熊野関係古籍    熊野古道

大日本国法華経験記 「川辺町史」より
               巻下第百二十九   
 

  紀伊国牟婁郡悪女                   

有二沙門、一人年若、其形端正。一人年老、共詣熊野、至牟婁郡宿路辺宅、其宅主寡婦、出両三女従者、宿居二僧、到志労養、爰家女夜半、到若僧辺、覆衣並語僧言、我家従昔不宿他人。今夜借宿非無所由、従見始時有交臥之志、仍所令宿也為遂基本意、所進来也、僧大驚恠起居語女言、日来精進出立遥途、参向権現宝前、如何有此悪事哉、更不承引、女大恨怨、通夜抱僧擾乱戯笑、僧以種種詞語誘、参詣熊野、只両三日、献灯明御幣、還向之次可随君情、作約束了、僅逓此事、参詣熊野、女人念僧還向日時到種々儲相待、僧不来過行、女待煩僧、出路辺尋見往還人、有従熊野出僧、女問僧日、着其色衣若老二僧来否、僧云其二僧早還向、既経両三日女聞此事、打手大嗔、還家入隔舎籠居無音、即成五尋大毒蛇身、追此僧行、時人見此蛇生大怖畏、告二僧言、有希有事、五尋許大蛇過山野走来、二僧聞了、定知此女成蛇追我即早馳去到道成寺、事由啓寺中欲遁蛇害、諸僧集会議計此事、取大鐘件僧籠居鐘内、命閉堂門時、大蛇追来道成寺、圍堂一両度、則到有僧戸、以尾叩扉数百遍、叩破扉口、蛇入堂内、圍巻大鐘、以尾叩竜頭両三度計、諸僧驚恠開四面戸集見之恐歎、毒蛇従両眼出血涙、出堂拳頸動舌指本方走去、諸僧見大鐘為蛇毒所焼、炎火熾燃敢不可近、即汲水浸大鐘冷炎熱見僧皆悉焼尽骸骨不残纔有灰塵矣、経数日之時、一臈老僧夢、前大蛇直来白老僧言、我是籠居鐘中僧也、遂為悪女被領成其夫、感弊悪身今思抜苦我力不及、我存生時雖持妙法、薫修年浅末及勝利、決定業所索、遇此悪縁、今蒙聖人恩欲離此苦、殊発無縁大慈悲心清浄書写法華経如来寿量品、為我等二蛇抜苦、非妙法力、争得抜苦哉、就中為彼悪女抜苦当修此善、蛇宣此語即以還去、聖人夢覚即発道心観生死苦、手自書写如来寿量品捨衣鉢蓄、設施僧之営、屈請僧侶、修一日無差大会、為二蛇抜苦、供養既了其夜聖人夢、一僧一女面貎含喜気色安穏、来道成寺、一心頂礼三宝及老僧白言、依清浄善、我等二人遠離邪道、趣向善趣、女朷利天、僧昇兜率天、作是語了、各々相分向虚空而去

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読み下し文   ルビは( )で記した
  紀伊国牟婁郡悪女
(ふたり)の沙門有り、一人は年若く、その形端正なり。一人は年老きて、共に熊野に詣る。牟婁の郡に至り、路辺の宅(いえ)に宿す。其の宅主寡婦にて、両(ふたり)(みたり)の女従者を出し、二僧を宿り居せしめ、志を致して労(いたづ)き養ふ。爰(ここ)に家の女夜半に、若き僧の辺に到り、衣を覆ひて並び僧に語りて言わく、我家は昔従(よ)り他人を宿さず。今夜宿を借すは由(よ)る所無きに非ず。見始(みそ)めし時従り交臥(こうぐぁ)の志有り。仍(よ)りて宿さ命(し)むる所也。其の本意を遂げむが為に進み来れる所也と。僧大ひに驚き怪しみ、起き居て女に語りて言ふ、日来(ひごろ)精進して遙かの途(みち)を出で立ち、権現の宝前に参向(まいむか)ふ、如何ぞ此の悪事有る哉と。更に承引せず。女大ひに恨怨(うらみ)て、通夜(よもすがら)僧を抱きて擾乱戯笑(じょうらんざしょう)す。僧種々の詞語を以て誘ふ。熊野に参詣するは、只(ただ)両三日、灯明御幣を献じ、還向(がんこう)の次(ついで)に、君が情けに従ふ可(べ)しと、約束を作りし了(おわ)り、僅(わずか)に此の事を遁(のが)れて熊野に参詣す。女人僧の還向の日時を念(ねが)ひて、種々の儲けを致して相待つ。僧来たらずして過ぎ行く。女僧を待ち煩ひて、路辺に出でて往還の人を尋ね見る。熊野従り出ずる僧有り、女僧に問ひて日く、其の色の衣を着し若老の二僧来れや否やと。僧云はく、其の二僧は早く還向し、既に両三日を経たりと。女此の事を聞き、手を打ちて大ひに瞋(いか)り、家に還りて隔舎(へや)に入る。籠り居て音無し。既に五尋の大毒蛇の身と成りて、此の僧を追ひ行く。時の人此の蛇を見て大ひなる怖畏(ふる)を生じ、二僧に告げて言はく。希有(けう)の事有り、五尋計(ば)かりの大蛇山野を過ぎて走り来ると。二僧聞き了り、定めて知る、此の女蛇と成り我を追ふと。即ち早く馳(はし)り去りて道成寺に到り、事の由を寺中に啓し、蛇の害を遁(のが)れんと欲す。諸僧集り会し、此の事を議し計る。大鐘を取り、件(くだん)の僧を鐘の内に籠め居(す)ゑ、堂門を閉じ令(し)む。時に大蛇追ひて道成寺に来り、堂を一両度圍(めぐ)る。則ち僧の有る戸に到り、尾を以て扉を叩くこと数百遍、扉口を叩き破る。蛇堂の内に入り、大鐘を圍(かこ)み巻き、尾を以て竜頭を叩くこと両三度計り、諸僧驚き恠(あやし)み、四面の戸を開き集りて之を見て恐れ歎く。毒蛇両眼従り血の涙を出し、堂を出で頸を挙げ舌を動かし、本の方を指して走り去る。諸僧大鐘を見るに、蛇の毒の為に焼かれ、炎火熾(さかり)に燃へ、敢(あへ)て近づく可(べ)からず。即ち水を汲み大鐘を浸して炎熱を冷やす。僧を見るに、皆悉(ことごと)く焼き尽き、骸骨残らず纔(わずか)に灰燼のみ有り。数日の時を経て、一(いちらう)の老僧夢に、前の大蛇直(うるは)しく来り老僧に白(まう)して言く、我是れ鐘の中に籠り居りし僧なり。遂に悪女の為に領ぜ被(ら)れ、其の夫と成る。弊(つたな)く悪しき身を感じ、今苦しみを抜かむと思ふに、我が力及ばす。我が存生の時、妙法を持(たも)つと雖(いえど)も、薫修(くんじゅう)の年浅く、未だ勝利に及ばず。決定(けつじょう)業に牽(ひ)かれ、此の悪縁に遇ふ。今聖人の恩を蒙り、此の苦を離れむと欲す。殊に無縁大慈悲心を発(おこ)し、清浄に法華経如来寿量品を書写し、我等二蛇の為に苦を抜くに、妙法の力に非ずは、争(いか)でか苦を抜くことをむ哉(や)。就中(なかんづく)に、彼の悪女の為に苦を抜くには、当に此の善を修すべしと。蛇此の語(こと)を宣(の)べて即ち以て還り去る。聖人夢覚めて、即ち道心を発し、生死の苦を勧じ、手自た如来寿量品を書写し、衣鉢(えはつ)の蓄(たくわえ)を捨て、僧に施す営みを設け、僧侶を屈請(くつじょう)し、一日の無差の大会を修し、二蛇の為に苦を抜く。供養既に了る。其の夜聖人の夢に、一僧一女面皃(おもて)に喜びを含み、気色安穏にして道成寺に来り、一心に三宝及び老僧に頂礼(ちょうらい)して白(もう)して言はく、清浄の善に依りて、我等二人遠く邪道を離れ、善趣(ぜんしゅ)に趣き向かふ。女朷利天(とうりてん)に生まれ、僧は兜卒天(とそつてん)に昇ると。此の語(こと)を作(な)し了り、各々相ひ分かれ、虚空に向ひて去れり。


 法華経を聞くは是れ人の難きこと
 書写し読誦し解脱するは難し
 此の如く遇ひ難き衆を敬礼せよ
 見るも聞くも讃
(は)むるも謗(そし)るも斉(ひと)しく成仏せむ