熊野関係古籍     熊野古道

熊野信仰について

 

 和田英松博士が史学会で公演された「熊野信仰について」の筆記録が熊野那智大社に保管されていたのを、昭和33年に那智大社から那智叢書第二巻として発刊されたものである

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  熊野信仰について 文学博士 和 田 英 松
                              

       (一)
 紀伊の熊野の神は奈良朝から知られているが、極めて微々たるもので、平安朝に至り、清和天皇の御代がら漸く隆盛に向うたようである。殊にそれが最高潮に達したのは、院政時代の事である。「熊野行幸略記」などを見ると、熊野社には古く天皇の行幸があったことを記して「神武・崇神・応神三代、被十善之前原」、とあって、なお天武天皇は、其の御治世十三年十一月に熊野峰に行幸あらせられ、翌十四年正月を以て還御あらせられたとしているが、何等根拠のない説である。日本紀には、十四年正月一日天皇正殿に御して、百寮朝賀した事を明らかに記しているから、其誤伝である事は申すまでもない。又「源平盛衰記」には「昔ハ平城法皇ノ有御幸ケル由、那智山日記ニトヾマリ」とあるがこれも真偽は不明である。なほ又「熊野略記」には清和・宇多・花山の三上皇は、何れも抖行脚を遊ばされて熊野へ御参詣になっとしている。清和天皇が譲位の後に、山城・大和・摂津の社寺を御巡拝遊ばされたことは事実であって、「三代実録」にも明記されているから、これを抖行脚の事例として算るのは、必ずしも不当ではないが、しかし紀州の熊野までいらせられたと云う実証はない。ます天皇が、御譲位後熊野に御幸遊ばされたのは、宇多法皇の御時が最初であろう。「濫觴抄」にも醍醐天皇の延喜七年十月二日に宇多法皇が熊野に行幸、二十八日に還行あらせられた旨を記しているが、此の時は一部分海路に依らせられたものと見へて、「扶桑略記」には「法皇以去十一日切尾湊舟赴向熊野神社」とある。そして其の御道中お見舞の為に、態々勅使を立てられた事をも書いている。宇多法皇はお身軽に諸国の社寺を御巡拝あらせられたので、此の時が熊野行幸の最初であつたろうと志ばれる。」それも畢竟当時既に諸人の熊野参詣の道が多少聞かれていた故ではないかとかんがえられる。
 花田法皇の熊野御参詣の事も、「熊野略記」以外なほ二三の書にのせてある。例へば「元享釈書」「大鏡」「栄華物語」「源平盛衰記」などに出ている。この法皇も御譲位後延暦寺に御幸あらせられ御受戒後間もなく、熊野に御幸あらせられたのであって、先づ元享釈書には、「寛和皇帝者、安和之長子也(中略) 入紀州那智山出三歳其励苦精修、苦行之者皆取法とある。「栄花物語」様々の悦の巻には寛和二年冬御受戒の後熊野に御幸あらせられ翌春未だ御帰京なきよしを記して「いかでかヽる御ありきをしならはせ給びげんと、あさましうあはれにかたじけなかりける御すくせと見えたり」といひ、見はてぬ夢の巻には「花山院ところどころあくがれありかせ給ひて、熊野のみちにて、御心ちなやましうおぼされけるに、あまの塩やくを御覧じて
  たひのそらよはのけふりとのほりなは
  あまのもしは火たくかとやみむ
との給はせける、旅の程にかやうの事多くいひ集めさせ給へれどはか/\しき人し御供になかりければ皆忘れにけり」と出ている。又「大鏡」には「さればくまのの道に千里浜というところにて御心ちそこなはせ給へれぱ、浜づらに石のあるを御枕にておほとのごもりたるに、いとちかくあまのしほやく煙のたちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれにおぼされけん」として、同じ歌を出している。是等の記事を見ても、如何に難行苦行を遊ばされての御熊野詣であつたかが、拝察されるのである。且つ栄華物語の最後の記事を綜合して考へると御修行の月日が餘程あったようである。なほ源平盛衰記を見ると「近ハ花山法皇御参詣滝本二三年、千日ノ行ヲ始置セ給ヘリ、今ノ世マデ六十人ノ山籠トテ、都鄙ノ修行者集テ、難行苦行スルトカヤ、彼花山法皇ノ御行ノ其間ニ、様々ノ験徳ヲ顕サセ給ヒケル具中二云々」とあって、三ヶ年も御修行あらせられたとしてある。何にしても容易ならぬ事であったに相違ない。
 此の花山法皇が其の後再び御幸を企てられた。前回の御幸は、延暦寺で御受戒の後直に発足せられたのであるから、寛和二年の事であるが、二回目はそれより十三年後の長保元年の事である。是までの御幸は多く、春か秋か好い時候を選ばせられるのであるが、此の時は、これから極寒に向おうとする十一月になって、伊勢路から御幸を企てられたのであった。そして愈々用意万端整うたので、イザ御出発遊ばされようとなると、時の関白藤原道長が甚だ御心配申上げて、お引留め申した。しかし法皇は固い御決心でどうしても御行幸を御中止せられない。そこで道長は一条天皇に奏聞して御諌止を願ったが、これ亦お聞入れがない。最後に、法皇の院司小野宮実資を中に入れて、又々御引留の運動をしたのである。ところが法皇の仰せには、宿願によって先年再び参詣を志したところ、仰によって罷留まったのである。後事の崇重きによって、是非とも報賽を企て。去年の秋思い立ったけれど、意外の支障にて延引したのであるから、この度は是非とも参詣しようと思うのであるとの御事であった。之に対してお引留め申そうとする方の側では、「熊野御幸となると容易ならぬ事で、第一に地方の農家にも迷惑をかけ、供奉の人も難儀をするばかりでなく、気候も悪い時であるから玉体に若しもの事があってはと御憂慮申上げる」と云うのが理由であった。しかし行歩堪へ難きによって紀の路に向はす、密々航路で伊勢より御参詣の御予定で供奉も至って少く、陸路の路次往還の煩となる事はないとの事であった。斯く道長が種々諌言を申し上げても御用いがなかったので、一条天皇に奏聞し又実資を以て御引留申したので、止むを得ず、御中止になったのである。これは単に玉体を憂い奉るというよりは天皇の御行動を兎角に抑制し奉る藤氏専横の一例として観るべきものがあるかも知れない。

         (二)

 花山法皇以後には、白河・鳥羽・崇徳・後白河・後烏羽・後嵯峨・亀山の列聖が、御譲位の後熊野御幸を遊ばされたのである。 先づ白河法皇は、源平盛衰記に拠ると、本宮、新宮、那智の三山に五箇度御幸あらせられたとあるが、私の調査した所では九回である。又同書には 「堀河ノ院、三山二一度」とあるが、堀河天皇は御在位のまゝ朋御あらせられた。御在位中の熊野行幸はあるべき事でないから、何かの誤りであろう。但し熊野に勅使発遣の議のあった事は殿暦、元永元年二月の条に見えているが果して発遣せられたか明ならぬのである。次に鳥鳥羽法皇は「三山に八度」とあるが、此の盛衰記の計算は何に拠ったものか甚だ合点がゆかない。私の調べた所では十八回あって其中の三回は白河法皇と御同伴である。なお御晩年の久寿二年の御願文に依ると、「前後参詣更及二十一度」とあるから、少くとも二十数回に上ったようである。崇徳上皇は鳥羽法皇と常に御一緒で、単独の御幸はなかった。次に、後白河法皇は盛衰記の計算によると「本宮三十四度、新宮、那智十五度」と成っているが風雅和歌集には、三十三度目の御参詣の時の御製が載っている。其の時日がいつであったかは判明せぬが少くとも三十三度以上であった事は、其の調書に拠って推考する事が出来る。私の調査でも三十二回あって、其の中一年に二回御参詣のあったのが七度まで算へられる。何にしても最も御参詣度数の多いのは後白河法皇である。其の次は後鳥羽上皇で、盛衰記には記してないが玉葉和歌集には三十一度目の時の御製が載せてある。私の調査では其の中二十四回までわかっている。そして一年二回のことが二度ほどある。其の以後は後嵯峨上皇が二回、亀山上皇が一回で、それを限りに御幸の事は見えないのである。
 此外に女院方の御幸も随分多かったようである。待賢門院、美福門院、建春門院、高松院、七条院、修明門院などの方々は、或は法皇と御同伴、又は単独で御参詣になっている。其の外諸人の参詣は、何人が最古いか私は知らぬが、「いほぬし」には熊野詣の記事が出ている。これは増基法師の著書であるそうだが恐らく延喜頃の事であろう。其の中に諸人参詣の有様を委しく書いている。これによっても、宇多法皇の御幸は諸人の参詣を聞しめされて思し立たせられた事であるのがわかる。
其の後に至っては、和泉式部、源頼国、藤原為房、平清盛、同重盛、更に降っては、源頼朝の妻政子なども参詣しているが、一々挙げ尽せない。平康頼などは、三十三度熊野参詣の宿願があって、十八度までは参詣したが、今十五度を残して鬼界ケ島へ流されたので、配所の島内で、熊野参詣の真似事をしたことが盛衰記に出ている。斯う云う風に諸人の熊野詣は、平安朝の中期以後から鎌倉時代へかけて、随分盛に行はれたようで、定家の「明月記」には、 「天下貴賤競南山、国家衰弊又在此事」と見えているし、又姉小路頼資は、四十八歳の時までに二十二度参詣した事を、其の日記に書残している。院政時代、熊野詣に関する有様が「梁塵秘抄」に三つばかり出ているが、其れは
 「くまのへまいるには、きぢといせちとどれちかし、
 どれとおし、広大慈悲のみちなればきちもいせぢもと
 おからず」
 「熊野へ参るには何か苦しき修業者ややす松姫松五葉
 の松千里の浜」

 「くまのへ参らむと思へども、かちより参れば道とを
 し、すぐれて山きびし、馬にて登れば苦行ならず、空
 より参らんはねたべ苦王子」
と云うのである。是等を見れば、一般の熊野参訳者が如何に其の途中の難路に困むだかを知り得ると同時に、又斯の如き困難を冒しても、数回十数回の参詣をせんとする熾烈な信仰心があったことをも、窺ふことができると思う。斯くして熊野信仰は、引続いて室町時代、織豊時代に至っても行われたのである。それ等の事実を挙げるならば、殆ど際限もないが、こうでは便宜上亀山天皇頃までに局限して、述べることゝする。

         (三)

 そこで、前にも述べたように、御歴代の熊野御幸は、宇多法皇が始めであって、後に花山法皇が其志を継がれ那智にて千日の御苦行を遊ばされたと云うことが「元享釈書」「源平盛衰記」などに載せてあるが、真偽は不明である。しかし他の記録類によっても、其の御旅行が尋常の御幸でなく、行謂抖行脚であったことは事実らしい。此の法皇の二回目の御参詣は、椎臣の反対に因って抑止されたので、其の時以来久しく熊野御幸の跡は絶えていたが、白河法皇が脱げきの後に十度御幸があった。造功日記に十一度とあるのは疑うべきであるが、兎に角花山法皇よりも、屡々御幸のあったことは申すまでもない。慈鎖和尚の「愚管抄」にも「白河院の御時、御熊野詣ということはじまりで、度々参らせおはしましける」と記して、熊野行幸は、白河法皇が嚆矢であるとしている。こゝで少しく此の法皇の熊野御幸の前後の有様を述べて置こう。
 先づ最初の御幸は、御譲位後四年に当る寛治四年である。其の年の正月十六日から熊野詣の御精進を始められることになって、同日鳥羽の御精進所に御幸があった。此の精進ということは、熊野詣をする者には必須の条件で、金峯山参りの場合と同様、帝王たると臣下たるを論ぜす、之を行ったものである。御精進が済むと、次いで二十二日の御出門、殿上人十一人、僧綱、(これは先達である)三人之に扈従して御参詣あったが、翌二月の十日に還御あった。熊野三山の検校職が始めて補せられたのはこの時で、従来は単に別当のみであったのを、白河法皇が特に其の上に検校職を置かせられて、同時に紀伊国ニケ郡の内で、田畠五箇所合せて百餘町を寄進せられたのである。此の時を第一回として、其の後第二回が永久四年十月、第三回目が翌永久五年十月である。其の時には御願塔の供養があり、第四回目は元永元年九月で一切経供養があり、第五回目は元永二年十月で大般若経供養、第六回目は保安元年十月で金泥の五部大乗経の供養があった。又第七回目は天治二年十一月で一尺七寸の七宝塔供養並に法華経薬師経の供養が行われた。第八回は大治元年十一月で五部大乗経、三重塔供養を行われた。第九回目は同二年二月で御奉幣の後、金泥の大般若経を供養せしめられた外、七宝の御塔金銀の小塔、並に二宇の御堂をも供養せられた。斯ういう風に度々御参詣あらせられ、其の度毎に、或は経巻、或は堂塔等の供養が行われている所を見ると、白河法皇がいかに御信仰あつくいらせられたかゞ拝察せられるのである。さりながらこゝで聊か注意を要するのは、第一回御幸が前にも述べた通り寛治四年(紀元一七五〇)であるのに対して、第二回は永久四年(一七七六)で、其間に二十五年中絶をしている。三、四、五、六回と引続いて毎年御幸あったが六回と七回との間で又四年中絶している。斯う云う事実は後には餘りないことであり、月で云うと、或は正月、二月、九月、十月、十一月と云うように、或るべく時候の好いときを選ぱれたようである。そうして崩御の前年御七十六歳を最後として、後には殆ど連年御幸があったのに、此の如く第一回第二回の間で二十五年中絶し、六、七回の間で四年間中絶しているのは如何にも不思議である。
そこで、これはどう云う理由に因ったものかと色々取調べて見たが更に明証がない。随って今は唯想像に愬へる外に方法がないのであるが、それについて、第一に思い当るのが前にも述べた熊野三山検校職を白河法皇が御創置あらせられたと云う一件である。
 上にも述べた如く、法皇の御崇敬最も厚く初度の御幸には、熊野に神領を御寄進になり熊野別当長快を法橋に叙せられ、別当の上に三山検校を置かれたのである。元来熊野参詣の陸路は山や渓や歩行困難の場所が少くない、そこで其経験のあるものが先導するので、之を先達というて居る。即ち参詣の案内者である。この時は、十三回熊野に参詣したという最も其経験のある権大僧都増誉を以て、先達とせられたのである。増誉が先達となって、他の僧侶二人と共に御先導を申上げた。即ち斯ういう次第で、増誉を以て三山の検校に補せられたのである。蓋し先達の功を賞する御意味で、増誉を最初の検校に補せられたものである。或は十三回も熊野に参詣して居るから、増誉の為にこの職を置かれたものであろう。然るに同年十一月頃、熊野の先達と号する者が悪事を働いた事があって、後二条師通の日記には其のことを法皇に奏聞したらしい記事が載せてある。恐らくこんな出来事があった為に、熊野は危険である。悪僧どもが出て来てどんな事をするかも知れぬと云う疑惧の念を起させたのが、御幸中止の原因ではあるまいか。なお又其の後も寛治七年三月にはやはり熊野の先達が禁中に乱入をした事が、同日記に見えている。且つ長治元年の頃には、叡山・南都の僧侶や祇園の神人などが、濫に神輿を奉じて跳梁し、紀州の悪僧等が大衆と号して、熊野の国司を訴へんが為に上洛し淀の渡で種々の乱暴を働いたり、又八人の熊野先達が、宇治まで来て斗争したので、検非違使がこれを捕縛したと云う事が、藤原宗忠の中右記に記してある。これが又甚だ石思議な事実である。此の如く熊野御幸のあった寛治四年から長治まで、熊野先達の乱暴狽籍が甚しかったのは、如何なる故であろうか、御幸によって、神領を寄せられ、別当に増位を授けられ、更に三山検校を置かれて、御崇敬の最も篤かったのに反して、一再ならす先達が乱暴をしたというのは、何とも合点の行かぬ事である。何かその理由があろうと思ふ。
 これにづいては固より確かな材料はないけれど試に私の推測を述べて見よう。熊野には既に別当があって一山を支配してゐる、然るに唯熊野へ十数回参詣した経験があると云ふ単純な理由で山外から増誉等といふ人物を持って行って、最高の総統者たる三山検校の職に据ゑられたので、山内の僧侶は勿論、同じ先達の間でも、不平を起して、却って朝廷の御処置を怨み奉り、乱暴を企つるに至ったものではないかと思ふ。其の後堀河帝は御在位中に崩御遊ばされ、次いで鳥羽法皇が立たせられたが増誉が検校職に在る間は道中危険の慮があるので、止むなく其間御幸がなかったものであろうか、永久四年二月に増誉が入寂すると間もなく其の十月に御幸があった、これは甚だ注意すべき事実である。
 なほまた別に考へねばならぬのは、此の増誉が、御幸中絶の期間に、白河辺に熊野新宮を創建して祭祀を行うたことが、康和元年三月十一日、天水二年三月十一日の中右記に見えてゐる。強ひて考へれば、これは偶ま其の二回だけが記録に出てゐるのであって、実は毎年行うたのではあるまいかとも思はれる。増誉が熊野三山の検校職でありなから、僧徒の反感によって熊野に参詣する事が出来ないために、洛東に新宮を建てたものであろうか或は熊野に参詣出来ないときにのみ御祭を執行したものであるか、明でないが、いづれにしても増誉の在世中は御幸の事なく、入滅の後間もなく御幸があり爾来毎年のやうになったのを以て考へると、増誉がかやうな事で久しく御幸を御止めしてゐたのを、入滅の後他より御勧めしたので、御幸を継続せられたやうにも思はれる。弥々以て検校職問題と先達の乱暴、御幸中絶の原因との間は繋がって来ると思ふ。此の増誉は有名な僧で、白河法皇が篤く之を尊信せられたのも単に熊野へ十数回参詣した経験が、ある為ばかりでなく、曽て大峰、葛城の山々を経歴して、難行苦行を積んだ高僧である。洛東に聖護院を建てたのもこの人である。今の聖護院附近にある熊野神社が、当時増響の建てた所謂白河の新宮であるが、後の新熊野は全く別のものであることは申すまでもない。
 何れにしても、増誉か死ぬと直に御幸があったのは、意味のありそうな事である。或は中間に立って何等か讒言をしたものがあるのかも知れないが兎に角私の観たところでは、熊野の先達の乱暴から延いて御道中の危惧が御幸を阻み奉ったのは事実であると思う。永久四年十月第二回の御幸の時には、二十日から精進に入らせられ、二十六日御発輩となっているが、其の三日後に、摂政忠実は御道中を案じ奉り、法性寺で大般若経を転読して、御安全を祈った事が、其の日記殿暦に見えて居る。先達悪僧の乱暴のあってから年月を経過して居るが、未だ全く懸念を去ることが出来なかったのであろうと思う。

         (四)

 第一回行幸と第二回行幸との間二十五年中絶した理由は、先づ此の如き理由であろうかと思うが、次に又、第六回目と七回目との間四年中絶しているのも、これ又何等か理由のあることゝ考へられる。即ち永久四年が第二回目で、其の後は三回四回五回六回と毎年御幸があったにも拘らず、保安元年の第六回御幸から、天治二年まで四年間、絶えて御幸が無かったと云う事は、殊に御信仰の篤くいらせられた白河法皇として、如何にも不思議な事実である。
 ところで此の中絶四年間の史実を確めるのに、必要な記録が実は闘けている。ちようど保安二年、三年、四年天治元年あたりの公卿の日記が伝わっていないのである。尤も天治元年の分だけはあるが、それには御幸の事が書いてないから問題にはならぬ。そこでこれ亦推測する外はないのであるが、こゝに推測の根拠となるべき一つの出来事がある。それは白河法皇が保安元年に御幸遊ばされた御不在中京都に起った事で、重大と云えば重大不安心と云へば不安心な問題である。そして白河法皇は此の事を甚だ不安心に思しめざれたのである。話は少し横道に入るが、時の関白藤原忠実の長男に藤原忠通と云う者がある。これは当時内大臣であつたが、法皇の御竈臣で特に御猶子とされていた。此の忠通に泰子という妹がある。法皇は之を鳥羽法皇に女御として差上げよと忠実に仰せられたところが鳥羽法皇は天資頗る英明にあらせられるので、随ってお大人しくいらせられない、それで忠実は其の辺を密かに憂慮したものか、勅旨を奉じないで徒らに遷延していたところが、一方又白河法皇の最寵幸せられた低回の女御と云うお方がある。この祇園の女御には、皇子皇女がないので他より養女を迎へて養育したのである。それは法皇及び鳥羽法皇の御生母の出られた西園寺家で、大納言公実の女の皇子であった。法皇もまたこの皇子を御寵愛になり、忠通にめあはそうと云うお考へであった。それで法皇は此の二つの縁談の成立を御期待あらせられたのであったが、皇子に対しては何か問題でもあったものか、これ亦忠実には一同気乗しない様子で、延び延びになっていた。そこで白河法皇は、こんなことをしていては婚期がおくれるばかりである。先方に其の気がないのならば、致方がないという御趣旨から、之を鳥羽法皇の女御とせられ、やがて立后の儀があった。後に待賢門院と成らせられたお方で、崇徳、後白河両帝の御生母である。此の入内によって、一方泰子入内の問題は立消となった。兎も角も一方の懸案は、片づいた形であったが、泰子入内の一件は此の時になっても、まだ其のまゝになっていた。ところが保安元年の十月、恰も法皇熊野御発途の後になって、鳥羽法皇から、泰子入内を仰せ出された。 すると忠実は何と心得たものか直ちにお請をして、法皇の御不在中に事を調へて入内させて了った。 此の事を早速熊野へ御報告申上げたものがあったので、法皇はそれを聞召されて、甚しく逆鱗遊ばされた。かねてより御熱心に入内の事を仰せられたときは勅命を奉ぜずして、熊野御幸の御留守中に、突然事を運んだのであるから、意外に思しめされ、急いで熊野より遷御あらせられ、直ちに忠実を勅勘になった尤も是にっいては蔭に居て忠実を陥れた策士もあったが、兎に角忠実は貢を引いて籠居した。法皇が御不安心に思召した事件というのは即ちこの一件であって、何にもせよ鳥羽法皇もまだお若くていらせられるのに、こんな事件が起るようでは不安心である、これでは、御幸の御留守中、如何なる変事が出来しないとも限らないと思召されたものであろう。それが為に年々の熊野御幸も中絶せられたのではあるまいかと私は拝察する。ところが四年の後天治二年の十一月御幸あらせられたのである。此の時は法皇御一人のみでない。鳥羽法皇も最早崇徳法皇に御譲位あらせられた後であるから、この鳥羽上皇及びお后の待賢門院と御同列で御幸あらせられた。これならば京都には、御幼少の崇徳天皇の外に、どなたも存らせられないのであるから御不在中に何事も起るような御懸念がなかったのである。是等の点から観ても、私は第六回以後御幸中絶の理由を上記忠実女の入内によったものと推考するのである。

         (五)

 そこで斯く白河法皇以来、急に熊野御幸が頗繁になったのは如何なる理由に拠るものであろうか、之を調べて見る必要がある。私はこれについて少くとも三箇の理由があると信ずるものであるが、其の第一は専横をきはめた藤原氏の勢力が衰へたためであるうと忠う。第二は当時上、下に於いて物詣が盛に行われた故と考へる。第三は熊野の神は、長寿延命に霊験があるという事であろうと忠われる。
 第一は、元来藤原氏が政権を其の一手に掌握して跋扈跳梁をしたのは古くからの事であるが、道長以来は殊にそれが甚しくなったようである。事毎に天皇の御自由を束縛し奉り、それが為に行幸、御幸等も叡慮に任せ給はぬ恐れ多い状況にあった。例へば冷泉、花山両天皇は何れも在位二年であるが、社寺への行幸は一度もなかった又三条天皇は、在位五年の間に唯僅に長和二年の加茂行幸が算へられるのみである。これは園融天皇以前は御在位中、二十二社中の重な社、例へば、石清水、賀茂、祇園、稲荷、北野、大原野、松尾等には、必ず各一回の御参詣があり、石清水、賀茂には、二回までも行幸あったのに比べて、驚くべき減少である。円融天皇の如きは御在位も長く御譲位後も七年程あらせられたに拘らず行幸は甚だ稀で、神社へは唯石清水だけ仏事としては、東大寺箕面、延暦寺、石山へ各一回の御参詣があったのみである。尤も円融寺へは、度々御幸あらせられたのであるが、これは御願寺であるから、別問題であろう。花山法皇は御脱げき以後二十二年間に於ける御幸は書写山に二度、延暦寺と熊野とに各一度だけで、熊野へは今一度御幸の思召であっだけれど藤原道長が御留め申した事は前述のごとくである。三条天皇は御譲位後約一年の中、延暦寺へ唯一回御幸あらせられたのみである。冷泉天皇は御病身でいらせられたという点があったからでもあろうが、前にも述べた通り、殆ど社寺御参詣の事実がないのは、此の如く冷泉天皇の御代の頃から殊に藤原氏が専横をきはめ、兎角天皇の御動静に抑圧を加へたので、叡慮のまゝに行幸あらせらるゝ事が出来なかったようである。
 ところが、後三条天皇が帝位に即かせられ、藤氏の専権を抑へられてから、行幸の度数が多くなった。此の天皇の御在位は僅に四年であつたが、その間に春日へは二度も行幸があり、御願寺の円明寺へは三度まで行幸に成っている。其の外石清水、賀茂、平野、北野、大原野、松尾、稲荷、祇園、日吉等へも屡々御参詣遊ばされた。殊に日吉御幸は此の御代に初めて開かせられた新例である。此の天皇は誠に聖帝におはしまして、常に倹素を主と遊ばされたにも拘らず、斯く屡々社寺に行幸があったのは、神仏に対する御崇敬の念の如何に篤かったかを証するものであるが、併しこれは単に後三条天皇御一代に限られた事でなく、他の天皇も御同様であらせられたのを藤原氏が抑さへ奉っていた為め其の御儀が無かったのである。後三条天皇は御譲位後も引続いて、石清水、住吉、四天王寺等の諸社寺に御幸があったが、往古御参詣の時には、陽明門院、聡子内親王をも御同伴になった。
彼の有名な
  住よしの神もうれしと思ふらん
  むなしき船をさして来たれは
との御製があったのは、此の時である。
 白河天皇は後三条天皇の皇子で、御在位中及御譲位後処々へ行幸御幸があった事は申すまでもない。即ち在位十四年の間に、石清水、賀茂には各十回、春日には三回平野、大原野、松尾、北野、日吉、祗園、稲荷、仁和寺法性寺等にも各一、二回の行幸があった。殊に石清氷と賀茂とには、毎年日を定めて必ず御社参があったのである。若し何か故障の為に、御延引せられた場合は、特に勅使を発遣せられた。義家を勅使として石清水八経宮に遣はされたのも、此の時の事である。されば御譲位後、社寺への御幸の多い事も注目される。熊野御幸が九度であることは前にも一言したが、其の他石清水には約十六回、賀茂には五回、高野には四回、日吉に三回、春日、平野、延暦寺には各二回、金峰山、清水、鞍馬、彦根の西寺にも御幸があった。法勝寺に至っては算へきれない程である。又同じく御願六勝寺の一つである最勝寺、尊腰寺などにも屡々御幸あらせられた。斯の如く藤氏の専横を極めた後冷泉天皇の御代迄に引きかへて、諸社諸寺へ屡々御幸あらせられたのは御外出御旅行が叡慮のまゝに成る故である。御譲位後石清水へだけでも十六回又熊野へ九回の御幸があったと云うが如き、如何に神仏に対する御崇敬の御篤くいらせられたかが拝察せられるのである。これは白河天皇ばかりではなく御歴代とも御同様の事であるうと考へるが、後三条天皇以前は、畢竟藤原氏の専横によって叡慮のまゝに御幸あらせらるゝ事が出来なかったのである。尤もお出歩きのお好きお嫌いということも多少はあるであろうが、堀河天皇の如きは、天性御壮健でなく、随って御外出を好ませられなかったようで、石清水への御幸の数も少いのである。されど藤氏専横の時代の例よりは多い方である。それで私は此の藤氏専横の勢力が衰へたのを以て、熊野頻幸の理由の一つとしたのである。
 第二には、白河法皇御治世頃に物詣の風が盛であったことを挙げたい。例へは関白師実の如きは延暦寺に屡々詣でゝいるし、師通は金峰山に二、三回も詣で、なお彦根の西寺に二回も参詣している。中御門宗忠の日記中右記寛治三年の末には「凡洛下貴賤、海内緇素、男女老少皆以参拝」と記し「凡今年京中上下、多以参詣此寺」など記して居る。三十三所の観音参拝ということも、名義だけは以前から見えているが、それが事実上盛に行はれ出したのは、やはり此の頃からではあるまいか。斯う云う風に物詣の風が盛になって、誰も彼も物詣をすると云うことになれば、外出好きの人が、信仰に事よせて頻に出かけるのは当然である。殊に又熊野詣となると、信仰上にも一層深い関係のある事であり、遠路の旅に出ると云う遊山気分の幾らか伴うわけである。此の如く当時上下の人々が争うて物詣したのであるから、御信仰心の深い白河法皇として、熊野の御幸をお思い立ちになったのは至当の事でこれが理由の一であろうと思う。
 第三には、近江彦根の西寺に上下の諸人が参詣した時白河法皇も御幸があった。それは寛治三年十二月の事であるが、法皇は皇女の℃q内親王を始め、大納言藤原公実等十八人に供奉せしめられて、同寺に御幸あらせられ三、四日御参籠の後還御あった。殊に内大臣の師通などは、長い間耳が悪くて良く聴こえなかったのが、此の西寺の観音の霊験で治癒したと云うので、其の報賽のために、かさねて同寺に参詣して、三箇日の参籠をしたということが扶桑略記、中右記などに見えている。此の時の法皇御参詣の事も扶桑賂記にのせて、其次に、「或観音入夢延夫齢於遐年或菩薩出験得人望於斯須」と出ているが、此の寺は今も在って、彦根由来記などにも同じ様な事が書いてある。して見ると、此の寺に参詣して観音を祈ると、長生を保ち、又病気を癒やし、 願望を成就することが出来るものとして諸人が先を争うて参詣したものらしい。つまり延命長寿の祈願というととが当時此の寺の大いに栄えた原因であるらしい。ところが私は熊野参詣者の脳裡にも、之と同じような思想が動いていたのではあるまいかと考へられる種々の証拠を発見した。それは源平盛衰記、元亨釈書等によると、花山法皇が熊野御幸の際、那智に於て苦行遊ばされて其の時に如意宝珠と水晶の念珠一連、並に、九穴の鮑貝を感得されたが、其の鮑貝は末代の行者の為にと仰せられて、滝壷の底深く放ち沈下せられた。これは世俗に九穴の貝を食したものは、長寿不老であると云う伝説があるので、其の九穴の鮑貝を沈めてある滝の水を参詣の諸人に飲ましめて、普く延命を得させようとの大御心に出たものであるが、後に白河法皇が那智に御幸せられた時に、此の事を聞召され、潜水者を呼寄せて、滝壷の底をさぐらせて御覧になると、潜水者は暫くの後に浮び上って来て、如何にも貝はあった、直径三尺許であると申上げた。そこで法皇も其の後屡々御幸があり、此の事を伝え聞いた者共は瀑の飛沫がかゝっただけでも、延命の験があると云って、参詣修行をする者が後世にも絶えないのであるとの話である。これは一見作り物語のようであるが、那智の滝の水を飲めば長生すると云う信仰は、事実存在したに相違なかろうと思う。殊に天治二年に白河法皇、烏羽上皇、待賢門院の御三方が御幸あらせられた時、一尺六寸の七宝塔一基、並に金泥小字の妙法蓮華経一部八巻金字の本願薬師経一巻、金剛寿命経一巻、般若心経一巻等の経典を納められた。その願文にも、 「右件興等、為長寿疎毫也」と見え、又其の本文の中にも、「仰願十方諸尊、三所権現、照以寸心之不退授以萬寿之無彊」また「電請禅定法皇宝算更増」とある。是等はきまり文句のようであるが、願文集にのせてある久寿二年の鳥羽法皇の御願文にも、延命長寿を祈願せられた意味が見えて居る。是等を隠ると、延命長寿が主たる祈願であったろうと思はれる。
 鎌倉時代に至り、朝廷から鎌倉幕府に御熊野詣の供米其他の進献を命ぜられたことがあるが、其の時の院宣にも、「御宝算不今明年之由、旁所思食也、依期向後御年籠可御参詣之由所思食企也」と仰せ出されている。なお姉小路頼資の日記にも、厄年で、熊野詣をした事が出ているから、旁々以て熊野詣の目的は、延命長寿にある事が、考へられる。
 殊に白河法皇は御在位中にも石清水には度々の行事で脱げきの後も十六回まで御幸のあったことは、前にも述べて置いた所であるが、其の第十五回目の御幸の時には一切経を供養せられ、御自分の延寿は勿論、烏羽上皇、待賢門院、親王方の為にも長生をお願いになっていることが、当時の御願文でわかる。これで見ると、石清水八幡への主たる祈願が延命長寿であった如く、熊野御言仰の主たる目的も同じく延命長寿にあったことが、立証される事と思う。
 要するに皇室の熊野信仰の盛になり、度々御幸あらせられたのは、第一に従来専横を極めた藤氏の勢が斯く衰へたために、天皇上皇は御心のまゝに自由に行幸御幸の機会を得られるようになったことが一つ、一般に物詣の風が盛になったので、皇室に於かせられても殊に御信仰の深い熊野へ屡々御参詣遊ばされるに至ったことが一つ熊野の神は延命長寿に霊験があるという伝記があったことが一つ、以上三つが熊野御幸の原因であらうと思われるのであるが、なお白河法皇が延命長寿をお祈りになるについては深い理由があるから、ついでにそれを述べて置きたい。
 長生は凡ての人が悉く冀求するところであるが、殊に白河法皇が最も之を切望せられたのは、法皇の御近親には不幸短命のお方が多かった。それが何よりの原因であろうと拝察される。先づ御父君の後三条天皇は、四十歳で崩御になった。次に生母の藤原茂子は、御父後三条天皇二十八歳の時に薨ぜられたというから、二十歳を幾らも過ぎていらせられなかったであろう。又中宮の賢子は右大臣源顕房の女で、深く御寵愛あらせられたが、二十八歳で薨ぜられた、白河法皇の御譲位は此の中宮の崩御によりて、世をはかなく思しめされたのが、動機であると伝えられている。此の中宮の御復の皇女に子内親王と仰せられる方があった。後に堀河天皇の准母とならせられ、郁芳門院と申上げた、才色兼備の御方である。白河法皇は、其の御母儀を愛されたと同じく、其の郁芳門院をも御鍾愛あらせられ、何処へいらせられるにも、必ず御同伴になる程であった。ところが、郁芳門院も二十一歳で崩ぜられた。堀河天皇は法皇の第二皇子であらせられたが、二十八歳で崩御せられ、其の御生母の女御藤原茨子も二十八歳で薨ぜられた。斯ういう風に御兄弟は別として周囲の御方々が大低皆早世されたので、御自身も御心細く感ぜさせられ、特に延命長寿を祈願せらるゝ思召から、当時最も霊験のいやちこな神として信ぜられ且つ又那智の滝壷の水を飲んだ者は長命を得られるという伝説のあった熊野へ繁々と御幸になったのではあるまいかと私は考える。

          (六)

 白河法皇以後の熊野御幸も、恐らく同様の理由から出たものであるうと考へられるが、茲には省略して置く。兎に角白河法皇が延命長寿の御願を熊野の神に立てさせられたことは、其の御願文の上に明らかに表はされている事実で、その霊験によられたものか、法皇は七十七歳まで御長命あらせられた。法皇の御譲位後は四十三年間あったが、大治四年の七月に崩ぜられる前年までも親しく熊野に御参詣遊ばされた。斯ういう例は前後に無い事である。次の鳥羽法皇二十一回の御幸があったが、これは五十四歳で崩御になり、後白河法皇は三十四回御幸があったが、これは六十六歳まで宝寿を保たせられた。
 此の後白河法皇の御時には、親しく熊野三山へ御幸があった上に、別に又新熊野、新日吉をお建てになっているが、これは延命長寿の御願の外に、何か別の意味の御宿願あっての事と思う。次の後鳥羽上皇も三十一回の御幸があったが、これにも種々の意味が龍っている事であろう。周知の如く此の七皇は討幕並に、王政復古の思召立ちのあったお方で、あの承久の役が起るまで、殆ど連年の御幸があり、承久三年二月三日、即ち義時追討の院宣を下された僅に三ケ月前にも、御幸遊ばされたのを見ると其の御祈願の叡慮も略ぼ拝察し奉る事が出来る。
 斯う云う風に、或は時代に依り、或は環境によって、多少其の理由にも差違はあろうが、兎に角熊野参詣は、平安時代から鎌倉時代にかけて、上下一般に盛に行はれたもので、其の主たる祈願の旨趣は、延命長寿にあったものと観て、大なる間違はないようである。そして此の風が、いつ頃になって衰えたかということは、これ亦明らかな記載を缺いているが、後鳥羽上皇の熊野御幸には姉小路頼資が供奉して二十一回まで参詣しているから、此の頃までは盛に行われたのが、承久の役以来止ったのではあるまいか、辻の頼資が四十九の厄年に参詣した時の日記に、近年は山賊が起って参詣人が衣を剥がれたと云う記事があるのを見ても其の頃既に登山者の数が少くなっていた事を知る事が出来ようと思う。尤も後嵯峨上皇は二回、亀山天皇は一回の御幸があったが、其の以後に至っては、御幸の跡を絶しているのである。以上は専ら王侯卿相の上について調べただけで一般層の熊野詣についでは、なお改めて研究する必要があろうと思う。
                    (完)



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