嘘つきな彼 1



「お母さん、行ってきます」

「気をつけてね」


社会人1年目に購入した時計はいつも私の左腕で時を刻んでいる。
そして、時刻を確かめれば7時50分を少し回ったところ。

”今日は2分遅かったな・・・”

考えながら駅までの道のりを歩き始める。

いつからこうして歩くようになったんだろう。
免許は大学に入学した後、周囲に流されるように取るだけ取った。

ただ周りの人間と違い運転を好きになることはなかったし、父親の車を借りて乗るぐらいでちょうど良かった。

弟は私と違い車の運転が好きだった。
父親が亡くなり、車を誰が貰うのかとなった時には弟に喜んで譲った。


私は自転車で十分だった。

それも、30歳を迎えるにあたり健康について考えるようになると自転車も必要ではなくなった。

軽い運動も兼ね、どこに行くにも歩くようにした。


「おはようございます」


歩きながらも、近所の人たちと挨拶を交わす。


笑顔を浮かべている人達だが、本当は私のことをどんな風に思っているのか・・・・
30になるのに女の影がまるでない。
日曜日には1日外にも出ることもなく過ごす。


定期入れを鞄から出すと、一緒に財布も落としてしまう。
すると、財布に入れていた数枚の名刺やレシートが道端に舞う。

名刺には「M商事 経理部 係長代理 御木良隆(みき よしたか)」という肩書と名前、そして電話番号にメールアドレスなどが記されている。

係長代理といっても、ただの肩書だけで仕事は他の平社員とほとんど変わらない。
この名刺だって2年前に作られたけれど、何百枚と作ってもらったのに渡した数は数十枚と申し訳程度で・・・

”渡す相手がないんだから仕方ないさ”

そんな名刺よりも、一緒に落ちてしまったレシートを先に拾う。

たぶん、レシートに表示されている店の名前を知っている人が周りにいるわけがないだろう。
もし、分かったとすればその人は自分と同じ趣味を持っていると思っていい。

そのレシートは世間で乙女ロードと呼ばれる、まさにBL書籍を扱う大手書店のレシート。




いつからなのか分からない。
確か、弟の・・・今では義理の妹でもあるお嫁さんが1冊の本を弟の部屋に置き忘れていったことがきっかけだった。

貸していた辞書を返してもらおうと思い、部屋を訪れた時にその本が目に入った。
表紙は可愛いイラストで、男か女か分からない男女が描かれていた。

”これってマンガか?”

それまでは本を読むなら参考書という感じで、ほとんど読書をしたことはなかった。

弟はよくマンガを読んでいたけれど、表紙が今手にしている本のように可愛いものではなかった。
だからその可愛い表紙に惹かれた。

パラパラとページを捲り、ある場面に差し掛かったところでパタンと本を閉じる。

そのページに描かれていたのは、2人の人間が絡み合い、まさに行為が始まろうとしている場面だった。

”今のマンガはこんな描写を許してるのか”

見てはいけないものを見てしまった気分になる。
しかし、そこは若い男性として興味がある。

その興味に負けてしまった。


もう一度ページ捲れば、違った驚きが襲う。

”こ、これ・・・・つ、ついてる”

男女が交わっているシーンだと思い、本を開いてみたはずが・・・男が抱いている女には胸がなかった。
そして、自分が男性として持っているアルモノがついていた。

「うわー」

思わず本を床に落としてしまった。

私は当初の目的だった辞書のことを忘れ部屋に戻った。



”なんだ。・・・・なんなんだ、あれは”




あの時の衝撃は忘れない。
そして、あの時初めて見た本も忘れられない。

”内容は忘れてしまったけれど、あれが腐男子と言われる一歩だったのかもしれないな”

レシートを再び財布にしまい、そしてついでのように名刺を拾い上げながら考える。


あれからすでに7年以上経過している。

昔はBLや腐女子という名称はなかったような気がする。
ここ2〜3年で、BLも世間一般で知られるようになった。
ただ、腐男子はまだまだ少ないのが現状だ。

そして、私は数少ない腐男子の一人だったりする・・・


こんな男で彼女ができるわけもなく、趣味がBL本や同人誌を読むことというのが恥ずかしくて人づきあいも躊躇しがちだった。
もともと人づきあいが得意なわけではなかったけれど、やはり後ろ暗い気持ちがあり、少しずつ苦手になっていった。

”この趣味が知られたら”

そう考えると、人の目が見れなくなった。
見破られるのではないかなんて、あり得ないことを想像してしまう。

そのおかげで、入社はしたが1年目で配属された営業は最悪だった。
営業先でもきちんと話せない。
最後は営業に出ると言って、本屋で1日時間を潰していたことがある。

こんな奴はいらないと思われたんだろう、すぐに転属となった。
しかし、そこは企画部。
人前で企画を発表することなんて、できるわけがない。

また転属ということで、回されたのが経理部だ。
経理部は基本的にパソコンを相手に仕事をするため、人づきあいを苦手とする私にはなんとかこなせる仕事だった。

毎日9時に出社し、6時には退社というリズムはここ6年変わらない。

退屈な毎日、だからといって何か刺激が欲しいわけではない。
でも、ほんの少し願いが叶うなら・・・・恋をしてみたい









「代理、携帯鳴ってましたよ」

「え?」

トイレに行っていた数分の間だった。
席に戻ると、斜め前に座る山田だったか、山下だったか・・・そういう感じの部下なのか同僚なのか分からない人間が声をかけてきた。

仕事中に人と話すことがない日もある。
だから、声を掛けられた事実に驚いた。

そして、携帯が鳴っていたということにも驚かされた。

携帯は営業部の時に買ったけれどほとんど活用されていない。
時々母親から電話が入り、弟とその嫁からメールが入るぐらい。

「ありがとう」

小さな声でお礼を述べるが、相手は何も返してこない。
そんなことは気にせず、携帯を開いてみる。

”これは・・・”

知らないアドレスからだった。

”迷惑メールの類か?”

最近はほとんどなくなっていたけれど、私のメールアドレスは単純だった。
弟からはアドレスを変更するべきだと何度も言われていたけれど、そんな迷惑メールでさえ何も送られてこないよりも良かった。

ただ、最近はそういう迷惑メールも少なくなってきていた。


「え?」


メールの内容が、いつもの迷惑メールとは違った。


『明日、夜23時にM埠頭で K』


そのメールの内容はあまりにも端的で、どういう意図があるのか分からない内容だった。


”これって・・・明らかに間違ってるよな”


どうしようか考えるが、やはり相手に間違っていることを知らせるべきだろうと結論付ける。

普段メールを打つことがないため、どんな文面で始めればいいのか迷う。
何度か打ち直しながら、メールを受け取って20分にしてようやく送る文面を完成させる。


『はじめまして。
メールをいただきまして、ありがとうございました。
さて、送っていただいたメールですが、送る相手を間違っていらっしゃるようです。

私は御木と言います。
再度、メールアドレスを確認された方がいいかと思います。

失礼ながらお知らせさせていただきました。

それでは』





まさか、この間違って送られてきたメールで何人もの人間の人生が大きく変えるとは思っていなかった。





メールを送ってから数時間後、再びメールを受信する音が携帯から発せられた。



Next