熊野関係古籍     熊野古道

熊野古道に王子址を尋ねて

著者は芝口常楠氏で昭和三十六年三月三日発行の「葵羊園叢考」に掲載されている。

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    熊野古道に王子址を尋ねて                              
                     芝 口 常 楠

新聞記事にふさわしくない表題で恐れ入りますが、何か書けと人のすすむるままに、乏しい記憶をしぼって筆をとりました。
 予てより自分がいささか研究もしちょうさもしている。そしてまだ誰にも発表していない事がらにふれて見たいと思っています。もしこれを御覧下さった方々の御叱正、御示教を得れば誠にありがたく、こうして相共に研究をすすむることが出来ましたら、私一人の喜びばかりではありません。
 今一つ従来熊野古道の道筋について、あれほど古くより熊野参詣がして居られるのに、道々の記録が非常に少ない。永保元年(八七九年前)九月の為房卿日記と、藤原定家の建仁元年(七五九年前)十月の御幸記との二つが、今迄の研究の対照になっていたことと思われる。併し前者は只宿泊地だけの記録に止まり、道筋にはげんきゅうしていない。
 何としても、定家の御幸記が相当詳細に書かれているので、続紀伊風土記にしても紀伊名所図会にしても、それから紀元二千六百年記念出版の和歌山県聖蹟にしても、これが唯一のしりょうで、自余の和歌山県誌、各郡誌、各郷土誌推して知るべしである。一体御幸記と称しているが、定家自筆のものには熊野道之間愚記と題している。只定家の日記を集成したのが明月記で、多分この中に御幸記として出ているのかとおもわれる。版行の明月記に収録されているものが、定家直筆にくらべて―読みまちがいと脱字がある。それは後に述べることにする。而かも続風土記・紀伊名所図絵会・和歌山県聖蹟には定家の直筆には触れていない。今日幸いなことには定家の自筆のものがコロタイプ版として、出版されている。今一つ熊野古道について御幸記に匹敵する、或はそれ以上に参考になるべき、しかも定家の御幸記に先立つこと九十三年前、天仁二年(八五一年前)十月の、中御門右大臣藤原宗忠卿の熊野詣紀行が最近世に出たことである。
 宗忠卿の日記を集めたものが有名な(中御門右大臣記の略)であるが、この熊野詣記は従来の中右記」に乗っていない。只最近(昭和二十年頃)発表されたもので、続風土記や名所図会や和歌山県聖蹟に忘れられていることは無理がないが、只御幸記のみを唯一の手がかりとしている記事に誤りがあることを発見した。殊に和歌山県聖蹟はあまりにも詳しく説明しているので過ぎたるは及ばざる如く、却って誤りや独断が多いように思われる。宗忠卿の熊野詣日記はどうして最近になって発見されたかというに、この記録だけは門外不出の極秘書として、柳原家の筐深く藏められたものであったが、昭和二年十二月柳原家の蔵書を全部宮中に献上するに及び、この書も亦宮内省図書寮の収蔵するところとなり、斯様にして世に出て来たのである。そうして昭和二十年十二月これをコロタイプ版とし、巻軸として図書寮から発行せら美濃八枚に書いていたのであって、第一枚目が紛失しているので、京都出発から有田郡宮原宿所までの記録はない。それより熊野詣を了えて皈洛に至る道中は完全で、欠落する所がないのである。
 猶お断りしておくことは、私の書くのが地方新聞の性質上、日高郡に関する所でございますので、ご了承を願います。

    鹿ヶ瀬峠
鹿ヶ瀬は熊野道として古来有名であったことは、今更云うまでもない。為房卿熊野参詣日記に、
 二十八日(永保元年九月)戌の刻、鹿ヶ瀬山中に着し草庵に宿る。
とあり多分鹿ヶ瀬に寺院があったことと思う。
 有田郡広の養源寺はここに草創したと伝えられるから、この寺院であると考えられる。草庵とあるが相当大きな寺院であると思われることは、為房は勧修寺家の公家で公卿であり、一行の人数は五十・六十人あろうと思う。宗忠卿の熊野詣の一行は七十数人、陛下の御幸となると二百人近い人があるという。下人は民家に泊まるとしても、相当の設備あるを要するであろう。元享釈書に、
 釈円善熊野肉背(ししがせ)山に遊び卒す。その後沙門壱叡と云う者あり、生きて山中に宿す云々
とあるが、この山中というのは矢張り寺院であろう。
 その後この養源寺の旧趾に石碑を立てた所を見てもうなずかれる。宗忠卿の中右記には、
 次に鹿瀬山に登る登坂の間十八町、その路甚だ嶮岨、身力已に尽く、林鹿遠く報じ峡猿近く叫び、触物の感自然情を動かす。
とあれば大分寂しい山であったに違いない。名所図会に、
 十日―次にシシノセ山に攀じ登る崔嵬昨日に異り
と御幸記を引いて書いているが、これは明月記によったもので定家の自筆によれば、
 崔嵬 昨日に異ならず
となっている。これは写し誤りであることは明らかで、「昨日に異なり」としては意味が通じにくい。ここに昨日とあるは蕪坂の嶮坂をいうのである。三十六歌仙の一人たる叡山の歌人僧増基法師が熊野参詣の道中、ここ鹿ヶ背の宿って夜鹿の鳴くを聞いて歌をよんでいるが、やっぱり寺に泊まったであろう。
 養源寺の跡は峠の茶屋より有田側に半町ほど下って、一寸右手に登った広い平坦なよい処である。ここは畑として作られていたが、峠の茶屋がなくなってから黒竹藪となり、今は雑木に蔽われていることと思う。元享釈書の舌人の遺蹟の碑も荊に埋れていることだろう。万葉の昔はさておき王朝時代より上は、帝王を初め朝廷の貴顕?紳や高僧達より、下は一般庶民に至るまで遠きをいとわず、嶮坂を行場と心得て、所謂蟻の熊野詣を現出したのであって、当時の鹿ヶ瀬峠を想像するだけでも興味を感ずる。峠の茶屋に昔を語るものの如く大きな椎の木が二株あったが、今も無事に年々の花を人知れずつけているや否や。

    沓掛王子
御幸記に
 十日(略)此山(鹿ヶ瀬)を越えて沓掛王子に参る。シシノセ椎原を過ぐ樹陰滋く路甚だ狭し、此辺に於て昼養の御所有り云々又私に同くこれを儲く暫く休息山中に小食す云云
従来この沓掛王子趾としての記載は、
△紀伊続風土記
 鍵掛王子社四尺五寸境内周四町山口にあり、境内に弁財天長床あり、弁財天社に慶長十五年の棟札あり御幸記に・・・沓カケ王子とあるは是社なるべし。
△記伊国名所図会
 鍵掛王子鹿ヶ瀬山の麓にあり、御幸記に云云・・・此社なるべし。
△大日本地名辞典
 鍵掛王子即鹿ヶ瀬山の麓にあり、御幸記に云々此社なるべし。
△日高郡誌
 鍵掛王子社伊弉諾尊を祀り原谷字琵喜(披喜)にありしを明治十年一月皇太神社境内に移転、社殿は一間半四面觸続風土記に曰く云々(略)
右の記事によって鍵掛王子と云うのは元の沓掛王子であることは間違いないが、筆者は此社なるべしと推量の助動詞で結んでいること、記事が頗るあっさりしていることに疑問をもち、更に御幸記によれば沓掛王子に参られて後昼養の御所に入られているが、その昼養の御所の旧跡は今の小名御所谷にあったことは、紀伊名所図会その他に於ても認めている所で、果して然らば沓掛王子は昼養の御所よりも、鹿ヶ瀬山に近く位置しなければならぬ筈である。然るに前記諸書に記載する所反対の位置になり、御幸記の記事に矛盾し間違っていることを痛切に感じていた。
 そこで筆者はこの謎を解くべく当時東内原村役場の出立諦民氏について、鹿ヶ瀬付近の小字名を調べてもらい、楠磯右衛門氏(現松原郵便局長)について小字名の実地について案内を願い、左成其の古老に会うて詳しく古来の状況をきいて、大いにさとる所があった。左成氏は披喜の弁天社合祀後その跡地を譲り受けて民家を建てしも、その後家人に病人ができ家を他に移し、ここに弁天さんと王子の小祠をつくって祀っていた。この調査研究の結果は左の通りである。
 被喜の神社は弁天社が本社で、鍵掛王子はその側に末社として祀られていた。土地の人は被喜弁天さんといって、鍵掛王子を祀っていることさえ知らない。而も弁天社には紀伊続風土記にも記されている通り、慶長十五年の棟札をもった長床を備え、社殿は一間半四方もある。
 しかるに鍵掛王子社は社殿は四尺五寸四方に過ぎない。如何に贔屓目にみても、これを鍵掛王子とを本社とする社と見ることは出来ない。左成氏も弁天社の祭礼に鍵掛王子という幟も交っているので、鍵掛王子を祀っているのだと知った位であると云っている。紀伊続風土記の疑わしい書き振りも、沓掛王子の旧跡をつきとめかねて、殊更に筆をまげたものと思う。紀伊名所図会の書は皆これに倣ったものである。
 筆者は沓掛王子跡の小峠あたりに求めようとしたのは、藤白にしろ蕪坂にせよ峠に王子があったから、鹿ヶ瀬にも峠の近くにあるのではなかろうか、御幸記に山を越えてとあるが、必ずしも全山を越えてしまわなくとも云えるであろうとそうぞうしてみたが失敗であった。小字名を調査して王子谷のあるを発見して、これこそ沓掛王子の旧趾であろうと、雲をつかむような研究調査に曙光を得た喜びであった。楠磯左右衛門氏を煩して実地調査に出かけた処、前述の左成老人に会い詳細に聞くことを得た。
 王子谷は昔金魚の茶屋とて有名な金崎氏の邸宅より数町上にあり、調査当時は田としていたが最近は夏柑畑となっている。ここが即ち沓掛王子社の旧趾で、弁天社に移祀した後は耕地としたので、旧跡を忍ぶ為に傍の山裾に小祠を作っていたと左成氏の話、祭礼の際にはここにも幟を立てたとのことである。楢王子趾の全面に今道を隔てて一枚の畑がある。調査当時は黒竹藪で、法華堂があったが、明治初年の堂宇の破損により仏像等は広の養源寺へ持って行った。ここに十数個の墓石があり、今左手の山裾に建てられているが、この中に小さいけれども、室町中期の板碑が三基があることを発見した。即ち板碑であるが墓標兼用のもので、中央に南無妙法蓮華経と書しその下に法名を記し、左右に年月日をあらわす。一は永享八年、一つは嘉吉二年、一つは寛正二年のものである。この堂の位置より考えて、これは沓掛王子の別当寺の堂宇の形見とみて間違はないと考えられる。
 この付近明治中期までは三軒の人家があった由なるも、鹿ヶ瀬峠の往復が全く衰微して人家も他に移転し、金崎氏の邸宅のみ名所図会に描かれている昔の構えそのままに、鹿ヶ瀬峠の麓の家として存在しているのがなつかしい。以前は門前の細流に多くの金魚を飼うていて旅人の心を慰めたもので、金魚茶屋の名が有名である。略して金魚と云い、明治時代人力車丁場で御坊の町より金魚まで十五餞と云う賃金は今も耳に残っている。次に昼養御所というのは金崎氏の前の少し下手にある小名御所谷である事、紀伊名所図会及び日高郡誌に記されている通りで、御幸記によればここで休息している間、上の者も下の者も木枝を伐って分に応じ槌を作り、これを榊の枝に付けて内ノ畑王子に持って参ったとある。
 因に被喜の弁天社に移祀せられていた鍵掛王子は、弁財天本社と共に明治十年一月同村社皇太神社境内に移されている。
 なお中右記に沓掛王子の記載はない。右沓掛王子趾の研究は本県史蹟名勝天然記念物調査として報告、昭和五年三月の第九輯に登載、昭和四年十二月、文部省発行の史蹟名勝天然記念物に発表しておいた。

     馬留王子跡
 馬留王子は建仁元年の御幸記には見えないが、それより九十三年前の中右記には、王子社の記載はないが馬留の名が書かれている。
  漸く下坂(鹿ヶ瀬峠を下る)の間日已に暮る、凡そ七町許云云下人続松(たいまつ)を取り来り迎う、その後二・三町許坂より下り馬留の下に於て宿を占む、大木の下仮屋を成す(原文漢文)
今馬留王子のありし所は大字原谷下岡にあり、付近に馬留の地名を調べてもらったが、いまはないと云うことである。馬留王子は鹿ヶ背の両麓にありてよく混同され、沓掛王子まで有田の馬留王子に擬した旧幕時代の熊野道中記もあるが、それは誤りであることが已に述べたところによって明かであろう。馬留王子跡は光明寺の北に隣る。一つ不審に思うことは寺は高いところにあり、この社は低いところ位置しているが、寺は後の草創であるとしても納得しかねる。或いは王子の位置が変っているのではなかろうか。次の内ノ畑王子と云い高家王子と云い位置が変更しているのを見ても考えさせられる。どうして馬留の地名が消えたのか。馬留の名は平安朝の昔よりある名故、これをつきとめたら面白いと思うが、
・・・誰か御存じの方があらば御示教を願いたいものである。
 因に馬留王子はハザマ王子と云い、地方ではハザマさんと称し、明治時代には楠の老樹があって如何にも神社趾であることを思わしむるに十分であったが、今は夏柑畑に化し全く社趾の面影がなくなっている。只馬留王子趾の標石のみ道行く人に示しているばかりである。
 和歌山県聖蹟にもの王子趾の測図が丁寧に記されているが、地図上の位置が随分間違っている。それは馬留王子趾は原谷小学校より南にある筈だが、これを小学校より数百米も北に示している。その関係もあるのか次の槌王子趾はまさに内ノ畑部落に入らんとする処にあるのを、これも数百米も北になっている。土地に詳しからざることの誤りであろう。

     内ノ畑王子
 今内ノ畑王子趾として保存されているところは、日高町萩原小字垣内と云う所にある。所が現社趾より田一枚を隔てて小字名槌王子と称する地があり今田となっているが、これが内ノ畑王子の旧跡なるべしと故森彦太郎氏の考証する所で、筆者もその後実地に調査した。
 和歌山県聖蹟にはこれを是認しているが、槌王子の地を垣内の地と地続きであると云いながら、ここを内ノ畑に属さないとして、槌王子が内ノ畑王子と称する名の相違を如何にすべきかと、永永と論議せられてとんでもない勘違いをしている。それかあらぬか和歌山県聖蹟に載せた地図上に、この旧地をずっと北方原谷領に書き、内ノ畑領の垣内の旧跡まで原谷領に書いているのはどうした事か。それはともかくとして内ノ畑王子は槌王子の地にあったが、神社の衰微と荒頽、耕地の拡張に伴いその隣地、山裾の地に移祀したものであることに間違いない。
 猶和歌山県聖蹟には熊野古道を原谷川の左岸に示しているが、内ノ畑王子や高家王子が右岸に位置し、この処右岸は田園開け人家も多くある。昔の道路は自然的に出来たものであることをかんがえると、ここ熊野古道は馬留王子より下手にて川を渡って、右岸に出たものと思われる。徳川時代に書いた或る道中記にも鍵掛王子・馬留王子・新熊野・槌王子・高家王子と順を示しているし、紀伊続風土記にも載っている。そして新熊野又今熊野と云い、原谷部落の南端内ノ畑部落に接する処槌王子の上手にあり、今小祠が祀られているが、高い美しい石段があるので、相当熊野参詣者を引きつけていた宮と思われる。原谷川の左岸蔭里原(かげりはら)には細い道はあっただろうが、熊野街道として整ったのは、最近ではないかと思われる。
 和歌山県聖蹟を引合に出して恐入ることであるが己むを得ません。内ノ畑王子を何故槌王子と称するかについて、御幸記に昼養御所の辺にて木枝を伐り槌を造って榊の枝につけ、内ノ畑王子に持参するとあって、多くの槌が内ノ畑王子の神前に供えられていたことによるものである。御幸記に内ノ畑王子の下に割註として「ツリ金剛童子」と書かれている。然るに和歌山県聖蹟には「ツチ全罰童子」として、童子は寺に入って未だ出家せざるもの即優婆塞で、全罰童子は罪の深い優婆塞であると、御丁寧な解釈をしているが、全罰に罪の深い意義があるものか私にはわからない。
 定家自筆の道の間の愚記には金剛童子とあり、流石に紀伊続風土記には金剛童子と書いている。剛の字をくずして書くと罰の字のように見えるので、これを読み誤って罰の字となし、金罰としてはおかしくなるので、全罰としたののかとも思われる。とに角金剛童子は仏典にもあり、太平記大塔宮の熊野落に切目王子に夜すがら祈誓を捧げた御詞に、
  南無皈命頂礼三所権現滿山護法、十方の眷属、八方の金剛童子、垂跡和光の月明に分段同居の闇を照し逆臣忽ちに亡びて朝廷再び輝く事を得しめ給へ云云
とあるに見ても明らかであろう。熊野の金剛童子とは関係の深いものである。

     高家王子
 高家王子は日高町萩原小名王子脇にある。紀伊名所図会や日高郡誌には高家に接する処にある故高家王子と云うとあれど、王子神社沿革誌記録に、高家荘(高家・池田・原谷・萩原・荊木)五ヶ村の総社なる故名づくると云えるは、蓋し当を得たものであろう。この王子脇に隣りて小名東光寺という地があるが、今東光寺の名は萩原の一部この附近部落の総称となっているので、今は一般にこの王子を東光寺王子と称する。
 御幸記には高家荘は聖護院宮並に民部卿の領であると記し、室町時代には新宮領となっている。王朝の平安朝天仁年間には高家荘司高太夫という有力者もいた程に、熊野古道中重要な土地だけに、壮大な王子社をもっていた筈だと思われる。現に王子社に隣接して東光寺・観音寺の地名が残って居り、又中右記に真如院云々と書かれている。又明治維新まで別当寺院として法華堂があり、祈願堂・不動堂・毘沙門堂・護摩堂等の堂宇が完備していたこと、而して法華寺は天台宗和歌浦雲蓋院末で享保年中の創立というもののその前身は、真言宗にて大明寺と称し、本尊薬師如来であったと神社沿革誌に書かれている。東光寺という寺号は薬師を本尊とするもので、大明寺と何か関係がありそうであるが今詳かでない。
 印南の東光寺はここの寺号を移したとも云われるが真偽はともかくとして、寺号は他に譲って地名だけのこったのであることは肯定できる。猶この地方は熊野古道中枢要の地で、御幸記に何故か王子の名は出ていないが、
  萩薄遙に靡き眺望甚た幽この辺高家云云
と特に地名をあげて居り、又
  此の所共に便事あり
とかかれている。これは熊野より京師に便りするものと、京都より熊野に便りするものの交換地で又ここで行先の便りを得るのである。かく考える時ここの王子社は他に比して小祠ではなかった筈、況して建仁御幸の際に王子社の名がないとしても、ここに王子社がなかったとは思えない。従来の記録中にここの王子を記したものはかの源平盛衰記で
  権亮維盛は蕪坂をうち下り、鹿ヶ瀬山を越え過ぎて、高家の王子を伏拝み日数漸く経る程に、千里の浜も近附けり
と他の王子をあげずに特に高家王子を特筆せることも、注意せねばならぬ。
 和歌山県聖跡にはあっさりと建仁元年の頃には、高家王子はなかったのである。高家王子はその後設けられたのであると断言している、続風土記・名所図会にその存否には触れていないが、日高郡誌には他の王子より後れて出たものとなっている。この重要な有力な地に而かも王子社に関係ある旧趾の多いことも思われるのに、他より後れて王子が出来たとは考えられないことと、筆者は疾くよりこの疑問をもっていた。
天仁二年十月中御門大臣藤原宗忠卿の熊野詣記は、従来発行の中右記に加えられて最近世に出た。これを見て従来の疑問が氷解した。中右記には沓掛王子も内ノ畑王子も記載はない。誠に馬留の宿所よりの記事を示す。
  十九日天陰暁に宿所を立つ。樹陰甚だ繁し、雲集り重りおおう。仍て行路見えず。続松を取り原中を過ぐること十町許火を滅す。原中八十町林中大蟇あり此の間風吹き雨下り頻る電電を以てす。大家(たいえ)王子に参り奉幣、その南昼養午刻、昼養所は真如院大家庄司高太夫の仮屋也。送物あり(原漢文)
随分樹木が茂って大きなひきがえるに肝を冷やしたことであろう。御幸記に柴原と書いている。そして高家王子を大家と書しているが、道中地名只言葉を聞いて文字にした様で、次の富安王子を御幸記には田藤次、中右記には連同持、昔も今もでと、れの発音が悪いことを知る。それから印南を伊南
、南部を南陪、田辺を田之陪などとかいているのである。
 これによって御幸記に高家王子の記録はないが、その九十余年前に立派に存在しており、源平盛衰記時代にも特に書き出されているのであるから、御幸記時代に消えて居るわけはなかろう。如何なる事情によってか或は社殿の改築中とか何か・・・併しそれはわれわれの憶測の限りでない。
 猶御神体は木像であったが偶像は仏臭があるとて、神仏分離の際鏡としたのである。併しこの木像は神像として最古の形式をもっているとのことである。恐らく御神体として祀られていた仏像であろう。一度専門家に鑑定を得たいものである。今一つ考えて見たいことがある。それは現在の社地は古えのままの高家王子の旧趾であるかとの疑問である。今まで誰もがこんなことを考えた人はないが、自分の乏しい知恵では合点が行きかねるので、一つ皆様の御示教えを得たいものと思っている。
 即ち観音寺は王子神社の北にあり、古松数株と立派な石段が残っている。恐らくこれは門趾であろう。この処は今祭礼の御旅所になっている。そうして今の王子社はこの寺趾より下手の低いところにあり、王子趾の所在地は小名王子脇であり、前述中右記記載の真如院は王子社の南方とあるが、今南に寺趾を求むる余地がない。多くの旧趾に関係をもった神社としては、今の社地は甚だ貧弱である。勿論前記別当寺法華寺は今王子社の全面にあったと思われるが、これは同境内の中にあって、先の真如院は同一境内中の建物とは認められない。恐らく今の社地よりずっと高見にあったかと想像する。
 もし乏しい想像と推測を許すなれば、観音寺に隣接して王子社の旧地があったのではなかろうか。ここには今から数拾年前まで土壇があって古墳かと思ったが、その後崩したところ古墳ではなかった。これは恐らく王子旧趾の土壇であったのではなかろうか。この地を祭礼の御旅所とすることにも意味があろうか。

     富安王子趾
 東光寺より道を山裾に沿うて東南に進み萩原より荊木に出て、大池々畔より富安の谷に下れば間もなく富安王子に達する。即御坊市湯川町富安字宮の前で、位置は昔のまま変っていないものと認められている。併しこれより数町北方、富安川畔に「おおじゃくば」と称する所があり、「おおじゃくば」は王子が芝の訛音で、富安王子最初の旧地であるとの里伝がある。これについて故森彦太郎氏も、これは熊野御幸道の究明上にも有力な示唆が与えられることと思い、一説として茲に掲ぐると、史蹟研究報告書に書いている。
 富安王子のことを天仁二年の中右記には連同持と書し、建仁元年の御幸記には田藤次、紀伊続風土記には善童子、幕末の道中記には善道子とか善導子と書いたものも見受けられる、地方の人は出王子又は出童子といっている。何れも同一語の転訛せるものであることは明かであるが、どれが果して正しき名であるか迷う。
 茲に一つ面白い記載を見つけた。それは明治四十年頃県下各町村に町村誌編集のことを県より指示があり、県は各村誌によって郡誌をつくり、郡誌を総合して県誌となさんとする計画であったが、予定の如くそう容易くうまくは行かず、村誌も郡誌も県誌も皆単独でやらざるを得なくなった。日高郡でも村誌のできたのは四五ヶ村位、それも印刷する迄に至らず、猶数ヶ村は草稿に止ったものもある。昭和に至って学校や役場に於て謄写版刷としたもの十ばかりあろうか、その中に湯川小学校に於て明治四十三・四年頃当時の先生達によって執筆された郷土誌草稿があり、それに富安王子の記事がある。
 これによれば富安王子は小字宮の前に鎮座、元富安の荘四ヶ村(上下富安・小松原・丸山)の総社で善童皇太神を奉祀す、是を以て善童子と云う。その初め上富安に建設せられたが後今の処に遷し給うた。よって又出童子或は出王子の称がある。・・・と遷祀したので出童子又は出王子と称すると云うことは眉唾ものであるが、最初上富安に創建せられたことは故森彦太郎氏の考説に相通ずるものがあり、猶調査研究の要があろう。
 猶同書には御神体として仏体七躯、木像四、鉄像三を記しているが、寛政四年の寺社調には『御神体は木像にて御座候由終に拝み候者御座なく候』とある。郷土誌草稿には仏像の法量まで記載してあるから、これは真であろう。社殿の前の広場はもと寺院跡で、寛政四年には薬師堂のあったことを記されており、天仁二年の中右記にこの王子社に六百巻の大般若経を蔵していると特記しているなど、相当盛大なりし往時を偲ぶに足る。
     愛徳山王子
 熊野旧道は富安王子の前より南下して小松原に入るのであるが、熊野古道は東南に進み富安川を渡って八幡山の東麓に出で、クハマ王子に至るのである。処が道成寺街道として八幡山に通ずる今日の道は明治初年に改修したもので、熊野古道は橋を渡ってすぐ丘阜に上って愛徳山王子に参るのであるが、日高郡誌には栗林(愛徳山王子趾)の位置たる沿道にあらざるのみならず、古人の相せし社地と思われず、として続風土記に記す処の古の愛徳山は今の八幡山で、王子社と八幡社を併祀せしならんも乱世に神事荒廃して里人神の由来を失い、謬りて八幡一社を祀るとして、山を八幡山と呼びなせるなり、の考説を是認しているが、考え違いがあるように思われる。
 日高郡誌は明治初年に改修した道成寺街道を誤認して沿道にあらずと考え、古人の相せし社地と思われずとしている。続風土記の考説も穿ちすぎて事実に遠い感がある。又今愛徳山王子社趾としている処は、慶安四年に王子社趾の御尋ねにより境内三拾間四方に仰付けられたとあり、即ち荒廃していたために藩より復旧せられ『社鳥居制札御立て遊ばされ候』とある。その後鳥居等腐朽したと見え、享保拾年の江川組の書上及び安永頃の吉田村書上にも鳥居制札等大破に及ぶと述べている。
 この王子の方向は今知ることを得ないが、察するに東に向いたものであると思う。果して然らば熊野古道はその横手を通って栗林の丘を下るのである。この道も昭和の初めまでは明らかに存していたが、富安川を渡って丘に登る道は人家の邸内に入り廃道となり、丘上の畑中の道路も改修したため古道の面影は全くなくなり、只愛徳山王子趾という標石のみ畑中に何等のの区画もなきままに、淋しく立っているだけである。
 慶安四年に王子趾を三拾間四方に定められたとあり、続風土記には周百二拾間とあるのを、日高郡誌には安永以後更に重修拡張せるならんかとして、社地が広くなったように勘違いしている。これを実際に見れば三十間四方とあるも正方形ではない。大体の見当かと思う。むしろ周百二十間という方が適当におもわれる。今一つ愛徳山王子が相当重きをなしている王子であったように思われる古文書のあることを知った。定家の明月記に熊野御幸観賞を記して、
  元久二年正月一日未天晴、伝え聞く夜半僧事有り云云
  権僧正公胤熊野七重塔供養賞
  行遍熊野別当範命賞譲元尊御熊野神宝功
  盛範愛徳山王子修造功
即ち盛範が特に愛徳山王子修造の功によって賞せられていることを考えて見る必要があろう。愛徳山の名を見れば旧川上村の阿田木神社に関係があるように見ゆるが明らかではないが、日高郡誌には阿田木神社より勧進せるものならんと記している。

    クハマ王子
 愛徳山王子より丘を下り八幡神社前より八幡山の東麓、以前競馬場としていた道の旧吉田村の津井切に進むべく山麓を離れんとする所に、明治四十一年神社合祀以前茲にささやかな宮があった。これが即ちクハマ王子である。合祀以前社地はそのままであったが、後開墾されて畑となった。その時であったか旧趾より約十四・五米ばかり東に新に地を相し王子社遙拝所を建てているものは、現在見るところのものである。
 クハマ王子とは土地の小名であるが、道成寺伝説に取入れられて九人の海士の住める地として、九海士王子の名として単に海士王子として一般に伝えられるに至った。伝説としては奈良朝前期文武天皇の御代となるが、後鳥羽上皇の建仁元年の御幸記には、「クハマ」と書いている。紀伊続ふどきには桑間の意であろうと書いている。和歌山県聖跡にはクリマと書いているのはどうしたことか。クハマをクワマと書いているごこうきもあり、転々と改版に際してワをリと誤ったものと想われる。和歌山県聖跡に引用する御幸記には金剛童子を全罰童子とし、この処クハマをクリマとする。さすがに続風土記には間違いないが、名所図会には全罰王子となっている。併しkyハマ王子の記載はない。クハマおうじに祀られている神は誰であろう。伝説には海士を祀ったと云い、海士の娘文武天皇の皇后となられた宮子姫であるとしている。海士が海中よりかずき上げし「えんぶだごん」の観音を信仰し、禿頭の娘が丈なす黒髪の美人となり、宮中に入ってそのために勅願の道成寺が建立せられたという程の仏法信仰者が神仏混こうなど思いもよらぬやかましい時代に、宮子姫が神として祀られるなどは後世のことならばいざしらず、当時のこととしては少々合点が行きかねる。伝説をいじくるのは心なきわざであるが、一寸興のわくままに御笑草とする。
 この王子社の祭神は伝説は別として、正しく伝っていない。御神体は木像坐形の神像で仏教的のものではない。伝説によって神社の頽癈と共に道成寺に移され、道成寺では宮子姫であるとして祀っている。察するに王子社は天照大神を祀っているからこの王子社の神像は天照皇太神であると思われる。
 旧王子社は前途のとおりで小松原より来る道成寺街道の八幡山麓につき当った左側のところに南面して建てられていたことは、筆者が子供時代から成人時代へかけて親しく見て来たところであるが、和歌山県聖跡の地図は十数米も西にあるのは間違ではなかろう。猶その当時川端に沿うた一枚の地面は田であった外は雑木林で山裾、山麓の道路は旧王子社の前を西に通ったので、聖跡にいふ処の王子趾の後ろの開墾後つけたものである。今一つ和歌山県聖跡の大きな間違は、旧王子趾と新設遙拝所とは隣合せと説明してありながら、これを地図の上に新設遙拝所より一キロばかりも離れた西に位置をとり、それが為に愛徳山王子よりクハマ王子に至る古道を、八幡の西麓にしている。

    小松原御宿附岩内の事
 御幸記にクハマ王子より小松原御宿に泊られた、小松原御宿というのは藤田町吉田万楽寺の南方御所之瀬というところと伝えられている。
 御幸記には御所水練の便宜あり、深淵に臨み御所を構え云云とある。御供の人々の泊るべき仮屋が乏しく皆泊ることが出来ないような状態であったが、御所だけが特に意を用いたものと思われる。この御所の建てられた全面は日高川であったのかどうかと考えて見たいと思う。即ちこの深淵をつくった川は日高川の分流で相当大きく、今の新田井堰の左側に併行して一段の低地をなし、そこを流れる川はもとの大川であったので、今この川を古川筋と称し、旧御坊町島にて古川の小名をもち、これに隣りて向川原と称する所もあり、湯川町天理教会のある所は川原畑、その西御坊駅通りを隔てて早ヶ瀬(はいがせ)の小名を有すること、古元の川筋であるを示すものである。思うに当時の日高川は藤井の南端吉田に接するあたり日高川は左右に分流し、一は野口の岩内の方に一はこの古川筋に流れ、ここに三角州を生じていた。この三角州の土に出来た村が島と称する部落であると考えて誤りはなかろう。
 前にも述べたように御供人の泊るべき仮屋は狭小、定家の来着まで家をふたいでしまって、何といっても出ることを肯んじない。流石に御公卿様で争論に及ばず、又身を入るべきに非ずとして遥か宿所を尋ね、河を渡ってイワウチ王子に参拝、この辺の小屋に入ったのであるが、ここが重輔庄である。重輔は藤原氏ゆかりの者でイワウチ庄を司る所謂岩内庄司の名であろう。
 中右記に記す藤原宗忠卿は富安王子より道場寺(道成寺)の前を過ぎ日高川を渡り、日高氏院岩内(いわうち)庄司宅に宿るとある。重方未だ見参せずこの里の住人なり菓子を進らすとあり、この重方と前記重輔は同じ重の字をつけている処をみると、同じ家系の人と見て誤りはなかろう。
 永保元年九月藤原為房卿の熊野詣には二十八日鹿ヶ瀬山中の草庵に宿り、二十九日塩屋上野牧預宅に宿す。その時日高郡司友高薗財庄、日高庄等粮糧を送って来たと書いている。皈路十月九日同じく日高司友高の宅に着するとある。この友高も岩内に住んでいたと思われる。
 後鳥羽上皇の建仁元年の熊野御幸の皈路、十月二十二日払暁西牟婁郡の近露を発し、日没田辺に着いたが、更に強行夜を徹して鶏鳴岩内に入った。多分小松原に泊るべき筈であったと思うが、多くの人数でやむなを得ずこの宿所に一寝したとある。即ち二十三日日出の後小松原を過ぎて湯浅を急ぐ、誠にあわただしい有様がうかがわれる。兎に角岩内は当時に於て、この附近の勢力の中心地であったことを思わしめる。
 正治二年熊野権現の祝詞に荊木荘、富安荘、矢田村荘、田井荘、当岩内荘、上野荘各地頭は神田一反づつ、山田荘は四反を立置給い待ると書いているところを見ると、岩内荘の勢力も想像できよう。

    岩内王子
 小松原を出て日高川を渡るのにどうして渡ったのであろうか、無論橋があるわけでもなし、和歌山聖蹟には簡単に舟で渡ったように書いているが、果してそうであったか。京都を発する時の記事に騎馬先陣公卿多く輿に乗るとあり、供人を合せて二百数十名の一行はそう簡単には行くまい、恐らく徒渉したのではなかろうか。中右記には日高川を渡るに河水大に出で下向の女房両人河岸に立ってためらっていた。何人なるかは知らぬが籠を遣して渡してやり、菓子などを送ってやったとあり、常ならば女の人でも徒徒したようである。
 出島あたりから岩内へ斜に川原を利用して通行そたと思われることは、多人数のしかも相当に輿もあること故、狭い路より河原を利用することは便利で且近路となろう。岩内より塩屋へ行くにも山側に通路があったものの河原を利用していた。この事は後に述べる。
 中右記に有田都広河原を利用し、この河原に昼養所をつくられていたと書いている。又西牟婁郡岩田より滝尻まで一里余の道程に於て、川を渡ること十九度とある。これがもし西岸の道を蛇行したものとすれば、少々実際にそぐわぬことである。必ずや川原を歩み腕々たる川の流を渡ったと見ねばなるまい。中右記に岩田川を叙して「河間紅葉浅く深く影波に映じ殊に勝る』とあり、而して「河深き処股に及び袴をかかげ云云」とあるに見ても明らかである。芙景を貿しつつ河原少をつゞけ歩いたこととて、岩田川に関する古歌が多い。又故ありというべきであろう。
 話は横道に入ったが、さて岩内の王子はどこにあったか、川を渡った人の休憩によろしく河岸に近く鎮座していたのである、即ち現在は河となってその所在を失ているが、土地台帳には小字「王地」の名を川の中に留めている。「王地」は「王子」の事て岩内王子の跡であることは疑を入るる余地はない。紀伊続風土記にも『河流変遷し岩内王子の社地滅没して後世小社を茲に建つ』と云っている。茲にといえるは徳川時代の焼尽王町の事で小名田端にあり、今「焼芝玉子神社旧跡」の碑か建てられている。
 然るにどうしたことか和歌山縣聖蹟には、この焼芝王子趾を古えの岩内王子としているのは誤りも甚だしい。古えの岩内王子の減没したのは、元和元年の大洪水であったと想像する。旧御坊町大字名屋(元山田荘名屋浦)が全滅したのも、この時であった。大正年間この王子趾の少し下流の川底において、根付の樟の大木を堀り出したことがあり、猶幾本かの埋没せるものがあるとは古老の語るところ、恐らくはこの王子の杜の木と思われる。ここに近く真宗明鏡寺があるが、この寺院は元真言宗で吉祥寺といったのを、永正八年改宗して寺名を改めたものであるが、これは
岩内王子の別当寺であったものであろう。
 岩内が平安朝より鎌倉室町時代にかけて日高川の渡り場であったことは、旧国宝道成寺縁起の文にみることが出来る。清姫(縁起にはこの名なし、真砂庄司清次の後家である。)安珍を追うて日高川を渡るところに「舟渡しをばちけしと申ていわうちにありけると日記には慥に見えたり。」とある。子供の手鞠歌に「ここから鐘巻十八町……」とあるのも出島あたりからの距離である。
 岩内より塩屋に往く処中右記に。
  日高川水大に出で行路を妨ぐ云云仍て頗る東細道に次く小山の上
  往道二十町許り塩屋王子社に至り奉幣
とあり即ち平生なれば狼烟山の麓まで川原を歩いたかと思われる。御幸記には只「山を越えて塩屋王子」に参るとあるは、狼烟山の西の尾根を越したのであろう。今日の天田よりの通路は、後世出来たもので昔は琴の橋から天田部落をつくっている丘阜を通ったものである。
 徳川時代末期の日高川渡しは元名屋浦の船附神社の処より、今の琴の橋の所に渡ったのは本街道であったが、一般人は増水でない限り、名屋より川を渡り、中洲川原を下って、狼炳山の西麓において熊野川を渡って本街道に出た。ここを小渡しと云って、これが本街道の観を呈していた
という。
 話は元にもどるが定家郷は岩内に宿られた時、大雨で蒸し暑く夏の様である。それて帷子を着した。蝿も多く夏の如しといっていたが、翌晩切目では寒風枕を吹くの状態で病気となり、この病気がずっと続いて本宮・新宮・那智まで苦しまれている。那智では随分苦しかったと見え「晩より食ぜず力なく極めて術なし」と嘆かれている。
 猶前述中右記の重方、御幸記の重輔と岩内の鈴木氏の関係について考えて見たいと思う。日高郡詰の名門には鈴木氏の名を逸しているが、明治四十四年の野口村誌稿に重要な記録を得た。鈴木氏は干翁命の後胤とある。千翁命は稲束を献った功により穂積の姓を賜い、その子三人又功ありて鈴木・宇井・榎本の三姓を名乗ったとある。これを熊野の三苗といって有名な家柄である。岩内鈴木氏は即ち熊野の出である。同書にはその後胤重高仁安元年閏九月、後白河法皇の熊野御幸の時御案内の為供奉し、還幸の後日高郡岩内荘を賜いここに居を備え医を業とすといっている。その当時から医を業としていたことは疑問であるが、中右記の重方・御幸記の重輔の名によって同一家系であると考えざるを得ない。
 中御門右大臣宗忠郷は熊野参詣の版皈途十一月五日重方の宅に宿泊、待遇饗応頗る丁重である。殊に櫟原庄(今岩田村)へ御迎の為日高から伝馬を送っているなど親切丁寧であった。これが為宗忠卿より禄を増して賞せられたのであった。

      塩屋王子
 日高川を渡るに渡渉したように述べておいたが元禄初年頃の熊野独参記に「川巾七町半、常は徒渡り、洪水には渡舟これあり、旅人の舟賃定らず近里のものは秋麦米を以てこれに価す」とある。徳川時代になっても徒渡りをしたことを思えば、古えの程も察せられる。島より天田へ渡ったのであるから、川巾七町半は斜に川原を利用して渡ったのであろう。道成寺縁起には舟渡しの絵がかかれているが、折節大水出でてとあるから特に舟を使ったのかも知れぬ。
 塩屋王子は古くより知られている熊野九十九王子中有名な社で、その創建は里伝によれば大同年間に魚屋権兵衛なるものが、伊勢神宮の御分霊を勧請したものであるということになっている。処が同神社の元神官であった宮田善実氏の明治四十三・四年頃に書かれた『塩屋村誌』には、三条天皇の長和三年日前官の分霊を勧請すとあり、何れが真であるかは知らない。祭神は天照大神寛政四年の寺社訓帳によれば、「御神体は木像の坐像、勧請時代相分り申さず侯」と頗るあっさりしている。当時の神官弥兵衛としているが、歴代神官の名の中に見えない。この王子を美人王子と称し、筆者の子供時代には社前の鳥居にも美人王子の額を掲げていた。
 仁井田好古の祠前の碑には古え所見なしとあり、和歌山県聖蹟には美景の地に鎮坐する故かく称えたのであろうと書いている。愚按によれぱ前述の如く御神体は天照大神の美しい女神像であるから、これを拝した者によって美人王子と伝えられたのではあるまいか。
 後鳥羽上皇行在所の跡と称する御所の芝というのがある。江戸中期頃の熊野道中記に御所の跡王子の境内にあり、王子の後つづきにて御幸の時の頓宮の跡なるべしとある。今日の位置とちがっているようにも思われる。今日の位置も筆者が知って三回も変っている。故山田信之助氏に聞いた話では、最初社壇の西南雑木林の中にあったのが社壇の前に遷したのである。それから社壇の上に変更したが、これは数年後又社壇の前面旧位置に復して今日に至っている。標柱とせる石は石鳥居の折れ?を利用したもので、これはあまり古くないようである。この事実について考うれぱ現位置に御所があったとは受取られない。和歌山県聖蹟にもこれを疑っているのは当然であろう。
 後鳥羽上皇は熊野御幸は二十九度の多きに及び、それに御幸記の如き詳細な道中記録があるので一般に親まれ、伝説として衆耳に入り易い所があるので、熊野古道に於て聖蹟と云えば、多く後鳥羽上皇を引合に出している。これを敢て塩屋王子について云うのではないが、この王子に尤も崇敬の誠を捧げていられる記録をたどると、寛治四年正月白河上皇の熊野御幸に際しての事で、王子の御前に参拝した多くの人達の歌にあらわれている。天皇の熊野御幸の尤もはっきりしているものは宇多上皇の延喜七年に初まり、次は花山法皇は二度、次は白河法皇の寛治四年正月を初度として十度に及んでいる。後鳥羽上皇の建仁元年の御幸より百二十年前となる。
 王子社に於て別当寺のつかぬものは先ずなかろう。殊に有名な神社ほど立派な寺院がついていた筈である。塩屋王子に於ては今鳥居の建てられている広場は、寺院趾であることには間達はな
い。近時熊野街道の数度の修覆幅拡張のために、ここの広場も西より南にかけて随分せぱめられ、これにつづく山麓も削りとられた事は今日の人もよく知るところであろう。同地円満寺は元大行寺と称して真言宗であったが、或はこれ別当寺であったかとも考えられる。古えの神社は南向でなかったか、今の石段はもと王寺橋の正面にあったと思われる。寺院の趾地を利用する為にここに移したのであろう。石段を移した事を誰かに聞いたのであるが誰であったか失念した。猶調査の要があろう。
 熊野御幸路に於て藤白坂より海を眺めたものの、山又山を越え湯浅に至って海に接し、海の眺めに大宮人を喜ばしたことは、御幸記には藤白に於て「眺望遠海興なきに非ず」と記し、湯浅に於ては「湯浅入江の辺松原の勝奇特なり」と称えている。これからずっと田辺に至る間海岸に沿える道にて甚だ楽しい眺めであったことは、中右記に
  塩屋王子に至り奉幣す、上野坂上に於て祓し、次に昼養、次に伊南の里を
  過ぎ次にいかるが王子に奉幣……切部王子社に参る、日入るの間切部庄下
  人小屋に宿る、今日或は海浜或は野径を歴、眺望極りなし、遊興多端也
とあり、御幸記には
  この宿所に於て塩ゴリをかく、海を眺望するに甚雨に非ずんば興あるべき
  なり
と書かれている。又正治二年十二月三日後鳥羽上皇三度目の熊野御幸の時、切目宿にて「海辺眺望」の題下によめる。
  漁り火の光にかはる煙かな灘の塩屋の夕ぐれの空
これらによって大宮人のいかに海に親しみを感じられていたか想像に余りがある。どうした事か家隆の歌は有名な切目懐紙の中には入っていない。
 山田荘一円は南塩屋須佐神社(元武塔天神社)の氏子であったが、名屋浦は元和の洪水後記道明神を祭りて分離し、北塩屋・天田・猪野野は明治六年王子神社の氏子として分離し、南塩屋・森岡・南谷・明神川・立石が須佐神社を氏神とするようになった。茲に考えることは由緒ある王子神社に何故氏子がなかったかということである。即ち王朝時代より上は朝廷より貴顕紳の熊野詣に依存して、氏子にたよる必要がなかったのであろう。切目王子社についても同様旧切目村、切目川村の一部が古屋の八幡神社を氏神としていた。室町中期より貴顕の熊野詣が衰えこれに依存する大きな神社ほど維持困難を感じ、別当寺院ぱ神社を去って改宗し檀家をもつようになったが、氏子のない神社の哀頽は遂に今日の様相を呈している。一村一社の神社併合の其の筋の勧誘に塩屋王子の存立を頑張って、古えの歴史を伝えていることは、誠にうれしい極みである。

    上野王子
 上野は熊野参詣道の主要な処であった。中右記天仁元年藤原宗忠郷の熊野参詣記には「上野坂上に於て祓し次に昼養」とあり、当時王子社はなかったが、鎌倉時代に於て参拝休憩に便を与えるために王子社を建てられたと見る。御幸記に「次に上野王子野径也」とある。
 熊野参詣の盛になるにつれて人家も殖え道路も便利の地に変更されたので、御幸記時代には上野王子は新道筋と離れて野径に存在することになったのである。今日上野王子証としては小字浜端にあるが、御幸記の記載に見ても此処は旧位置ではないことは慥かである。続風土記に仏井戸(土地の人は井戸仏と称して仏井戸とは云わない。恐らくは風土記編著者の考えによったものであろう)の地が、旧王子趾であるとしている。
 和歌山県聖蹟にはこの地の小名に王子に関係ある名も見えず、続風土記は何故にここが王子趾であらねばならぬかの、考証すべき材料は何物もない。ただ小栗街道に沿うてこれを求むるならば、この仏井戸のあるのが唯一のものであるとしている。筆者の考えは矢張りこの処旧王子趾であるとするものであるが、和歌山県聖蹟の考え方とはちがっている。続風土記にしても、和歌山県聖蹟にしても矢鱈に小栗街道を云為しているが、小栗判官の熊野の温泉への通行路という意味であるが、小栗判官は伝説上の人で、よしそれが実在の人としても鎌倉中期の人である。鎌倉中期より以前に属する御幸記に於て、己に野径となっている道を、小栗判官が車にのってかよわい女の手にひかれて、態々道のわるいすたれた道を歩いたとはどうしても考えられない。今日小栗街道と称するものも只の云い伝えであれやこれやの想像の加えられていることも見のがせない。只中右記に坂の上で祓をした神聖な処として王子社が出来たとすれば、この坂の上である。
 今一つこの地名を当前寺と称し、今の極楽寺の前身であった寺院のあった所という。仏井戸は独立したものではなくて当前寺境内の一つの参拝所であったのが、当前寺の移建後これがここに残って信仰者を集めているのであろう。井戸仏というのは石造の仏像が井戸の中に沈められているが、年に一回これを出して洗い清め、また井戸の中に入れると云う。側に箭所があって信心祈願の人は、ここに通夜して祈りを捧ぐるのである。続古今集に入道前太政大臣(藤原実氏?)として。
   昔見し野原は里となりにけり数そふ民の程は知らねど
これは建長二年の歌と思われるので鎌倉の初期には、上野も大分家ができていたようであるが、大治五年の鳥羽上皇熊野御幸の帰途十二月十八日上野に泊らせられ、右衛督の宿所が焼亡したことが書かれている所を見ると、この頃は上野も相当栄えていたものと思われる。中右記の記録より廿余年の後である。

   津井王子趾
 津井王子は中右記には出ていないが、御幸記に見えている。印南町印南字法経堂の地に祀られ、叶王子と云い、土地では「おかのさん」で通っている。明治四十一年山口八幡社に合祀され、その趾地に「叶王子神社旧跡」の標石が建てられている。この地は印南領であって津井領にあらず、日高郡誌には昔しはここも津井領であったと伝えられていると称しているが、紀伊統風土記には同じく古老の言では、あるいは元は津井領であったのが後世印南領に遷したとある。
 和歌山県聖蹟には印南領に「王子田」の小学名を有する地あり、これが御幸記当時の王子趾であると断定しているが新しい発見である。法経堂の地名は法華堂のあった所で神社跡ではなかろう。無論鎮守としての宮があったかもしれぬ。いつ頃ここに遷祀されたかは不明で和歌山県聖蹟には徳川時代とあるが、これも適確な資料によったものではない。今一つ不思議に思うところは王子神社をどうして、この寺院祀堂の境内に遷したかということである。
 津井王子社には他の王子社の例によって別当寺がついていたものと見るべく、同地の高泉寺が元真言宗で改宗後今の地に移建されたので、古への別当寺であったと考えても強ち無稽ではなかろう。併しそれはともかくとして、神社の御正体が仏像であった為に宗派の関係上この法華堂に遷したのではあるまいか。叶王子の名は何時からか又どうしてこの名をつけられたかは不明であるが、元禄頃に書かれた熊野独参記には、この王子について何等の記載はない。正保か享保頃と思われる熊野道中記には、「叶王子、印南坂下り道の左」と今の法経堂の地を示し、江戸末期の道中記もみな同じことである。所が延享三年杉原秦茂氏の書かれた写本「南紀神社録」には、
  叶王子社印南村に在り祀神未だ考えず祭文に云わく、
                   (ちはやぶる かみにいのりのかなわぱや しるくもいろにあらはれにける)
  当社叶王子大悲権現云々千早不留神仁祈乃叶波也志留久毛色弥阿良破礼仁計留
  干時 弘治三年五月二十五目
とある。即ち室町末期已に叶王子の名が称えられていたことが知られる。併しこの時代に猶津井の王子田に鎮坐していたのか、印南の法経堂に遷されていたのかは知られない。
 もし想像を許すならば、この時代既に印南に遷祀されていたのではあるまいか。印南宇杉八幡神社に叶王子の古文書が所蔵されており、先年見せて貰ったことがあったが、昭和二十八年の水害でその筆録を紛らしてしまい、南紀神社録の祭文と同じであったかどうかを失念した。御存知
の方は御示教を乞う。

    イカルガ王子趾
 イカルガ王子は印南町光川に鎮座近世富王子といった。熊野九十九王子中でも、最も創立の古い神社で王朝時代、高家・塩屋・切目・岩代・南部の各王子と共に栄えていたのである。中右記天仁二年十月二十日の記事に、
  前略……次に伊南の里を過ぎ次にイカルガ王子に奉幣云々
とあるに見ても知られる。今やこの由緒の古い神社は跡方もなく消えていることは、御時勢とはいいながら、こうして郷土の誇りを捨てて行くのを悲しむ。
 地名光川はいかるがより転じて光川の字をあてたのである。和歌山県聖蹟にはイカルガ王子の名は光川より来たことは明瞭であると割切っているが、そうではあるまい。何故ならば中右記に出て来る王子はすべて地名を冠しているが、光川の文字はない。川の名光川について名所図会にはイカルガ河を訛れるものと解していることは蓋し至当である。ここの地名の面白いことは、イカルガ王子又富王子といい川の名光川を富川という。『イカルガ』や『富』の名は大和にありて聖徳太子に縁ある地名であると続風土記に載せ、播州に「イカルガ」の宿があり「イカルガ寺」があって上宮太子を祀り、又同国に印南郡あり、何か由ある事かと名所図会にも述べている。
 この記事について考えて見ても、光川はイカルガより転じた語であることが知られる。余談になるが「イカルガ」というのは鳥の名で、一名「じゆずかけばと」又の名を「としよりこい」ともいう。「ねんね根来のうしろの薮でとしよりこいよの鳩がなく」は有名な子守謡で、仏教信心家にはとても親しみがある。
 イカルガ王子の祭神は明かでない。日高郡詰にいざの宮と通称する。いざなぎ・いざなみの尊を祀るかとあり、いざの宮は、いざは(伊雑)の宮の誤りであろう。伊雑宮としても祀神について諸説あり、神社啓蒙の著者は太神宮の遥宮也とせるは当れるようにて、果して然らば天照大神を祀ることとなり、一般の王子社と同じ祀神となるわけであるが、果して昔よりかく称せしや否やは不明である。愚按を申せば飛鳥時代より奈良時代にかけて紀の温泉に、熊野参詣に度々の御幸があり、その因縁によって休憩所宿泊所となるべき所に聖徳太子を祀って、これにイカルガの名をうつしたのであろう。そうして平安朝より鎌倉時代にかけて熊野参詣が盛んになり、沿道の各地に王子社が続々と出来たとき、イカルガの宮も王子社として尊崇をうけたものと思う。かくて鎮座も古く地名の由来も納得できるのではなかろうか。
 現在イカルガ王子趾といわれている所は印南町光川宇垣内にあって人家となっているが、その屋敷の石垣が他に比して丁寧に積まれているのでわかる。さて中右記や御幸記の時代に於て果して此処に鎮座していたのか、また他より此処に遷祀されたか、続風土記にも名所図会にも何等の考証を加えていない。只和歌山県聖蹟には異議を論じている。即ち光川内垣内を通る道は近古にできたもので、古道はそれよりも山手を通っていたものであると。
 この古道に沿うて大将軍社というのがあり、ここが御幸時代の王子趾であると云っている。イカルガ王子はその名の示すが如くに光川にあらねばならず、この古道中に旧跡を求むるとすれば大将軍社地より外にはなく、この宮を又森の宮とも云い又大神宮さんというこどは、各地王子社の多くは天照大神を祀るに照して弥々然るべきを証すると云っている。然るに大将軍社は光川領でなくて印南領であることは自家撞着である。又大将軍社の鎮座地は大将軍の小名を有し、古くより存在せることを示す。各地王子社の旧蹟には多く王子の小名を有している例に見て、大将軍社の地名に王子社があったことは、他に確かな文献でもない限り無理な考察ではなかろうか。
 大将軍社及び森の宮の名は続風土記に記載されているが、和歌山県聖蹟にはこれを同一の宮としているのはいかがであろう。猶大将軍社は明治四十一年山口神社(宇杉八幡神社の誤か)に合祀されたとあるが、日高郡誌に大将軍社合祀の記事のないのはどうした事であろう。
 かく考えて見た時に和歌山聖蹟の考え方は、当を得たものとは思えない。矢張内垣内の地が旧趾とすべきではなかろうか、古い時代に於て光川部落が川の近くに出来ていて、内垣内の地は森林でありここに宮居が出来て、附近に人家も出来て内垣内の地名を生んだのであろう。これは筆者の考えすぎかも知らぬが、当らずとも遠からずと思っている。印南より光川に至る旧道を鋸坂というと熊野道中記にあり、熊野独参記に
  光川在所を渡る川幅三十間程有り、左の方に小堂有り内に木像の観音、弘法大師の作といえり
とあり、弘法大師の作とは伝説だけの事であろうが古い寺であろう。今観音寺と云い浄土宗西山派に属するが、元真言宗にて寛正六年に改宗、恐らく元はイカルガ王子の別当寺院であったのであろう。

    切目王子
 切目王子は熊野九十九王子中尤も尊崇せられ、五体王子を祀れる神社である。第一の五体王子は藤白で切目は第二の王子である。第三は滝尻王子(西牟婁郡)、第四は発心門王子(東牟婁郡)、御歌会をせられたのは紀州にては多くはこの王子社である。切目王子での御歌会は後鳥羽上皇正治二年十二月三日と、建仁元年十月十一日とはっきりしている。
 切目懐紙と云って有名なのは正治二年のもので、藤白懐紙・滝尻懐紙と共に世に珍重されている。これらの懐紙は御歌会御一座の折の懐紙という。現在歌懐紙の初期のものであり、歌人揃いでもあケ、古来熊野懐紙の名世上に喧伝せられ、好古家の垂涎おかざる所である。併しながら熊野懐紙は十一枚全部揃って西本願寺に現存し、藤白懐紙や滝尻懐紙は一枚一枚分散されているので、特に切目懐紙が重宝とせられているのである。
 昭和十四年四月京都博物館に於て後鳥羽上皇七百年記念の展覧会開催せらるるや、熊野懐紙が悉くその所蔵者より出品せられ、その道の人の話では切目懐紙は当時に於て、時価三十万円以上といわれていた。この懐紙は西本願寺の家老職とも云うべき下間数馬氏が所持していたのを、西本願寺法主に贈ったものである。これには伏見宮貞敦親王の
     此懐紙十一枚
  後鳥羽院御製以下真跡也尤可奇翫者也
の添状がついており、更に飛鳥井雅章の下間数馬に宛てた添状もある。
  切目王子懐紙とも禁院達叡覧侯処御感不斜侯尤可有秘蔵也かしく
    四月十五日
 今切目王子に所蔵せられているものは寛文年中模本をつくって藩公より寄進せられしものであ
る。新宮珠玉神社にも土御門天皇御寄進の熊野懐紙全部の模写本三巻を所蔵せられている。
 次に五体王子と称することについて、続風土記には、
  神の御像五ッあるを以ていう、或は地神五代なるを以て五代王子という。代体音近きを以
  て転ずなりと云う。熟れか是なる事を知らず。
とあるが統風土記の編著者としては可なりまずいのではなかろうか。尤も祭祀の神像は五体で熊野三山にて子守宮(葺不合尊)、児宮(彦火火出見尊)、聖宮(ににぎの尊)、禅師宮(天忍穂耳尊)の十二社の内四社と若宮(天照大神)に祭られている神である。又これを五所王子ともいうが五ケ所に祀られているという訳でもない。続風土記の五体は五代の転化と考えていることは当らない、これについての考察と若王子又は若一王子と称する意味を、少しく述べて見ることにする。
 熊野王子のことについては宮地直一博士が熊野王子考と題して発表されており、日高郡誌にも転載されているから、ここにこれを述べる要もない。王子というのは仏教上の言葉で、眷属とか随従とかの意味を有しているとのこと。熊野に於ては天照大神を祭っていることになっているのは、熊野三山ではいざなき、いざなみ二尊が中心の神であるから、その御子を若宮として奉祀したことであろうと思う。沿道の諸王子も亦多くこの分霊を勧請したので若宮王子とか略して若王子、天照大神御一人の場合は若一王子、或は若女一王子ともしている。今これらの神を熊野三山において如何に奉祀しているか、主なる記録をたどってみよう。
  1中右記(天仁元年)  2御幸記(建仁元年)
  3紀州志略(元禄初年) 4熊野道中記(宝永頃)
  5南紀神社録(延享三年)6熊野見聞記(明和四年)
  7熊野紀行(寛政十年) 8紀伊続風土記 (天保十年) 
  9熊野三山とその信仰(昭和十七年)
  10紀伊名所図会後編(昭和十七年)11紀南道嚢(寛政九年)
に照せば、本宮においては
  1若宮王子御前 2若宮殿 3若一王子社 
  4第四殿天照大神。国常立尊相殿 5若一王子天照大神
  6五所王子・若王子・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮
  7若宮第一王子天照大神 8第三殿若宮国立尊 
  9第四殿天照皇大神 10若宮天照大神・国常立尊相殿
としている。新宮においては
  1若宮一王子 3若一王子 4第四若一王子天照大神
  5若一王子天照大神・国常立尊 6若一王子天照大神
  8第四殿若宮天照大神 9第四殿天照皇大神 10若宮天照大神
  11第四殿若宮殿天照大神
それから那智に於ては
  1若宮王子 3若一王子八所宮 4挿図に若女とあり
  5若宮若一王子天照大神 7第五若一王子天照大神 
  8第一殿若一女王子天照大神 9第五殿天照皇大神
  10若女一王子天照大神
とある。Hの『熊野三山とその信仰』は昭和十七年那智神社社務所の発行にかかるもので、特に天照皇大神と書せるは御時世のしからしむる所であろう。
 猶奉幣の様子を書いているのをみると、本宮において@五所王子幣五捧残四王子一所A同じく
本宮において御幣五C本宮にて第四殿より第八殿まで以上五所とあり、大治二年鳥羽上皇熊野御
参詣熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記に。
  大治二年十一月四日御精進、九日御進発二十三日五部大乗経供養
  三重塔供養、御供楽人五所王子舞楽有り、藤代王子、切目王子、
  稲荷王子(稲葉根王子)、滝尻王子・発心門王子
この文によると五所王子とは五ヵ所の王子のように思われるが、右の内稲葉根王子は御幸記記載の如く「五体王子に準じ毎年過差」とあり真の五体王子ではないことによって、五ヵ所の王子の意味とはならない。それから続風土記所載「昔時神宝目録」と題し、熊野山新宮造替遷座御神宝調進目安書という中に、「五体王子切床三帖長十間」と書す。これは明徳元年十一月のものであるが、「右は元亨元年社家注進の状に任せ記せしむる也。」とある。茲に五体王子とあることは注意すべきである。南紀神社録に切目王子を五所王子と記している。五体王子というも五所王子とするも結局は同一の意味に落付くのである。
 切目王子は現在印南町西の地東風早の地に鎮座するが、この場所ぱずっと昔はいざ知らず、その後の寺院趾であったと思われる。切目神社の旧位置はこの東北の丘阜上にあったもので、太鼓屋敷と称する地であることに続風土記初め和歌山県聖蹟その他請書の一致せる見解である。中右記にこの王子を世に分陪支王子と云うと書いているので、分陪子の名がわかれば旧位置も確められようと思うので、印南町役場や其他の方々に調べて貰ったが分らない。太鼓屋敷の名によってこの処神楽殿の趾であると云い、又大塔に通わせて護良親王の通夜祈念し給うた処であると云うも、それは後世の好事家の誤であろう。相当完備した神社で神楽殿も備っていただろうが、社殿の配置などは今知る由もない。
 前掲「大治二年二月鳥羽上皇熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」中に見ゆる如く五所王子として御供楽人の舞楽を奏せられたことは、切目王子として特筆すべき名誉であった。
 切目王子に有名なのは竹柏(なぎ)の木である。寛文年中紀伊藩主のここに詣でさせられて竹柏を槙えられたが、名所図会には昔の人の熊野詣に竹柏の枝をかざしたことの起し給う意なるべしと云っている。保元物語久寿二年後鳥羽法皇の御参詣に
  日ごろの御参詣には天長地久に事よせて、切目の王子のなぎの葉を百度
  千度かざさんと思召しに云々、
とあり、この文章によればここの竹柏の葉を頭にかざして熊野に詣でたように思われるが、熊野詣の帰途にここの竹柏の小枝を頭にかざしたことは梁塵秘秒熊野二言の中に、
  熊野出でて切目の山のなぎのはしよろずの人のうはきなりけり
為房卿日記に
  九日(永保元年十月)酉剋日高郡司友高の宅に着す、この日切部山に於
  て奈木を取り参り笠に挿す
とあり、何れも熊野参詣の帰途であることに何か訳があるのだろうか.
 名所図会の挿図に社殿の前を流るる泉水がある.これは梅の水と云って古より名水として、手を洗い口をそそいで神に参ったものであった。今は神社の森もさびれた為か水も細く、社地の左方に昔の面影を止めているだけである。熊野独参記には『側に梅の水とて名水有之』とあり祇園南海はここに詣でて「渇を療す梅泉天淵の漿」と称えている。
 さしも古えに栄えたこの御社も室町末期より衰退したと見え、元禄初年頃の熊野独参記には切目坂十町下り一町本村左の方に五体王子の小社ありと書いている。
 宴曲抄の熊野参詣には藤白・切目・滝尻の五体王子の所在までを一節として書いているが、今切目王子の一節をかかげて、切目王子の古えの栄えを忍ぶこととする
   ……由良の湊も程ちかく紀路の遠山行廻る鹿の背の山、名にし負う鹿の
   しからん萩の原・宝・富安・千歳ふる様にひかるる小松原・愛徳山をよ
   そに見て、氷高の川の川岸の岩打(岩内)越えて浪よする浦路にかかれ
   ば愍(あわれみ)を垂るる塩屋の神なれや、この印南斑鳩切目の山、恵みも
   しげきなぎの葉王子王子の馴子舞(なれこまい)、法施(ほうせ)の声ぞ尊き
   南無日本第一大霊験熊野参詣。


     
切目山考
 万葉集に
  殺目(きりめ)山行かふ道の朝がすみほのかにだにも妹にあはらざん
のうたがあり、この切目山は果たしてどこをさせるものか、従来これをあまり検討していないようである。考証好きの続風土記でさえ何等これに触れていない。日高郡誌には切目山を榎峠なりとし、この歌を中山の処に出している。今日の状態から常識的に見れば榎峠を古えの切目山とすることは当然のようであるが、色々の記録に照らせば光川より切目王子の鎮座する丘阜を越えて、切目本村は達するものをさしているのが殆んどである。
 為房卿日記に「切部山の奈木を取り」とあり、梁塵秘抄の熊野二首の中に「熊野出でて切目の山のなぎの葉」とある。又宴曲抄に「いなみ斑鳩切目の山恵みもしげきなぎの葉」と書き、何れもなぎの葉とあるから切目王子鎮座の山に違いない。正治二年十月切目御歌会に『遠山紅葉』と題して右近衛大将通親の歌に
  きりめ山遠のもみじ葉散りはてて猶色のこす朱の端垣
とある。朱の玉垣とあるから切目王子社を指せることは、何人も疑いを入れる余地はなかろう。統紀州志略上巻に「切目山、峠あり上下十五町王子権現鎮座」とあり、この書元禄初年の故或は榎峠ならんと思われるが、毎年九月十八日祭礼とあるから、切目王子であることは慥かである。九月十八日祭礼の事は正徳二年に定めたもので、同神社所蔵の旧記に記載せられている。
 林信章の熊野紀行には「坂の中に切目五体王子左にあり……切目山というはこの山なるべし」とあり、熊野独参記には「切目坂十町下り一町本村左の方に五体王子の小社ありと、又紀路の歌枕には「日高郡海辺なり切目王子あり」と出ている。切目山の位置がわかる事と思う。今一つ切目というのは西の地でここを本村又本郷と称していた。村の発達と共に今は高垣の部落もできている。熊野詣紀行には、きりべ村・島田村となっている。とにかく島田領にある榎峠を切目山と云わぬように思われる。
 中右記に「二十一日(天仁二年十月)遅明出宿所渡切陪川同山出了祓」と見えているがこれは夜明の前に宿所を出で切陪川を渡ることによって同じ名の山即ち切陪山を出たそこで祓をしたという意味である。とにかく榎峠に切目山の又の名があるように書いたものは見当らぬ。
 茲(ここ)に別なものがある。それは夫木抄に、
   見渡せば切目の山も霞みつつ秋津の里は春めきにけり
この歌の秋津の里は西牟婁郡にある村であるが、ここより右にいう所の切目の山は見えない。名所図会にはこの歌にいう所の切目の山は印南町上側より竜神村柳瀬に越ゆる三里峰、一般に切目畝という山を指しているものとしている。紀路草や南紀名勝略誌にはこの里より東北一里にありとしているのは、みな切目畝をいえるもののようであるが、これは切目山の正体でないと思われる。

    中山王子趾
 中山王子は御幸記に見えているが、中右記にはない。元は中山谷の王子谷(土地ではおじや谷)にあったのを、後世榎峠の頂上にうつしたものである。榎峠に遷した事にも因縁があると思うことは、中右記に切陪川を渡り山を登って祓をしたと書いているので、ここ熊野参詣者の清祓の処であったのである。然らば元中山王子の鎮座していた王子谷はどこかというこをである。然るに和歌山県聖蹟には土地の人に聞いたものとして王子谷を変なところに求め、熊野古道をここに充てている。一体一知半解の人に聞くと余程慎重に考慮せねば、飛んだ間違いを生ずる。
 和歌山県聖蹟には徒らに小栗街道の名にこじつけて過ちを作っている様に思われる。第一に中山というのはどんな処かどこに中山の地名があるか、この二つを考えたら立所に氷解する筈である。中山とは各地にその例があり、両方の山高く中に狭まれた谷あいをいうので、有名なのは静岡県の小夜の中山、近くは紀泉国境雄の山より長い谷にそえる所に中山王子がある。中山の名は山の名ではなくむしろ長い谷に沿える山道をいっている。次にここに中山の地名を有しており、字中山二七二五番地乃至二七二八番地の小さい谷が王子谷である。これは故森彦太郎氏と筆者が連立って調査し、元印南小学校教諭で切目の人である某氏からも詳しく教えられたところである。これ程判然としたことをどうしたことかと疑いたくなる。王子谷については昭和七年三月発行の和歌山県史蹟名勝天然記念物調査報告第十一輯に集録されているから参照せられたい。
 和歌山県聖蹟にはこの中山とは中山谷と呼ぶ地を指したものか、山中の意味に使用したかは不明であるとしているが、中山の意義は前述の如く長い谷あいの山道であり、ここは中山の地名であって中山谷の地名ではない。中山谷は中山にある谷の意である。和歌山県聖蹟には中山谷が中山王子の名に関係なしとしているのは、王子谷の中山にあるのを考えずに、とつけもない所を王子谷と教えられたことに誤まられた結果である。紀伊続風土記に王子谷は榎峠より八町程とあるは正しく、聖蹟の方は十四・五町も離れており、聖蹟にいう王子谷は中山谷と谷続きである故、これを一緒にして、この辺一帯を王子谷と呼んだのであろうかと云う苦しい解釈である。

    岩代王子
 岩代王子は熊野九十九王子中最も早く名を知られている神社であるが、それにもまして岩代の土地そのものが誠に有名であることに誰しも気付くところであろう。何故にかくも有名であるかについて考えてみたい。前にも述べたとおり京や浪速の地はさておき、山又山の熊野道中、゛塩屋より海の景色に心を慰めつつ旅をつづけられ、ここ岩代にさしかかった時、海岸段丘のすぱらしい眺めに一驚を喫するばかりに見惚れたのである。岩代の岡を歌枕としての吟詠の多い所以である。
 更にこの岡の終るところ浜に出で砂を踏み浪に戯れつつ喜び限りなく、ここより千里の浜づたい、特にこの道を撰んだのであろう。御幸記に岩代王子に参拝、ここに小養の御所があったが上皇は入御せられなかったとあるのは、この景色のすてがたくて御所に入らせられず、海浜の景趣を飽くまで味わせられつつ御食事をとられた事と察する。万葉この方大宮人は申すに及ばず、詩人墨客の岩代を歌枕とする吟詠頗る多く、熊野沿道中の第一であろう。殊に有間皇子の松が枝を結んで、まさきくあらば又帰りみんの哀愁をここに残して藤白坂に於てお果てなされたことの如何に道ゆく人の心を打たしめたことであろう。
   たまきはる命はしらず松が枝をむすぶ心はながくとぞ思う
   八千ぐさの花はうつらふときはなる松のさ枝を我は結ばん
とある如く松の枝を結ぶということは岩代の専売特許ではないが、有間皇子の事蹟によって後世結び松といえば、岩代に限るようになったのである。即ちこの遺蹟とこの景趣がかくも岩代を有名にしてしまったのである。結び松はいわずもあれ、岩代の浜、岩代の岸、岩代の岡・岩代の清水・岩代の尾上・岩代の森など多くの歌枕となっているのである。
 岩代王子は西岩代宇野添にあるのだが、鉄道敷設に伴い三・四米ばかり西方に位置をかえているが、大体に於て旧位置といえよう。但しこの処御幸記当時の旧位置であるかについて説がある。紀伊続風土記には岩代王子に隣って御小養の御所があったと、御幸記に記しているが、この浜の王子(一般にかく称えている)の近くに御所の遺蹟が認められず、東岩代村と山内村との境に御所原という小山がある。ここが小養の御所であるから、随って岩代王子もここでなければならぬ。
今ここに天神社という宮がある。これが即ち王子趾であるというのである。紀伊名所図会・日高郡誌みなこの説によっているが、なお疑間がありそうに思われる。
 岩代は万葉の昔から幾多の実の上人の泊らぜられ又御休憩ぜられた処であったから、御所原の名があっても必ずしもこれを後鳥羽上皇の遺蹟に限られまいし、よしこれが後鳥羽上皇の遺蹟しても、御一生二十八度の行幸もあったこと故、建仁元年の御幸の時の遺蹟とするわけにも行くい。和歌山県聖蹟には現在の浜の王子を旧王子証としているのは至当である。
 現在の浜王子の所在地は西岩代で、天神社は東岩代に属する。明治二十二年町村制発布以前は別個の村であった。この時代に於て由緒ある神社を同村内ならいざ知らず、わけもなく他村に移したとはどうも考えられない。筆者はかって王子蹟の調査に行き、浜の王子が昔しの旧蹟である、ことを県に報告しておいたが、調査報告の編集者が断りもなく、天神社を旧蹟とすると書き直していたので、抗議を中込んだことがあった。これには何か日くがあると聞いているが今はこれを。
 さて天神社の祀神については統風土記にも日高郡誌にも記載はない。南紀神社録には菅家とあり、併し御神体として祀られているものは槌その他大工道具であるということである。これは恐らくは熊野参詣の御幸には、番匠を召して拝殿の板をはずして鉋を掛け、先例によって参詣の人数を書し、元の如く打付けることは御幸記に記すところである。即ちこれに用いし大工道具であろうと宮司の話であった。御幸記に記せしは
  建仁元年十月十二日 御幸四度
  御先達 権大僧都法印和尚位覚実
  御導師 権大僧都法印和尚位公胤
  内大臣 正二位兼行右近衛大将皇太弟傅源朝臣通親
                               ……以下畧……
 これによれば建仁元年十月の御幸は四度目である。然るに最も精確な考定といわれている統風土記や大日本史によれば、建仁元年の御幸は三度目となっている。まさかまのあたり書かれたので間違いなどあろう筈がない。即ち建久九年八月十六日初度の御幸を何れも脱漏している。和歌山県聖蹟資料や南紀神社録にはこれを書いていられる。併し何れも完全とは申しにくい。統風土記と大日本史は共に御幸二十三度とあるが、二・三内容がちがっている。和歌山県聖蹟資料は流に調査せられているが、それでも建保三年十月と承久三年正月の二度の脱漏がある。要するに後鳥羽上皇の熊野御幸は二十八度である。
 林信章の熊野詣紀行に建久九年初度二十八度としているのは、どこで調べたのか誠に敬服する。嘗て旧岩代村長より聞いた話に明治四十一年神社合祀の励行あり、岩代王子は西岩代八幡神社に合祀せられたが、これに関係した人々が悉く病患にかかりしため、てき面神罰を蒙ったものとし表面上合祀と称し、御神体を旧社に戻して遥拝所として今日に至った。岩代のみならず南部町も然り、今にして思えばこれが為に旧趾として、保存をつづけられていることはまことに喜ばしいことである。

    千里王子趾
 千里の浜というは千里王子よりも歌枕として誠に有名であることは、前にもいったように熊野参詣道中浜の真砂をふみ、海に接する処はここより外にはないのである。海をみるさえよろこんだ人々の、波に戯れつつ行くことの楽しさ、都人には想像以上のものがあったに相違ない。故に歌となり文章として他所に比して古くより実に多数に残されているのである。併しよく考えてみると岩代は万葉に多く歌われているが、千里の浜は万葉に出て来ないのは不思議である。愚按であるが奈良朝時代には岩代よりどこかの山道を越えて、南部に行ったもので、平安朝に入って熊昌となるにつれて、千里の浜の景趣捨てがたく、ここ浜辺を経て南部に達する道がつく
られたのではなかろうか。
 中右記には岩代王子はあるが千里王子がない。しかし此処で昼養を取らぜられ、海水に浴して塩垢離をなされたとある。鳥羽上皇長承三年の熊野御幸には侍賢門院御同列にて、ここに昼養をせられたのであった。紀伊統風土記に千里の浜に御所原があり、御幸記の昼養の御所であるとしているが、岩代王子に隣って昼養の御所あることを述べていることに対して矛盾する。恐らくは書き誤りであろう。名所図会には長秋記を引いて鳥羽上皇の行宮の趾と書いている。千里王子の名の見えているのは御幸記であるが、この王子と岩代王子の距離は他の王子間の距離に比して短い。それはこの浜路に白砂を踏み波に戯むれ、ゆっくり楽んで歩かれたのでこの浜の両端に、休憩所として王子の出来たものと思われる。
 千里・土地では「せんり」と云い、歌には多く「ちさと」と読んでいる。又千尋も同一地であるとしているが、続風土記には千尋浜を以て、千里浜の一名とするものあれど、千尋は海底の深き義にして別に名所にあらず、故に何れの海にてもよめりと書いており、名所図会には干尋又は千色(ちいろ)の浜とも見ゆ、共に今詳かならず、ただ浜の広きをいえるなるべけれど、いつの頃よりか干里の浜の一名の如く云い伝えたりとある。紀路の歌枕に「千里浜千尋浜とも云う由土人の説なり、但し歌のことばに叶いたるは千里の浜なり、千尋浜一所と云う説あり、猶不審なり。然れども外に千尋の浜という所なければ云々」とあり、拾遺和歌集清原元輔の歌に
   万代にかぞえんものは紀の国の千尋の浜の真妙なりけり
この歌を見ればここの浜に間違いはないようで、果して然らば随分古くから云いならわしていたものと思われる。又清少柏冨記には「千里の浜こそひろうおもいやられ……」とあれば、広い浜のことにも通じている。
 伊勢物語に「千里の浜にありけるいとおもしろき石」と云うのは、今転々して広島県安佐郡亀山村、金亀山事真院福王寺にある。この寺は天長五年空海の草創、淳和天皇の勅命によって建立したという有名な真言宗の寺である。
 栄華物語に「花山院所々にあくがれ給いて熊野の道に御心地悩しう思されけるに云々」とあるが大鏡には「熊野の道に千里の浜という所に」とその所を明かにし「浜づらに石のあるを御枕にておほとのごもり(大殿隠で御寝なさる事)なるに、いと近くあまの塩焼く煙たちのぼる心細さ、げにいかにおぼされけん」。             ゛
   旅の空夜半の煙りとのぼりなば蜑のともし火たくかとやみむ
源平盛衰記維盛熊野詣の条に「高家の王子を伏拝み日数漸く経る程に千里の浜も近づけり」とあり、平家物語には「千里の浜の北岩代の王子の御前にて、狩装束したる者七・八騎が程行き過ぎ奉る」とあり、宴曲抄には「横雲かかる梢はそも岩代の松やらん千里の浜をかえりみて云々」とあり、何れも千里王子の事を書いていない。維盛の当時にはまだなかったかもしれぬが、宴曲抄は文永・弘安頃であるから千里王子はあった筈である。
 千里王子の御神体は観音であると聞いていたが、何の観音であるかは知らなかった。日高郡誌には如意輪観音と書いている。然らば那智山青-岸渡寺に縁をもつものか、もしそうでなく熊野三山の神社に関係を求むることになると、児宮は彦火々出見尊で本地は如意輪観音である。或はこの神を祀れるものか、もし他の王子の例に照らしてみれば、若一王子とすれば本地は十一面観音でなければならぬ。想像を逞しうするならば別当寺が退転して、その本尊如意輪観音を神殿に納めたものではなかろうか。南紀神社録に祀神未だ考えずと書いている。

   南部王子趾
 南部の地は万葉の古えより世に聞えた土地であり、従うて南部王子も早くより知られた神社である。切目王子には御歌会があったり、護良親王の通夜し給いし繰りをとどめており、岩代王子では熊野御幸者の名を拝殿の縁板に書す例があるに、南部王子には何等の話題を遺していないので淋しい気がする。
 絵馬について最も古い記録として、天王寺の僧道公の物語があるが、紀伊名所図会には事蹟詳かならずとしているが、これを南部王子の摂社としても強ち無稽でもなかろうか。御幸記に「千里王子に参り次に三鍋王子に参る是より昼養所に入り食し了り御所に参る間御幸已に出御。この宿所より御布施忠弘を以てこれを送り遺わす、きぬ六匹・綿百五十両馬三匹」とあり、只立寄っての参詣にも流石は皇室の御布施はありがたいものである。
 中右記には「南陪山を超えて王子に奉幣(未申の刻)南部庄内亥の野村人宅に宿る、国司目代儲けあり久澄進物す。今日多く海浜野山を過ぐ、今日の行程八十町許りか」と書いて居り、更に目代内記太夫私に送物があり、久澄の居は四日ばかりの行程で、遥に送り進じられる者との書添えもある。四日ばかりもかかる程の遠方である。或は旧竜神村あたりでないかと想像してみたが、いかがであろう。宿所の所は今猪野といい、北道の法伝寺附近で猪の山の麓である。余計なことであるが御坊市塩屋町の「猪野々」もこれは猪の野である筈、地名としての野は多くは殆んど山を切り開いた処で、野原の意味ではない。以前山間部では田の肥料を得るために、晩春山を焼いていたが、これを焼野といって焼山とは云わない。よくいう所の焼野の雉の意味も了解できよう。
 猪野々といっているが猪の野であることは、附近に猪の谷があることによって肯かれる。流石に陸地測量部の地図には猪の野としている。山の伐り開いた処を野と称することは、川辺町には入野に若野、小熊も小熊野と称したことは古文書にも見えている。旧稲原村に蕨野や平野がある。 中右記には南部地方を叙して「この所為駱里は林中にあり、宅は海浜を占め浪鼓動、松声混同、嶺嵐大報、終夜耳を驚かすのみ。京都之人未だこの事を聞かず」と丁度波高く風吹きすさんだ晩であったらしい。
 次に南部より芳養に到るにはどの道を通ったか、これには相当考究すべきことがある。和歌山県聖蹟に上南部字熊岡より灰坂峠を越えて、中芳養に出で芳養川に沿うて南下し、芳養王子の鎮座する下芳養の西松原に達するものとしている、一寸考えてみても随分回り道を好んだようである。海岸に沿いて部落もあったに違いないが、海岸の道路がなかったとすることは実に不思議である。
 日高郡誌もこの灰坂越を御幸当時の道としているが、その理由はわからない。第一御幸記をよんでみると、三鍋昼養の御所を出御、次にハヤ王子に参ると頗る簡単である。標高僅か二十米か三十米足らずの坂でさえ山を越えと書いているのに、ここに限って何も書いていない。殊に標高百米余の灰坂峠を越えたのである。灰坂峠は芳養坂峠の転訛で、この道は田川を経て旧稲成村に越え田辺に至るものである。芳養村誌にはこれを小栗街道と称すると書いているという事であるが、和歌山県聖蹟にはこれを小栗街道として、熊野道としては芳養王子に参られぬからおかしいとしている。小栗街道というのかどうか知らないが、日高中・奥地の人の田辺に行く近道であったことは確かで、その意味に於て芳養村誌の記述は正しく、熊野道とすることとは別であろう。この灰坂峠は熊野道でないことの疑問は前に述べたが、更に間違っていることを強調したい。御幸記より九十三年以前の中右記の記事によれば
  二十二日(天仁二年十月)天晴半夜宿所を出づ、今日の行程遠きに
  依る也、暫く残月と行く、盛に浮雲の走るを望む。南陪野山を過ぎ
  早の海浜に出で河を越えて早王子に参るとある。
 即ち南陪山の野は前に述べた通り山の伐り開いた処、これを灰坂峠とは考えられないであろう。次に芳養の海浜に出て橋を越えて芳養の王子に参るとあれば、灰坂峠よりの道ならば橋を渡るまでに海岸に出ていなければならない。中右記ではそうであっても御幸記の道とはちがっているのだとしても、九十幾年前から楽な近道があるのに、何を好んで灰坂峠を越えよう。今一つ中右記に芳養王子を出て田之陪に行き、王子社に奉幣するとある。田之陪王子は御幸記の出立王子である。中右記にはここにて天漸く明け行程五十町許りとある。即ち南部を夜半に出立し、夜明けに漸く田辺に着したのである。而してこの行程五十町許りとある。もし灰坂峠を越えたとすれば百五十町もあろうし、途中芳養王子に奉幣して時間もかかる事故、夜明けまでには田辺に着きかねよう。

    終りに

 一気に書きなぐったので甚だ物足らぬ所もありますが、御恕しを願って一まず潤筆する。種々励してくれたり、喜んでくれた方々に心から感謝いたします。
                 (昭和三十四年六月−同年八月 紀州新聞)

    ツノセ王子考て
 有田郡広川町河ノ瀬に鎮座のあった御幸記所載のツノセ王子について考察を試みる。
 一般に御幸記と称するものは建仁元年十月藤原定家が後鳥羽上皇の熊野参詣に扈従した時の道中日記で、定家の自筆本には道の間の愚記と題している。この御幸記に
  次井関王子に参る、此所に於て雨漸く休む、夜叉明く、次にツノセ
  王子に参り次に又シシノセ山を攀昇す (原漢文・以下之に傲う)
とある。此のツノセ王子に就て紀伊続風土記には
  川瀬王子 境内周二十八間
  本社 「二尺六寸二尺九寸
  村の北の端往還にあり、御幸記にツノセの王子とある是なり。今御幸
  記の川瀬の川を仮名のツの字に訓み誤り角瀬王子といふは誤りなり
又紀伊名所図会には
  川瀬王子祠
   川瀬村の北端にあり御幸記に川をツの如く書ける故に角瀬王子と訛
   伝せり
とある。紀伊名所図会後篇は藩命をうけて編纂せるもの故、紀伊統風土記に一脈相通ずるものがあり、風土記の説を繰返したに過ぎない。
 さて此の説を読めば実に成ほどと思わしめるが、併し如何にも上手に作りすぎた感がある。第一紀伊統風土記には川ノ瀬と書いているのをツノセと訓み誤ったものとし、紀伊名所図会には川ノ瀬とすべきを定家自身がツノセと書き誤ったものとしている。ここにも何か考えさせられるところがある。次に河の瀬と訓むべき処に川の字を充てるかどうか、昔の人達は地名の発音上解しがたき処は充宇を用うるか、又仮名を使っている。ゴウと発音すべ言河の字を発音の異なる川の字を充てる例は見ない。更に一歩を譲って川の瀬と書いてゴの瀬と訓み、ツノセ王子を河ノ瀬王子の訓み誤り書き誤りであるとすれば、中古より此のかたツノセ王子の名は全くない筈である。
 然るに諸種の熊野道中記や土地の人々によってツノセ王子と称せられ、ゴノセ王子と云うものはない。ゴノセ王子と云い出したのは続風土記や名所図会以来のことで、此等の書籍に親しまな
いものには、猶ツノセ王子の名は消えていない。ただ今日に至って宮は旧蹟を存するばかりでその名も忘れられ、統風土記や名所図会を手がかりとしてその名を求め、河の瀬王子と称するのである。
 従来御幸記は定家の日記を集成した明月記の版本(幾種もあるということである)によったもので、定家の肉筆がどんなものであるか知るものが先ずなかったかと思う。昭和十四年四月京都博物館において後鳥羽天皇七百年記念拝展の会あり、藤原定家郷真蹟の御幸記に「三井高和男の所蔵」の出陳があった。その後東京尚古会よりコロタイプ写真版の巻軸として発行せられた。今この写真版についてツノセ王子の文字を見れば、明らかにツノセと書いてあり、川の字をくずしたものとは思われぬものである。歌聖とまで云われる藤原定家であり、仮名遣の書物まで書かれている人で、ごのせをツノセと誤り書いたとは考えられぬ。
  和歌山県聖蹟には
  ▼熊野道中記に(愚註・新宮鳥井原之丞の編述にかかり元禄・享保頃のもの)
    津の瀬王子 河の瀬村入口より半町程右
  ▼三熊野駅路の記
    津の瀬王子 前文と同様
  右によると津の瀬王子の場所は現今の川瀬王子の所在地でなければならぬ。
  ツノセ王子が本来の名であり、それが川瀬王子神社と称せられる時代に至っ
  ても、猶津の瀬の宛字を以て本来の王子の名が残っていたものである。
さすがにツノセ王子が本来の名であることを指摘していることは卓見であるが、それが河瀬王子神社と称せられる時代に至っても、猶津の瀬王子の宛字を以て本来の名が残っているということに疑問がある。只ツノセ王子の名は地方に残っていることは前述愚考の通りである。
 川瀬王子と称せられる時代とあるも之を河ノ瀬と読むとしても、続風土記及び名所図会以前には河の瀬とは称していないから、その時代なるものは甚だ曖昧で、強いて云えば前述愚考のツノセ王子の退転遷祀と共にその名が忘れられ、続風土記や名所図会によって河ノ瀬王子の名を見出して、郷土研究者によって知らされた今日の時代である。
 紀伊国神社略記に (天保六年本居内遠序堀尾三子編)
 川瀬王子 広庄河瀬村
とあるが之は統風土記によったもので、河瀬王子と云わず川瀬と書いている。川の瀬と書いてごのせとは誰も読まないであろう。
 熊野詣紀行 (寛政十年林信章の書けるもの)
  がうのせ村 人家多し宿あり谷川に逆つて少しづつ登り行く、村の中に土橋あり、
        水音高し
  津の瀬王子 右半町許にあり
 南紀神社録 延享三年杉原泰蔵著
  角瀬王子 在河瀬村
とある。此外の書にもツノセ王子と書いているが、川瀬王子・河瀬王子と書いたものは見つからない。
 猶尤も有力にツノセ王子と称している事実は有田郡湯浅町の郷土史研究家の西尾秀氏が書いた郷土巡礼(昭和二十六年)に河ノ瀬王子の事を叙して、同地方旧家鹿ケ瀬六郎太夫家に古歴枢要と題する有田郡内の出来事・殊に苗字帯刀地士の異動などを克明に記録された日記があり、その中に寛政十一年四月二十四日、大殿様(和歌山藩主第八代徳川重倫卿)熊野へ御成の際、河ノ瀬、角瀬王子御拝と記されているとある。この地方の旧大家が角瀬王子と明かに書いている所をみて、御幸記以来ツノセ王子の名が続いているのであって、ツノセはゴノセの誤りとはどう考えても納得の出来ぬことである。徳川時代の諸種の著述皆ツノセ王子を称していること、前掲の通りであることを知らねばならぬ。
 井関には津兼という所がある。ここに津兼王子、一名井関王子がある。奥地の部落、津木、津兼、津の瀬、之れは関連せる地名であると思われる。和歌山県聖蹟には津兼を地名にあらずといっているのは誤りで、統風土記には津兼は地の字なりとある。又津兼の地名を書いた地図もある。 今一つ重大な問題がある。即ち御幸記時代のツノセ王子社の位置はそのまま変遷なく、徳川時代につづいているとして、果して誤りはないだろうかという疑問である。
 中御門右大臣藤原宗忠公の自筆天仁二年十月の熊野詣紀行の記事である。これは墨付八枚(一枚欠)に認ためられ、極秘として柳原家の筐座深く保蔵されていたもので、未だ世に顕れないものであったが、柳原家が蔵書をあげて宮中に献上せるため図書寮の収蔵に帰していたが允されて発表、世に伝うることを得たのは昭和二十年で、中右記として巻軸に仕立てられている。故に本書は続風土記や紀伊名所図会、和歌山県誌、和歌山県聖蹟にも参考ぜられていないものである。御幸記に先立つこと九十三年で図書寮の発行の辞には、文章雅暢字体温潤世間流布の中右記には未だ載せざる所とあり、又更に当時熊野信仰の隆盛、参詣者往返の有様、宿泊の状況、道路の嶮夷、通過里落の名称、山水の風光・途中遭遇の事躰等、歴史・地理の参考に資すること少なからずと述べている。これによって従来の熊野参詣の記事に補訂すべき所が多い。即ちこれによれば
  前略 次に弘王千社に奉幣し同じく弘河原昼食、暫く休息之後此の処を出で、
  白原王千子社に奉幣「件の王子は近代初めて出来其の験名有り
弘王子は広王子で御幸記のクメザキ王子であることに間違いはない。白原王子の白原について西尾秀氏を煩わして調べてもらったが、それによると広川の右岸、井関橋の北詰(河瀬領)に白原の名があり、ここに森サンと称ずる祠があったとのことである。今のツノセ王子祠は広川の左岸内垣内で、甚だ相近いところにある。これによって考えるとツノセ王子の創建は此の白原にあって、何れの時代か内垣内に移建せられたとみねばならぬ。
 森サンの祠は何神を祀っていたか不明であるが王子社移建後、その趾を汚さぬために出来たものとみても敢て無稽でもなかろうか。天仁頃、津兼王子(井関王子)はまだなかったようで、ツノセ王子の前身白原王子も創建間もなきようなれども、霊験があるので尊信せられていたのである。
白原王子の創建について応徳三年の那智尊勝院文書に
  藤原氏敬白奉施□□事
  一処紀伊国在田郡比呂荘在免田拾参町五反
  一処同国同郡宮原庄在免田拾参町五反
即ち広荘が那智尊勝院に施入せられたため応徳−寛治頃に建てられたのでないかと愚考する。
 ツノセ王子は明治六年の本県の郷社以下神社区別書には記載されていない。即ち明治大正に無格社として存在していたか。或は他の神社に合祀されていたのである。猶一度実地に調査せんと思いつつ荏苒事を果さず、物足らぬ処もあり後日を期する。


    中右記と熊野参詣道

 中右記は中御門右大臣藤原宗忠公の日記で、有名な文献である事は今更いうまでもない。その中に宗忠公自筆と称する熊野詣の紀行があるが、従未所蔵者柳原紀光氏は極秘書として筐底深く蔵せられていたので世に顕れなかった。それで紀伊続風土記や紀伊国名所図会は勿論、和歌山県誌にしても、県の紀元二千六百年記念出版、和歌山県聖蹟にしても引用されていないので、自余の各市郡誌乃至町村誌も又同様であった。     所が昭和二年に柳原家の蔵書があげて宮中に献上ぜられたので、本書も元宮内省図書寮の管理となり、数年前許されて世に出ることになったのである。今まで古い熊野紀行と云えば永保元年の為房郷日記、建仁元年の御幸記位であったが、ここに御幸記よりも九十数年も古い天仁二年の宗忠公の熊野紀行が出たことは、熊野詣の道筋沿道の諸王子を考証する上に、有力な参考資料で、従来の考証に訂正すべき所がある。
 今中右記によって西本婁郡に関する処を二・三書いて見ることにするが、検討も不充分でありその上地理にも疎いので誤りは多いかと思うが、幸に皆さまの御示教を得ば幸に存じます。

    一 芳養王干
 天仁元年十月二十三日、日高郡南部の亥の野(今猪野と云う)の村人宅を発して早(芳養)王子に奉幣している。その道筋として南陪野山(南部野山)を過ぎて芳養王子に参るとある。和歌山県聖蹟に御幸記の道筋を南部町熊岡より灰坂峠を越えて中芳養に下り、それより宿下して下芳養に至って王子社に参ったとしているが、中右記の南陪野坂という野は山の裾や山の中腹を切り開いた所で、灰坂峠はあてはまらないし、早の海岸に出て河を越えて王子に参ったことにもならないので、中右記では今の熊野街道に沿うて芳養に行ったものと思われる。中右記以後の御幸記時代に態々灰坂峠の、嶮坂に迂廻することがどうかと思われる。

    二 田辺王子と新王子
 芳養王子から田之陪(田辺)王子に奉幣した。田之陪王子は御幸記にいう出立王子であろう。次に荻生山口に於て昼養しその山を超えて新王子に参ったとある。
 荻生山は今どこにあるかは分らぬが御幸記に山を超えて丸(万呂)王子に参るに適合し、時間的に考えて天漸く明け行く頃田辺王子を出で、巳の刻今の午前十時頃に昼養をしているので、新王子というは丸王子で近頃新しく出来た王子社と思われる。和歌山県聖蹟に御幸記の道筋を今の熊野街道に擬しているが山を越えての所、明確を欠いている。故宇井可道翁の書いた牟婁郷名勝誌に、下万呂小字深見より中万呂、上万呂に至り、丸王子を過ぎて下三栖に達すこの古道を今苔伝いといって小径として残っている。之が古の熊野古道であったと述べているが蓋し当っている

    三 稲葉根王子・岩田川
 次に大岳坂上に於て祓するとあるが之が今の三栖山で八上王子の記載はない。こうして貴顕の方を祓をする所であった為に、程なく八上王子が建てられたのであろう。坂を下って伊奈波禰(稲葉根)王子に奉幣、氏院庄=櫟原石田上座清円房に宿ったとあるが宿所の位置は分らぬが、櫟原は櫟(イチイ)の木が多く茂っていた所によって其名を得たとは、今も古老の話に残っていて、今の市原村の名もこれに由来していることは明かである。
 次の日未明に宿を立って岩田川を渡る十九度、此辺を加茂の里というとある。加茂の地名は今も残っているが、ここから滝尻までの間に十九度も河を渡ったということは考えさせられる。之は即ち河原を利用して道としたので、同書渡ると書いているのはすべて徒渉のことで、この考証は省略するがこの記事で察せられる。中右記宗忠公熊野詣りの一行は約五十人、それに馬あり輿あり奉幣の櫃あり旅行用の荷あり、細い山道の通行は楽でないのでこうして河原を利用していることは、広川や日高川でも察せられる所がある。御幸記にもこのあたり川を渡るに河深き処股に及び云々とある。岩田川は名所として貴顕の歌枕に多く載ぜられたのは、又こうした旅行に関係している為である。

    四、滝尻王子
 滝尻の宿所はどこであったか分りかねるが王子社より少し離れていたようである。それから王子に奉幣し先づ滝上坂を攀じ登ること十五町許巌畔を踏み漸く行く、誠に身力尽き了んぬとあって、嶮峻な坂道であることを思わしめる。さて此の滝上坂はどこか今この名を失しているが、滝上の名によってもその所在は大体察せられる。
 滝尻の東、剣山に寺があり熊野古道であったことは諸書に散見する。中右記には本宮より三百町の卒塔婆があると書いて居り、ここより御山に入るとあれば、後に寺院が出来た事などは首肯し得られるし、秀衡の伝説が熊野参詣道中の花形として現われ、ここも亦その伝説の中に入ったことも無理からぬ所であろう。和歌山県聖蹟にはこの坂道をよそにしていることは、猶考うべき余地がある。高原を過ぎて水飲仮屋に宿るとあるがこの宿所今さだかならず。

    五 近露王子継桜
 翌二十四口重照(十丈)より抽多和大坂を通り田来谷から小山を越えて、近津湯之川(近露川)で祓をして近露王子に奉幣している。さてこの柚多和というのは今の上多和で元ユガンタワ、或はウワタワといったと地方の人の話である。明治九年の町村調に第七大区九ノ小区湯野田和とあるに徴しても明である。クワは峠の事で山間地方に多い。東西牟牟婁郡境に聳ゆる大塔山もオウトウ山で、オウタワから来ているので文字に拘泥して護良親王の伝説に因縁づけるなどは、笑うべき限りである。由来谷は。キダニと訓むのか或は田来谷(滝谷)の誤りでないかなど考えられるが、同地杉中浩一郎氏によれば今のツゲノコ(コは河の意)であろうと云われる。
 大坂峠に大樹があり、蛇形の蔓をなした木がまきついて女人化生云々とある。真砂庄司の清姫となるまでに、こうした伝説がとうの昔にあったことは面白いと思う。
 次に小山を越えてとあるは今の箸折峠である。近露から蘇波々多を過ぐとある。この名も今は明かでないが熊野旧道に沿うて大畑という処があり、古来蕎麦の名産地として知られていたので、蕎麦畑の名を得たと思える。
 次に中ノ川を渡って続桜(継桜)を道の左に見る。続桜本檜也誠に希有と驚嘆されているが、秀衡の生れぬ前からこの木が存在していたのだから、秀衡も地下に苦笑しているであろう。此の事は故宇井縫蔵氏が南紀史叢考に詳述されているので省略する。此の日は中ノ川仮屋に宿泊。

    六 岩上王子
 次の日夜に宿を立って中ノ川王子に奉幣、小平緒・大平緒・都千(トチ)の谷・石上之多介(タケ)で王子に奉幣した。小平緒は小広であることは間違いはないが、大平緒の名は今はない恐らくは小広峠より、熊瀬川までの坂であろう。都千の谷は栃の河で、石上之多介は岩上の岳即ち岩上峠である。今の道は所謂熊野街道であるが、昔しは更に違った古道というのがあった。
 この道は今は樹木生い茂り道らしい道もなくなっている。従って古の岩上峠は今の岩上峠とは別で、旧岩上王子の位置もわからずなっている。和歌山県史蹟名勝天然記念物調査報告第五輯の故田原産慶吉氏の報告にも同様に記されている。然るに和歌山県聖蹟には今の旧熊野街道を、御幸記の道筋としていることは大きな誤りで、同地の郷土研究家杉中浩一郎氏は、和歌山県聖蹟には飛んでもない処を王子趾としていると云われている。今の旧熊野の改修に当ってその峠に鳥居を立てて岩上王子を称したことがあるとは古老の話で、こうした誤解が後世をあやまらせたのである
説いて尽さざる稿で恐入ります。近野村杉中浩一郎、芦尾小学校樫山茂樹氏の御示教を感謝す。



        昭和三十六年三月三日発行「葵羊園叢考」より
             著者    芝  口  常  楠 

熊野関係古籍     熊野古道