10/11/1997 

順心寺の六地蔵

 太地町の順心寺には高さ約2mほどの六地蔵があります。これは、貞享元年(1686年)3月28日に2代目太地角右衛門頼盛(当時、和田与市郎)が、自身の娘(幻光童女)が亡くなって、その供養のために建立したものです。

現在では、太地町内の初盆の家の人が、8月16日の夜、仏の霊を船で海上へ送り出した後、蝋燭を持ってこの六地蔵に参りに来ます。

 頼盛には男子が生まれなかったため、弟・与市頼泰の長男、頼雄を養子とし、3代目角右衛門としました。

 頼盛は、天和年間には太地鯨踊りの創始、元禄年間には飛鳥神社の建立と祭典の創始、正徳年間の文書では「寺■■普請入用角右衛門方より払置申候」とあり、順心寺建立の際、自費で普請を行ったことが推測され、(順心寺開祖住職の乾峯和尚は元禄3年2月18日に没しているので、初代角右衛門頼治の生前に招聘され、その頃寺が建立されたものと思われます。)太地浦での捕鯨文化に力を注いだ人物でした。彼は初代角右衛門頼治から継いだ捕鯨業を更に発展させ、紀州藩との結び付きも重視し、また太地浦鯨方を一本化させるなど、行動力のある人物でもありました。太地捕鯨が現在も重みある存在なのは、この捕鯨文化の裏付けがあるということも言えます。

2代目太地角右衛門頼盛建立の六地蔵

2代目角右衛門頼盛の娘「幻光童女」の墓石