洋風軍服の上に和服を着た覚吾(66才・1899年当時)
太地覚吾(8代目太地角右衛門頼成)は、天保4年(1833年)6月26日に生まれました。父、角右衛門頼在が嘉永2年(1849年)8月22日に没した時には16才でした。若くして、家督を受け継いで太地鯨方宰領となった覚吾は、幕末から明治の変革の時代に生きた人で、角右衛門組太地鯨方最後の宰領であり、私にとっては曾祖父となる人です。勉学秀才・豪放闊達・進取的で、「明治前後の一族の傑物」と言われた人でもありました。
明治となり、「右衛門・左衛門廃止の令」により、彼は角(覚)右衛門の「覚」と、「衛」の中の文字の上の部分「吾」とを取って、覚吾としました。
彼は、新宮領主・水野公の三輪崎鯨方を幕末に手中にしましたが、その後新宮藩営となりながらも再び手中とし、明治となってからは、太地・三輪崎両組を一本化して鯨方の組織を改革しました。
彼は土佐では捕鯨が廃業となっていたことを知って、そこでの捕鯨を意図し、また、北海道では鯨が多数あることに着目し、そこでの捕鯨を企図しましたが、大蔵省の企業への突然の融資金返済命令の影響で太地鯨方の融資元であった小野財閥が信用不安のため倒産した結果、その計画が破綻して覚吾は多大な借財を残すこととなりました。その返済のために彼は隠居して太地家分家の叔父の伴十郎(与市)を後見として息子の頼松(9代目角右衛門)に太地鯨方の経営権の譲渡を考慮し、自らは大阪で海産物問屋を経営しようとしましたが、地元での同意がうまくいかなかったため、太地鯨方の経営を他に譲渡したのでした。しかし、世襲化された長年にわたるこれまでの地元還元のやり方とは違って、利益追求を目的とする経営者中心の形だったため、地元有志が彼に再び経営権を取り戻すよう働きかけてきました。そして彼が経営権を取り戻した直後の明治11年(1878年)12月24日に鯨船漂流事故が起こったのでした。このように、彼の計画は無念にも裏目に出てしまったのでした。
彼については小説となるほど豊富な話題がありますが、その一つに今より約100年前の明治32年(1899年)に太地の梶取崎に私設灯台を建設した時のいきさつがあります。
梶取崎はその名の通り、岩礁が乱立し、波が強く、船はこの岬で梶の方向を転じるところからその名ができるほど難所でした。そのことを知っていた覚吾は、その場所に灯台を建設することを決意し、強固な平家を建て、石垣をめぐらして屋上に小樓を構えて灯篭とし、三面はガラス、背面はブリキ板を張って中に大きな電球を備えて、遠く海上を照らすようにしました。ところが、海軍省より「他の灯台とまぎらわしい光なので、ただちに消灯すべし」との命令がありました。そこで覚吾は種々考慮の末、家屋一室に七・八個の大きな電球を付けて照らしたところ、以前より遥かに明るくなりました。再び海軍省より、「命令に反し、以前よりも更に明るくなった。至急に停止せよ。」と厳命が下りました。そこで覚吾は「民家で燈火を照らすのはなんら問題がないはず」として、頑としてその命令には従いませんでした。なんとか断念させようとした海軍省もこの理屈にはどうすることもできず、当時水難救済会長であった吉井伯爵はその事情を聞き、覚吾の人となりをよく理解していたため、海軍省・通信省に、これを承認するよう申し入れてくれたため許可が下りることとなりました。これを聞いて覚吾は非常に喜んだそうです。この後、太地覚吾は太地救難所長として海難救助の指揮を取ることとなりました。これが、太地・梶取崎燈台の始まりです。覚吾がこの燈台を建設した明治32年(1899年)は、先祖、角右衛門頼治の没後200年の時であり、彼の先祖への思いを込めての事業であったような気が致します。
因みに、頼治の没後100年の寛政11年(1799年)の5月2日には、5代目角右衛門頼徳が紀州藩主・徳川治寳公に珊瑚を献上し、これを紀州公は将軍家に献上しております。前年の寛政10年(1798年)3月には、頼徳は讃岐・金刃比羅神社より太地・燈明崎に金比羅神社を勧請し、その時、太刀を奉納しました。この頃、太地浦鯨方は紀州藩営となっていた頃でした。
晩年、覚吾は狂歌を好み、その号を「満海」とし、多くのものを詠んだようですが、よく知られているのは「奔馬墨絵付きの狂歌」です。
この狂歌は源頼朝の名馬「する墨」と書写の墨とを掛けたもので、後ろ姿の奔馬の絵も描かれております。この墨絵付き狂歌は中根武夫氏より叔父の橋爪啓が頂き、更にそれを私に譲ってくれたものがあり、同様のものが水産庁資料館にも保管されているようです。