大庄屋・角右衛門

2/15/1998

  二河村 庄太夫殿      太地角右衛門

 急御用

又六義、今朝新宮ヘ上納ニ遣わせ候。夫れニ付き、其の村上納銀延べ引きニ付き、今朝も又六より書状遣わし候へども、右上納銀此の方へ持参及ばず。其の村より直ちニ新宮又六方へ遣わし候様ニと申し置き候て出立いたし申し候。右銀子間違い無く差し遣わし申し候て今日も延べ引きいたし候義ニ候ハバ、明日之上納間ニ合い候様ニ今晩夜廻りにも差し遣わし申すべく候。以上。  十月九日


上知御代官所へ願い筋候義ニ付き、明廿一日願い人差し遣わし候事、明日ハ相休み申さるべく候て、此の方より差しかへ申し入れ候。左様相心得申さるべく候。 以上。

                 太地角右衛門

  閏正月廿日

  庄村庄屋   甚右衛門殿

  中里村庄屋  甚之右衛門殿

  大居村庄屋  吉左衛門殿

  井鹿村庄屋  市郎兵衛殿

  二河村庄屋  庄太夫殿

  橋の川村庄屋 忠助殿

 この古文書は、上納銀をなかなか納めない二河村に対し、角右衛門が明日の上納に間に合うように「今晩夜廻りにも」出立すべき旨の立腹した文面で記しています。いつのものかは確定できませんが、「閏正月」とあるので、元禄2年(1688年)・宝永5年(1708年)・享保12年(1728年)・天明4年(1784年)・享和3年(1803年)・文政5年(1822年)・天保12年(1841年)の内のどれかが該当すると思いますが、文政元年(1818年)二河村「文政元年郷帳」「庄屋 庄太夫」とあるので、文政4・5年の頃の文書なのでしょうか。とすれば、この頃は7代目角右衛門頼休の時代です。ただ、文政2年(1819年)の大庄屋文書に一族の和田孫才治の名があります。

 この頃の文政8年(1825年)に新宮藩は紀州本藩より2000両借り入れた時、太地鯨方からの上納金を紀州藩への返済金の保証としました。「角右衛門が新宮藩の借金の保証人になった」との我が家の言い伝えもあります。太地鯨方への担保は三輪崎鯨方でした。この頃は「太地御手組鯨方」としているので紀州藩営だったのでしょう。この時、角右衛門は鯨方宰領・四人扶持で、捕鯨鯨価の1割5分を給料とし、それの半分を一族他の9軒に分け与えました。一族9軒はそれぞれ二人扶持でした。

 新宮領太田組は、太地・森浦(以上、太地町)・二河・橋ノ川・湯川・下里・粉白・八尺鏡野・長井・高遠井・中野川・井鹿・大居・中里・市屋・和田・庄・浦神(以上、那智勝浦町)・佐部・上田原(以上、古座町)の20ヶ村から成っていました。

 この頃、正月には各村々から角右衛門への年始として、大蛤2篭(粉白)・串柿50本(中里)・伊勢海老3貫(浦神)・海苔200枚(天満)・備長炭10俵(高芝)・秋刀魚塩漬け2斗入り1樽(下里)鏡餅特大3ツ重(八尺鏡野)・炙り鮎特上20連(小匠)等が納められることが慣例となっておりました。