10/4/1997

太地・飛鳥神社の祭りについて

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毎年10月14・15日は太地・飛鳥神社の祭りです。

飛鳥神社(鳥居誠史宮司)は、和田忠兵衛頼元の弟、金右衛門頼真が寛永元年(1624年)に新宮・阿須賀神社より勧請したもので、飛鳥神社に残る棟札や記録文書によると、この後、和田家は氏神として崇敬の念を示してきたことがわかります。延宝4年(1676年)にも、角右衛門頼治を筆頭として、神社奉納・再興を行っています。

現在の祭りの原形となったのは、二代目太地角右衛門頼盛が天和3年(1683年)の秋より翌天和4年春までに鯨を大量捕獲して、天和4年7月に豊漁感謝のため飛鳥神社に鯨踊りを奉納し、元禄3年(1690年)10月14日に捕鯨の関わりを取り入れた祭りを再興させたのが始まりです。(この頃、頼盛は和田与市郎を名乗り、後に角(覚)右衛門襲名後、弟の頼泰が与市を襲名)

この時、奉納した社が現在の社の中にありますが、極彩色の塗装で、現在の一般的な朱色塗装とは異なっています。これは桃山様式を取り入れたものだそうです。

祭において、かつては鯨肉を象徴する富裕柿、鯨骨を象徴する丹波栗、鯨脂を象徴するを太地家より奉納するのがしきたりでした。 戦前まではこの慣行は守られ、神社の鳥居の前には太地家家紋の鶴の丸入り弓張り提灯を掲げていました。

太地常路(10代目角右衛門)がこのしきたりを遠慮してからは、太地家の祭りから町の祭りとなって現在ではこれらの品々は神社で準備しています。今でも太地一類(太地家・和田家・泰地家)が「御一家衆(ごいっけしゅう)」と呼称されて祭典に参加しています。

祭りに使用する御輿も一般的なタイプと異なり、樽(たる)御輿です。これは当時、貴重であった鯨油を奉納するという意味があって、「宝物」扱いしたのではないかと推測しています。樽御輿は、8代目角右衛門頼成(覚吾)の代まで太地家の屋敷より町を周回して飛鳥神社へと運ばれましたが、現在では太地水産協同組合より出発しています。