御挨拶

太地 亮

1/1/1998

このたびは、わがホームページを見て下さり、有り難うございます。

このホームページ製作にあたって、以下の経緯があります。

わが先祖、太地角右衛門頼治は元禄12年(1699年)3月22日に没しました。つまり、平成11年(1999年)は没後300年となります。そこで、それを記念として、私なりに供養のつもりでホームページを製作してみました。

プロの作ったものではなく素人のホームページのため、未熟なところがあると思いますが、私にとっては何とか先祖の一面を多くの方々に知って頂きたく、自力で製作してみました。そして、今後も内容を更新していきたいと考えております。

 現在、捕鯨は厳しい状況にさらされていて、動物愛護としてのクジラという見方の方が強く叫ばれていますが、今から数10年前までは、鯨は日本人の貴重な動物蛋白源でありましたし、和歌山県新宮市が産んだ文豪、佐藤春夫も昭和11年(1936年)に発表した「勇魚とり」で、角右衛門頼治を「捕鯨中興の祖」と讃えると共に「捕鯨の事業に至っては海の幸の筆頭であらう」と述べております。更に、江戸時代においては「クジラ一頭で七浦がうるおう」と言われておりましたし、元禄の頃は5代将軍徳川綱吉の世で、「生類憐れみの令」により、現在とは比較のしようがないほど動物に対する殺生は出来ない厳しい状況でしたが、それでも捕鯨事業は藩より保護され、朝廷や幕府に御用鯨肉を献上して、そこでは正月には無くてはならない料理でした。それゆえ、捕鯨に携わる者は誇り高い人々でもあったのです。

その捕鯨を行っていたわが先祖、角右衛門頼治は今より300数十年前の当時、自然保護の立場から、「海を渡って来る鳥魚は、みな処を求めて寄って集まるものなれば、海べりの岩も海硝も大事に守り、損ぜざらまじき事」と、人間と自然・動物との調和を述べております。私達の先祖は、この貴重な海の幸の中で生活をしてきたからこそ今日の私達があるのだと思います。この海洋文化を疎かにすることなく、今一度捕鯨史の一面を理解し、私達の将来をバランスよく築くことが必要ではないかという思いを抱きつつ、私のホームページを見て下されば幸いです。

 なお、太地浦捕鯨史は我が家の貴重な歴史でもあり、古文書等の史料を紐解きながら先祖代々の足跡を辿りつつ、それに基づき文章化してきました。従って、この内容に対する文責は私、太地亮にありますので、ご指摘・疑問点等があればご指導下さい。

8代目太地角右衛門頼成(覚吾)覚え書(9代目角右衛門太地頼松筆)

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