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最終更新日
2002年12月4日

清水透先生のエッセイ 「どうにかなるから」

種まく子供たち」執筆メンバーのお一人、清水先生のエッセイです。
先生のご厚意により転載させていただいています。


「どうにかなるから」   清水 透(MahoNET-21代表・慶應義塾大学教授)

「原因がはっきりしてよかった。でも、どうにかなるから、心配しないで。」
 想像もしていなかった意外な反応だった。緊急入院から丸二日。病室で医師から、急性骨髄性白血病の告知を受けた娘が、一瞬おいてさらりと私たちに向けた最初の言葉だ。

 前日すでに、ワイフとともに私は、医師から厳しい病状について説明を受けていた。白血病にもいろいろあるが、娘の場合はなかでも性質の悪い病系だ。
しかもすでに病状は極限にまで達している。たとえ抗がん剤治療が実現しても、たとえ運良く骨髄移植ができたとしても、救命の可能性そのものが極めて低い。 よりにもよって、なぜうちの娘が、という怒りにも近い口惜しさ。病魔に対して何もできない無力感と孤独。
そして、有無をいわせず差し迫る命。突然、交通事故の知らせを受けた親の気持ちも、似たようなものかも知れない。
 緊張で張り詰めた私の眼の前で、娘は涙を押しこらえている様子もない。なまやさしい病気でないことは、医師の話からも、十分承知の筈だ。だのに何故?
ともかくも、娘の冷静なひとことに、はっと目を覚まされた思いであった。

 一、二日の命という第一の危機を乗り越えたとはいえその後も、危うい命に変わりはなかった。しかし、娘の前ではただひたすら「偽りの落ち着き」だけは忘れなか
った。病室のドアに手をかける。その前にまずひと呼吸。
「さあ、明るい顔で!ともかく、どうにかなるんだから!」
 娘の言葉をそのまま自分にぶつけ、ようやくドアを開く。
医師の厳しい話に気が滅入る日もあった。「でも、どうにかなるんだから!」と自分を勇気づける。
 その後も娘は折にふれ、淡々と「どうにかなるから」を口にする。自分に言い含めるかのように、親に言い聞かせるように。私は私で、ことある度に、同じ言葉を心のなかで繰り返す。そして、日を追うにしたがって、「どうにかなる」という言葉そのものを、心の奥底で、徐々に信じはじめる自分があった。
 根拠のない思い込み。それは確かにそうだ。しかし患者にとって、身は病んでも心まで冒されないためには、そんな思い込みが何よりもの良薬ではないか。親は親で心の安定を維持するためには、まずは命を信じ込むこと。
たとえ偽りであれ、お互いに「元気」と「明るさ」を装うこと、それこそが、何よりも大切なことだと、今にして思う。
少なくとも私たちの場合、「どうにかなる」という、いわば命への前向きの拘りが、それぞれに、何かをせねば、との気持ちを奮い立たせてくれたことは事実であった。

 娘は親に隠れて、親しい友人から手に入れた白血病に関する専門書を読み漁った。そのうえで、納得できる治療は積極的に受けてくれた。病状が少し安定すると、骨髄バンクから取り寄せたポスターを病室に貼る。そして病室から廊下へ、廊下から外来の待合室へ。白血病の身近さ、骨髄バンクの拡大の必要性について、もっと人々に知ってもらおうと言う。 ようやく私も、やるべきことを見つけることができた。
生まれて初めてのボランティア活動である。家族全員、そして娘の友人を中心に、まずはポスターを作る。大型よりは小型の方が、みんなにどこでも貼ってもらえる。
キャッチ・コピーはどうしよう。「骨髄バンクへ登録を!」
いや、それは違う。無責任にドナー登録を煽って、もしドナーさんに事故があったら責任がもてるのか?まずは、ドナーの危険性も含めて、白血病と骨髄移植について広く知ってもらおう。結局、「骨髄バンクを知っていますか」をキャッチコピーに、発病から五ヶ月、大学生を中心スタッフとする「MahoNET-21―骨髄バンクを支える大学・市民ネットワーク」がスタートした。
 ポスターを掲示してくれた大学は、百校を越えた。
九州・北海道へのキャンペーン・ドライブ、代々木野外音楽堂での学生ロック・コンサート、松原湖でのマウンテンバイクの耐久レース・・・。ともかくも若者たちが楽しめるイベント、しかも終わってみれば、骨髄バンクのパンフレットが全てなくなっている、そんなイベントの連続だった。娘自身も、新聞・ラジオ・テレビの取材を受けて、アピールを繰り返した。
 年賀状のやり取りもなくなっていた卒業生たちが、私の許に戻ってきてくれた。自宅周辺の町の人々との関係も生まれた。報道を知って、全国から多数の市民が協力を申し出てくれた。患者さんやご家族からの相談も一気に増えた。
励まされ慰めらるのが日常となっていた自分が、逆に励ます立場に立ってしまう。するとなぜか、こちらも元気が沸いてくる。そして何より、自分たちが決して孤立していないことを確信できた。

 あれから早くも九年が過ぎた。闘病丸二年で娘は一人旅立つ結果となるが、マホネットとそこに集う人々のネットワークは今も健在だ。私はその後、骨髄バンクのスタッフも経験し、さらに多くのボランティアの方々や患者さんと接する機会を得た。白血病の少女をとりまく友情をテーマとする舞台「友情」の上演活動や、『種まく子供たち』の出版への参加をつうじて、さらに多くの人々の心に接することができた。
 娘の姿は見えなくなっても、無数の温かさに支えられている今、ふと思う。不幸があって初めて手にできる幸せもあるのだと。娘を失ったその穴は埋めようもない。時には後ろを振り向きたくなることもある。そろそろ人生の最後の形をどう整えるべきか、思い悩むこともある。そんな時、また娘の声が聞こえてくる。
 「どうせなら、楽しい人生、送った方がいいよ。どうにかなるんだから。」

ーーー童心社「母のひろば」より

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