小児がんの子どものターミナルケア
稲田浩子 (久留米大学医学部小児科)
近年の医学の発展により、不治の病と思われていた小児がんも、半分以上は治癒するようになった。しかし、いまだにその3人に1人は死を迎える。私が小児科医になって14年の間に、150人にのぼる子ども達が、私の前から旅立っていった。
小児科医を志したときに一番心配だったのは、「大好きな子どもの死に耐えられるか」ということだった。それでも「子どものためだったら頑張れるのでは」という気持ちから、小児科に入局した。
医師になって最初に主治医となったRちゃん10歳は、私が受け持ったその時に「もはや治癒への道はない」とターミナルの判定を受けた。いきなり、恐れていた「子どもの死」に直面することになり、ただ無我夢中だった。その子の最期の夜は、ご両親と当時の血液グループの太田先生、木村建先生と私の5人で徹夜をした。挿管しないことを決めていたので、呼吸が浅くなるとマスクで加圧をし、見守った。朝がきて、みんなに囲まれる中、Rちゃんは静かに静かに旅立った。
亡くなった後、無力感でいっぱいだった私は、「新米で、何もできなくてすみません。」とご両親に言ったが、「そんなことないです。良いお医者さんになってください。」と、解剖の許可までいただいた。私はその日、1日中泣いていたように記憶しているが、最初に出会った死の場面が、恐いものではなく尊厳あるものであったことは確かだった。この経験を含めて、研修医1年目の間に、血液グループを目指すことを決めた。
医師になって5年目の春、血液・腫瘍グループの病棟係として大学に戻った。外の病院の生活に慣れると、大学でいつも死と隣り合わせにいると思えるような血液の子ども達に接するのは気が重かった。実際、多くの可愛く素敵な子ども達に出会ったが、多くの別れを経験した。病気を治すことができなかったことで、無力感、敗北感でいっぱいになり、顔をあげて歩くことができない日々もあった。
「この世に生まれてきたものは必ず死ぬんだよ。先生は神様ではないのだから、ぼくが死ぬのは先生のせいじゃないよ。」そんな声が聞こえてきたのはいつの頃だろうか。
「そうだ。どのいのちにも限りがあるのなら、私にできる精いっぱいのことをして、子ども達が生きる応援をしよう」と考えるようになり、それまで治すことで頭がいっぱいだった私自身の力が抜け、肩の荷がおりた気がした。そして、子ども達が命がけで残してくれたことを、次の子ども達につなげることで、たとえ悲しい結果に終わっても、子ども達のがんばりに応えることができるのではないだろうか、と思えるようになった。