九州・大村捕鯨と角右衛門

土佐・津呂(室戸市)多田吉左衛門が角右衛門より網取り捕鯨法を伝授された翌年の貞享元年(1684年)、肥前(佐賀県)大村深澤義太夫勝幸古座屋三代次郎右衛門と同伴して、網取り捕鯨法を学ぶため、太地浦へやって来ました。太地角右衛門頼治と面談の上、その技法を授かった後、大村へ帰り、壱岐・勝本浦で網取り捕鯨法で捕鯨を開始しました。これが九州で初めての網取り捕鯨法で、その後、九州の他の地域へも伝わることとなりました。「深沢家旧記」にも、「捕鯨網組は、延宝五年、熊野太地浦において、和田覚右衛門、これを工夫創始す。貞享元年、深沢義太夫勝幸、網組の業を試みんがため、古座屋三代次郎右衛門重実を同伴して、紀伊熊野太地浦和田覚右衛門へ赴き趣意を見聞し、皈国の上、壱岐勝本浦にて、深沢網組をもって鯨を漁す。九州網組これに始まる。」と記されています。

座頭鯨網掛け準備絵図  太地町 和田新氏所蔵

 深澤義太夫が発明したとされる「でんちゅう銛」は、または「でっちゅう銛」とも呼ばれ、太地浦でも使用されていて、わが古文書では「てんちう銛」と書かれております。元々は「てんちゅう」という発音だったかもしれませんし、濁音も昔は記さなかったということもあって、元々「でんちゅう」と発音していたのかも知れません。現在まで残る太地鯨唄(魚踊り唄)では、「そりゃそりゃ、デイチュウじゃ」とあって、「でんちゅう」より言語変化したものと思われます。この銛は明暦3年丁酉(ひのと・とり)の年(1657年)に発明したので、音読みした「ていゆう」銛より訛ったのではないかとの説もあります。

1/10/1998