水夫とは異なる雰囲気を見抜き、「水夫ではあるまい。何故真実を言わないのか。」と言うと、意を決したように、「私は土佐・津呂の住人、多田吉左衛門清平なる者です。当地に来て捕鯨業を見ること既に二年、未だその技術がわかりません。私の父、五郎右衛門は国益を思い、突き捕り捕鯨業を始めましたが、その技術の未熟さのため、廃業の憂き目に会いました。私を門下とし、ぜひ網捕り捕鯨法を伝授頂きたい。もしお聞き下さらなければ私の死あるのみ。」と答えました。角右衛門はその一途な人柄に感銘し、その捕鯨法を伝授することを約束しました。

しかし、角右衛門の親類や太地浦の住人はことごとく反対し、そのため角右衛門は、3代新宮領主・水野重上公に決裁を仰ぎました。当時、網捕り捕鯨法はハイテクであって、他国にその技術を伝授するなど考えられない時代でしたから、水野公も「何故、他国に伝授しようとするのか。」と尋ねました。角右衛門は即座に、「紀州・土佐で共に捕鯨が栄えれば、共に住民も豊かとなりましょう。」と語りました。その決意の固さを見た水野公は「業を建てるのは天下の祥瑞である。宜しく羽刺十人、その他漁師六十人を土佐へ遣わすべし。」との決断を角右衛門に下しました。これにより、土佐、浮津・津呂両組の網捕り捕鯨の事業が創始されたのでした。 

 土佐の「宝暦九年当国鯨組始写書」にも、「吉左衛門殿能碁之上手にて、碁会の案内仕、見物御出被為成、本より夫れ者故、段々御心易く相成、先方よりも御尋有之、右之連々具に御咄し被成候て、早速仕成様秘伝小間ケに習申候旨、帰国至し」と角右衛門との出会いを記しています。

多田吉左衛門関連で、室戸市鯨資料館「鯨の郷」のH.P.も見て下さい。