延宝三年鯨突定

3/14/1998

七浦庄屋による鯨突き定めの連名

 延宝3年(1675年)に、角右衛門・下里浦・浦神浦・森浦・宇久井浦・三輪崎浦・勝浦の各庄屋の間で鯨突きの際の取り決めを行いました。角右衛門頼治は太田組大庄屋で、他は下里、浦神、森浦が同組内庄屋、宇久井・三輪崎は佐野組内庄屋、勝浦は那智組内の庄屋で、大庄屋と各浦庄屋とでは、例え組が異なってはいても上下関係がありますから、角右衛門の主導で行われたことが推測できます。

 この文書では突き取り捕鯨についての取り決めであって、未だ網掛け捕鯨については触れておりません。もし既に網取り捕鯨が行われておれば、当然そのことに触れているはずです。後年、網取り捕鯨を行う際、突き取り捕鯨の鯨船や一般の漁船が近づいて支障となるため、側に近づかせないよう新宮領主に訴えている文書があるのを見ても、そのことが裏付けられます。

 我が家の文書では網取り捕鯨法は延宝5年(1677年)に開発し、翌年に新宮領主より許可されて、「太地鯨網御免被仰付候ハ延宝六午年」と記されております。他の文献で鯨網の創始を延宝3年と記しているものもあり、この時点では網取り捕鯨法の試行錯誤の実験は行っていたのかもしれませんが、この文書の内容からその技法がまだ完成されていなかったものと思われます。単に網を利用しての捕鯨というのであれば、丹後(京都府)の伊根浦で、藁縄網によって既に小型鯨の捕鯨を行っていたことが我が文書でも記されており、太地浦より早くから行っていたことをほのめかしています。ただ、伊根浦での漁法は湾内に小型鯨を追い込んだ後、出口を網で塞ぐやり方なのに対し、太地浦では洋上で鯨の進む方向に網を張って二重三重に巻き取った後、銛を打ち込む方法であり、さまざまな障害を考慮に入れた鯨網の細かい工夫とそれに伴う組織の分業化の改革、道具類の開発等を考えると、わずかな期間で完成させたとは思えません。実用化には数年の開発期間が必要であったに違いありません。従って、延宝3年に鯨網が始まったとする古文書の記録はその開発過程での始まりであり、延宝5年の始まりは、画期的に捕鯨が行える技術が完成した年だったのでしょう。

 この文書でも推測できるように、当時各地の鯨組が捕鯨を行った結果、鯨が減少してきて、1頭の鯨に近隣の鯨組が争うこととなり、既にあった「古法」を参考とした再度の取り決めが必要だったのでしょう。

 この取り決めの2年後、角右衛門頼治は、多数来遊したが捕獲困難だったため手を付けていなかった座頭鯨に着目して網取り捕鯨法で捕鯨を開始したのでした。座頭鯨・背美鯨・児鯨(克鯨)・鰹鯨(鰯鯨)・抹香鯨・長須鯨のことを「熊野六鯨」といいますが、この内、長須鯨だけは網取り捕鯨法でも捕獲が困難で、明治以降に洋式捕鯨法で始められました。突き取り捕鯨法を主体とした三輪崎浦鯨方の鯨唄(綾踊り唄)でも「沖の長須に背美を問えば、背美は来る来る後へ来る」とあり、長須鯨は全く捕獲対象とはしていなかったことがわかります。明治に入ってから洋式捕鯨法(ボンブランス銃使用)を導入しようとしましたが、なかなか実施出来なかったのは、この方法では鯨は即死するため、マッコ鯨のように死んでも浮く鯨なら問題はなかったのでしょうが、座頭鯨や背美鯨のように死ねば沈んでしまうタイプは生きている内に持双船につながなければなりませんでした。即死する洋式ではその手だてが出来ないという欠点があったのだと思います。アメリカの捕鯨船が捕獲対象としたのは、食用としてではなく油の採取を目的としたマッコ鯨でした。ここに捕鯨の価値観の相違があり、現在まで影響しているのだと思われます。

 この延宝3年の取り決めは、網取り捕鯨法(網掛け突き取り捕鯨法)の開発との関連で、重要かと思います。

 (原文)

一、壱本鯨合突ニ致候時ハ半分割若早き方之差添と遅き方之はやと一度に中り候はゞ一節又は半節迄之合突可有之候一頭違ひ候はゞ弐之銛に可成一本之鯨之合突には他催合之皮可遣之二本つれの鯨合突に仕二本共に留り候はゞ二本の鯨を壱本にし銛の早き遅きを致吟味一本鯨之通割符可有之三番銛へは五節割半節宛両方より出し可申事。

一、合突鯨之時弐之銛突不申候以前抜ケ申銛は流銛可成鯨突申節風強とて柱をも不立小印も不立候ハゞ縦鯨を慕参候共突留之鯨たるべき事。

一、二本連の鯨一本留り候はゞ先銛三節半二番銛一節二本共留り申候時は先銛見取に壱本二番銛之鯨を三番銛へ壱節割符可有鯨わかれ不申内は何本連にても右之割符なるべし二本つれの鯨追分申時は一本鯨又道具突候而後寄合候はゞ連鯨なるべし然共一度別申鯨に候はゞ三番銛は勝負有間敷事。

一、連鯨先銛にて分申時は一本鯨若また分之鯨へ先銛より船を附候はゞ連鯨なるべし左様之節は分之鯨に附候船には大印を上げ可参候先銛よち印船附不申時は分れ之鯨は壱本になるべしたとひ先銛之船附参候とも三番銛に勝負有間敷事。

一、かへはや銛は慥成証拠有之候はゞ五節割半節鯨に而割符可有之証拠かましき事無之時は其船之銛を留置鯨殺し而吟味銛有之候はゞ右定之通鯨にて割符可有之事並びニ矢縄綱とも突込候とも鯨働き或釼切等にて道具損し候ても銛になわ少しにても有之候はゞ右突主之鯨たるべき事。

一、道具持之無主鯨は綱を取候而も其船一の銛なるべし然れ共慥なる証拠無之候はゞ二之銛の鯨なるべし自然一度に壱艘は綱を取壱艘は銛突合突に仕候はゞ合突同前に可有割符事。

一、挟子持之鯨三本留り申時は連鯨にて弐番銛三節半三番銛へ壱節可遣之母を逃し連鯨留候はゞ先銛三節半弐番銛壱節三番銛流銛なるべし自然二番銛にて連鯨わかれし時は一本鯨道具突ニ而も又添候時は右の割符なるべしいつれ之道にも母子の鯨は先銛之可取事。

一、鯨催合掛之儀銀掛之時は銀に口なし其船々へ渡可申候鯨にて懸り申時は三枚之勝負之皮之外は定之通鯨割符可有之事。

附 鯨道具突にて彼鯨を取逃し申候節追かけ申候船より物を振候はゞ互事に候間近辺の船精を入突留候様ニ致べし然る時は突留之勝負として小半節鯨に而可遣事。

一、三艘迄は可為浮世右之船連鯨突候時は定之外道具代見合可遣事。

一、道具之有無の出入有候時は見掛申船々の者見及申通聞合先銛は不及申弟銛にても証拠がましき方へ利潤を付け扱可申事。

一、矢縄不付銛次々とばせ銛之儀は不及言可為停止勝負有之銛に矢縄は勿論綱にても堅切申間敷候綱之儀ははや差添共十尋より短き綱を持候はゞ切綱同然矢縄に而も綱に而も切候由何ケ年過候而も聞出し候はゞ此連判の面々御公儀様へ御断申上げ其羽差水主共不残鯨之家職留可申事。

右は近年鯨之作法猥に相成候故鯨突中寄合古法を受而十一カ条定置候一味同心之旁此奥書に判形可有之者也為後日鯨突中連判如件。

 延宝三卯極月朔日

      太地大庄屋     角右衛門

      下里浦庄屋     五左衛門

      浦神浦庄屋     久兵衛

      森浦庄屋      佐左衛門

      宇久井浦庄屋    源兵衛

      三輪崎浦庄屋    勘兵衛

      勝浦庄屋      茂兵衛

(太地家文書より)