(改訂)正徳年間網及鯨船契約書

8/17/1999

 この正徳3年(1713年)11月付けの文書は、和田孫才治家(直系子孫はアメリカに在住するが、現在は和田庄八(小文次)の直系子孫で太地町在住の和田直樹氏が同家を継ぐ)に伝わる太地鯨方統一の契約を示した重要な文書ですが、新たな追加箇所の文面もわかりました。全体として、角右衛門が親類や地下(じげ)の借財を肩代わりして、金右衛門を立てながらもその財力を背景として名実共に鯨方組織を掌握したことが認識できます。以下に、その文書の要約と原文を掲げます。原文には古文書の誤読・未解読があるかもしれませんが、粗方把握できるかと思います。私の要約の中でも、内容の解釈に誤りがある場合には浅学によるものなのでお許し下さい。

 和田忠兵衛頼元以後、角右衛門頼治の代には各々組織ができますが、延宝3年(1675年)に角右衛門頼治が他の地域の六ケ浦庄屋との間で「鯨突き定め」を取り交わした頃は、太地浦では一族が各組(三組)に分かれていても全体としては一組としての統率がとれていたのでしょう。しかし、その後、それぞれの組織が独自に活動するようになって五組となった結果、角右衛門を除く他の一類は大きな損銀を出し、廃業せざるを得なくなったという経緯が推測できます。ここでは先代金右衛門頼奥の時、火事があったため、そのためもあって、本来、本家であるべき金右衛門家の立場が微妙となっています。ここに登場する庄太夫家より養子に入った金右衛門頼逢は出生後、二代目角右衛門頼盛により養育されております。つまり、太地与市頼泰より養子となった三代目角右衛門頼雄と兄弟のような育ち方をしたことが考えられ、また、先代角右衛門頼治は兄宅の火事以前に既に大庄屋を勤めているので、兄の金右衛門頼奥の起こした火事は延宝元年(1673年)ではなく、寛文元年(1661年)であった可能性があります。

 ここでの取り決めは、単に一族のみに限定した結束文書ではなく、「地下人の儀は残らず先祖御両家付きの者に御座候て、居着人の儀も両家を頼り居着き申し候へば、末々に至るまでなかなか粗略しまじき候」とあるように、太地浦住人全体がこの結束文書に同意しているということです。つまり、既に角右衛門により支配されていた現実があるものの、この時点で、地下組は消滅したことが窺えます。

 太地鯨方は角右衛門が鯨方宰領(大檀那)、金右衛門は補佐・山見宰領(山檀那)、他の親類8家は鯨方各部署の部長となる体制は、この文書によりできたものと思われます。

2代目角右衛門頼盛(右側)と3代目角右衛門頼雄(左側)の墓石

(要約)

○太地浦は昔、初代紀州藩主が入国以前は和田蔵人と泰地隠岐の二軒の家が支配していた。

○和田蔵人家は東地又は上と呼び、泰地隠岐家は寄虎(よろこ)(泰地隠岐守頼虎の名より由来)と呼び、近年、寄子地と言う。

○泰地隠岐の息子で和田忠兵衛頼元の義兄、勘之丞頼国は秀吉の命による朝鮮出兵で討ち死にし、その子和田民部幼少三歳で、忠兵衛頼元が養育して那智山社家にし、その時より和田家は寄子地の屋敷に住み、現在は角右衛門頼盛が住んでいる屋敷である。

○金右衛門頼照は紀州公が入国以来、庄屋役を勤め、初代藩主に御目見もしている。

○延宝元年丑年(1673年)に金右衛門頼奥が家を焼失し、怪我をしたため、新宮領主にお断りして、大庄屋役を角右衛門頼治に預けた。(寛文6年1666年、既に角右衛門頼治が大庄屋をしているので、寛文元年丑年1661年かも知れない。)

○和田庄太夫からの養子、金右衛門頼逢は出生以来、二代目角右衛門頼盛が預かり養育し(先代金右衛門頼貞は元禄4年死亡)、金右衛門家を立てて、紀州藩主・徳川吉宗公、新宮領主・水野公へも御目見させている。

○慶長11年(1606年)に突き取り捕鯨を行い、先代の時には金右衛門頼奥・忠兵衛頼則・角右衛門頼治の三人とし、金右衛門組(後に角右衛門組となる。)としたが、寛文4年(1664年)2年間西国で捕鯨を行った際、新宮領主に融資を受けた。

○延宝5年(1677年)に先代角右衛門頼治が鯨網を始め、翌年地下人も網を始めたため、親類もまた加子米を支払うようになって、勝手に行うのを止めることができなかった。それで、一類は六分、地下は四分網とした。

○太地一類の六分網(本網)と地下の四分網(新網)があって、両方より仕出しするので不都合であり、仕事がうまくいかなくなった。

○地下の四分網(新網)は損銀を出し、角右衛門による取り替え銀100貫目(2000両)があるため、現在角右衛門頼盛が地下の四分網を支配している。

○一類中の者から六分網(本網)の組織より離脱して各々新鯨組を造ったが、損銀が出たためその鯨組を止めさせ、一類中の新組が支払うべき新宮領主からの拝借米800石、御銀25貫目(500両)を角右衛門頼盛が代わりに支払った。

○角右衛門を除く一類は現在鯨船を出してはいないが船は整っている。

○金右衛門家は代々鯨組の元であるが、延宝5年(1677年)に角右衛門頼治が兄・金右衛門頼興に代わり、和田家の家督を継いでその年に角右衛門が鯨網を始めた。

○太地一類も近年経済的に苦しくなったが、角右衛門頼盛だけが今年まで捕鯨を行っているという経済格差の状況がある。

○地下への取り替え銀47貫目(940両)が金右衛門頼照の時にあったが、金右衛門頼興の時火事で帳面を焼いたため、その返済を許すこととした。その後、角右衛門頼治の時より角右衛門頼盛の代まで、地下の分の年貢・加子米の取り替え銀が100貫目(2000両)もある。その他、寺社(順心寺は寛文11年1671年・飛鳥神社は元禄3年1690年の時か?)の普請(建立?)で角右衛門が一人で支払った。

○公儀(紀州藩)が御逗留した時に地下諸入用決判の時も、全て角右衛門頼盛が支払った。宝永の大地震(1707年)の節、借米地借りその外の未返金13貫目(240両)余りも角右衛門頼盛が引き受けた。

○近年、網方が不漁で、浦中も経済的に苦労しているのは、一心同体とせず、各々が勝手に捕鯨を行った結果であり、それを止めて角右衛門頼盛が一類・浦中の頭領となっているので、勝手な行動を取った各々の頭領にこの訳を申し聞かせ心得させるため、一札連判とした。

○一類中、金右衛門・角右衛門家を粗略にしてはならない。また、鯨船を一人建てで出してはならない。鯨船・網方については2軒の家に加わって金右衛門家を元とし、この先、金右衛門・角右衛門を立てること。金右衛門・角右衛門が角右衛門一類(角右衛門を含む十家の親類)や地下(村民)を大切にしているように、金右衛門・角右衛門を粗略にしてはならない。

○(地下人からの一札)当浦の地下人は残らず先祖が両家(金右衛門・角右衛門)付きの者であり、太地に居着いた者も両家を頼って居着いた者なので、今後は粗略にはしない。

 覚

一 太地浦之儀者先年御入国以前者和田蔵人太地隠岐二軒ニ而御座候證拠者弐拾七八年(貞享二・三年1684・1685)以前迄正月十一日百歳楽ト申舞毎年仕候右之言ニ寄子地千艘東地も千艘當家の浄徳ハ万ゝ両ト諷申候鯨立網代鰹網等上申節も寄子地東地と尓古拾番二立申候右●●●只今之市太夫と申者先祖より弥次右衛門家●●舞申候先弥次右衛門子杢之助代ニ被申候

一 和田蔵人家ヲ東共又者上とも申候隠岐之名乗ハ寄虎与(と)申候近年寄子地と唱申就夫寄子地東地と橋を限り割申候隠岐之惣領勘之丞高麗陣ニ而打死仕候而勘之丞子幼少三歳二御座候是ハ元祖金右衛門養育致置那知山社家二致社家より金右衛門一家ニ罷成候寄虎屋舗者唯今之角右衛門居申屋敷ニ御座候然者大前之通二罷成申候先祖金右衛門家ハ蔵人跡角右衛門唯今居申候者隠岐屋敷ニ而御座候金右衛門者御入國以来庄屋役相勤右庄屋之節も南龍院(初代紀州藩主・徳川頼宣)様数度御目見致候然所四拾年以前丑年(延宝元年1673)後之金右衛門(頼奥)自火ニ而家焼失其身茂怪我致候二付新宮江御断申上大庄屋先角右衛門(頼治)當分●御預候処二其後之金右衛門(頼貞)二代●●死●之故尓大庄屋役角右衛門預居申候

一 唯今之金右衛門(頼逢)者三代以前金右衛門(頼奥)乃孫ニ而出生以来角右衛門方二請取養育仕金右衛門家相立申候只今之金右衛門義も對山(徳川吉宗)様當殿様(新宮領主・水野重期)へも御目見致候鯨船之義者百二拾ヶ年以前之午年(文禄三年1594、百八年以前之午年、慶長十一年1606の誤記か?)突始三代以前金右衛門(頼奥)迄ハ金右衛門(頼奥)忠兵衛(頼則)覚右衛門(頼治)三人とし而鯨船相立候得共鯨組者金右衛門組ト名附申候段〃仕合も罫之有候二付五拾年以前(寛文四年1664)西国鯨船弐年●致候仕合難取続時節新宮より御銀御米御借被遊御救を以鯨船相続申候其節迄ハ若山拝借と申ハ無之候

一 三拾七年以前(延宝五年1677)先角右衛門御鯨網仕初申候処翌年地下よりも網可致由ニ付一家之内角右衛門金右衛門家之外不残御加子米浦中並二出申候得者留申事難致依之相談之上右鯨網六分ハ本網浦中四分ハ地下網定新宮江御断申上網方証文御役人様方御裏判申請所持仕申候

一 鯨網之儀三拾四年以前申之年(延宝八年1680)突方構罷成●●●浦〃より若山へ申入相止申候就夫先角右衛門(頼治)若山へ罷登段〃御訴詔申上御国中鯨突若山へ被召寄御吟味之上酉(天和元年1681)之霜月御免被遊候

一 網之儀も本網六分新網四分と両方ヨリ仕出シ申候而諸事不都合有之候ハ浜事心能難致候其上先角右衛門代より無利地下取替銀百貫目も有之候仕合も能漁事も有之候節ハ●田畑屋敷御年貢角右衛門方より上納致筈ニ而地下分之網ハ角右衛門方江請取申候戌年より丑年(天和二年1682`貞享二年1685)迄四年大漁之節ハ御年貢御加子米新田畑御年貢を覚右衛門差上ゲ遣シ申候尤地下分網四分之儀ハ何時ニ而も地下より望申節ハ戻し申筈ニ相極預り支配致候右地下四分網之儀貝取仲間常燈番所ハ別申候

一 丑(貞享二年1685)之暮より勝浦三輪崎網出し申候当浦之網不漁半分払も取不申候然共戌亥(元禄七・八年1694`1695)両年大漁致候故ニ庄太夫鯨船引別れ新組と名附段々船数多増し弐拾五艘迄致候其後孫才治八郎左衛門も引別れ鯨船拾弐艘重之丞重郎右衛門杢之助引別拾弐艘鯨船致候ニ付前々と替り万端相談も乱当浦之内より船数多出羽差水主商人迄茂家々出入之方江添申ニ付浦中も格々罷成申故網方漁事も次第ニおとり損銀斗有之候角右衛門壱人支配致候故弐拾年も打続不漁ニ有之候得共網方の損銀仲間地下江も懸不申新宮より御救ニ而続申候不漁故大分滞有之候突方は若山拝借ニ前々より仕出申候ヘ共大分之滞故網方近年若山拝借ヲ以去年迄相続申候得共本鯨ニ而手取銀不残拝借銀へ被召上候故仕出し難仕新宮へ申上候而御用銀同前ニ町借被仰付今年は網出し申候

一 突方之儀別れ庄太夫鯨船志州江鯨船廻し六七年損銀多ク仕鯨船相不立申候忠兵衛八郎左衛門次右衛門重郎右衛門重之丞杢之助庄八鯨船も不仕合拾二三年以前未之年(元禄十六年1703)御城拝借銀突方八百石井田組拝借銀共々突方分御銀弐拾五貫目御城ニ相滞申ニ付、仲間鯨船相止させ私壱人鯨船相立可申候間右仲間拝借御米八百石御銀弐拾五貫共御年賦被仰付被下候ハゞ私引請御上納可仕旨田中新内様御務番之節杉浦金五郎殿御代官之節御願申上御米ハ三年賦御銀ハ六年ノ御年賦御請申上候●ニ未(元禄十六年1703)之暮より申(宝永元年1704)之暮迄漁方能御座候故両年ニ皆済仕申候然ば鯨船者金右衛門代々鯨組之元ニ而御座候網方之儀も角右衛門巳ノ年(延宝五年1677)家請取其年より網も始り申候

一 一類之儀も近年不自由之内角右衛門今年迄取続申候浦中之儀も先祖金右衛門より取替銀四拾七貫目後金右衛門自火之節帳面焼申候故取替銀不残免其後先角右衛門代より唯今角右衛門迄御年貢御加子米取替銀百貫目も可有御座候其外寺社(順心寺・飛鳥神社)普請入用角右衛門方より払置申候御公儀衆御廻り何日御逗留被成候而も地下中へ懸ケ不申先祖金右衛門代より方々物●地下諸入用銀割に候も浦中へ掛不申尓今角右衛門方より出シ遣被申候御加子米之儀鯨網請取候年より今年迄角右衛門手廻シ候時御座候年ハ不残差上地下ニ不漁も御座候節者地下よりも少〃上申致処地震以来不漁之内拾貫目余御未返進ニ成其上今年迄くり越二上申候地震津波之節借米拝借其外子之年御未進●三貫目余滞迄も角右衛門引請申候●●●●江御用二付参候役之人足迄も地下へ懸不申扶持方角右衛門方より遣申候●近年網方不漁浦中にも致難儀候儀者一類中一味同心無之壱人宛頭立可申分入二而引別申故二候然共鯨船相止申候間者先年之通一家浦中共一頭ニ罷成申候依之一家之者浦中頭立之者二右之訳申聞得心致候ニ付連判一札

 覚

一 太地一類之内、何事ニ不寄金右衛門家角右衛門家之儀粗略致間敷候此以後仕合能罷成候而、人々鯨船相建候共一類之内壱人立鯨船致間敷候鯨船並網方之儀は弐軒之家江加り金右衛門家を元ニ相立末々迄金右衛門角右衛門家相立可申候後日相背申者有之候ハゞ仲間より新宮江御断申上鯨方諸色はづし可申候其節一言申間敷然時は金右衛門角右衛門家よりは唯今之角右衛門一類ノ地下ニ致候通粗略致間敷候為其一類中連判一札如件

         六分網連中太地

     弐分   (和田)金右衛門(頼逢) 

     弐分   (太地)角右衛門(頼盛)

     壱分   (太地)与市(頼泰)

     壱分   (和田)次右衛門(庄太夫頼兼)  

     壱分       源之丞 ←(泰地)重之丞

     壱分       当右衛門 ←(泰地)杢之助?

     弐分   (和田)忠兵衛(頼隆)

     壱分   (和田)八郎左衛門(頼高)

     壱分   (和田)半六(頼之)

     壱分   (和田)孫才治(頼長)

 正徳三巳年(1713)十一月

 四分  地下

外   

四分

網拾分一先(ひとまず)角右衛門取分御城江差上申候 元右衛門源之丞新六儀八長左衛平十郎滝右衛門十郎兵衛是等八人網連中ニて無御座候右之内元右衛門、平十郎滝右衛門此外五人地下四分之間ニ御座候半八甚右衛門儀只今跡見無之候へ共家屋敷其儘ニ有之候跡立申者入候ハゝ前〃之通地下分四分之人数ニ而可有之候 

一 当浦地下人之儀は不残先祖之取計御両家附之者ニ御座候尤、居着人之儀も両家ヲ頼居着申候へば末々ニ至迄中々粗略仕間敷候。此度御書付浦中不残致承知候。自然壱人ニ而も相背申者御座候ハ急度御断可申上候。為其頭立船持商人連判如件

        村肝煎  弥市

        同断   又右衛門

        頭立   角左衛門

        同    徳左衛門

        同    覚兵衛

        同    弥惣右衛門

        同    八兵衛

        同    恒右衛門

        同    孫右衛門

        同    長兵衛

        同    庄兵衛

        同    市郎右衛門

        同    佐次右衛門

        同    吉兵衛

惣地下