明治11年(1878年)鯨船漂流事故

12/24/1998

 明治前後の太地鯨方宰領は8代目角右衛門頼成(太地覚吾)の頃でした。彼は16才にして家督を継ぎ、明治に入って右衛門・左衛門呼称停止命令があったため、彼は角(覚)右衛門の衛の文字の中央の上の部分を文字って「吾」を充てて、覚吾としました。彼は新宮藩(幕末の一時期、紀州藩新宮領より独立して新宮藩となった)の経営する三輪崎鯨方も手中とし、両鯨方を一本化しました。また、土佐(高知県)が既に捕鯨を廃業していることを知り、土佐での捕鯨を企画しました。更に幕末に調査した蝦夷(北海道)での捕鯨を企画しました。彼の企画に当時の県知事も賛同したため、小野財閥より資金融資を受けて準備を行っていた時、突然大蔵省より小野組に対し国からの融資分についての返還命令が出たため、信用不安が起き、小野財閥は倒産しました。その影響を受けた覚吾は経営困難となり、その結果、捕鯨権を他に譲り、先祖以来の捕鯨業を廃業とすることとしたのです。ところが、新たな経営者は太地浦での従来のやり方とは異なり、経営者のみの利益が大きかったため、地元有志が覚吾に捕鯨権を取り戻して、再び経営してくれるように懇願しました。そこで覚吾はそれに応じ、再び捕鯨権を取り戻して再興させました。このような状況下で鯨船漂流事故が起こりました。

 明治11年12月24日午後1時半頃、巨大な背美鯨親子(母子)が来遊してきました。南下する鯨に対し、先ず手がけたのが三輪崎鯨方でした。鯨は太地方面に移動したため、太地鯨方がそれを引き継いだのでした。背美鯨は通常突き取り捕鯨法でも捕獲が可能であり、しかも親子連れの場合には子鯨を先ず捕獲すれば母鯨は母性本能から逃げないで子をかばおうとするため、親子共捕獲が出来たのですが、この時の鯨は事の外、巨大だったためか網取り捕鯨法で行っております。

 当時の唯一の記録が、太地覚吾の従兄で当時、太地鯨方山檀那であった和田金右衛門頼芳によって残されております。その記録の原文及びその解説を記します。

 明治十一年寅十二月二十四日 背美流れの控え

                   和田金右衛門

廿四日 雨天北東風吹 八つ時、三輪崎網下り参り候に付、当組東番差、其内三輪崎網置掛け候処魚は南へ参り那智前にて魚見定め候て大印を上げ候処、背美の児持にて有之網前にて置き候へ共、魚網へ当り内海へ行、其内上り汐早く相成網切網切に相成候に付六ノ網七ノ網二艘高見の下へ持ち行き置廻し六の網母一反持ち、子二反持候へ共網落し道具突の内、夜に入り沖間見へ不申、夜の内火も段々引け行き候様相見へ、夜中之事故見留附き不申候。

廿五日 晴天小西気 和海 東明より昨日の魚相尋候へ共見へ不申夫れより高山へ参り候へ共見へ不申小文次、林蔵並びに次郎平樫ノ上へ遣し候処先十五六里計之処に見へ有之候内夜に入候而、皆々心配致候也。夕刻直大夫舟参り申出候には今四ツ時魚留め候へ共米水に切れ有之候付右品取に参り候と申参り候に付夫より伊豆鮪船外の鮪船相頼み米水沢山持せ直大夫舟も同道致し七ツ頃出船致其内又々夜に入り候也。

(口語訳)  

二十四日 雨天北東風吹 午後一時半頃、三輪崎の網船が太地方面に来て、当太地の組東番が鯨発見の合図をし、その内三輪崎網船が鯨に網を掛けたところ、鯨は南に行き、那智(那智勝浦町)前で鯨を確認して背子船が鯨の種類確認の旗印を揚げた。それはセミ鯨の子連れで、網代で網を置いたが鯨は網に当たり、太地湾内に入った。その内、上り汐が早くて網が切れて、六番目の網を母鯨に一反分掛け、子鯨には二反分を掛けたが網が落ちて、母鯨には銛を打ち込み、夜に入って沖が見えなくなった。夜の内に火も段々沖に退いて行くように見え、夜中のことなので見届けることができない。

二十五日 晴天小西気 和海 東明崎より昨日の鯨船について尋ねたが見えないので、高山(太地町西方の高峰)まで行ったが見えない。それで、和田小文次(庄八)、林蔵、並びに次郎平を樫ノ上(高峰)まで遣わしたところ、十五・六里(60〜64km)のあたりに見えたが、その内に夜に入ってしまい、みんな心配した。夕刻になり、直大夫の舟が戻り、語るには四つ時に鯨を仕留めたが、米・水が無くなったので取りにきたとのことなので、伊豆のマグロ船に頼んで米・水を沢山持たせて直大夫も同道して七つ頃出船したが、またまた夜となった。

 金右衛門の日誌から推測すると、当時の捕鯨技術では決して無謀な捕鯨では無く、ただ夕刻から捕鯨を始めたために夜に入ったために、陸上からは状況の把握ができないという面があったことがわかります。また、十二月二十四日が雨天ではあったが、この時点ではそれほど困難な状況下ではないことが推測できます。

 二十七日に助けられた要大夫の口上によると、

要大夫沖上り口上には二十五日・・・夜に入り西風吹き来り夜明て候処地山見へ不申皆々綱を入候へ共何分風吹き来り候に付打流れ・・・綱放れ・・・櫓を折り候而・・・其内私舟はけ破り候

とあり、二十五日夜には風が強く吹いたため、船が流され、破壊されたということが記されております。

 結局、巨大な鯨を捕獲するのに手間がかかったため、鯨船が強風に吹かれ、黒潮に流されたということが最大の原因であったことが理解できます。当初の時点では捕獲可能の判断があったが、予想以上に捕鯨に手間取り、更に季節風が鯨船を漂流させたのでした。